2009.Sep.14
倉田 岳史
「倉田くん」後ろから声をかけられてドキッとした。振り返ると名字さんが小走りで追いかけてくる。「ビール、一人じゃ重いでしょ?」と笑いかけてくれる名字さんに「ありがとう」とだけ返してスーパーへ向かって歩き続ける。
せっかくついて来てくれたのにそのあとの会話が続かない。こういう時みんなはどんな話をしてるんだろう。昔の俺はどんな会話してたっけ。人と円滑なコミュニケーションをとる力がどんどん退化していってる気がする。人との付き合い方も楽しい話題の探し方も、もう忘れてしまった。
「倉田くん、大丈夫?具合悪い?」
「大丈夫だよ」
「でも、」
「ほんとに大丈夫だから!」
自分でもびっくりするほど大きな声が出た。
「…放っておいてくれ、頼むから」
ショックだ、とあきらかに顔に書いてある。まさか心配してるのにこんな強い口調で返されるなんて思ってもなかったって顔だ。当然だ。名字さんは気遣ってくれてたのにこんなの八つ当たりだ。優しい名字さんにすらこんなふうにしか接することが出来ないなんて情けなくなってくる。
「俺は優しくしてもらうような価値なんてないんだ」
「名字さんが想像もつかないくらいひどいことを沢山してきた。自分が試合に出たいばっかりに関係ない選手を何人も怪我させてきた。一緒にやってきたチームメイトの3年間も汚してしまった」
もう洗いざらい話してしまった方が楽になれる気がした。実力でレギュラーを獲れなかった俺がそこに座るためにしてきた数々の行為を。何も悪くない関係ない他人を、大切な仲間も傷つけてきたことを。あのまま一緒にいるのも、責められるのも怖くてここまで逃げてきたことも。全部。
「だからって、倉田くんが一人で生きていかなきゃいけない理由にはならないでしょう?」
名字さんが不思議そうに呟く。その顔は本当に意味が分からないとでも言いたげだ。そりゃそうだろな。産まれてきてから今までずっと人を傷つけることも裏切ることもなく、真っ当に清く正しく生きてきた彼女には。でもそれでいい。このまま一生分かんなくていい。こんな人間の薄汚い部分を彼女が理解する必要なんてない。
「…そうしなきゃいけないんだ。このまま苦しみながら生きてくことくらいしか、俺にはもう償う手段がないから」
「…でもそんなこときっと誰も望んでない!」
普段は穏やかな名字さんの激しい口調に何も言い返せなかった。確かに俺が今こうして苦しんだところで渡辺の3年間が帰ってくるわけでも、泥を塗ったあいつらの夏が戻ってくるわけでもない。
でも、なら俺はどうすればいい?散々人を傷つけておきながらまるで何事もなかったかのように穏やかな毎日を送るなんて、そんなの誰が許してくれる?それならまだ苦しむ方がマシだ。たとえ誰のためにもならなくても、それで対価を払った気になって償ったつもりになってるだけの独りよがりでも。だってそうでもしなきゃ罪悪感で、後ろめたさで苦しくて潰れそうなんだ。
「倉田くんがこれまでどんなに苦しんできたのか、私には分からない。けど、今倉田くんが苦しんでることは分かりたいって思ってるよ」
だから、拒絶しないで
いつも笑顔の名字さんが泣きそうな顔でそう言うから、胸がまるでトゲが刺さったみたいに痛みだす。
こうして優しくされることが本当はずっと怖かった。
居場所が見つからないことよりも、軽蔑されることよりも、孤独でいることよりもずっと。こうしていつか許してくれる人が現れてしまうことが一番怖かった。許してくれる人がいると自分がやってきたことが、罪悪感が段々軽くなってしまいそうで、風化してしまいそうでずっと怯えていた。
居場所を探すふりをして、本当はそんなところなんか一生見つからなければいいと思ってた。こんな俺を許してくれる人なんて一生現れなければいいと思ってた。俺は自分が幸せになることでこれ以上罪悪感を感じたくなかったんだ。
「ビール買って帰ろう、みんな待ってるよ」
名字さんが微笑みながら手を差し伸べてる。彼女といると本当は苦しいはずなのに、離れられないのはきっと、心のどこかで自分を許してくれる誰かを探してたから。埼玉から神奈川まで出てきたのは過去から逃げ出したかったんじゃなくて、ほんとはあの頃みたいにもう一度誰かと一緒に心から笑ってみたかったから。誰も俺がしたことを知らないこの場所で、俺が壊してしまったものをもう一度大事にしてみたかったから。
恐る恐る手に触れると、ぎゅっと握り返してくれた。それがここにいてもいいんだよって言ってくれてるみたいで嬉しくて泣きそうになるのを必死で堪えた。
大切なものはいつだって手のひらのなかにあったのに自分勝手な欲望に任せて握りつぶしてしまった。そして気付いたら何も残っていなかった。それでも名字さんがそばにいてくれるって言うのなら、神様がもう一回チャンスをくれるというのなら。壊してしまったものの分までずっと一緒に生きていきたい。そうすれば俺はまた心から笑えるような気がするのだ。