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「まず、私とお前で子供を作ります。できればお前似の」


その方がダメージがデカそうだからね。

ドヤる私を余裕たっぷりの“で?”という顔で迎え撃つクレイ。甚だ腹立たしいが一度目を瞑る。余裕でいられるのも今の内だぞコノヤロー。


「お前は犯罪者なのでこれから長ぁーく厳しーい獄中生活でしょう。死刑とかにはゼッタイさせない。最低でも終身刑までもってくから覚悟しとけよ」
「話が脱線しているぞ馬鹿め」
「はいはいそんなに続きが気になるんですねバブちゃんは大人の癖に堪え性の無い男でちゅねぇバブバブ」


流石にここまで幼稚な煽りには引っ掛からないらしい。いや、馬鹿だのアホだのさっきからガキレベルの言い争いしてる自覚はあるけど。頭に血が上って人目があるのにヤバいこと言った自覚はあるけど。ここまで言っちゃうともう死ねばもろとも毒を喰らわば皿までなやけっぱちである。


「お前が惨めに囚人やってる間に私は子供を可愛がります。もう目一杯これでもかと愛情注いでよしよし撫で撫でちゅっちゅするモンペになります」
「なんだ? 私が可愛い盛りの子供に会えなくて一人寂しく獄中で歯噛みするとでも思っているのか? 考えが浅い馬鹿め」
「お前さっきから語尾に馬鹿つけないと気が済まないのか馬鹿」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い馬鹿」
「お前の方が馬鹿だバーカバーカ」


だから、言ってやる。


「生まれてきたのが男の子だった場合、」


人差し指でビシッとガロを指す。


「私のスーパー巧みな話術で明言を避けつつそれとなーくガロが実の父親であると勘違いするように仕向けます」
「俺ェ!?」
「ンなッ」


ガロは素っ頓狂な声で、クレイはあからさまに顔を歪めてほぼ同時に反応した。流石ダンナ、とか茶化すのは後にしてさっさと本題に行くことにする。


「十分に勘違いを擦りこんだと判断した当たりで、今度は息子を連れてお前の面会に行く。“ベイビーちゃん、このおじちゃんはガロのパパなんだよ”さて、息子はお前のことをなんて呼ぶでしょう?」


誰がパパだ、という眉間のシワを察知して私は素早く言葉のナイフを急所に振り下ろした。

ここだッ!!


「“初めまして、おじいちゃんグランパ!”」
「悪魔か貴様ッ!?」


クリティカルヒット! クレイ・フォーサイトは重傷を負った!

どうだこの完璧な作戦。子供嫌いとガロ嫌いを重ね掛けした最高の嫌がらせだ。特にクレイは老け顔の部類に入るし、獄中生活でそこそこストレス溜めてほどよく草臥れて信憑性も増す、はず!


「待て……先ほど男だったら、と言ったな?」


ひとしきりお腹壊した人みたいな唸り声をあげてからやっと復活したらしいクレイ。鋭い目がやや丸まって、心なしか青褪めた顔でそろりと私を見上げている。

ふふふふふふふ……気付いてしまったか。


「女の子だったら、」


この時の私は、クレイが言うところの悪魔みたいな笑みを浮かべていたんだと思う。何故ならクレイの背後に立っているガロと見知らぬ美少年がお化けをみるような目で怯えていたから。

まあ、だからどうしたって話だ。

こちとら三十路のいい歳こいた大人だ。怒れるマッドバーニッシュならぬ怒れるマッドアーティストなのだ。地獄に引きずり込むと決めた大人の本気を舐めないでいただきたい。

すぅ、と吸って、はぁ、と吐いて。喉の調子を整えてから、ミセスの時もかくやと言う涼やかな声を意識してお腹に力を入れた。

食らえッ!


「私のハイパー巧みな話術でいかにガロが素晴らしい男かを幼少期から擦りこみまくり、お前の目の前で“わたし大きくなったらガロと結婚する!”と言わせてやる」
「………………?」
「これで本当にガロのパパになれるね?」
「……っ、ッ!? 〜〜〜〜〜〜ッッ!!!!」


オーバーキルですありがとうございました。

最初は何を言われたのか分かっていなかったクレイ。それが徐々に内容を理解したのか、青かった顔が怒りで真っ赤になり、けれど気分が悪くなったのかまた青くなり、今度は青を通り越して白くなる。最後は怒鳴ろうにも怒鳴る言葉も見つからず、ハクハクと口を開閉させ、ついには憤死した。

