事務所でパソコンに向かっていると、突然にドアが開いた。 屋比久だった。 アポなしで来るとは珍しい。 そう思いながら、俺は耳に挿していたイヤホンを抜いた。 「音楽聴いてるなんて、珍しいじゃない」 「そっちこそ、突然来るなんて珍しいじゃないか」 「暇だったから、抜き打ちで仕事のチェックに来たってわけ」 と屋比久は言った。 「それはどうもご苦労様」 「で、どうなの?進んでるの?」 「それなりに」 「なら良かったわ。最近、あんまり良くないことばっかだから、ちょっと気になってたのよね」 「良くないこと?」 と、そこで屋比久は声を落とした。 「うちについてこそこそ嗅ぎ回ってるやつらがいるらしいのよ。もしかしたら、水蜘蛛も動き始めたのかも知れないと思って。そこのところ、よおく注意しておいてよ」 「今のところ不審な動きはないぞ」 「不審なことを不審にやるやつなんていないに決まってるじゃない」 と言って、屋比久は偉そうに肩をすくめた。 「ところで、なにを熱心に聴いてたの?」 と屋比久はパソコンの横においてあるCDプレイヤーを指差した。 「ビートルズだ」 「ビートルズ?」 屋比久は、そんな言葉は初めてきいた、というような顔をする。 「そう、ビートルズだ」 「何それ、良い曲なの?」 「…ビートルズを知らないのか?」 「柳くんの知ってることは、世の中みんな知ってることだと思わない方が良いよ」 いや、ビートルズはほとんど世の中みんな知っているだろう。 俺は信じられない気持ちになりながらも、屋比久にビートルズについて説明した。 まさかビートルズについて、小さな子どもならまだしも、自分と同世代の人間に説明する日が来るとは思ってもみなかった。 「ふうん。あれだね、ビートルというのはカブトムシのことでしょう?あまりセンスが良いバンド名だとは思えないわね」 屋比久はそんな感想を述べた。 「まあ、そうだな」 と俺は曖昧に頷く。 「それはなんという曲なの」 「イン・マイ・ライフだ」 「良い曲?」 「…子守唄みたいな曲だ」 「なに、それ」 「いや、ビートルズで子守唄といえば、グッドナイトやゴールデンスランバーなんだろうが、俺にはこの曲がそう思えてならないんだ。穏やかな曲調だからだろうか」 「それを聴くと、よく眠れるってわけ?」 「そういうわけではない」 よく眠りたいのなら、睡眠薬を飲んだ方が良い。 「確か、昔のことを懐かしみながら、今の恋人に歌っている歌だ」 「たくさんの女と付き合ったけど、君が一番だよって?」 「まあ、そうかも知れない」 違う、と言うのが面倒になってそう答える。 「僕の人生において、忘れられない場所がある、という歌詞から始まるんだ。永遠に元に戻らない場所も、消えてしまった場所も、残っている場所も」 まるで夢の中みたいなその歌詞を、呟いた声は小さく、屋比久には聞こえていなかったに違いない。 「他には?」 と言って、屋比久は勝手にイヤホンを片方耳に入れ、ボタンをがちゃがちゃと押し始めた。 「これはアルバム?」 「そうだ」 「良いアルバム?」 さっきから、屋比久の言う、良い、というのは抽象的すぎる。 そう思ったが、もう屋比久と話すこと自体が面倒になってきた俺は、投げやりに「良い」と答えた。 「憂鬱な気分が吹っ飛ぶ」 「あ」 屋比久が声を上げた。 「どうした」 「この曲は知ってるわ」 お、と思ったら、屋比久は嬉々とした表情で「この間、イトーヨーカドーで流れてた」と言った。 [←前へ] | [次へ→] |