05月10日(木)01時40分 の追記
「純喫茶・ヤギュウ」の店内は狭い。 どれくらい狭いかというと、席はカウンターで四つしかない。 カウンターの中も同様に狭いので、マスターの柳生は常に、蟹のように横移動をしている。
この土地は元々、定年を迎えた柳生の父が、昔からの夢だったという花屋を営んでいた場所だった。 花屋では十分だった広さも、喫茶店には不十分だった。 それでも、柳生はここに喫茶店を開くことにした。 父と同じように、それが彼の昔からの夢だったからだ。
店が狭い上に、立地もあまり良くないので、来店する客は常連ばかりだ。
例えば、毎朝開店と同時にやって来る女の人だ。 彼女は毎朝の習慣としてランニングをしていて、そのコースを終えてから店にやって来る。 肩にかけたタオルで汗を拭いながら、いつも薄めのアイスコーヒーを頼む。氷は少なめ。
例えば、土曜日だけやって来る女子高生だ。 彼女はカフェラテを飲み、たまにケーキを食べる。 毎回、本を読んでいたり、ノートを開いて絵を描いていたり、勉強していたりと、なにかしら作業をしていて、二時間は居座っていく。 一度、カラフルな細いヒモを編んでいた日もあった。
例えば、平日の朝八時にやって来るスーツ姿の男性だ。 彼は、ホットのコーヒーとサンドイッチを頼む。 いつも左端の席で、スポーツ新聞を広げている。 仕事の前に朝ごはんを食べに来てくれているのだろう。
例えば、毎週水曜日の午後にやって来るおじいさんだ。 書道教室の帰りに寄ってくれているそうだ。 彼は温かく甘い飲み物を好む。 一緒に甘く消化の良い、ゼリーを頼むこともある。
そして例えば、満月の夜にだけやって来る若い男だ。 初め柳生は、彼のことを、定期的に来店するがそこに法則性は無い客、と考えていた。 そういう客はたくさんいる。 しかし最近になって、男の来店には、ある一定の法則があることに気がついた。 男は必ず、満月の夜にやって来るのだ。 温かいココアを注文し、静かに飲み干すと、また静かに帰っていく。 お代はいつも、カウンターにひっそりと置かれている。 後ろでくくった銀髪が、オオカミを彷彿とさせる。 満月を見るとオオカミに化ける人間の伝説なら聞いたことがあるが、逆もあるだろうか。 満月を見ると人間に化けるオオカミ。 まさか、と思いつつも、彼はあまりにもそういう、不可思議な印象を与えるのだ。 ゆえに柳生は、彼を「逆オオカミ男」と呼ぶ。
「好きじゃ」 ぽつりと耳に落ちてきた言葉に、柳生は思わず声のした方を見てしまった。 今夜は満月で、逆オオカミ男が来店していた。 声の主は彼だ。 右端でカフェラテを飲んでいた土曜日の女子高生も、驚いたように、そちらに目を向けている。
夜とはいえ真夏の暑い今日も、逆オオカミ男はホットココアを注文した。 しかし珍しく、それを一口飲んでから、どこかに電話をかけはじめた。 「他のお客様のご迷惑になるので」と柳生は通話を止めようとして、すぐにやめた。 携帯電話での通話は声が大きくなりがちだが、彼は声を落としていたし、なにより、方言のようなイントネーションと柔らかい声色が、不思議と耳に心地よかったのだ。 他のお客様、土曜日の女子高生も、一瞬作業を止めて彼の方を見ただけで、特に気にする風でもなかった。 彼女は来てからずっと、薄い絵本を繰り返し読んでは、ノートになにか書き込んでいる。 学校の課題だろうか。 午後七時にやって来たので、もうすぐ帰るだろう。 あれ、こんなことが以前にもあった気がする。 デジャヴでしょうか? 柳生は頭を捻るが、どこにもそのような記憶はない。 思い違いだろうか。