身も心も満身創痍の男。腕を組んで見下ろす私。この構図だけで胸の奥にすっと爽やかな風が吹く。

やったぜ。


「俺、そこまでクレイに嫌われてたのか……」
「あっ」


ガロ、巻き込んでごめん……。



***



十年、かぁ。

明るく豊かに賑わうプロメポリスの一角。最近お気に入りのレストラン・ピッツェリアでエスプレッソとティラミスをいただくいつもの午後。程よく騒がしく程よく落ち着く店のテラスでぼぅっと景色を眺める。詳しく言うと、街の中心に聳え立つフォーサイト財団ビルを、だ。

正面のクレイ・フォーサイト像は、いつかの日にガロに作ってあげた粘土のクレイと同じだった。


「あのまま採用する奴があるか」


確かに褒めてくれたけどさ。まさか数年の時間差で形にされるとは思わなかった。自己顕示欲、とは違うんだろうなぁ。財団を盛り立てるためなら自分の顔すら道具の一つってね。

クレイと付き合い始めてもう十年が経っていた。

十年。大学で欝々と腐っていた大人もどきの子供も、いつの間にか立派なダメな大人になってしまった。ミセスの時はともかく、見た目もさほど変わっていない。ダルダルのセーターとジーパン、分厚い前髪と眼鏡のレンズ。適当に結んだ三つ編みは気を付けなければ絡まって痛い。背もたれにかけているトレンチコートはくちゃくちゃ。日常生活すら満足に送れない、ダメな大人だ。


「本当にダメだなぁ」


別にいいか、と思っている自分も。


「んまぁ、ミセスの作品にケチつけるっての?」
「あら、そんなつもりはまったく」
「白々し〜」


ずずず。音を立てて行儀悪くストローを吸う彼女は、私の言葉を別の意味に受け取ったらしい。黒ビキニのトップスに白衣を羽織るファンキーなファッションながらマッドなギークを自称する不思議な人だ。名前も知らないが、たまにこの店で目が合うと何となく世間話をする。私も名乗ってないからおあいこかな。


「同業者の成功は妬ましいものではなくて?」
「見も知らない方のことにまで意識を裂けないわ」
「見も知らない、ねぇ?」
「なにか?」
「いいえ〜なんでもないっす」


彼女はたまに、気付いているのでは、と匂わす発言をする。そのくせ秒速ですっとぼけるから白々しいのはどちらの方だろう。澄ました顔をして渇いた喉をエスプレッソで潤した。苦い。すかさずティラミスを口に詰め込む。うん、ちょうどいい。


『クレイ・フォーサイト司政官は今年度もフォーサイト財団の理事長報酬の30%をバーニッシュ犯罪被害者へ支援金として、』


ビルの巨大スクリーンで毎日見る顔が爽やかに微笑んでいる。大学時代から変わらず……いや、それ以上に。たくさんの人に囲まれて率なく笑みを浮かべるナイスガイは最初から完成し尽くされた外面だった。好かれる術を知っている。実践して、結果を残している。一人アトリエに籠っている私とはまったく違う人間だった。

直接会える機会は減っても、こうやって顔はいつでも見れる。だからか寂しいとか会いたいとかはちっとも思わなかった。

私はやっぱり私が一番で、彼は私の一番じゃない。

時間は無情だ。変わってほしくないことが変わって、変わってほしいところはまったく変わらない。十年来の恋人に対してこんなことを思ってしまう私の方が無情なのか、それとも。


「陰キャには分かんない世界だわ」
「なにそれ」
「いえね、みんなに好かれて羨ましがられる成功者って、生まれつき根っからの陽キャしか無理よねって」
「ほぉーん?」


気の無い返事はいつものこと。私だって話半分でギークなメカメカしい話を聞いているんだからこれもおあいこだ。


「司政官のアレは陽キャっていうか、」


何かを言いかけた口が、突然鳴り響いた端末音で塞がれる。「げ、緊急呼び出し!」大袈裟なほど血相を変え、ストローなしで直接コップの中身のコーラを飲みほした彼女は、代金をテーブルに叩きつけて飛ぶように消えていった。こういうことがたまにあるので、だいたいの身元は分かっているけど、言わないのがマナーだと知らないフリをしている。

遅れること数分。ティラミスの最後の一口をエスプレッソで流し込み、彼女の分と合わせてお会計をする。今日は気分転換がてら非常食の買い出しに来たんだ。缶詰とインスタントコーヒーとゼリー飲料とフルーツと、後とりあえず目に付いたお菓子類でパンパンの重い紙袋を両手いっぱいに抱えて家路に着くことにした。

