幸村のばあさんが管理しているアパートに行くのは、あの、俺にとっては消し去りたい過去になっている、幸村キス事件以来のことだった。 柳の部屋は二階で、三階のあの部屋じゃなかったことに、俺は心底ほっとした。 「どうぞ、狭いが」 鍵を開けて入った柳に続いて、部屋に入る。 短い廊下の先に、八畳一間。 あの部屋と全く同じ構造だ。 「適当に座ってくれ」 「電気ポットどうする?」 「とりあえず、そこのテーブルに置いてもらえれば大丈夫だ。すまなかったな、持ってもらって」 「ええよ。こんくらい」 言われた通りに、部屋の真ん中にあるローテーブルに電気ポットを置いた。 そのすぐ傍に腰を下ろしてから、部屋を見回してみる。 こげ茶のラグマット、小さな丸いローテーブル、ベッド、その横に棚。 テレビやパソコンはない。 隅の方に、何冊か本が積んである。 当然だけど、一人きりの部屋だ。 柳が本の横に鞄を置く。 「飲み物は麦茶ぐらいしかないんだが」 「せっかくだから、電気ポット使おうぜよ。壊れてるかもしれんし」 「緑茶ぐらいしかないぞ?」 「ええのう。緑茶って柳っぽい」 「そうか?」 電気ポットを持って廊下の台所に行く柳に、俺もついていく。 炊飯器の載っているラックの空いているところに、電気ポットを置く。 水を入れて、スイッチを押す。 「お湯沸くまでどんくらいかかるんかのう」 「十分くらいじゃないか?」 「んじゃ、それまであっちいよ。音でも鳴るじゃろ、たぶん」 「そうだな…」 返事をしながらも、柳は中々そこを動こうとしない。 「柳?」 「あ、うん。…時間があるのなら、夕飯を作ろうと思って。少し早いが、仁王も良かったら食べていかないか?」 予想外のお誘いに、一瞬頭がフリーズした。 「え、ええの?」 「電気ポットのお礼だ」 柳がにっこりと笑う。 「じゃあ、いただきます…」 俺の顔は、少し赤かったかも知れない。 [←前へ] | [次へ→] |