05月19日(木)20時25分 の追記
私が彼のことを人づてに聞いたのは、大学一年の半ばのことでした。 彼の名前は柳蓮二さんと言い、同じサークルに所属する、二つ年上の先輩でした。 私たちは「世界軟体動物愛好会」という、世界中の柔らかい生き物を讃えるサークルに入っていました。
なぜ同じサークルにいながら、私が彼を半年も知らなかったかというと、彼はほとんど大学にはいらっしゃらないからです。 出欠が必要なものは信者(と私は勝手に呼んでいます)に代わりをさせ、大事なテストのときにのみフラリと現れる。にもかかわらず、彼は学科で首席を取っており、驚くほど博識だそうです。
そんなでしたから、私が柳蓮二さんのお顔を拝見することが出来たのは、また更に半年後のことでした。 しかし彼は、彼を崇拝する信者に囲まれていて、私などは話しかけることはおろか近寄ることも出来ず、ただ遠くから頭一つ分飛び出たそのお顔を眺めるのが精一杯でした。 それでも、その造形の素晴らしさは一瞬で私を虜にしました。 私は昔から、綺麗なもの、とりわけはかなさを伴ったそれに心惹かれる性質だったのです。
さて、二年生ももうすぐ終わりだというある日、私は偶然にも柳蓮二さんを見つけました。 大学の大きな図書館の前のベンチに、一人静かに座っておられたのです。 彼が誰にも囲まずに一人でいるのはとても珍しいことですが、それは時間帯のせいでしょう。 今は朝の七時。大学の門が開いたばかりの時間です。
私がなぜこんなに早くに大学にいるのかというと、図書館でプリントアウトしたい資料があったからです。 図書館のコピー機はいつも非常に混んでいるので、人のいない朝一番にやってしまおうと目論んでいたわけです。
私はあまりの幸運に驚き、目を見開いてその場に固まってしまいました。 「…君は…柳生…だったか?」 そんな私に、なんと柳蓮二さんは声をかけてきたのですから、私は更に驚きました。
「そうではないか?同じサークルの」 「は、はい…っ!」 私の声は不恰好に裏返りました。
まさか、彼が私のことを覚えていてくださったとは…! 彼と私がサークルで会ったのはたった一度きり、四年の先輩が卒業した後に行われた、追い出しコンパの時だけでした。 もちろんお話などしていません。 それなのに、彼は覚えていてくださったのです…!
「いつもこんな朝早くに来ているのか?」 「いえ…っ今日は特別で…」 「そうか」 ふわっと柔らかく彼は微笑みました。 目も鼻も唇も、白い小さな耳も、まるで作り物のように左右対象。 真顔でもそれは美しい彼が微笑んだのですから、その破壊力や計り知れません。 もし周りにいつものように信者がいれば、歓声が上がり、何人かは眩暈を起こしたことでしょう。 それを一人占めしているのです。 私はなんて贅沢なんだと、頬が緩みました。
そういえば、私には、柳蓮二さんともしお話する機会があれば、ぜひ確かめたいことがありました。 それは、一つ上の先輩が言っていた『柳蓮二さんは大のウィスキー好きで、いつでもポケットに小瓶を忍ばせている』というものでした。
「…ああ、そのことか」 私が不躾にも噂の真相を尋ねると、彼はクスリと笑いました。 「本当なのですか?」 「本当だ」 と言って、彼は着ているジャケットの内ポケットから、手の平ほどの瓶を取り出して見せてくれました。 上品な黒色の革のカバーがガラス部分にかけられた、小さな瓶です。
彼はそれを口元に持っていくと、ゆっくりと傾け、喉を鳴らしました。 そして、「お前も飲むか?」と言いました。
私は差し出された瓶を受け取りました。 こんな朝からお酒を飲むなんて、いやそれよりこれは間接キスでは…!?などと様々な思いが頭を駆け巡りながらも、瓶に口をつけ、中のウィスキーを流し入れました。
私はお酒があまり得意ではありません。 美味しいとも思わないし、進んで飲もうとも思いません。 そんな私には、口に含んだウィスキーは苦く、飲み込んだら喉がヒリヒリと熱くなりました。 しかし、鼻から抜ける香りはとても甘美です。 私の体を満たす熱い液体と同じものが、今目の前の彼にも流れているのだと思うと、なんとなく気恥ずかしいような気分でもありました。
「美味しかったです」 それはもう、とても。 「それは良かった」 「ウィスキーがお好きなんですね」 「酒ならなんでも大好きなんだ」 柳蓮二さんは愉快げに肩を揺らしました。 黒く細い髪がふわりと浮き、優しい花の薫りが漂いました。
しばらくすると、柳蓮二さんの元に一人の青年がやって来ました。 どうやら、柳蓮二さんは彼のことを待っていたようです。 銀色に染められた髪を後ろで括った、どことなく軟派な雰囲気のする青年でした。 柳蓮二さんは「ではな、柳生」と言って、その青年と連れだって行ってしまいました。 私は頭を下げ、二人の背中が見えなくなるまで見送りました。
それから、私が柳蓮二さんに会うことはありませんでした。 噂では、卒業と同時に恋人と外国へ行ったということです。
遠い異国の地で、彼は、大好きだというお酒を恋人と二人飲んでいるのでしょうか。 それはきっと、特別で素晴らしい時間に違いありません。 ウィスキーの語源は命の水。 どうか、美しい彼の体に絶え間無く命の水が流れんことを!
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