その道中のこと。


「わあ」


今日はいつもの午後ではなかったらしい。

焦げ臭いなぁ、サイレンがうるさいなぁ、といつもと違う道を遠回りしたのがいけなかったのか。急に目の前に人が降ってきたんだ。

蛍光色の目に痛い色彩。それを纏った男。どこからどう見てもバーニッシュだ。それも、炎上テロリストとして指名手配を受けているマッドバーニッシュの幹部。染めたとは思えない赤いインナーカラーの髪がフワフワ揺れている。あの黒い鎧のような物は来ておらず、黒いレザージャケットの姿でコンクリートの上に倒れ伏している。想像よりもヒョロくてビックリした。

バーニングレスキューか、それともフリーズフォースが出張ってきたのかは分からないが、何らかの戦闘で吹きとばされて来たのは明らかだった。

男はうめき声を上げて怠そうに起き上がった。あれだけ遠くから飛んできたのに、受け身はちゃんと取れていたらしい。バッチリと目が合った瞬間に、俊敏な動作で構えを取った。が、頭がハッキリしないのか軽くよろけて地面に手を付く。

距離にして1m。相手がバーニッシュフレアを放てば声も上げられずに燃えて灰にされる。あの日、父が家を燃やしたように。燃やし損ねられた私に、やっと順番が回ってきたのか。

死にたいわけではない。
……でも、死んでもいい。

あの時死ぬはずだった私だから、ここで死んでもおかしくはない。そういう理屈がずっと私の中に燻ぶっていたことを、この瞬間に理解してしまった。

ああ、そういえば、一つだけ気になることが。


「バーニッシュって燃やす物によって何か違うんですか?」
「……あァ?」
「例えば建物は建物でも製薬企業は火が燃え上がって楽しいとか、良い匂いとか……なんか、そういう感覚の違いがあるのかなって」


死んでもいいか、と自暴自棄になったら聞きたかったことが全部口から出ていく。バーニッシュの知り合いなんかいないし、クレイに聞くのもなんか嫌だし。今まで触れられなかった話題を話せることでちょっとテンションがおかしくなっていたかもしれない。

上着のポケットに忍ばせていた薄い文庫本を取り出して勢いよく彼に渡す。目を白黒させたまま、勢いに押されて手に取ったバーニッシュの彼が、思ったより普通の若者に見えた。


「あ、コレ燃やした感想とか聞きたいです」
「んだコレ」
「私が自費出版した詩集」


『……………………自費出版するのは勝手だが、決して、絶対に、ミセスの名義で出さないでくれ。契約書にも追記しておく』ガロに纏わり付かれた後のような顔でクレイに念を押された曰く付きの代物だ。失礼よね。私は大真面目なのに、渡した相手にはタチの悪いジョークだと笑われ、マジだと知ってから真顔で黙り込む。今のところ褒められた記憶がない。その意図もないのにシュルレアリズムは褒め言葉ではないでしょう?


「それともご飯の方が分かりやすいかしら。炎に味覚ってあります?」


地面に転がった缶詰を紙袋に戻して全部渡す。それも律儀に受け取って、余計に頭が痛そうな顔をする彼。やっぱり頭を打ったのかしら。バーニッシュでも頭は重要な部位らしい。


「テメェ、何を企んでる」
「うん? うーん、知的好奇心を満たしたい、と企んでいる?」
「……だからバーニッシュを切り刻むのか」
「はい?」
「財団のクズどもがッ」


ぶわり。熱風に厚い前髪が翻る。蛍光ピンクに黄緑の発光体がチカチカと踊って、


「マッドバーニッシュを発見! 発砲します!」


発砲音。同時に熱気を喰い尽くす冷気が翻った前髪を元に戻した。

顔面間近に伸ばされた手が引っ込められて舌打ち一つ。「ゲーラ! 無事か!?」「おぅッ!」遠くからの呼びかけに応えてバーニッシュの彼は立ち上がる。再び黒い鎧を纏い、同じく黒いバギーに跨って轟音と共に消えてしまった。

バーニッシュフレアって乗り物にもなるんだ。


「バーニングレスキューです! 大丈夫ですか!」


蛍光色の名残があるコンクリートを見つめていると、背後から先ほどの声が近付いて来た。「立てますか」目の前に手を差し出されそっと握ろうとして、自分の手が震えていることに気が付く。