柳生と土曜日の女子高生の視線を感じたのか、逆オオカミ男はさらに声を低くした。 しかし狭い店内、それでも、会話は聞こえてしまう。 というより、柳生はばっちりと聞き耳を立てている。 土曜日の女子高生もまたすぐノートに目線を戻したが、手が少しも動いていないところを見ると、おそらく同じだろう。
「うん……うん……」 さっきから、相手の方ばかりが話しているようだ。 逆オオカミ男は、しきりに頷き、相槌を打っているだけだ。 その声がどんどん沈んでいく。 一体、何を言われているのだろう。 携帯電話での通話は、向こう側の声が聞こえない。 普通はそれで構わないけど、今はもどかしい。
好きだと言った時、彼は真剣な面持ちで、緊張しているようだった。 きっとあれは告白だ。 気になっても仕方ないでしょう。 柳生は、誰にでもなく、心の中で言い訳した。
「……たぶん最初から。あー……前に、一緒に帰ったことあったじゃろ。……いや、二人で。めちゃめちゃ暑かった日。柳、日傘差してたじゃろ?え?ああ……番傘?そう、それ」 そこで彼は、もうほとんど冷めたココアを、一気に飲み干した。 「そんで俺、涼しそうでええのぅっつって、半分入れてもらったじゃろ。あん時、涼しくて心地よくて、こんなんずっと続けばええなって思った。んでその後、真似して日傘買ったんじゃけど、全然違って」 ふ、と微笑む気配がした。 「柳がいて、柳の日傘だから、あんな風に思えたんかなって。自覚した。好きじゃって」 語尾が震えていた。 そっと目線をやると、逆オオカミ男の頬は濡れていた。 「すまん。気持ち悪いよな。好きとか言って。しかも勇気なくて電話して。のぅ、今どこにおる?……はは、やっぱり。お前さん、絶対家来ると思って、外出とるもん」 ず、と鼻をすする。 「嫌じゃ。言いたない。……嘘。喫茶店。フるつもりないなら来て……なんて……」 通話がいきなり切れたらしい。 逆オオカミ男が、目を丸くして携帯電話を見ている。
そこで荒っぽくドアが開いた。 息を切らした男が入ってきた。 どこかで見た気のする顔だ。 が、やはり記憶にない。 「いらっしゃいませ」 と柳生が頭を下げるのと、逆オオカミ男が立ち上がるのは同時だった。 「っ柳!?なんで!?」 「俺のデータをなめるな。お前の行動パターンなどお見通しだ」 怒ったような口調で言った男は、しかし顔は困ったように微笑んでいる。 「……帰ろう」 「うん……お、お会計お願いします」 逆オオカミ男が言った。 柳生は動揺を表に出さないように努めて、「はい。450円になります」と返す。 てっきり、電話の相手を女性だと思っていたからだ。
会計をしながら、立ち入ったことを訊くのは喫茶店のマスターの仕事ではない、と思いながらも、これだけ、という気持ちで訊いてみた。 「あの、訊いてもよろしいですか?」 「なんですか?」 「なぜ毎回、満月の夜にいらっしゃるのでしょうか」 すると逆オオカミ男は、やや驚いたような顔をした。 「え?そうなん?」 「え?」 「いや、全然そんなつもりなかったんじゃけど」 と少しくだけた調子で言う。 首を傾げ、不思議そうにしている。 「え?でも今日も、ほら、満月ですよ」 と柳生は窓の外を指差す。 「いや、今日は満月ではない」 と言ったのは、もう一人の男の方だ。 「そうなんですか?」 「満月は明日ですよ」 言われてよく見てみれば、確かに、満月にはまだ少し足りない気がした。 逆オオカミ男が来店したから、すっかり満月だと思い込んでいた。 「偶然でしたか」 思わず拍子抜けし、呟いた。
ドアに向かう二つの背中を見送る。 「またどうぞ。今度はお二人で」 柳生が言うと、二人は同時に振り返り、照れくさそうにはにかんだ。 その向こうに見える夜空に、満月にちょっとだけ足りない月が、ぽっかりと浮かんでいた。
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