海が見える町 | ナノ





遅刻した上にあまりに良い天気だったから、学校に行くまでの道のりで、俺はいつも通り屋上での昼寝を決め込んだ。
出掛けに母親が、夕方から雨だから傘を持っていきなさい、と言っていたが、あれは嘘だと思う。
ごろん、と屋上の錆びれたベンチに横になると、見上げた先の空は雲ひとつない。
目を閉じてじっとしていると、じきに眠気が襲ってきた。

ふ、と意識が浮上して、あーよお寝た、とのんびり目を開ける。

「あ、起きた」
横から声が聞こえて、俺はたっぷり五秒くらい固まった。
「は、え、柳?」

柳が地べたに座ってすまし顔でこっちを見ていた。
手にはカバーをかけた文庫本を持っている。
ページが最後の方だけど、どのくらいの間、ここでそれを読んでいたんだろう。
俺の寝そべっているベンチもそりゃ汚いが、屋上のコンクリート剥き出しの地面はもっと汚い。

「精市がな」
と驚いている俺の頭上から声が降ってくる。
柳の顔がすぐ真上にあった。
「仁王は大体ここでサボっていると聞いたので来てみたんだ」
太陽を遮る柳の顔は、逆光になっている。
「そしたら本当にいた」
「起こしてくれて良かったんに」
「起こすのが勿体無いくらい良く眠っていた」
「人の寝顔盗み見るなんて悪趣味じゃあ」
とふざける。

ふ、と柳が微笑んだ。
そして、すう、と伏せられた瞼が、重たげな睫毛が、ゆっくりと開かれるのを、見た。

思わず息をのんだ。
柳の瞳を見るのは、初めてだった。
それは、とろりと濃密な蜜を垂らしたように濡れていて、そして、澄んだ琥珀の色をしていた。
綺麗だった。
部屋から見渡す海の色とか、屋上から見る夕焼けの色とか、凍りつくように寒い日の白い息、咽るような匂いの金木犀のオレンジ、雲一つない空のブルー、それら、俺が今まで見た綺麗な色の、どれよりも綺麗な色だ。
大切にしまって、誰にも見せたくなくなるような、そういう特別な色をしていた。

上手く息が出来なくなる。
心が大きく抉られるような感覚だった。
たくさんの感情を抑えてあった小さな栓が抜け落ちて、今にも溢れそうだった。

違う。
とっくに溢れている。

柳の瞳に、それを食い入るように見つめる俺の顔が映っている。
その顔がどんどん大きくなる。
そうして、ついに柳の瞳に映るのが俺の瞳だけになった時、唇が重なった。
離れて、また重なって、また離れて、また重なる。

「好きじゃ」
呟いた言葉は、自分の声じゃないみたいに、どこか遠くで響いていた。
そして、柳が泣きそうな顔をして言った「俺も好きだ」という声は、もっと遠くで響いていた。
響いて、それから、永遠に消えることはない、と思った。

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