90G4M-U



「答えろよ、犯罪者」


“犯罪者”。

意識して使った酷い罵倒。それすら眉を軽く上げるだけの平常通りに受け止めたクレイ。その怪訝そうな顔は何度だって見たことがある。が、ここまで腹立たしいと思ったのは彼と付き合い続けて初めての経験だった。


「捨てられたんだと思った」


誰だ。なんだその、信じられないという顔は。

たったの一言で、クレイは簡単に表情を崩した。その事実に一度治まったむかっ腹がまたぶり返す。さっき怒って見せたのはあくまでポーズのつもりだったのに、ヒリヒリする喉のことなんて忘れて恨み言が弾丸のように飛び出していった。


「仕事が忙しくて全然会えない。会ったとしても上の空。半年経っても妊娠しないし、産婦人科行ったら医者に薬飲んでるだろって。試しにあなたが淹れたコーヒーひっくり返したら底に変なの溜まってるし。挙げ句の果てには恋人置いて他の惑星にワープ! 清々しいわホント」


私はクレイが“アレ”を言うまで、この恋人という関係の終わりが来たのだと確信していた。地球は終わりだとか、別の惑星でやり直すとか。訳が分からない情報が錯綜しても、クレイなら自分が信じたことを突き進んでいくんだろうと。司政官なんて大仰な地位についても大学時代の傲慢なまでの正しさはそのまま変わらない。彼が信じた王道に私が不必要でも『ああそうですか』と納得できた。

私たちは自分が一番大事で、お互いを一番にはできないのだから。

なのに、


「ビアルか、エリスとデキてた方がまだマシだった」


この男は、よりによって“君の一番になりたい”などとほざきやがったのだ。


「よくも、私から逃げたな」



***



絵描きの道に入ってから一年目。芸術家が大成するにはパトロンの存在が必要不可欠なのだと痛感する。

現代において紙の芸術は廃れつつある。世界大炎上により人類の半数が死滅した過程で、多くの歴史的建造物や芸術的遺産が失われた。そのことを嘆く暇など当時の人々にはなかっただろう。そうやって惨たらしく燃やされるのは明日は我が身かもしれないのだから。

その点ではまだプロメポリスはマシだった。芸術を楽しむ余裕があるのだから。絵を買って飾る家があり、良し悪しを言い合える隣人がいる。それが贅沢ではなく当たり前になるのはいつになるだろう。そうでなくともデジタル絵の方が主流になって、家に飾るなら端末のホログラムを利用する人が増えているっていうのに。

積み重なる習作。賞は獲れても売れない作品。そのわりに焦らず楽観視してしまう自分の危機感の無さ。画材を買うお金も切り詰めだした今日この頃。ヤツは爽やかな笑みを引っ提げて久しぶりにやって来た。


「では頼んだ」


クレイ・フォーサイトの嫌がることを脳内インターネットで検索にかける。数秒。ヒット数は片手で収まるくらいだった。悔しい。


「こ、こんにちは」
「……こんにちは」


なーにが“頼んだ”よ。ここは託児所じゃないんですけど。

青い髪が面白い跳ね方をしている子供。クレイが左腕を犠牲にして助けたという男の子は確か……ガロと言ったか。落ち着きなくキョロキョロと視線を彷徨わせている。流石に子供に当たるほど大人げなくはないので渋々とリビングに誘導した。


「今日はクレイと何する予定だったの?」
「射撃訓練場。本物の瞬間凍結弾、見せてもらえるって」
「ああ……」


あの男、子供との外出と仕事をダブルブッキングするとは。しかも仕事を優先するときた。いや、する男だとは思ってましたけども。

あからさまにしょんぼりしている男の子を放置しておくのも忍びなく、仕方ないので一緒に粘土遊びをすることにした。


「何作ってるの?」
「クレイ!」


鶏マスクマンじゃなかった。

妙にムキムキした体が明らかにマスコットから外れてるので、てっきりそういうプロレスラーが学校で流行っているのかと。そうか、その鶏冠みたいなのクレイの前髪か。そうか、そうか……。


「クレイが好きなのね」
「うん、大好き! だって俺のヒーローだもん!」


でもクレイは君のこと嫌いだと思うよ。

一瞬頭に浮かんだソレはもちろん口にしない。傷付けると分かっていて言葉を投げかけるのはナイフで切り付けるようなものだ。子供を悪意で切り刻むような猟奇的な趣味はない。

