跡部が住んでいるというマンションは、俺が思っていたよりもずっと高かった。 同じくらい、家賃も高いに違いない、と思った。 厳重そうなオートロックを抜け、大理石の廊下を歩き、エレベーターで最上階まで昇り、また大理石の廊下を歩いた。 「どうぞ」 跡部が鍵を開け、中に通される。 出されたスリッパまで高級そうだ。 「広いな…」 素直な感想が口から漏れた。 跡部は何も答えなかった。 言われ慣れているのかも知れないし、広いと思っていないのかも知れない。 「そこ座っとけ」 と革張りのソファを指差された。 大きすぎるソファは、どこに座ったら良いのかも分からなかった。 社長の家に行った時のことを思い出す。 あそこもかなり大きな家だったが、もしかしたら本当の家では無かったのかも知れない。 一緒にいた屋比久が、ここは社長が二号さんのために造った家なんだと言っていたのが、冗談とも思えなかった。 あの頃、俺は、会社にとって危険な人物として認定されていたらしいからだ。 「つまりさ、よくいるんだよ」 と屋比久は言った。 彼女はソファに座っていて、俺はその真正面に立っていた。 力の差が歴然とするような構図だ。 「柳くんだっけ。よくいるんだよね、君みたいな人が」 君みたい、というのは、どういう人のことだろうか。 幼馴染を再起不能にした男を殺そうとしている人のことだとしたら、間違いなく俺はそういう人だった。 「社長でも、弟の方でも、殺そうとしてうちの会社に入ってくる人はさ」 あ、やっぱり、と思った。 「それとも、もしかして私だったりする?」 と屋比久がたいして面白くもなさそうに言った。 俺は黙っていた。 正確には、黙っていることしか出来なかった。 屋比久が、はあ、と息を吐き出す。 「三ヶ月間君を見てきたけど」 見てきた、というのは少しも良い意味ではなくて、どちらかというと監視に近いのでは、と思った。 「君はとても優秀な社員だった」 「ありがとうございます」 一応はそう言ってみるが、褒められているんじゃないことは分かる。 「その優秀さが、逆に、ね。うちに来るようなやつとは思えない」 「屋比久さんだって優秀じゃないですか」 と俺は言う。 あの頃はまだ、屋比久を「さん」付けで呼んでいた。 敬語も使っていた。 「私は優秀じゃないわよ。ずる賢いだけで」 「なら、俺もずる賢いだけかもしれない」 「そうは思えない」 屋比久が鋭い目で睨む。 今までどのくらいの人が、最期にこの目を見たんだろう。 「うちの会社は普通じゃない」 「知っています」 「そう、君はうちの会社が普通じゃないのを知ってやってきた」 屋比久の眼光が、更に鋭くなる。 「乾貞治という男を知ってるね」 答えなかった。 それでも、屋比久は話を進める。 なぜか。知っているからだ。 「君は乾貞治の幼馴染なんでしょう。大人になってからも仲良くできる友人なんて少ないだろうからね、貴重だ、と私は思うよ。君もそうだったんでしょう」 俺は答えない。 ただ、脳裏に貞治の姿が浮かんでくる。 教授、と俺を呼んでいた貞治。 中学三年生の時に、再会した貞治。 そして、病院のベッドで、死んだように眠る貞治。 ぎゅっと唇をかみ締める。 それを見逃さない、とでもいうように、屋比久は更に追い討ちをかけてくる。 「乾貞治は、うちの会社によって再起不能にさせられたんでしょう。分かるよ。私は何人もそういう人を見てきたもの。社長と弟の趣味みたいなもんだからね。人の人生を、それこそ、奈落の底に突き落とすような真似は」 屋比久は、自分もそちら側の人間の癖に、さも哀れんだような声を出す。 「だけど、君はまだ良い方だ。うちの会社のせいで、死んだやつはたくさんいる。乾貞治は生きているだけ、君はまだラッキーだ」 生きている、と言えるのだろうか。 あんな状態を、ただの不運と片付けるには辛すぎる。 「今までに何人もいたのよ。社長や弟に大事な人を殺されて、復讐しにきた人たちが」 復讐、とは自分がやろうとしていることなのに、とても陳腐な言葉に聞こえた。 「でも考えてごらんよ。今、社長も弟もピンピンしてる。誰一人としてやつらを殺せなかったよ。君には殺せるかな。殺せないだろうね。そういうものなんだって。世の中は理不尽なことだらけだよ。数人が文句を言ったって、解決されるようなものじゃない。だからもう諦めなよ。今ならまだ間に合うよ」 今思うと、あれは彼女なりの優しさだったのかも知れない。 でも、俺は大きく息を吸い込んで、言った。 「何のことでしょうか。確かに、乾貞治とは幼馴染でしたが、そんなことになっていたとはさっぱり知りませんでいた。そういえば、ここ一年くらい連絡が取れないなあ、とは思っていたんですが」 この会社に入って得たことといえば、嘘をつくのに抵抗が無くなったことくらいだった。 それでも、唇は震えていたし、今にもその場に座り込んでしまいそうな重い緊張が俺の肩には乗っかっていた。 屋比久は何も言わない。 じっとこちらを見つめている。 やがて、ぱさ、と紙の束がテーブルに置かれた。 「これ、次の仕事だから」 言われて、その紙をめくっていく。 「それが出来たら、君はうちの優秀な社員になれるだろうね」 そこに書かれていたのは、誰かの人生が奈落の底に落とされるような仕事内容だった。 結局、俺は今でも、この会社で働いている。 屋比久を呼び捨てにし、敬語も使わなくなった。 社長と弟は死んでいない。 [←前へ] | [次へ→] |