「あ、あれ……?」


なんで? 自分でもびっくりして、思わず地面に手を付く。そのまま力を入れようとしても、全然動かなくて。それどころかずっと座っていたみたいにお尻が地面とくっついて動かない。腰が抜けてしまったのだと時間差で理解が追い付く。

レスキューの彼も察してくれて、腰を抱えるように私を立たせてくれた。


「ここは危険です。安全地帯まで移動しましょう。失礼しますね」
「お手数おかけします」
「これも仕事の内ですよ」


眼鏡越しに目を細め安心させようとする態度は流石プロだと思った。ほとんど寄りかかるように歩いて、バーニングレスキューの車両が密集しているところまでやって来る。すると見知った顔があって、お互いに「あっ」と言う顔をした。いや、向こうはサングラスで少し読みづらいけれど。耳元に当てていた端末を外して大股でこちらまで歩いて来る。


「ミス・アーティスト! あなたも巻き込まれていらしたんですね。ご無事ですか」
「大丈夫ですミスター。こちらの彼に助けていただいて事無きを得ました」
「それは良かった。レミー、よくやってくれた」
「当然のことをしたまでです」
「ミス、こちらでお怪我を見ましょう」
「いえ、尻もちをついただけですから」
「手のひらを擦っている。消毒をしましょう」


レミーと呼ばれた彼から私を引き継いで救護しているところまで連れて行ってくれるらしい。隊長自らとは手厚いにもほどがある。


「筆を持つ手に傷がついたら心配もします。私はあなたの作品のファンですから」
「まあ、心配なのは私の作品だけ?」
「失礼しました、あなたという人間のファンです」
「意地悪にマジレスしないでください」
「フッ、重ね重ね失礼しました」


真面目でお茶目なミスター・イグニス・エクスは個展にたびたび顔を出す常連さんだ。たまに作品も買ってくれるお得意様でもある。大人の余裕がある態度が素敵で、これくらいクレイも紳士だったらなぁとたまに思ってしまう。いや、こんだけ紳士的だとビジネス感があって肩が凝るな。やっぱなし。


「今日は災難でしたね、事情聴取後に家の近くまでお送りしましょう」
「いいえ、一人でだいじょう、」
「お送りしましょう」


圧がすごい。

コクコク頷くとミスター・イグニスも満足そうに深く頷いた。それから家に着いたのは夜。非常食の買い出しだったのに手ぶらで帰ってきたことに気付いたのは、台所で冷蔵庫を開けた時だった。


「か、からっぽ……」


この時間、開いてる店はあったっけ。パスタの束とケチャップを並べて溜息が出た。これはナポリタンの名を返上してケチャップスパゲティを作るしか……。

ガックリと肩を落としてシンクに付いた手を見る。もう震えていない、見慣れた自分の手。これがどうしてあんなに怯えていたのか分からない。

理性は死んでもいいと思ったくせに、本能は生き物らしく反抗したのか。

変わったのか。変わらなかったのか。

息を吸って、吐いて。項垂れていた頭をゆっくり上げる。こういうぐだぐだな思考は作品にぶつけるに限る。全部吐き出して塗り固めてしまえば、もう何にも考えなくていい。それでいい。気持ちを切り替えるためにも、パスタを茹でるために鍋に水を張る。

その最中、玄関から鍵を開ける音が響いた。

こういうことをするのは飯をたかりに来たクレイしかいない。というかここに尋ねてくるのはクレイかガロか業者しかいないし。この時間はどう考えてもクレイ。残念でしたぁ、今晩は超絶ひもじいディナーですぅ。一切振り向かずに軽口の一つでも叩いてやろうと、蛇口の水を止める。重たくなった鍋をコンロに持って行こうとして、背後からの衝撃で全部シンクにぶちまけてしまった。


「ちょっと、なに急に」
「…………」
「クレイ?」
「…………」


背後から清涼感の強いコロンに包まれる。学生時代と比べるまでもなくゴツイ腕が私の腰に強く巻きついた。左腕だから、義手であるはずなのに。機械の発熱にしては妙に生々しい温度。名を呼びかけると余計に力が入って、この男は私をレモンのように潰して絞る気かと戦慄した。

ピッタリと張り付いた厚い筋肉。存在を確かめるように私の頭に頬を擦りつける彼。吐息にも似た囁き。空気に溶け込んでしまうほどの小声でも、はっきりと聞き取れた。

聞き取れて、しまった。


「マッドバーニッシュごときに燃やされるくらいなら、」


“──私が。”


