土曜日の朝八時。 俺は弟と坂道を下っていた。 休日なんていつも昼過ぎまで寝ているから、朝の七時に叩き起こされた俺はかなり不機嫌だった。 「…なんじゃよ」 部屋まで起こしに来た母親を睨む。 母親がペラペラとまくし立てるのを、俺は半分寝ている状態で聞いていた。 弟が海に行きたがっているから連れて行け、ということらしい。 「なんで俺なんじゃ…」 「私今日仕事だって言ったでしょう」 「しかも…なんで…朝…」 「雅にぃ知らないのおー?朝の海が一番綺麗なんだよお?」 母親の背中から弟が顔を出して言う。 知るか、と思ったのに、話は勝手に進んで、結局は土曜の朝から海に行くはめになってしまった。 手を繋げとうるさかったので繋いでやると、弟は上機嫌で歩いた。 ちんたら歩く俺の左手を弟が引っ張る。 「雅にぃ」 「おんぶは嫌じゃよ。お前もう重いけん」 「違うよ。おんぶとか格好悪いし、頼まないよ。ぼく、もう九歳だし」 「手繋ぐのはええんか」 「それはいーの!」 と頬を膨らませる。 「そうじゃなくて、ぼく、コンビニ寄りたいな」 「なして」 「アイス食べたい」 「だーめ。朝からアイスなんか食っとったら、マシな大人にならんぜよ」 「マシな大人ってー?」 「背え高いやつ。おまんも、これ以上大きくなれんかったら嫌じゃろ」 「えー」 俺の言ってることが明らかに嘘だと分かっているからだろうか。 弟は不服そうにしていたが、何を言っても無駄だと思ったのか、結局は諦めて大人しくなった。 「うみー!」 海に着いた途端、弟ははしゃいで砂浜を走り出した。 「そんな急ぐと転ぶぜよー」 と後ろから声をかける。 一瞬振り向いて、はーい、と行儀の良い返事をして、また走り出す。 元気じゃのう、とジジ臭い感想を漏らしながら、俺も浜辺を海に向かって歩く。 土曜の朝に海で遊ぼうという人もいないだろうと思ったのに、海の中に人影を発見したから驚いた。 そして、その人影が柳だったからもっと驚いた。 ネイビーブルーのパーカーを着た柳は、ベージュのパンツをたくし上げ、膝上まで海に浸かっていた。 裾の方は濡れて色が変わってしまっている。 水を手ですくっては零れさせ、またすくっては零れさせる。 柳は飽きずに何度もそれを繰り返していた。 俺はしばらく、ぼうっとその姿を眺めた。 柳の手から透明な水が零れるのを、同じように飽きずに眺めていた。 その水を見ていると、頭の中を陳腐な妄想が支配していく。 冷たい海に沈んでいく妄想だ。 「仁王!」という声にはっとして、そこで意識が元のところに戻った。 柳が、少し驚いたような顔をして、こっちに手を振っている。 それから、再び「仁王!」と大きめの声で俺の名前を呼んだ。 波打ち際まで駆け寄ると、柳もじゃぶじゃぶと波を起こしながらやってきた。 「なにしとるんじゃ、こんな。寒い言うたじゃろ」 「それを確めようと思ったんだ」 柳が濡れた手を、パーカーの裾で拭う。 「入水自殺でもしよるんかと思った」 「まさか」 濡れた足に、砂がこびりついている。 「靴は?」 「靴、あ、あんなところに」 柳が少し離れたところを指差す。 「靴にとったら、お前さんの方が、あんなところに、じゃよ」 「ちょっと歩いたくらいだと思っていたんだが」 「取ってきちゃるよ。裸足で砂浜歩くの、危ないけぇ」 「すまないな」 砂浜にぽつんと置き去りにされていた柳の靴を拾い上げて戻ると、柳と弟が一緒に座り込んでこそこそと話していた。 「あ、雅にぃ」 俺に気付いた弟が、立ち上がって手を振る。 「なんじゃ、お前、柳と仲良くなったんか」 「お兄ちゃん、柳くんって言うの?」 「ああ」 と柳が微笑む。 「何しとるんじゃ」 俺が柳に合わせてしゃがみ、弟もまたしゃがむ。 「貝殻拾ってたんだよね!」 「桃色の貝殻を探していたんだ」 「なかなか見つかんないんだよ」 と弟は顔をしかめる。 「桃色っぽいな、というのはあるんだが、完璧な桃色は無いな」 と言って、海水が染み込んで色の濃くなった砂を漁る。 しばらくそうやって三人で桃色の貝殻探しをしていたが、飽きたらしい弟が「お腹空いたー!」と叫んだところで解散となった。 海岸脇の道路で、柳と別れる。 「じゃあ、また明後日」 明日は日曜日で、学校は休みだ。 「おん」 「柳くん、また、貝殻拾おうね」 「今度は桃色が見つかると良いな」 「うん」 柳が手を振って、道の反対側へと歩いていく。 その後ろ姿が見えなくなるまで、弟は手を大きく振っていた。 [←前へ] | [次へ→] |