さっさと玄関から出ていった今日のクレイを思い浮かべる。

私にガロを押し付けた時のクレイは、いつもの爽やかさの中にほんのりと別の溌剌さが滲んでいた。あれは安堵だ。多分ダブルブッキングしたのは本当に偶然なんだろうけど、『良かった』とデカデカ顔に書いてあった。なら最初から出かける約束なんかしなければいいのに。子供に言われた時点で断れなくとも、わざと予定を入れてキャンセルするくらいのズルさは持っていると思っていた。それは彼の信条に反するのだろうか。変なところで四角四面な人間だ。

クレイに疎まれている、クレイを慕うガロ。事実を飲み込んだはずの口は、何故だかしっかりと幼気な子供の夢を壊したような後味の悪さを覚えていた。いくら私だってある程度の良心というものを持っているわけで。


「ほら、クレイ」
「クレイだ! かっこいー! すっげー!」


手慰みに粘土をコネコネ。ヘラで細かく成形。子供が思うスーパーヒーローに扮したクレイは、予想以上に大好評だった。


「さて、もうすぐランチの時間だけれどお腹は空いてない? パンケーキでも焼きましょうか?」
「食べる!」


元気なお返事にさらに罪悪感を覚えながらキッチンへ。

生憎と付け合わせはウィンナーコーヒー用のクリームだけしかなかったが、ガロは文句も言わず完食した。ほっぺに付いたクリームを拭ってやると可愛らしい「 Thanks!!」が返ってくる。子供のあどけなさとは侮れない。大きな子供を知っている分、余計に。

そうだね、あの男もある意味大きな子供みたいなものだ。子供が子供に同族嫌悪を抱くのも仕方ない。正義感と苦手意識を天秤にかけたら前者に傾く人間だ。子供は嫌いだが人命が関わるのなら話は別だろうし、天涯孤独になった子供を放置するのは正義感と外聞的にできなかったんだ。あの爽やかな笑みと口八丁でどうにか躱せただろうに。やっぱり変なところで四角四面だ。


「姉ちゃんの名前はなんていうんだ?」
「さあね、姉ちゃんて呼べばいいんじゃない?」
「なんだソレ! 俺だけ名前教えてフコーヘーじゃんか!」
「大人はいつだって不公平なのよ。君が不公平な大人になったら教えるかもね」
「ちぇー」


そんな会話をしたランチを終え、今度はお絵描き。きっちり金髪のスーパーマンを書き切ってからガロは養護施設に帰っていった。クレイが呼んだらしいタクシーに乗って。


「ずいぶん懐かれたな」


そして子供が帰ったタイミングでやって来るヒーロー殿。

画用紙の隅っこに「絶対に名前聞き出してやるからな!」のメッセージ。それを見下ろしたクレイが皮肉交じりに呟いた。


「あなたは嫌われたんじゃない?」
「だと良いんだが」


それを言ってしまうのか。

シラッとした目を向けると何てことなさそうに肩を竦めて見せるクレイ。自社製の義手がついてトレーニングが捗るのか、以前よりも逞しくなった胸筋が余計に自信がある人間を演出している。実際あるのだから彼らしいといえばそうなのだが。


「君の作品はもともとハイクオリティではあったが、他者に明確な注文を付けられると極端に跳ね上がるな」


あからさまに話題を逸らしたな。


「どういう意味で?」
「オーダー制にした方が売れる」
「貴重なご意見ありがたく」
「いいや、こればかりはジョークで言ってるんじゃない」


顎を撫でながらまだ片付けていなかった粘土を見るクレイ。薄っすらと目を開けて矯めつ眇めつ。しげしげと見る様子が珍しく、本当に感心していることが分かってしまった。


「ガロがね、あなたのことヒーローだって言うからおかしくなっちゃって。ヒーローのクレイってどういう感じか形にしてみたの」
「……それで?」
「あなたが感心したのは私の技術じゃなくて子供の憧景にかもね、って話」


おいおいこれで不機嫌になるのかよ。

完全なる真顔になったクレイには流石にびっくりした。そんなに子供が嫌いだったとは。今度からこの話題は自重しようと心に決める。そんな私の顔の前にクレイが書類ケースを掲げた。


