05月09日(水)02時26分 の追記
「純喫茶・ヤギュウ」の店内は狭い。 どれくらい狭いかというと、席はカウンターで四つしかない。 カウンターの中も同様に狭いので、マスターの柳生は常に、蟹のように横移動をしている。
この土地は元々、定年を迎えた柳生の父が、昔からの夢だったという花屋を営んでいた場所だった。 花屋では十分だった広さも、喫茶店には不十分だった。 それでも、柳生はここに喫茶店を開くことにした。 父と同じように、それが彼の昔からの夢だったからだ。
店が狭い上に、立地もあまり良くないので、来店する客は常連ばかりだ。
例えば、毎朝開店と同時にやって来る女の人だ。 彼女は毎朝の習慣としてランニングをしていて、そのコースを終えてから店にやって来る。 肩にかけたタオルで汗を拭いながら、いつも薄めのアイスコーヒーを頼む。氷は少なめ。
例えば、土曜日だけやって来る女子高生だ。 彼女はカフェラテを飲み、たまにケーキを食べる。 毎回、本を読んでいたり、ノートを開いて絵を描いていたり、勉強していたりと、なにかしら作業をしていて、二時間は居座っていく。 一度、カラフルな細いヒモを編んでいた日もあった。
例えば、平日の朝八時にやって来るスーツ姿の男性だ。 彼は、ホットのコーヒーとサンドイッチを頼む。 いつも左端の席で、スポーツ新聞を広げている。 仕事の前に朝ごはんを食べに来てくれているのだろう。
例えば、毎週水曜日の午後にやって来るおじいさんだ。 書道教室の帰りに寄ってくれているそうだ。 彼は温かく甘い飲み物を好む。 一緒に甘く消化の良い、ゼリーを頼むこともある。
そして例えば、平日の午後四時にやって来て、きっかり一時間で去って行く男性だ。 彼は毎回、ホットのコーヒーを飲む。豆はお任せだ。 ごくまれに一口飲んでから、ミルクを足すこともある。 前髪を切り揃えた髪は、真っ黒でつややか。 伏せた目にかかる睫毛が、白い肌に影を落としている、不思議な雰囲気をまとった男。 柳生の最も気に入る客の一人だ。 四時ぴったりに来店し、カバーを外した文庫本を読みながらコーヒーを飲み、五時ぴったりに去っていく。 ゆえに柳生は、彼を「四時の男」と呼ぶ。
土曜日の午後三時三十分、常連ではない客がやって来た。 その青年は初めて来店する客だったが、彼のことはずいぶん前から知っている。 知っている、というよりは、見たことがあった。 彼がたまに、四時の男を迎えにやって来ていたからだ。 店の外、窓硝子の向こうから手を振り、それに気付いた四時の男が店を出る、そういう場面が何度かあった。 彼が迎えに来る時だけ、四時の男は、五時より前に店を出ていった。
くるくるとした黒髪が四方八方に飛び散っていた。 今日の雨の湿気にやられたのか、以前見た時よりも、巻きが強いように見える。 四時前なので、四時の男はまだ来ていない。 ここで待ち合わせしているのかも知れない。 「いらっしゃいませ」 柳生は思考を巡らせながら、挨拶をした。 青年がぺこりと頭を下げた。 礼儀正しい。
店内には他に、土曜日の女子高生が来ていた。 彼女は来てからずっと、薄い絵本を繰り返し読んでは、ノートになにか書き込んでいる。 学校の課題だろうか。 午後二時にやって来たので、もうすぐ帰るだろう。 青年は、右端に座った彼女と空いている席に何度か視線を走らせた後、左端の席に座った。 ビニールの傘を壁に立てかけている。 カウンターに置かれたメニューをしげしげと眺めると、声をかけてきた。 「あの、ウ、ウィンナーコーヒーってどんなんですか」 「泡立てた生クリームを浮かべた、温かいコーヒーですよ」 「じゃあ、それで」 「かしこまりました」 細口のポットにお湯を沸かしながら、青年のことを盗み見た。 彼はしきりに窓の外を気にしている。 やはり四時の男と待ち合わせしているのだろうか。
生クリームをボールに注ぐ。 「お砂糖はどのくらい入れましょうか」 「あ、俺、苦いの苦手なんで、甘くしてください」 「分かりました。苦手なんですか、苦いもの」 砂糖を二杯入れて、泡立てる。 「あー…コーヒー頼んどいてなんですけど…苦手で…生クリームのってんなら、まだ甘いかなって思ったんですけど」 「ココアなどもありますが」 まだお湯を沸かしているだけなので、変えることもできる。 「えっと、ここによく来る人が、コーヒーが美味しいって言ってたんで。せっかくだから、飲んでみます!」 「そうですか。ありがとうございます。今日はその方と待ち合わせですか?」 青年が少し心を許してくれているような口調になったので、訊いてみた。 しかし途端に、青年の表情は曇ってしまう。 「待ち合わせってわけじゃなくて……。でもここに来れば会えるかなって思って、来たんですけど」 「そうでしたか」 それ以上は訊かないことにした。 彼が自分から話すのなら聞くが、こちらから訊ねる必要はない。 柳生は、喫茶店のマスターとはそういうものだと思っていた。
