蓮二が帰ってきたのは、あと少しで日付を跨ぐという、本当に夜遅くだった。 五日ぶりに会った蓮二は、少し痩せたように見えた。 それでも、ドアの前に座り込んでいた俺を見つけると、僅かに微笑んだ。 「おかえり」 と俺は立ち上がる。 長いこと同じような体勢でいたから、身体がミシミシと痛かった。 「ただいま」 蓮二は手に持った大きめのボストンバッグを脇に抱えなおして、鍵を開けた。 部屋に入り、荷物を置くとすぐに、蓮二は「お茶をいれてくる」と言ってキッチンに行ってしまった。 俺はベッドに背を預けて座る。 グラスを二つ持った蓮二が部屋に戻ってきた。 中身は両方とも冷たい麦茶のようだ。 蓮二はそれを置き、テーブルを挟んだ俺の前に座った。 向かい合わせでじっと座っているのは、尋問のような気分だった。 されているのか、しているのかは分からない。 「雅治の言う通りだ」 蓮二は突然、そう切り出した。 「俺の母親はお前の父親を殺した」 「ほうか」 「黙っていてすまない。謝って、許されることじゃないかも知れないが」 蓮二は何かに耐えるように顔を強張らせている。 親に叱られる子どもみたいに。 そして、俺が何も答えないのを見ると、またゆっくりと口を開いた。 「俺は、ずっと怖ろしかったんだ」 「…怖ろしい?何が?」 「仁王という名前が」 「名前?」 「その名前を見るたび、その名前の人に会うたび、もし、あの人の家族だったらどうしようかと不安になった。俺のことを憎んでやしないかと怖ろしかった」 なぜ蓮二を憎むんだ。そんなのは強迫観念だ、単なる思い込みだ、とは言えなかった。 ちょうど父親が死んだばかりの頃の母親と同じだ、と思ったのだ。 自分のせいで父親が殺されたと信じ込んでいた母親と。 「俺は高校に入るまでは、養父母に育てられていたんだが、高校生になってから一人暮らしを始めたんだ」 「養父母…」 それが、以前蓮二が話していた、共働きの人たち、なんだろうか。 「今年の春になって、それまで空いていた隣の部屋に、新しく人が引っ越してきたんだ。…お前のお姉さんが」 蓮二は淡々と話し続ける。 「表札を見た時は背筋が震えた。だけど、心のどこかで、きっと違うだろうと思っている自分もいた。そうじゃなければ良いのにとも思っていた」 俺は話を聞きながら、からからに乾いた喉を潤すため、麦茶を一口飲んだ。 「確めるのにそう時間は掛からなかった。彼女があの人の娘だと知った。他にも、家族は今もまだあの町に住んでいることも、弟が二人いることも分かった。そうしたら、いてもたってもいられなくなった」 蓮二も麦茶を一口飲んだ。 「あの人の家族が、今どうなっているのか気になってしょうがなくなった。確めたいと思ったんだ」 「何を?」 「父親がいないせいで、殺されたせいで、不幸になってやしないかと」 「そのためにこの町に来たんか」 「ただ確めるだけで良かったんだ。もう気に病む必要は無いんだと、安心したかったんだと思う。遠くから見て、それで、すぐに戻ろうと思っていた」 でも実際は違ったじゃないか。 俺たち家族は、父親がいなくてもそれなりに幸せで、そのことはすぐに分かったはずだ。 それなのに、蓮二はここにいるじゃないか。 「でも戻れなかった」 なんで…? 「あの日」 蓮二が俺の目をじっと見つめる。 「雅治を見た瞬間、分かったんだ」 「母親が殺した男の息子じゃって?」 「違う」 と蓮二は首を振る。 「分かったんだ。俺は、絶対にこの男のことを好きになってしまう」 蓮二の琥珀色の瞳が揺れる。 と思ったら、そこから涙が伝っていた。 蓮二の顔がぐしゃぐしゃに歪む。 「俺の遺伝子はきっと呪われているんだ」 「呪い?」 「仁王の家の人間を好きになってしまう呪い」 言葉はしっかりとしているのに、中身は可笑しな台詞だった。 呪い、と俺も頭の中で反芻してみる。 じゃあ、こんなに胸が詰まるのも、心臓が潰れそうに痛いのも、それも全部呪いなのかも知れない。 ずっと昔から、俺の体に降りかかる呪い。 「だとしたら俺も呪われとる」 あの日、透けるように真っ白な肌を目の当たりにしたその瞬間に、呪いは永遠になってしまったのだ。 「柳家の人間を好きになる呪いじゃ」 がた、とグラスが倒れる音がした。 俺がテーブル越しに蓮二を抱きしめたせいで、バランスを崩した蓮二の身体がグラスに当たったのだ。 麦茶が零れて、ラグマットに濃い染みを作る。 きつく抱きしめた蓮二からは、名前の知らない花の匂いがした。 肩口が濡れるのが分かった。 蓮二につられるようにして、俺も泣いた。 父親を殺した人の子どもを好きになってしまった俺は。 可哀想なんだろうか。 不幸なんだろうか。 けれどそのどちらも、今の俺には相応しくないように思えた。 [←前へ] | [次へ→] |