2/fin.



悪くない朝だと思った。

瀞霊廷内はまだ日も登ったばかりの時間だというのに死神たちの霊気で満ち、小鳥たちの囀りが聞こえてきそうなほどに静まり返っている。廊下を進む足も軽く、吸い込む空気すら美味に感じる。そんな朝だというのに、わたしの隣を歩く死神は酷く沈痛な気を隠そうともしない。


「名前さま」


ああ、まったく。


「僭越ですが、わたしのことは椛去かざりとお呼びください」
「しかし、」
「もうあなたは夜一の部下ではないのです。夜一の身内だからと、わたしの顔色を伺う必要もないのですよ……と、何度言わせれば分かるのだ、砕蜂よ」


薄ら笑って目を伏せれば彼女は、砕蜂は口を噤んで頷いてくれる。いつまでもわたしに甘い女だ。いや、夜一に甘いと言うべきか。その厭味も含めて梢綾と呼んでやろうかと思ったが、あまり年下を虐めるのもいただけない。一時首をもたげた揶揄心を自ら打ち消した。


「公私混同はするな。隊長にまで上り詰めたというのにまだそのようなことも分からぬのか」
「申し訳ございません」
「それが部下に対する物言いじゃないと言うておろうに」


これでは本当に、どちらが上司で部下か分かったものではない。

確かに彼女はわたしの中では変わらず幼い梢綾のままだ。それ以上も以下でもない。憎もうと苦心しながらいつまでも閣下の帰還を心より待つ部下の梢綾。閣下の身内であるわたしをさま付けで呼ぶことで、暗に変わらぬ忠誠を示そうとしている梢綾。寂しい、悔しい、悲しいと、幼子のように駄々をこねている可愛い子供。本人すら気づいていないだろう本心を、わたしは彼女の態度で理解してしまったのだ。

それは、なんとも鼻白むことである。

彼女はその純粋さ故に、わたしという存在を夜一の末端としか捉えていない。捉えることしかできない。染み付いた遜る姿勢がその何よりの証拠で、ただ皮肉なだけのその献身をどうして気持ちいいなどと言えようか。


「相変わらず、焦るとボロが出る奴だ」
「あ、焦りもします! 危うく貴女さまは、」
「それ以上言わずとも良い。心配されることはわたしとて嬉しいが……最後くらい部下らしくいさせてください、砕蜂隊長」
「そんなッ……! そのような縁起の悪い言い方はおやめください!!」
「大声を出さないでください。着きましたよ」


大きな門前。重厚な木の香りと冷え冷えと覚め渡る霊圧の存在を肌で感じて、今まで以上に身が引き締まった。まさしく、ここから一歩踏み出した先がわたしの正念場になるだろう。心配げな顔を隠しもしない砕蜂に目線で釘を刺し、わたしは浅い息を吐いた。


「二番隊隊長、砕蜂。入る」
「二番隊第三席、椛去名前。入ります」



***



「二番隊第三席、椛去名前。此度の任務失敗によりそなたの部下十四名が殉職した。この件に関して弁明の余地ありとするならば述べてみよ」
「ありません」


ピクリと。山本総隊長の眉が僅かに揺れる。皺の刻まれた眦の奥から探るような目がわたしの全身に突き刺さった。そして霊圧もまた、彼の斬魄刀の能力とは真逆の温度へと変容していく。息を吐けば白く染まるような、それほどの威圧にわたしは呼吸を止めざるを得ない。口を閉じて、ただ一心に総隊長を見つめるしかない。


「全滅じゃ。三席ほどの力がありながらこの失態、ただで済むものではないぞ」
「すべてわたしの不徳の致すところ。罰は、何であろうと甘んじて受けましょう」


あの場から生きて帰るより死んで帰ったほうが正解。それは最後の部下が虚の腹に収まった時点で分かりきっていた。あの時、あの瞬間にわたしの斬魄刀が始解する可能性などどう頭を捻ったところで零だった。本来わたしはあそこで死ぬべきで、生きてここに立っていることのほうがおかしいのだ。そんな者が、この護廷十三隊の頂点を前にして弁明することあるだろうか。少なくとも、わたしに導ける正解は既に潰えている。たとえどんな罰が下されようと、それも致し方ないと受け入れる他ない。それほどに二番隊第三席という今の立場への未練がないのだ。

わたしはこの刀とともに生きるだけで、それだけでもう十分なのだ。


「……相分かった」


重く深く、総隊長のお言葉が隊首会の終わりを告げた。



***



「残念だ。非常に、ネ」


足早に去る者、無表情に佇む者、肩を撫で下ろす者、微笑む者。その中で珍しく場に残っていた涅マユリの甲高い声が鼓膜を引っ掻いた。砕蜂の後ろをしずしずと歩いていた女がちらと黒面を流し見る。