「今日は君にビジネスの話をしに来たんだ」


ちなみにこれは私がフォーサイト社と契約を結ぶ発端になった話だ。



***



一つ、フォーサイト社の依頼を優先すること。
二つ、著作権は私が持つこと。
三つ、私の名前をフォーサイト社の所属とすること。
四つ、必要に応じて出向すること。

以下細々と項目が続き、あと自由。契約料は固定で作品ごとにボーナスが支給される。なんだこりゃ。

私は法律には詳しくないけれど、不平等さは感じられないというか、搾取はされていないとは思う。たぶん。契約料も月収として支払われるし、今やってるバイトを全部辞めても少しだけお釣りがくる額だ。実質フォーサイト社に個人事業主として派遣に行くようなもの? 分からない。

まあ、あの男はこんな一介のフリーターもどきに詐欺するような暇人でもないだろう。サラサラっとサインして晴れて掛け持ちのバイトを辞めた。

のが二年前。


「嵌められた〜〜ッ!!」


美味い話には裏があることをもっと真剣に考えておくべきだった。


「お静かにミセス。就業時間中です」
「私だって就業してます」


冷静に窘められて思わずスンとした顔をしてしまう。今朝がた紹介されたばかりの敏腕秘書、ミス・ビアルはクールな印象をそのままに淡々と私の隣を歩いている。

事の発端はあれだ。例の契約の四つ目。呼ばれたら来いよってやつ。それはここ二年で主に作品制作に関わる取材や現場での展示指示、どうしても公の場でコメントをしなければならない時を除いて必要最低限しかなかった。それが今日、同じような内容かとノコノコ会社の方に行ったら身柄を確保され、バケツリレーの如くクレイからビアルに押し付けられたのだ。

うん、本当にバケツリレーだった。まず連れて行かれた全身エステで浮腫み取りと骨盤矯正、顔は産毛剃りや眉毛カットに始まりこちらも浮腫み取りにリンパマッサージ、何か良く分らないパックをされて今世紀最大の小手先の美肌を手に入れた。

この時点でかなりヘトヘトだったのに、次に連れて行かれたのはヘアサロン。長年自分で切ってた髪をプロが真顔でツルサラストレートに整えて毛先だけカット。おでこをかき上げるスタイルにしたかと思えばメイクさんによる整形メイクだ。ついでに爪も磨かれてペッカペカなネイルが施された。これ料理しても大丈夫なやつ? 私心配です。

ここでやっと終わった……わけではなく、今度はどこぞのブティックでイブニングドレスの試着会。面倒なドレスを着て脱いでビアルと店員さんの真顔に晒されて、あまり胸元が開いていないシンプルなイブニングドレスと繊細な透け透けストール、華奢なヒールを履いた状態で本社の廊下を歩き、朝ぶりにクレイと再会したのだった。


「よくやったビアル君」
「ありがとうございます」


私には何かないんかい。……ないんだろうな、だって私座ってただけだし。

こんな人体改造して何をさせるつもりか、ってのは予想がついている。ドレスを着せられたあたりでもう疑惑はとっくに確信に変わっていた。


「政界進出おめでとうございます理事長」
「ハハ! 心にもない祝辞をありがとう、ミセス・フォーサイト」


面の皮が厚い。確実にピザ生地より厚い。

ミセス・フォーサイトというのは私のフォーサイト社でのニックネームだった。私は以前から自分の絵のサインに本名を描きたくなくてMissと描いていた。それをもじってフォーサイト社の依頼ですというのを分かりやすくするための新しい雅号。社内でもニックネームとしてここ二年で浸透してしまった。提案したのは……クレイだ。

そのクレイは最近、手広く広げたフォーサイト社を財団化させて理事長の座に就いた。そして、政治家になるらしい。

この男は契約の時点で政界進出する気満々で、そのパートナー役に私を使い回すために二年かけて根回しをしていたんだ。あの契約料は政治家のパートナー料も入っている、と。

まんまと嵌められた事実が疲れ切った肩に重くのしかかってくる。


「君が隣にいると助かるよ」
「はいはい」
「ミセス、はいは一回で」
「あなたは私のなんなの? マナー講師?」
「フォーサイト理事長の秘書ですわ。ミセスがしっかりしなければ理事長の名に傷が付きます」
「流石ビアル君。よくできた秘書だ」
「もったいないお言葉です」
「なんなのコレ」
「ミセス」
「はい」


