「どういうことだ」 と俺は跡部に言った。 彼は横で、用意してあったらしい靴を履いていた。 「まったく意味が分からないんだが?」 「とりあえず靴履けよ。サイズもちゃんと合ってると思うし」 「ごまかすな」 ぎ、と睨むと、跡部は靴紐を結んでいた手を止めた。 そして、契約社員の彼に向かって、「あとどのくらいで着く?」と言った。 「十五分くらいですかね」 契約社員の彼は、のんびりとした口調で言った。 十五分、一体、どこに向かっているのだろうか。 何もかもが分からなかった。 疑問に答える気になったのか、跡部は体勢を立て直すように背筋を伸ばして、咳払いをした。 「二年前、ミカエルが死んだんだ。階段から転がり落ちて、即死だ」 跡部はそう切り出した。 「死んだというか、殺されたんだ」 そこで、あ、と思い当たる。 「うちの会社にか?」 「そうだ。弟と呼ばれているやつにな」 跡部は顔を歪める。 「警察は事故だって決め付けやがった。老人が夜中に足を滑らせたんだろうってな。俺も最初はその言葉を信じてた。でも、数日もしないうちに目撃者が現れたんだ」 「目撃者…」 「乾だよ」 突然出された名前に、思考が固まった。 「貞治…?」 「あいつは、ミカエルが通りがかった男に突き飛ばされるのを、確かに見たと言った。警察が事故として処理したことを知って、なにかあると思ってそっちには行かずに俺に直接言いにきたんだと」 会社のコネは警察や政治家にまで渡っていると聞いたことがあった。 「それで調べたんだ。もちろん乾も協力してくれた。多分、あいつはだいぶ危険なところまで踏み込んでいたんだと思う」 「それで…貞治は…」 「都合の悪いものは握りつぶすのがやつらだ。乾は元々、事件の目撃者でもあるし」 突然連絡の取れなくなった貞治を、やっと見つけた時には、彼は病院のベッドで死んだように動かなかった。 「俺のせいでもあるんだ。乾があんな風になったのは。そのせいでお前も」 「跡部のせいではない」 悔いるように唇を噛んだ跡部の言葉を、俺は遮った。 そう。跡部のせいではない。 「でも」 「悪いのは弟だ。それに、安全な場所というのは少ない」 俺が貞治を見つけた病院で、彼がその後ずっと無事でいられたのはなぜか。 「あの病院で貞治を守っていたのは跡部なんだろう?」 「俺だけじゃない。他に何人も」 「でも見捨てなかった」 「当たり前だ」 「それで十分だ」 俺がそう言えば、跡部も表情は変えなかったが、「ああ」と小さく頷いた。 「それで、分かったのか。弟が殺したんだと」 と俺は話を元に戻す。 「ああ、でもその時にはもう一年が経ってた。それなのに、社長と弟の素性はまったく見えて来なかった」 分厚い秘密で覆われた、社長と弟。 それこそがうちの会社の強みなのだと、いつか屋比久はそう言っていた。 「完璧に外部には漏らさないのか、それとも内部の人間ですらほとんど知らないのか。それすらも分からなかった」 正解は後者だ。 社員の中でも二人について知っている人間はごく僅かだった。 「内部から探るしかないのは分かってた。それでも、誰もあの会社には入れたくなかった」 「だろうな」 何をさせられるか分からない。 何をされるのかも。 そんな危険なところに、自分の知っている人間が入れられるのは誰だって嫌だ。 「俺が入れるんならそうしたけど、顔が知れてるだろうしそれも出来ねえ。でも、どれだけ調べてもやっぱり無理だった」 「それで僕が志願したんです」 とそれまで黙っていた契約社員の彼が言った。 「跡部さん説得するの大変だったんですけどね」 「君は…?」 「こいつはうちの屋敷で働いてたんだ。執事だった」 「ミカエルさんにはとてもよくしていただきました」 しみじみと思い出すように、彼は言う。 「結局、社員にもあいつらの素性は知れてなかったけど、思わぬ収穫もあった」 「収穫?」 「お前だよ」 と跡部はややぶっきらぼうに言った。 「お前があの会社で働いてるって知ったときはそりゃ驚いたけどな、調べたらすぐ納得した。乾のためだろ?」 「ああ」 と俺は頷く。 「だからすぐに会いに行ったんだ。本当はあの夜、全部話そうと思ってた」 「…でも話さなかったじゃないか。睡眠薬まで使って。俺はてっきり、お前が俺の鞄から何か情報でも盗もうとしたのかと思っていた」 「それは…っ、てかなんで睡眠薬のこと…っ」 「俺が気付かないと思ったか?言っておくが、俺はあの会社で長いこと働いていた人間なんだぞ。そういうことには敏感なんだ」 とは言っても、気付いたのは最近だ。 しかし跡部が妙に焦っているのが少し可笑しかったので、俺は最初から知っていた体を装っておくことにした。 「なぜ睡眠薬なんて使ったんだ?」 「今は…言いたくねえ。二人っきりになったら、言う」 運転席の方をちらりと見てから、跡部はふてくされたように言った。 契約社員の彼がミラー越しに苦笑いを浮かべるのが見えたから、彼は知っているのかもしれない。 そんなに隠す理由も知りたかったが、俺にはそれよりも聞きたいことがあった。 「弟を撃ったのは、前に居酒屋で話していたあの殺し屋なのか?」 予想外の質問だったのか、跡部は目を見開いて驚いた顔をした。 「よく覚えてたな」 「いや、忘れてたんだがな、向かいのマンションに白と赤のボーダーが見えたんだ」 跡部はむっとした顔をして、「あいつ、プロじゃねえのかよ」と呟いた。 「本当は俺が殺したかったんだ」 「危険だ」 「でもそうしたかった」 フクシュウ、と頭の中で呟いてみる。 その気持ちは分かる。 でもやはり危険だ。 「色んなやつらにお前と同じこと言われて、やめたんだ。実際にあいつがやった方が確実だとも言われたしな」 「そうか」 「ただ、見つけるのも、頼むのも大変だった」 「どうやったんだ?」 「温泉で偶然話しかけてきた人が、自分と同じ、少しコアな画家のファンだったら、好感が持てないか?」 「そういうことだったのか」 「そもそも、どうして裸同士だと相手に気を許してしまうんだろうな」 と跡部は肩をすくめた。 そこでちょうど、契約社員の彼の「着きましたよー」という明るい声が車内に響いた。 [←前へ] | [次へ→] |