その村には厄介者と呼ばれる人間が二人いた。一人は孤児でいく宛もなく、村人から召使いのような扱いを受ける少年。もう一人はどこからともなくやってきた、妙な格好をした女。こちらも召使いのような扱いを受けていたが、力がひ弱で役に立たない分、村人たちからの視線は常に厳しかった。穀潰し。役立たず。心ない言葉は雨のように二人に降り注ぐ。少年は孤児になった幼い時分からそんなものは慣れっこだったため、涼しい顔で流す術を持っていたが、女は違うようだった。見たことのない服を襤褸同然に汚しながら働いて、枝のように痩せ細った体を抱き締めて眠る。二人の寝る場所は外と大差ない廃屋の片隅で、少年は時たま啜り泣く女の声が耳について仕方なかった。けれど女はそんな少年のことを見て取ると、涙の痕が残る顔で力ない笑みを浮かべる。『ごめんね』聞きなれない言い回しが多く、もしや外海から来た人間なのかと疲労で混濁した頭は仮説を浮かべる。そうして考えているうちに眠りに沈むのが少年の常だった。心の臓が妙に暖かかったのは、久しぶりの人の笑顔を見たからかもしれない。あんな、無理矢理で下手くそな顔が自分のような孤児にはちょうどいい。卑下する気はなかったが、なんとなくそう思った。

そんな生活が変わったのはすぐ後のこと。それは村の厄介者がいなくなったことでもあった。

少年は日照り続きで雨のない村からの生贄として村人に祭り上げられた。女は、何を思ったか少年を生贄にしようとした村人に反抗して殴り殺された。今までに見たことのない激しい反抗だった。まるで子供を奪われた母親のような咆哮。非力ながらも大の男たちに歯向かって、背後から頭を殴られた。その様を目の前で見ていた少年は、ただただ見つめることしかできなかった。何故。何故。疑問と驚愕と動揺。そればかりが体の支配を鈍らせる。微動だにしない表情と体。嬲り殺され地に伏した女の表情は苦痛に歪んでいた。違うだろう。本当に言いたいことは口から出てこない。あなたはいつも、あの下手くそなみっともない笑顔で私を見るくせに。いつも。いつも。なのに、なんで。決して情が湧いたわけではない。憐憫も悲哀もなく、女の浮かべて然るべき笑顔が、もうどこにもないことを悟った。森の奥深く、猛烈な飢餓と絶望と執念に苛まれ、少年は死に絶えた。

そして少年は鬼になる。


うさぎ漢方極楽満月の従業員、兎子の本名を鬼灯は知らない。それは彼女が名乗らなかったからでもあるし、彼女自身が自分の名前を覚えてないというそもそもの理由があった。彼女は鬼灯が認知するよりも遥か昔からあの世に居続けている稀有な存在である。歴史上の偉人たちは現世に転生することよりもあの世での役割を得て全うすることを選んだ。中には仕事もせずに天国の甘い汁を啜り続ける怠け者もいるが、概ね、そういった理由で転生を拒む人間は珍しくはない。けれどまさか、神代の時代から一度も転生せずに今まで居座り続ける只人が居るなどと、鬼灯は思いもよらなかったのだ。恐らく自分と同じ年の頃の人間。ニートでもあるまいし、どんな駄々っ子がいるのやら。そんな呟きを拾った閻魔大王は悲しげな顔で首を振った。彼女は地獄に縛られているんだよ、と。


「まさか逃げられるとは思いませんでした」
「いつものことだろ、まったく」


すっかり二日酔いも吹っ飛んでしまった顔で白澤が毒づく。といってもそれにはいつものような覇気もなく、むしろさっきよりも力の入ってない手で髪の毛をグシャグシャにかき混ぜていた。その様子を見るまでもなく予想していた鬼灯と、予想も何もする暇なく混乱している桃太郎が同じタイミングで溜め息をついた。


「俺、兎子さんはずっとここにいるもんだと勘違いしてました」
「うん、まあ僕も似たようなもんだけど。なんとなくいつかはこんな日が来るんだろうなとは予想してたよ。あの閻魔大王が被害者を放っておくわけないもんね」
「被害者、ねえ……」