たった一日でビアルに頭が上がらなくなるとはこれいかに。クレイよりも怖い。怒らせたらダメな気配を感じる。


「時間だ。パートナー役しっかり頼むよ、ミセス・フォーサイト」
「契約料分きっちり就業しますわ、理事長」


白いスーツに青いネクタイ。淡い金髪も相まって爽やかな印象のクレイ。対する私は同じような色味のドレスとストールなのに黒髪と合わさると氷のような青に見えてしまう。二人並んでバランスが取れているなら文句はないのだけれど。

それから5時間。私は笑顔を浮かべるだけの人形を演じるハメになったのだった。


「笑いすぎて表情筋がおかしい」


腰を抱かれたまま、ほとんど胸筋に頭を預ける形でなんとか立っている。本当に笑ってるだけだったのに、終わってみると一日の疲れがドッと出た。

今日のパーティに出てみて分かったことだが、パートナーが芸術方面で秀でていると相手の覚えも目出度いことがよく分かった。単純に「ああ、奥さんがピアニストの」「モデルの」「医者の」とか思い出すヒントにもなるし、運良くファンがいて最初から好印象になることも少なからずあった。なるほど意外と私の価値は高かったらしい。

二年前というより大学生のお付き合いする段階から仕組まれていたのかと思うほどしっかり利用されている現実。面白くないような、いっそ清々しいような。


「私、今どんな顔をしている? モダンアートみたいになっていない?」
「いつも通りの眠そうな君だよ」
「眠そうなのは生まれつきよ」
「口の返しは達者だな。元気そうで何より」
「このヤロっ」


「えい、えい、」八つ当たりに自慢の胸筋に指をぽすぽす。柔らかく沈んですぐ戻る弾力で遊んでいると、「くぁ……っやめろ!」今なんか喘ぎましたかあなた。喘ぎましたよね? ねえねえ。

乳首当てゲームの火蓋が静かに切って落とされ……ようとしたその時、エレベーターが目的の階に着いたことを知らせた。えー。


「その指を下げろ。せっかく君のために用意したというのに、ムードが台無しじゃないか」
「私のためって、何かプレゼントでも? ご機嫌取り?」
「減らず口は実物を見てからにしてくれたまえ」


そう言うか言わないかのうちに腰の腕がグッと盛り上がる。そのまま軽々と私を持ち上げて、膝裏を左腕が支えると、紛うことなきお姫様抱っこになった。「うぇ、ええ?」「しっかり首に掴まれ。安定しない」いやいやいやいや恐ろしいほど安定感のある筋肉ですが。

そろりとクレイの太い首に腕を回す。するとやや揺すってポジショニングが右腕に腰掛ける形になった。やっぱり安定感が異常。恐ろしやデスクワークの筋肉。

ちゃんとしがみついたのを確認したクレイが大股でズンズンと進んでいく。エレベーターホールから廊下を通りとある一室でカードキーを翳す。扉が開いてもそのままの勢いで豪奢な内装の中を進み続け、一面ガラス張りの壁にたどり着いた。



「これが私と君が住むプロメポリスだよ」



──美しい、夜景だった。


「あっ、おい!」クレイの首から手を離してペタリと直にガラスに手をつく。鼻がくっつくほど顔を寄せて見た景色は、人の営みが寄り集まってできている現実を幻想的な宝物に仕立て上げていた。人が生活しているから電気がつく。遥か昔、人間は火を手に入れたことで夜の闇を克服した。そして火が再び人間の手から離れた今、科学の発展が人の生活に深く根付いている。

この光の群集には、人の温かみがあった。
人が生きている世界だった。


「きれい」


ほぅ、と溜息を吐くとガラスが白く曇る。けれどそれも気にならないほど。街の中心から徐々に疎らになって、遠くの荒野で真っ暗になる。巨大な光のグラデーションを楽しみ続けた。


「プロメポリスの中心にあって、この夜景が観れるのはここしかなくてね。君が気に入るか不安だった。杞憂で良かったよ」
「あなたでも不安に思うことがあるのね」
「こればかりは君の趣味嗜好の話だ。それ以外なら及第点はくだらない成果を出せるのだが」
「嫌味ね、理事長はそんなことを言わないくせに」
「君には今、私がどう見えている?」


