06月03日(金)00時54分 の追記
◎とある劇場の大ホールにて
ポーン、ポーン、心地よいピアノの音が響いています。 深夜零時、ホールには私以外誰もいません。 ポーン、ポーン。
「夜遅くまでご苦労だな、柳生」 と、そこへ、柳くんがやってきました。 「こちらこそ、こんな夜遅くにお呼び立てして申し訳ありません」 「いや、構わない。それで、用というのは?」 「調律が終わったので、貴方に確めていただきたくて。明日は記念すべきコンサートですから、すぐにでもお聞かせしたかったのです」 明日は彼のピアニスト十周年の記念コンサートの初日です。 私は彼直々に調律して欲しいと言われていました。 彼とは以前にも何度か仕事をしたことがあります。 「そうだったのか。柳生は仕事熱心だな」 と柳くんは微笑みました。 「では試しに一曲お願いします」 「何が良い?」 「は?」 「何でもお前の好きな曲を弾こう。何が良い?」 「いいえそんな…」 「お前のために弾きたいんだ」 彼は柔らかく口元を緩めました。 その笑顔が、言葉が、私に今夜の決心を揺るがせます。 「…では、ラフマニノフの鐘を」 ラフマニノフは交響詩「鐘」も作曲していますが、ピアニストにとって彼の「鐘」と言えば、前奏曲嬰ハ短調のことです。
柳くんは頷くと、椅子に腰掛けました。 重低音がホールに響きます。 鍵盤に向かう背中、優雅に動く手首、繊細な指、美しい首筋、その全てが完璧な芸術なのです。 しかしそれは決して私のものにはなりません。
演奏も佳境に入りました。 柳くんの左手の薬指が黒鍵に触れたその瞬間、私は大きく振りかぶり、チューニングハンマーで彼の後頭部を殴りつけました。 「…っあ」 彼は小さく呻くと、そのままピアノの上に崩れ落ちました。 バラララン、と鍵盤がうるさく鳴り響きました。 彼の赤い血が白い鍵盤によく映えます。 ポーン、私はC♯の音を鳴らしました。
私は知っていました。 柳くんが今度のコンサートを最後に、ピアニストを引退することを。 そして年下の恋人とともに外国に行って、永遠の愛を誓うのだということも。 私は彼が誰かのものになることが許せなかったのです。 あんなに完璧な芸術が、人の手によって汚されるのだと思うとたまりません。 ポーン、私は再びC♯の音を鳴らしました。 それは彼が最後に口にした呻きの音。 私は一生、あの音を忘れないでしょう。
「…というのは、どうでしょう」 「どうでしょうと言われても…何がだ」 「怖ろしいと思いませんか。柳くんの左手の薬指はミスタッチです。きっと漆黒のピアノに腕を振り上げる私が映っていたのでしょう」 「俺は猫踏んじゃったくらいしか弾けないぞ」
|