メモログ | ナノ

・ピアノ殺人



◎とある劇場の大ホールにて


ポーン、ポーン、心地よいピアノの音が響いています。
深夜零時、ホールには私以外誰もいません。
ポーン、ポーン。

「夜遅くまでご苦労だな、柳生」
と、そこへ、柳くんがやってきました。
「こちらこそ、こんな夜遅くにお呼び立てして申し訳ありません」
「いや、構わない。それで、用というのは?」
「調律が終わったので、貴方に確めていただきたくて。明日は記念すべきコンサートですから、すぐにでもお聞かせしたかったのです」
明日は彼のピアニスト十周年の記念コンサートの初日です。
私は彼直々に調律して欲しいと言われていました。
彼とは以前にも何度か仕事をしたことがあります。
「そうだったのか。柳生は仕事熱心だな」
と柳くんは微笑みました。
「では試しに一曲お願いします」
「何が良い?」
「は?」
「何でもお前の好きな曲を弾こう。何が良い?」
「いいえそんな…」
「お前のために弾きたいんだ」
彼は柔らかく口元を緩めました。
その笑顔が、言葉が、私に今夜の決心を揺るがせます。
「…では、ラフマニノフの鐘を」
ラフマニノフは交響詩「鐘」も作曲していますが、ピアニストにとって彼の「鐘」と言えば、前奏曲嬰ハ短調のことです。

柳くんは頷くと、椅子に腰掛けました。
重低音がホールに響きます。
鍵盤に向かう背中、優雅に動く手首、繊細な指、美しい首筋、その全てが完璧な芸術なのです。
しかしそれは決して私のものにはなりません。

演奏も佳境に入りました。
柳くんの左手の薬指が黒鍵に触れたその瞬間、私は大きく振りかぶり、チューニングハンマーで彼の後頭部を殴りつけました。
「…っあ」
彼は小さく呻くと、そのままピアノの上に崩れ落ちました。
バラララン、と鍵盤がうるさく鳴り響きました。
彼の赤い血が白い鍵盤によく映えます。
ポーン、私はC♯の音を鳴らしました。

私は知っていました。
柳くんが今度のコンサートを最後に、ピアニストを引退することを。
そして年下の恋人とともに外国に行って、永遠の愛を誓うのだということも。
私は彼が誰かのものになることが許せなかったのです。
あんなに完璧な芸術が、人の手によって汚されるのだと思うとたまりません。
ポーン、私は再びC♯の音を鳴らしました。
それは彼が最後に口にした呻きの音。
私は一生、あの音を忘れないでしょう。



「…というのは、どうでしょう」
「どうでしょうと言われても…何がだ」
「怖ろしいと思いませんか。柳くんの左手の薬指はミスタッチです。きっと漆黒のピアノに腕を振り上げる私が映っていたのでしょう」
「俺は猫踏んじゃったくらいしか弾けないぞ」


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