ガラスに寄りかかっていた体に圧迫感が増す。夜景から目を離すと、私をガラスに押し付けるようにクレイが身を寄せていた。

アルコールと、整髪料と、香水と、汗と、私と、クレイの匂い。鼻の先同士がくっつきそうなほど至近距離で、私たちは見つめ合った。


「フォーサイト財団の理事長と、こんなことをするのか?」


今、私はクレイの右腕に座っているから、いつもよりもずっと高い位置から彼を見下ろしている。薄っすらと開いた目の隙間。覗いた赤い瞳は、相変わらず優しさのカケラもないような暴力的な色をしている。


「こんなおっかない顔、理事長はしないわね」


クレイの肩書きが大学生であろうと、社長であろうと。理事長でも政治家でも。クレイは苛烈で、傲慢で、我が強くて、嫌味な男だ。

そうじゃなきゃ、私はこんなことをしようとは思わない。


「ありがとう……クレイ」


誰かの名前を呼ぶのは苦手だった。
でも、今は、

唇の震えを抑えつけるような口づけ。薄い皮膚に柔らかく触れるだけのソレは、離れようとした瞬間に厚い舌でねぶられる。すっかりグロスが舐め取られて、彼には不似合いなピンクが移ってしまった。

大人しく唇を舐めていた舌が早急に口内に挿し入れられる。私たちはどうしてこんなことをしているのか、この行為に何の意味があるのか。愛情表現とも性的衝動とも取れる曖昧な境目を、ぐちゃぐちゃに乱して分からなくなるほど。私たちは溶け合った。

屁理屈も嫌味も減らず口も悪態も、立場も衣服も明日の予定も、何もかもを取っ払って、何も考えずに触れ合って。自分が一番大事な私たちは、自分の欲に忠実なイキモノに成り果てる。

言葉なんていらない。

私が間違ったのは、きっとこの時からだった。







「なにこれ」


ゴシップ誌の一面にデカデカと載ったソレ。見つけた瞬間すかさずクレイに鬼電してしまった。


『フォーサイト財団理事長、恋人との甘いひととき! 某高級ホテルの廊下で人目も気にせずお姫様抱っこ! 授かり婚も時間の問題か!?』


なにこれ。いや本当になにこれ。

電話かけまくっても全く出ないクレイにイライラしていると、ピコンとパソコンの方に一通のメールが届く。反射で開いたそれはクレイからので、


『騒ぐなパフォーマンスだ』


…………つまり? あそこにパパラッチがいたのをクレイは知っていたわけで? それを放置して? 見せつけるために? あんな、あんな恥ずかしいことを……?


「……クレイ・フォーサイトォッ!!!!」


小汚い作業部屋に血反吐を吐くような叫びが響き渡った。



***



「よくも、私から逃げたな」


彼女がこんなにも怒るところを初めて見た。

知り合った年数は長い。それこそクレイの次に長い。が、会った回数はそれほど多くはない。年に数回、自らの足で会いに行かなければ彼女と話すことは叶わなかった。

ガロにとって、彼女は何だったのだろう。

クレイの友人? 知り合いのお姉さん? 母親みたいな人? どれもしっくりこない。彼女といる時クレイの話題はあまり聞かなかった。弟のような親愛を向けられた覚えはない。母親らしいことは、何一つされなかった。

何せガロは、彼女の名前すら知らないのだから。

バーニングレスキューに入ることが決まった日の夕方だった。報告しようとあの作業部屋に押しかけると、彼女はいつも通りの態度でガロを招き入れた。『パンケーキでも焼こうか?』これが彼女なりの挨拶で、ジョークであることをガロは心得ている。

そういえばハイスクールの友人が祖母の家を訪ねるといつも子供の頃の好物を作って出されると言っていた。すると、彼女のパンケーキはそういう類のものなのだろうか。ばあちゃん。口から出ていこうとした失礼な単語を慌てて飲み込んで、当初の目的を果たそうと口を開いた。

作業部屋には、ギリギリ扉を潜れる程度の大きな絵があった。描きかけらしく、ガロを招き入れてすぐに体全体を覆うエプロンを着用する彼女。筆や鉛筆、粘土や、針金。とにかく何かの画材で作品を作っている彼女を眺めながら会話したり、彼女のコレクションの画集を見るのがガロの楽しみだった。