何かが焦げる匂い。
蛍光色の鱗粉。
左腕の義手が、義手のはずのそれが、スーツのジャケットを通してなお黒く底光りしている。

まるでバーニッシュが作り出す鎧のようで。



「あつい」



パッと弾かれたように離れた腕。途端に涼しくなった背中には汗が薄っすら滲む。表情は予想外に無表情だった。そこにできるだけ呆れた雰囲気が乗るように表情を動かす。こんな時くらいはミセスで培った処世術を活用しなければ。せめて今だけは、演技だとバレてほしくない……必死だった。


「暑苦しいのよ、急に抱きしめないで」
「っ、すまない。君が炎上テロリストと遭遇したと聞いて、心配したんだ」


これくらいで謝るのなんてクレイらしくない。心配を口にするのは、もっとらしくない。顔だけ振り向いたその先で、いつもの胡散臭いポーカーフェイスを被ったクレイが自然な動作で左腕を後ろに下げた。


「別にかすり傷だし、作業の進行にはなんの問題もなくてよ」
「それを聞いて安心した」
「露骨すぎやしませんか」
「ビジネスとプライベートは分けるべきだよ、ミセス」
「へえ? じゃあ、ミスの方には?」
「……安心した」


顔に続いて体も後ろに向きを変えると、クレイは正面から私を抱きしめた。右腕でそっと腰を抱き、左腕はシンクに付いて、決して私に触れないように。私はクレイの背中の凹凸を撫でながら、自然と相手の動作を甘受する姿勢を取っていた。言葉に嘘はない。彼は私の無事を本当に喜んでいる。なのに、優しすぎるくらいに力が入っていない右腕が、少し身じろぎすればすぐに外れてしまいそうで……、

私は一生、彼に会えない。


「私のいないところで傷付かないでくれ」


ゾッとする予感だった。


「ねえ、クレイ」


そんなの、ずるい。

クレイの一番にはしてくれないのに。私の一番にしてはいけないのに。こんなにも簡単に距離を詰めて、熱を分け合っても、心にはずっと氷の膜が張り巡らされている。ずるい。ずるいずるい。

私に何ができるだろう。このずるい男に、バーニッシュであるクレイ・フォーサイトに、私は──。


「子供がほしい」



***



自分の名前を呼ばれるのが嫌いだった。

名前が嫌いなんじゃない。自分の名前を呼ばれると、相手がどんな顔をしているか伺ってしまうのが、たまらなく嫌だった。……父を思い出して、行き所のない感情が溢れ出してしまうから。

父は私を愛してはいなかった。母を愛し、母の願いを聞くために私を作って、母に似た名を私につけた。そして最愛の母は早くに死んでしまった。母に似た名で──父そっくりの私を残して。

今さら愛してほしかっただなんてクサいことは言わない。養育費を惜しまず大学まで行かせてくれた時点で十分に父親の責任は果たしていた。ただ、私の名を呼ぶときの顔が嫌いだった。母の面影を探して、でも見つからなくて、あからさまにガッカリする男が。二番目にすらなれなかった私が、嫌いだった。

誰も誰かの一番にしてくれないなら、私が私を一番にするしかない。

そう達観し尽した大学生の私の前に、クレイは現れたのだ。


「失敗した……」


爽やかな朝に乱れたシーツ。既にコーヒーを一杯淹れて出勤したクレイはこの場にいない。冷たい空気から逃げるように毛布を被ってしみじみとしてしまう。こういう一人の朝にはもう慣れ切っていた。

あれからクレイは私を抱く頻度が増えた。忙しい時間の合間を縫ってやって来て、それが目的とばかりに抱く。恐ろしく優しく抱く。結婚初夜のお姫様扱いかってくらい気を遣って腰を押し付けてくる。そのくせスキンは一度も使わないのだから子供を作る気はちゃんとあるらしい。それにしたって今までと落差が酷い。

その生活が半年。いわゆる危険日にもセックスしたってのに一向に妊娠検査薬は陽性を示さない。もしかして私って不妊症だったのか。生理不順気味だし、今までの不摂生が出てるのか。気持ち生活サイクルを朝方に変えてみたり散歩の頻度を増やしたり。産婦人科では「ピル飲んでる?」と全く覚えのないことを聞かれたり。あれやこれやと考えて実行してみても生理不順は改善されないし妊娠の兆しはまったく見えなかった。


