契約社員の彼が長いトイレから戻ってきたとき、俺たちは見つめ合ったまま、話もせずに変な顔をしながらも笑っている、という珍妙な状態だった。 彼の方も微妙な顔をしながら、「出てくるタイミング、間違えました?」と心配そうに聞いてきた。 「いや、ナイスタイミングなんじゃないかな」 「なら良いんですけど」 搭乗時間は契約社員の彼の方が早かったので、俺たちは彼を見送りに行くことにした。 「ありがとな。言い足りないけど」 と跡部が契約社員の彼の肩を叩いた。 「いえいえ」 と彼はその肩を揺らす。 「あ、そうだ」 と、搭乗口に背を向けた彼が急に振り返った。 「柳さん」 「なんだ?」 「僕が北にしたのはね、蟹とイクラが死ぬほど食べたかったからなんです。柳さんは南で大丈夫でしたか?」 予想していなかった質問に、面食らった。 「大丈夫だ」 「南で何かしたいこと、ありました?」 大丈夫でしたか?とまた彼は繰り返す。 「そうだな。アイスでも食べたいな。黒蜜ときなこがかかったやつ」 「それはとても南っぽいですねえ」 と彼はほっとしたように笑った。 契約社員の彼の背中が見えなくなった。 「あの居酒屋ならチェーンだから、きっと向こうにもあるぞ」 と跡部が言う。 「それは良かった」 と俺は言った。 俺たちはまた別のビニール張りの長いベンチに座っていた。 搭乗時間になるのを待っているのだ。 南はそんなに不人気でもないだろうが、皆ぎりぎりに乗り込むのか、ベンチは全部で四列並んでいたけど、座っているのは俺たちだけだった。 二人で横に並んで座っていた。 ふと、フランスの作家が言っていたことを思い出した。 愛する、とは向き合うではなく、同じ方向を見るということだ。 なるほど。 だとしたら、俺たちは今同じ方向を見てはいるな、とくだらないことを考えた。 どうしてそんな言葉を思い出したのかは分からないが、最近の俺にはよくあることだとだったので、気にしないことにした。 それから、貞治のことを思い出した。 なぜか眠っている姿は一つも思い出せなくて、つくづく俺の脳は自分に都合がいいな、と思った。 次に、契約社員の彼のことを思い出した。 彼とごうごうと降る雪の中でテニスをしている絵だ。 意味不明だ。 なぜか、屋比久のことまで思い出した。 彼女がビートルズを聴いて、せめて憂鬱な気分を吹き飛ばせているといい。 最後に、十五歳の跡部のことをまた思い出した。 やけにぼやぼやとしているな、と思ったら、泣いているせいだった。 「どうした…?」 いきなり泣き出した俺の顔を、跡部が心配そうに覗き込んできた。 その顔を見ていたら、急にどうしようもなく得がたく愛しいと思えて、思わず彼に口づけした。 向かいに通りがかった搭乗員の女の人が、ぎょっとしたような、驚いたような顔をしているのが見えた。 跡部も似たような顔をして、目を瞬かせた。 それから、困ったように、でもとても嬉しそうに笑った。 瞳に映った俺がぐにゃりと歪むのがよく見えた。 エコノミーの飛行機のシートは、身長の高い俺たちには少し狭く感じられた。 特に荷物も無かったので、すぐに座ってシートベルトをかけた。 前の大きな画面で、飛行機の乗り方という映像が流れている。 搭乗員が順番にイヤホンやブランケットを配っている。 跡部が窓際の俺の分までそれらを貰ってくれたようで、渡される。 受け取ったブランケットを肩にかけ、跡部がしているように、イヤホンを耳に入れる。 すぐに音楽が流れてきた。 音量が小さすぎたので調節する。 ちょうど曲は始まったばかりだった。 ふわ、とあくびが出てきた。 瞼が重くなるにつれ、意識がまどろむ。 隣で跡部が微笑む気配がしたが、それすらも夢か現か怪しかった。 すっかり意識が深い沼の底に沈む。 耳に流れ込むミュージックナンバーは、ビートルズ、イン・マイ・ライフだ。 -end- ---------- 完結です。ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました! 管理人:きほう 2011/6/4 初出 2011/9/8 加筆修正 [←前へ] | [] |