「聞けば君の斬魄刀は他とは違い不必要なほど頻繁に意思疎通ができるそうじゃないか。それも斬魄刀の方から持ち主にコンタクトを取ってくる、と。他の斬魄刀とどう違うのか、心行くまでバラバラにして比べてみたかったのだがネ。君の罰が除隊命令だったなら、私が拾ってモルモットにしてやろうかと思っていたのに。ああ、残念だ」


わざとらしく額に手を当て、息を吐く男の目は愉悦に染まっている。その身に纏った不気味さを隠しもしない涅に対して、つい今しがた新しい役職を賜ったばかりの女は、護廷十三隊二番隊第三席兼隠密機動隊新設参謀部隊長、椛去名前はゆるりと淑やかな微笑みを浮かべながら蘇芳の瞳に十字を映した。


「涅隊長のご厚意を、お受けできない我が身が残念でなりません」
「中身のない言葉だ。厚意は素直に受け取るものだと人に教わらなかったのかね」
「もちろん、それは重々承知しています。しかし、わたしなぞ研究したところで護廷十三隊の礎には為りえません」
「……なにを言っている」
「涅隊長は、公務でわたしを研究なさろうとしているのでしょう?」


いやあ、涅隊長は立派な方だ。当たり前のことを何度も反芻して確かめるように名前は彼を褒めそやす。そうして不意に、今まで耳聞こえの良い言葉しか洩らさなかった唇が、厭らしさを感じさせないギリギリの境界線上で釣り上げられた。


「わたしのような程度の知れた者を趣味趣向で研究するだなんて! まさか、まさかそんな! そんなご自身の時間を割いてまで調べるような勿体ないことを。稀代の天才であらせられる涅隊長はしませんよねぇ!?」


長い白髪が首を傾げた拍子に肩から滑り落ちる。彼の身位の高さを正しく把握した上での艶然とした笑みだった。涅の顔から愉悦が消え、心底興醒めしたと言わんばかりに舌打ちを零す。小賢しい。唇だけで音にならなかったそれは、名前だけに見えたものだった。上等だ。同じく唇だけで返したそれを、果たして彼は読み取れたのか。

名前の隣りで終始険しく睨みつけてくる砕蜂を羽虫の如く無視し、涅は室の外へ出ていく。その一触即発の冷戦を見守っていた男が、涅の姿が見えなくなると苦笑いを瞬時に明るく綻ばせて名前に声をかけた。


「大丈夫か椛去、あまり気にするんじゃないぞ。涅も本気で言いやしないさ」
「存じております」


あれは八割本気だったなんてことは。頑として口を滑らせるわけにはいかない。


「それにしても良かったな、お咎めなしの無罪放免で! しかも出世とは、いやあ、総隊長もお人が悪い」
「ご心配をおかけしました、浮竹隊長。あと、席次は変化していないので出世ではありません」


幼さのある顔立ちを凍てつかせた名前がにべもなく切り捨てる。けれど長く彼女の上にいた浮竹には慣れたこと。白い歯を覗かせ病弱さも吹き飛ばす勢いで朗らかに笑って見せた。それだけ元部下の成長が嬉しかったのだから。


「それにしたってめでたいことだろう! 新設部隊の隊長だなんて、栄誉なことだぞ!」
「あれは押し付けられたと言うのだ」


名前の本心など知りもしないで。


「うん? 何か言ったか?」
「いえ、ありがとうございます」


浮竹と等しく白く長い髪をお辞儀とともに揺らし、名前は改めて退室する。直属の上司であるところの砕蜂の後ろに着いて歩いているというのに、変わらず貴族とはまた違う奇妙なプライドを持った奴だ。凛と背筋を伸ばし髪も一段と伸びた元部下の姿に浮竹は眉を下げるしかなかった。



***



隊舎の一室。実家に比べれば掃除用具入れ以下のこじんまりとした一人部屋に足を踏み入れ、戸がしっかりと閉じられたことを確認して、わたしは己の斬魄刀を床に置いた。一般的な浅打の刀身が太刀のように伸び、鞘は光に透かすと椛が流れて見える。黒漆に十字の傷が入ったそれと対比するように、紅柑子の柄からは白い飾り紐が短く垂れていた。けれどわたしは、わたしだけは、その色が紅柑子ではなくあやつの椛であることを知っている。