土曜日の女子高生が帰ったので、柳生と青年の二人きりになった。 ウィンナーコーヒーはとっくに無くなっていた。 窓硝子が白く曇っていたので拭こうと思い、カウンターを出たところで、ドアが開いた。 青年が絞り出すような声を上げた。 「こ、こんにちは……!」 入って来たのは、四時の男だった。 男は席に座っている青年を見て、伏せていた目を大きく開いた。 驚いている。 表情が動くと、彼はいつもより幼く見えた。 「いらっしゃいませ」
「あ、コーヒーを」 「かしこまりました」 四時の男は青年の隣に座った。 「どうしたんだ。偶然じゃないだろう?」 「その……俺……」 青年は気まずそうに俯いていたが、やがて、さらに頭を下にやった。 「すみません!」 と大きな声で言った。 四時の男は、不思議そうな顔をしている。 すると青年は、提げていたかばんの中から、一冊の本を取り出した。 カバーの無い文庫本。 よく見ると、表紙から先何ページか、大きな茶色いシミになっている。 なるほど。柳生は心の中で頷いた。 青年は四時の男の本を汚してしまったのでしょう。
「うっかりコーラこぼしちゃって……すみません」 青年はもう一度、頭を下げた。 「コーラ……」 四時の男が呟いた。 それから、眉間に一瞬シワを寄せ、微妙な顔をした。 「ああ、いや、気にしなくていい。大丈夫だ」 「本当すみません」 「ふ、大丈夫だ。それより、読み終わったのか?」 「あ、はい!一ヶ月かけて、やっと読み終わりました!」 「すごいじゃないか」 「ていうか、それで嬉しくって、バンザイしたらコーラこぼしちゃって……」 「あはは。なんだそれは」 四時の男が大きく笑った。 とても楽しげだ。 青年の前でだけこのような顔をするように、柳生は感じた。
四時の男がコーヒーを飲み終えると、彼らは席を立った。 四時十分を過ぎたところだった。 コーヒーは二杯分、青年が払うと言い、四時の男もそれに従った。 本のシミのお詫びなのか、他になにかあるのか、それ以上は柳生に推し量ることはできない。 なぜなら、喫茶店のマスターだから。
「ごちそうさまでした」 「美味しかったです!」 「それは良かったです」 会計をしながら、二人に笑顔を返す。 また気入った客ができた。 喜ばしいことです。
「そういえば、さっき柳さん、変な顔しましたよね」 「変な顔?」 「いや!そういう意味じゃなくて!」 と青年は慌てた様子で否定する。 「どういう意味だ」 四時の男が可笑しそうに笑う。 それを見て、ほっとしたように、また青年は口を開いた。 「さっき、コーラこぼしたって言った時、こう、笑いたいのに泣きたいみたいな、そんな顔してたじゃないですか。あれって、なんだったんですか?」 俺の見間違いッスか?と青年は首を傾げた。 四時の男の眉がわずかに、ぴくんと動いた。 そして、しばらく考えるように間を置くと、こう言った。 「赤也、俺はコーラを飲まない」 思わず噴き出しそうになって、柳生は慌てて唇を噛んだ。 何食わぬフリをしておつりを渡す。 「またどうぞ」 「あ!はい!」 青年が反射的になのか、学校の先生にでもするような、元気の良い返事をしてくれた。 今度は四時の男の方が、笑いを堪える番だった。
柳生にはなんとなく、四時の男が微妙な顔をした理由が分かるような気がした。 これから先、何度も、彼はあの本を読もうとするたび青年のことを思い出すことになる。 彼が言いたかったのは、きっとそういうことだ。 コーラは飲まない、だから、コーラの匂いのする本は、あれ一冊きりだと。 そう言いたかったのではないか。 本当のところは分からない。 けれど、想像するのは自由だし、本当のことを知る必要も、喫茶店のマスターたる柳生にはない。
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