鬼灯はその言葉が大嫌いだった。被害者。害を被った者。まさしく彼女にピッタリな言葉だろう。閻魔大王から聞かされた過去は、それは確かに痛ましく、惨たらしく、理不尽で、凄惨な、耐え難いものだった。只人に禍根を残すには十分な材料が揃っていて、なにより彼女は天国にも地獄にも来世への道は無理だと宣告されてとうに長い月日が流れている。風化した傷を後生大事に残している彼女に、今さら寝た子をつついて起こすのも迷惑な話だろう。彼女の過去を知るごく少数の獄卒たちは一様にそんな風な認識を共有していた。それが鬼灯にはただ気持ち悪かった。あんな人間の恨みなど、過ぎたことに縋り付いて進むことを拒んでいる怠け者の心理だ。いつまでも恨む気力があるのなら早く次の生に活かせばいい。傍観に徹する獄卒たちを尻目に鬼灯は勝手に彼女が転生できない理由を探ることにした。

そして、そこに幼い日の自分を見つけたのだ。

浄玻璃の鏡。遡れば人間さえいない太古の時代まで見通せる道具にリモコンを向け、早送りと巻き戻しを何度か繰り返し、辿り着いたのは見覚えのある廃屋。元は白かっただろうニットと黒いスキニーパンツをドロドロに汚して微笑むその姿は、忘れていた遠い日の記憶を僅かながらに掘り起こした。彼女はあの時の彼女だった。


「こんな時間から酒盛りとは、白豚さんのちゃらんぽらんが移りましたか」


店からしばらく歩いたところにある滝。年中無休で大吟醸が溢れている養老の滝の畔に座り込む彼女の背後に鬼灯は立つ。今まで逃げるか睨むかしなかった彼女が何の反応もない。遠慮なく隣に座って様子を伺えば、顔は見えないものの耳は赤く出来上がっていた。彼女は確か白澤どころか桃太郎にも劣る下戸である。飲めば赤くなりよく笑いよく泣いてすぐに頭の不調を訴える。その様子を鬼灯は近くで見たことはなかった。見れるはずがなかった。彼は彼女が憎む地獄の顔役なのだから。

手皿で掬って飲み続ける彼女に倣って鬼灯も一口飲む。喉を焼く心地よい感覚に目を細めて、それと同時に隣の存在が気がかりで、酒はそれきりにした。


「あなたの救いになるかもしれないことでも、地獄の手ならば借りたくないと。そういうことですか」


彼女の飲む手は止まらない。


「そんなに地獄が憎いですか」


やっぱり飲む手は止まらない。けれど髪の隙間から覗く目は大粒の光を何粒も落として伏せている。


「そんなに私がお嫌ですか」


それは少なからず、鬼灯にとってショックなことだったのかもしれない。普段はピクリとも傷まない良心がほんの少しだけ声を上げる。それと同時に昔の忘れていた期待がそろりと顔をのぞかせていた事実に気付いた。彼女にまた笑ってほしい。あの、不格好な笑顔を、また自分に向けてほしい。鬼灯がまだ召使いの丁だった頃に持っていたあの温かみが欲しい。だって、あの時確かに失われたものが、また手を伸ばせば届くそこにあるのだ。昔と違って多くの物事を成せるようになったというのに、何も持っていなかった頃の自分が手にしていた物がすぐそこで弱々しく転がっている。それを放置できるほど鬼灯は冷静ではなかった。


「違うんです」


ぼたぼたと彼女の手のひらから酒が零れ落ちる。


「たぶん、本当に私が嫌だったのは、殺されたことでも地獄に落とされたことでもなくて、ただ、何も分からなかったことなんです」


手のひらに落ちた涙が酒に混じって透明な水底に沈んでいく。今そこを掬えばしょっぱい味がするのだろうか。


「何も分からないまま、今まで流されてきました。それをただ恨んで憎んできました。けれどここに来て、ちゃんと、私に選択肢が与えられて、何が何だか分からないってこともない道を示されて、悲しくなったんです」


簾のように垂れ下がっていた髪が耳にかけられ、鬼灯はようやっとその表情をよく見ることができた。


「私はずっと、18歳のままここにいたんだなって」


歪な笑みだった。不格好で、不器用で、不細工な、丁の好きだった顔。鬼灯の胸をすく宝物。


「ありがとうございます、鬼灯さん」


私に気付かせてくれて。

その言葉を聞く前に鬼灯は彼女を抱きしめた。力加減をする余裕もなく、己の胸板に押し付けるように抱き込んで、涙が着物に吸い込まれていく感覚を黙って感じていた。それしかできない。彼女にかける言葉なんて丁にも鬼灯にも検討がつかない。けれど彼は、決してそれがもどかしいとも思わなかった。

何千年間、生きていると思い続けた少女と、何千年前、人間でなくなった鬼。二人はまるで運命に惹かれあった男女のように短いひと時を過ごした。


「すぴー」
「…………ハア」


……たとえ片方が酒に潰れて眠っていたとしても。

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