今日も古い画集(ウキヨエというらしい)をパラパラと見ながら就職の報告をする。『ふぅん。それ、クレイはなんて?』『推薦してくれるってさ』『へぇ、おめでとう』気のない返事は通常運転だ。だが、何か、何か引っかかるものがあって、ガロは一歩踏み込んだ。


『そろそろアンタの名前、教えてくれよ』
『まだだめ』
『なんでだよ、俺はもう働く大人に仲間入りしたんだぜ?』
『不公平な大人じゃないでしょう』
『はあ? そんなこと言ったら、じゃあなんでダンナはアンタの名前知っているんだよ。それこそダンナは公平な大人の男だろ』
『……公平? 本気で言ってる?』


急に振り返った彼女は、眼鏡の下で本当に驚いているようだった。


『公平な人間が司政官なんてやってられないでしょ』
『? どういう意味だ?』
『不公平なことを知らない人間は公平なんて目指せないの』
『????』


彼女はよく難しい話をした。大人になったら分かるだろうと思っていたが、ガロは未だに分からないことだらけだ。


『アンタの話は難しい。学者先生の話でも聞いている気分だ』
『芸術家っていうのは哲学者みたいなものよ。無い物をあるように作るんですもの』
『哲学ねぇ。俺にはまったく分からねぇ話だ』
『分かろうとしないの。感じるの。何なら触れたっていいくらいよ』
『いやいや触れたらまずいだろ。何かダメになるんだろ、そういうの』
『だから買い取って自己責任でやるの。あなた働くんでしょう? 初任給で買ったらいかが?』
『なんだそりゃ! 哲学が結局商売に繋がるのかよ!』
『だって私は芸術家だもの』


こういう会話がたまにあるので、もしかすると大人に近づいた今の方が彼女のことを理解から遠い存在に置いている可能性がある。

ガロは部屋中に立てかけてある絵を眺める。良く見ると隅に描いてあるサインがMissであったりMrsであったりする。このプロメポリスにおいてミセスと呼ばれる芸術家は一人しかいない。そしてその作品がここにあるということは……ガロの顔が苦く歪む。

彼女は恐らく、ミセスのゴーストなのだ。ミセスに芸術品を著作権ごと売ることで生計を立てているのだと、この数年でガロは推理した。そうでなければ何故、ここで見た絵が数日後にフォーサイト財団の玄関受付口にミセスの作品として飾ってあるのか説明がつかない。

このことは以前、面と向かって彼女に指摘した。何ならクレイにも聞いた。リアクションは二人とも同じだった。大爆笑。ガロが憤慨したところ、彼女はさらに腹を抱えた。クレイの方は笑ったことを謝罪したが。『これにはワケがあるんだ。心配するほど深刻な話ではない』お前には関係のない話だと突き返されたように感じた。以降、この話題を出すのは避けてきたのだ。


『俺はアンタの絵、好きだぜ。燃え上がる炎を感じてよ、見ている俺が燃えちまいそうなくらいだ』
『火消しする側が燃えてたら世話ないわね』
『たとえばの話だよ、たとえば!』


未だに子供扱いしてくる彼女。それを尻目に手元の画集をめくる。あっ、と忘れていたことを思い出した。


『なあ、アンタってオフクロだよな!』
『……は?』
『これ! このウキヨエでよ、アンタと似たような格好の女の絵見つけてずっと引っかかってたんだよ!』


バッと見せたそれは(ウキヨエとは違ったが)、白いエプロンを着て料理をする女の絵だった。確かに今着ているエプロンと似たようなデザインをしている。


『アンタが名前教えてくれないんなら、今度からオフクロって呼ぶからな!』
『…………お好きにどうぞ』
『うっし、じゃあそろそろ帰るわ! またな、オフクロ!』
『うん、もうどうでもいいわ』


珍しくあからさまに苦い顔をした彼女だったが、積極的に嫌がらないのなら大丈夫だろう。その日から彼女はガロにとって“オフクロ”という存在になった。

そのオフクロが、クレイと喧嘩をしている。

一緒に並んでいるところは、実は片手で数えるくらいしか見たことがない。けれどお互い気心が知れた仲なのは会話の端々から感じ取れた。クレイのことを恋人のミセス以上に知っていそうな口ぶりで、なんでこの二人は付き合っていないのだろうと昔から疑問に思っていた。