わたしはそれらをまじまじと見つめ……睨み付け、右手を拳にして力強くその鞘に打ち込んだ。


「ちぇりお!」
『いたっ』


痛いと言うわりに緊迫感の欠片もない声音だ。わたし以外誰もいない部屋の中で、その声の発信源はわたししか知らない。その声自体も、わたししか知らないことであろう。

丁寧に親指を中に握り込んだまま、今度は左手の拳を鞘に打ち込もうと構える。そしてさっきまで散々溜め込んで溜め込んで、もう限界にまですり減った心身とそれに類する愚痴を思いっきり吐き出す作業に専念することにした。


「何が新設部隊の隊長だ! 出世だ! めでたいだ! 新設部隊ったって隊長一人しかいない部隊なぞあってたまるか! それも三席の執務と並行してだ! わたしのような体力もやし以下に馬車馬の如く働けと申したのだぞあのジジイは! こんなていの良い押しつけをされるくらいなら除隊命令のほうが遥かにマシじゃー!」
『ちょ、名前、名前さん、八つ当たりはやめてください』
「八つ当たりではない! これはおぬしのせいでもあるのだぞ!」
『おれのせい? なんだよ、まさかあそこで助からなければ良かったとかいいださないよな?』
「それについては感謝しておる! わたしが言いたいのは涅の件だ!」


思い出しても反吐が出る。握りしめた拳から皮膚が引きつる感覚がしたがそんなものにも構ってられない。


「暇になれば話しかけ、返事をしなければ容赦なく実体化してまとわりつき、そなたのせいで何枚の書類を墨だらけにして何人の部下に変な目で見られたことか! そなたが不審な行動をとるたびにわたしの落ち度となるのだぞ! しかもあの変態に目をつけられるとは! あんな真庭忍軍以上の人外ド外道を前にして隙を作るなぞ自殺行為も甚だしいわ!」


あのニヤニヤと鼠か蛙かでも見るような目。厭に歯並びの良い口から吐き出される戯言の数々。笑顔と口だけで乗り切るのにどれだけストレスが溜まることか。ただでさえ砕蜂の件で苛々していたというのに。これ以上問題ごとを増やすくらいなら実家に引きこもって隠居しているほうが遥かにマシだ。

そう、その実家が下手に貴族なんぞ面倒なものに名を連ねているせいで死神を自ら辞めることができないのだ。なれば今日あの場で除隊命令を出されてこそわたしは心置きなく隠居できたものを。と考えればやはりすべての元凶はあのクソジジイしかあるまい。拳の力がまた一段と強くなった。


「ちぇり、」
「まったくあんたってやつは」


ぺちり。突き出した拳が筋肉にぶつかって情けない音になる。いきなり現れた胸板が目の前にあり、目線を上に移すと傷だらけのわたしの刀がこちらを見下ろしていた。


「兎にも負ける軟弱なやつがおれを殴れば、自分の拳が傷つくなんてこと、昔からあんたは知っているだろ」


逞しい両腕が躊躇いもなくこちらに伸び、肩を抱き、背を抱き、わたしを抱く。すると簡単にわたしの中の苛立ちがするすると解れていくのだから、これはいったいどんな術だ。直に感じるぬくもりに身を委ね、今まで思っていたことが簡単に己から漏れ出していく。死神としてではない。とがめの代わりとしてではない。わたしとしての、ただそれだけの本心が。


「わたしは、そなたがいるだけで良いのだ。わたしから離れることなど許さぬぞ」
「委細承知」


わたしの奇策でも何でもない本心。駒ですらなく名前もついていないわたしの心を、七花は頷いて聞いてくれている。

幾年月、何度同じ季節を跨ぎ、このぬくもりを求めただろう。自らが歩んだ道を悔い、死を選んだ己を悔い、この世に生まれ出でた己を呪った。こんな、人ならざる長い時を生きたというのに、わたしは今まで死んだに等しい時間を過ごしてきたのだと。この両腕の中で実感するのだ。


「好きだよ、七花」


剥き出しの肩に顔を埋め、ほんの数百年前に言えなかった言葉がするりと流れ出でる。


「愛しているぞ、名前」


ほんの数百年前に当たり前に聞き流していた契約の言葉を、もう聞き流すことなどできなかった。


玉霰を食む
前に公開していたお話を手直ししました。今度はとがめ成代が死んだら七花も一緒に死ねるので、二人とも満足じゃないかなあと思います。

別バージョンとして先に右衛門左衛門が登場して仮の主従契約。二人でギスギスしながら出世していき、後に否定姫がやってきたあたりで三人だけの特設部隊を設立。『七花はいつ来るのか』『本当に来るのか』とハラハラしているあたりで原作の尸魂界編が始まりピンチに陥ったところで始解ができて七花と再会。『そなたはずっと一緒にいたのだな』というお話を考えていました。七花と否定姫のコンビがうまく行ってるならとがめと右衛門左衛門のコンビだってうまく行くのでは?(錯乱) 力不足でお蔵入りになったお話でした。

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