「やっぱり、動機が不純だったから」


子供ができればクレイも変わるかもしれない、なんて。

彼の左腕に燃やされそうになったあの時、私は怖かった。焦げ臭くて、熱くて、死んでしまうと思った。なのに、その後の右腕が力なく腰に回ってる時の方が、もっと怖かった。私のことなんていつでも切り離せる。別れてもいいと思っているようで、『安心した』という言葉が嘘ではない分、余計に恐ろしかったんだ。

大事なものを大事なまま捨ててしまうクレイに、変わってほしかった。

捨てられない存在になりたかった。重い存在に、それこそもう一人分くらい重く、手放すには惜しい存在に。


『子供がほしい』


思いつきで口に出して、半年もずっと言い続けている。私は父と同じ道を辿ろうとしている。それで不幸になるのは生まれてくる子供なのに。

妙にだるい体を無理やり起こしてベッドサイドのコーヒーを一口。ついさっき出ていったばかりなのか、まだ熱いコーヒーは体を温めてくれる。それにしても運動した次の日とはいえ尋常じゃなくだるい。最近疲れが中々取れなくって、胸焼けがして、ちょっと頭もぼんやり、する、し……?

………………まさか。

バッと毛布を蹴飛ばしてシンクに駆け寄り、コーヒーをぶちまける。マグの底には、溶け損ねた白い粉が少量こびりついていた。──アフターピル。すぐに思い至って、嘘、いつから、クレイ……ああ、そう。

心が氷のように冷えていく。


「嫌なら嫌って言えよ」


嘘をつくくらいなら初めから本音をぶつけてくる男だった、はずだ。ぶつけることすら面倒になったのか。

蛇口を捻る。水が出る。マグの中身を洗い流す。コーヒーの残りも、ピルの白も、私の涙も。


「いらないなら……っ」


全部、流れてしまえ。



***



市街地の中心で咆哮を上げる火龍。見たこともない大きさのバーニッシュフレアが街を燃やしながら中心地へ飛んで行く。目指す場所は、フォーサイト財団ビル。旧市街地のここから見ればこそ、その目的地は分かりやすかった。

クレイがここに来なくなって一週間ほど経つ。私がアフターピルの存在に気付いたのもそのくらいの時期。まるでなんでもお見通しみたいで笑いたくなった。もう、私は捨てられてしまったのかもしれない。


「炎の龍は邪悪の象徴ってね」


水だったら神様なのに。いつかに見た東洋の資料を頭の中に思い浮かべた。あれってどこに行ったっけ。ガロに貸したままかな?

遥か昔、ギリシャ神話のプロメテウスはゼウスから神の火を奪い寒さに凍える人間に与えた。結果、人間は生活の豊かさと、恐ろしい武器を手に入れた。その末に起こった戦争は、これほどの悲惨さだったのだろうか。

邪悪は街を焼き、夜空を舐め、正義の象徴を呑み込もうと樹を登る。巻きついて、へし折って、中身を捻り出そう、と、


「?」


部屋の隅っこに放置していた望遠鏡を引っ張り出す。財団ビルを登り切った火龍が突然、力を溜めるように制止したから。一番精度の高いレンズに変えて覗き込むと、財団ビルのテッペンに見たことのある姿が見えた。

クレイだ。

なんであんなところに、とか。もうすぐ光線が直撃する、とか。考える頭とは裏腹に体は勝手に動き出す。車のキーを引っ掴んで、作業用のエプロンを着たまま部屋を出た。

今さら行ったところで間に合わない。光線は何秒と経たず放たれる。分かっている。十分、十分すぎるほど理解している。それでも動いてしまうのが私の体だった。私だった。恨み言の一つでも吐いてやらなければやってられない。たとえ消し炭になったとしても、炭どころか灰の一片すら残らなかったとしても。最後にあの男に会わなければ、生きていけない。あの男がいなければ、生きていけない。

あの男が私の一番ではないと、確信できるまでは、せめて。


「はっ、ぁ、つ、うぐぅ、あぁ!」


暴動にも等しいパニックに呑まれ、車を捨て、走って、走って。


「乗せて!! 乗せなさい、アイナ・アルデビット!!」


光線を撃たずにどこかへ消えた龍。意味の分からないアナウンスや映画の見過ぎのようなデマ、罵声、泣き声。人々の不安を掻き分け、座り込んで、また走って。何時間も経って見つけたのがエリスの妹が乗るスカイミス。要救助者のフリをして近付き、無理やりにコックピットに乗り込んで。

私はやっと、あの男の元にたどり着いた。



「君の一番になりたかった」



────クソッタレ。





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