素直すぎたガロは全く気付かなかったのだ。そもそもの根本から勘違いしていて、オフクロと呼んでいる彼女自身がクレイの恋人のミセスだったなんて。


「さっきから一人で騒いで、一体何のことだ」
「父親がバーニッシュだった私と、バーニッシュのクレイ。生まれてくる子はバーニッシュの可能性が高い。確率的には四分の三、75%」
「どんな確率だソレは……遺伝はそこまで単純な計算では測れない。常染色体と性染色体が合わせて46本もあるんだ。そのどこにバーニッシュの遺伝子活性化メカニズムが、」
「それでも、少しくらいは頭にチラついたんでしょう?」


彼女がここに来てから、驚かされることの連続だ。

彼女がミセスだったこともそうだし、バーニッシュ嫌いのミセスの父親がバーニッシュだったことも、クレイと子供を作る段階にまで進んでいたことも。

バーニッシュは遺伝子の突然変異種ではない。地殻にできた次元の歪みを通じて遠い惑星からワープして来ている炎型生命体・プロメア。それらと共鳴した人間こそがバーニッシュとして覚醒していたのだ。

このことをガロやリオ、アイナはデウス・プロメス博士から直接聞いて理解した。映像を見る限りではクレイも知っているはずだ。けれど、彼女は知らないのだ。彼女だけじゃなく、このプロメポリスの住人すべてがバーニッシュに対する知識をまったく持ち合わせていない。

彼女は大きく口を開ける。さっきの罵倒で喉を酷使したせいか、ところどころ掠れていたが。それでも淀みなくクレイに言葉を投げ続けた。


「私が子供が欲しいって言ったから逃げたんだ。生まれてきた子がバーニッシュで、あなたがバーニッシュだとバレて。私に憎まれるくらいなら……、

──いっそ、見殺しにしてしまえって」


そうだ、ガロが一番驚いたのは、クレイが言う“選ばれた一万人”に恋人が入っていなかったことだ。その理由が今、彼女の口から語られている。

一番になりたかった。一番になれないのなら殺してしまえ。

それはなんて身勝手で、クレイらしくない乱暴な思考だろう。いくらサバサバとした彼女でも、それはどれほどショックなことだったか。


「ほんとさ、」


大きく息を吐いた彼女は、震える拳をさらに強く握り締める。血が滲みそうなそれは、悲しみの発露かと錯覚するほど。

ガロはまた、失念した。



「気ッッッッ持ち悪いんだよッ!!」



彼が知っているオフクロは、そんな繊細な思考をしていないことを。


「そういうの解釈違いだわ。マジ無理。気持ち悪い。クレイ・フォーサイトなら抜かずの十発でも二十発でも妊娠するまでキメて生まれてきた子でバーニッシュバレしても“だからどうした?”って顔で軟禁するだろ。なに変なところで四角四面になってるの生真面目か! う"ぉえ! 気ン持ち悪ッッッッ!」
「私はそんな外道ではないんだが!?」
「えっ、違うの?」
「今までどこを見て付き合ってきたんだ貴様ッ!!」
「えぇ……ありのままのあなたよ?」
「馬鹿も休み休み言えッ! 芸術に浸りすぎて思考力まで落ちたか馬鹿ッ!」
「っうるさいなぁ! その馬鹿に馬鹿って思われてるお前はどうなんだよ! 筋肉馬鹿! バーカ!」

「なんだこのガキの喧嘩」


ガロは困惑した。下品な気配を察知した瞬間にしっかりリオの耳を塞ぎながら。


「復讐してやる! お前にとって最も耐え難い責め苦で絶対復讐してやる!」
「なんだ? 言ってみろ? ありのままの私を知っているならさぞ惨たらしい計画を組み上げて見せるんだろうな!」


もう勘弁してくれ。

いろいろとお腹いっぱいになったガロ、他男性陣。対して何故か瞳を輝かせながら手に汗握るアイナとエリス。そしてよく分かっていないリオ。

そんな中、オフクロは限界の壁を超えさらなる混沌を生み出そうとしていた。


「まず、私とお前で子供を作ります」


なんて?



リオ「クレイ・フォーサイトォッ!!!」
ミセス「クレイ・フォーサイトォッ!!!」

← back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -