12 ほていあおい 家庭科室に入ると、片倉はまだ来ていなかったが、部員の一人は準備を始めていた。 ほていあおい (揺れる想い) 「あ、遅かったですね。丸井先輩」 そう言ってこちらに目を向けてきたのは、二年生のヒナちゃんだった。 「うん、俺、絶対、最後だと思ってた。片倉は?」 「片倉先輩は、生徒会の仕事で少し遅れるそうですよ」 とヒナちゃんが答えた。 ヒナちゃんは、中等部のクッキング部にもいた女の子で、高等部でも出来たばかりのこの部活に入ってきた。 実は、五人の部員のうち二人は、片倉が生徒会のメンバーに頼んで名前を貸してもらっているだけだったので、活動しているのは、俺と片倉と、そしてこのヒナちゃんの三人だけだった。 ただ、俺はヒナちゃんと仲が良いわけでもない。 月に一回の活動日以外は、廊下で会っても挨拶される程度で、話したりもしない。 それどころか、俺は、ヒナちゃんの名前が、本当にヒナであるのか、それともヒナコなのか、はたまたまったく別の名前なのかさえも知らなかった。 誰かが「ヒナちゃん」と呼んでいたから、俺もそれにならっただけで。 「あ、そういえばさ」 と俺は冷蔵庫から卵や牛乳といった材料を取り出しながら、ヒナちゃんに問いかける。 「中学のときのこの部活の顧問のこと」 「ああ」 とヒナちゃんが頷く。 そして、俺が思っているのと同じ名前が出される。 「そう、その人。教師辞めてたんだってな。知ってた?」 「知ってましたよ。先輩達は卒業してましたけど、私はまだ中等部にいましたから」 「うん、そりゃそうだ」 「でも、本当に急だったみたいですよ。私が知ったのも、朝礼かなんかでの事後報告でしたから。当然挨拶のようなものもありませんでしたし」 とヒナちゃんは銀色のボールを洗いながら言う。 「じゃあ、なんで辞めたかも知らねえ?」 「知らないです」 「だよな」 「でも」 とヒナちゃんが蛇口を止める。 「片倉先輩なら知ってるんじゃないですか?」 しばらくして、待ちに待っていた片倉がやってきた。 「遅れてごめん。もう始めてる?」 ドアを開けて早々、片倉はそう言った。 「準備だけです」 とヒナちゃんが答えた。 片倉は、ボールやら材料やらが載ったテーブルを見回してから、一言「ありがとう」と言った。 「じゃあ、作ろうか」と片倉が言ったので、俺たちはレシピを見ながら、それぞれ作業を開始した。 今日は、パンケーキを作ることになっていた。 パンケーキを作ろうと言ったのは片倉だ。 というか、いつもレシピを決めるのは片倉だった。 俺は作れれば、正確には食べられれば何でも良かったし、ヒナちゃんも、何が作りたいかと聞けば、いつも「何でも良いです」と答えるような子だったからだ。 ヒナちゃんの何でも良いは、どうでも良いでもあるような気がしたけど。 そんな感じなので、当然のように、決めるのはいつも片倉だった。 「なあー、片倉」 と俺は横で小麦粉を秤にかけている片倉に向かって、声をかける。 「何?」 と片倉は秤の方を真剣に眺めたままで言った。 「中学の時のクッキング部の顧問いたじゃん。あの人、なんで辞めたか知ってる?」 俺がそう言ったところで、片倉は集中していた秤から目を離し、俺のことを凝視した。 「面白いなあ。一日で同じことを二回も聞かれた」 「はあ?」 俺は片倉の言っている意味が分からずに、間抜けな声を上げた。 「さっき、柳にも同じことを聞かれたよ」 言ってから、片倉はからからと笑う。 「なに、テニス部で流行ってんの?」 「いや、そういうわけじゃねえけど…」 言いながらも、俺の意識はもうそこには無かった。 柳が聞いたんだ。 何、なんで。 なんのために。 どうして。 似たような疑問符が、頭を何度もよぎる。 ああ、頭がぐちゃぐちゃだ。 混沌とした俺の意識を、元の場所に引き戻したのは、片倉が次に言った一言だった。 「あ、柳はその後で、今どこにいるのかって聞いてきたよ」 「なんで柳は、そんなこと聞いたんだろ…」 「さあ、俺もそこまでは知らないな」 思ったことが、そのまま口に出ていたらしい。 呟いた俺の言葉に、片倉はそう言った。 俺は、「だよな」と曖昧な返事を返す。 「それで、ええと、なんで辞めたかだっけ」 「あ、うん」 「お父さんが倒れたとかで、家業を継ぐために田舎に帰ったらしいよ」 「…よく知ってるな」 「直接聞いたから」 と片倉は言った。 「直接?」 「中等部に届け物があって、その時偶然会ったんだよ。ちょうど、辞めた日に。それで、話の流れで聞いた」 「別に生徒会長だから知ってたわけでもないんだな」 「うん、そう。まったくの偶然」 だとしたら、柳はラッキーだ。 クッキング部の部長だからでも、生徒会長だからでもなく、片倉が知っていたのは偶然だ。 それでも、片倉は知っていた。 柳は知ることが出来た。 「んで?今どこにいんの?」 「さあ」 と片倉は首を傾げた。 「さあ、そこまでは知らない」 「そっか…」 訂正。 柳は微妙にアンラッキーだ。 片倉は知っていた。 ただ、肝心のことは知らなかった。 俺は、そのことを喜ぶべきなのか悲しむべきなのか分からなかった。 「そんなこと知って、丸井も柳もどうすんの?」 不思議そうな顔で、片倉はそう尋ねてきた。 「さあ、どうするつもりだったんだろ」 と俺は言った。 正直なところ、その先生のことを知って、俺はどうしたいわけでもなかった。 ただ知りたかっただけなんだ。 居場所を知ったとして、会いに行って、「ふざけんな」と殴る権利は俺には無いし、それは違う気がする。 話すことも無いし、知ったからといって、何がどうなるわけでもない。 ただ、柳はどうなんだろう。 柳はどうして知りたかったんだろう。 そのことが、俺をどうしようもなく不安にさせた。 俺が怖れていることは二つだ。 一つは、柳がまた傷つくのではないかということ。 もう一つは、柳がまだその先生のことを好きなのではないか、ということだ。 出来上がったパンケーキを三人で食べながら、俺はどうしょうもなく落ち着かない気分でいた。 [←] | [→] |