原作前



尾張の国の中心地。尾張幕府家鳴将軍家に仕える者たちの屋敷町。その名の通り将軍様のお膝元と言える場所の一角に悠然と聳える屋敷があった。

荘厳な造りの日本屋敷の一室。この日本にあるには酷く違和感しかない西欧の品々が華美に配置されている。

そこが、わたしの城だった。

鏡の中の自分は美女。下弦の月を映したかのような弱々しく、儚げな金の髪。翡翠を嵌め込んだのかと見間違うばかりの新緑の瞳。これまた日本には酷く違和感のある西欧的な顔立ちの、美しく、そして不思議な女。

わたしは鏡から目を離してもう一度手元を書簡を眺めた。

男社会であることの象徴とも言うべき漢字を流し見る。あまりの内容に真顔を保っていた表情がだんだん馬鹿らしくなった。


「えい」


そんな軽い声と共に、否定姫の見た目にそぐわない粗雑な所作で書簡を投げた。

開きっぱなしの書簡は空気抵抗を受けながら汚い弧を描いて無様に部屋の隅に落ちる。乱暴に扱われ、シワが寄ってしまったであろう書簡なんか忘れて、ふわふわピンクの絨毯に倒れ伏した。


「暇だー」


尾張幕府家鳴将軍家直轄監察所総監督、否定姫。

それがこのわたし……否定姫の表向きの身分であり、名前である。この世界での身分と言い換えた方がいいか。

『名前』

この名前は本来ならばこの世界には存在しない。実際、探してみれば同じ名前はあるかもしれないけれど名前という存在自体は絶対にありはしない“はずだった”。

わたしは記憶がないまま一度死に、そして生まれ変わってしまった。『否定姫』という存在の場所に。真実とは小説より奇なり。実際に小説の中に這入ってしまったら実に身にしみる教訓だった。

そのことを知った時、わたしはもう身動きが取れない立ち位置で呆然とした。呆然と、諦めた。

わたしは今、歴史に流されている。
それは前世の名前からすれば原作、シナリオ通りに行動するということだ。

ここが生前読んでいた小説の世界だと気付いてから考えた。否定姫と同じ道を歩むか自分の道を歩むか。考えて考えて。そして面倒になった。

わたしは原作が好きだった。このお話の始まりも、流れも、結末も。登場人物も、その思想も。共感はできなくとも面白いと思ったし、彼らの死にはとても悲しくなった。十二巻の最後なんて涙も出ないほど切なくて深いため息を吐いたくらいだ。

あのお話を無視してはいけない。なかったことにしてはいけない。そう思ってしまうくらいには、わたしはあのお話が大好きだった。

その反面、いざ否定姫の立ち位置を与えられてみると気が遠くなるほどの悲願達成の道のりが目の前に広がって見えた。なまじ否定姫の悪巧みに特化した頭脳が用意されていたために、それが困難ではあっても不可能ではないという結論がとっくに弾き出されている。

ただただ人を使い人を潰し人を殺すことを繰り返していけば良い。でもそれは、ただの読者でしかなかったわたしには耐え切れないこと。誰かを利用して恨まれることを当然に思うなんて、否定姫の頭脳を持ってしても非道になりきれるだろうか。そう考えるだけで頭がこんがらがってしまう。

考えて悩んで掻きむしって。そうして出た結論が、面倒、の一言。

世界の流れに沿うのも逆らうのも面倒。ならば、と。運命の赴くまま、歴史の浮くままになんとなく生きてきた。

そんな行き当たりばったりのわたしの名前を知っているのは、この世界ではわたしと……


「右衛門左衛門、いる?」
「ここに」


左右田右衛門左衛門の、ただの二人きりである。

音もなく気配もなく。いきなり現れた右衛門左衛門に驚くでもなく、むしろリラックスした状態で足をパタパタさせた。


「しばらくここを離れるから、旅行の準備はしといてね。いつでもすぐにでも出発できるように」
「旅行……長期休暇を取るには年末は忙しい時期かと思われますが、いったいどちらへ?」
「知らない」
「は?」


知らない? 自ら旅行に行くというのに行き先も決めてないのか?

と、右衛門左衛門は仮面の下で困惑顔を作っている……ように思われる。さすがに説明不足だったか、とけだる気に頭をかいた。けれど本当に行き先が分からないのだから仕方ない。


「まあ、あれ読んでみ」


指差したのは書簡。瞬きする間にはすでに同じ場所同じ体制の右衛門左衛門の手にあった。


「四季崎記紀の、完成形変体刀の蒐集願い…名前さまの悲願が達成されるのもいよいよですね」
「いやいや違う。違うって」


とりあえずの全否定。

自分が言いたいことをどう説明すべきか。しばらく頭を傾けて考える姿勢に入ったものの、出できた言葉はいい加減なもので。


「ヒント。任命者のとこを読み上げてごらん」
「軍所総監督……奇策士、とがめ」
「そう、奇策士さんなとがめちゃん。じゃあさらにヒント。そのとがめちゃんがこの世で目の敵にしているたった一人の人物と言えば?」
「……“否定姫”さまのことでしょうか」
「ピンポンピンポーン。正解。ではここでもう一つ問題。もしもあなたがあの奇策士さんの立場だったらどうするでしょう。不快で不愉快で仕方ない、大嫌いな否定姫を尾張の都に野放しにして、安心して旅に行けると思う?」
「…………まさか」


嫌な予感がする、と言わんばかりに右衛門左衛門の声音が少しだけ下がる。

さすが右衛門左衛門だなあ。どこかの親バカのように無意識で感心しながら、わたしははっきりと正解を教えることにした。


「近々、左遷されるかもね」


つまりは、そういうこと。



***



あの書簡を受け取ってから、もうすぐ一週間が経つ。

本物の否定姫と同じ黒の上品な着物に身を包み、本物の姫さながらの所作で仕事場を出た。その出入り口に待ち構えていたのは彼女だった。

十二単を二重にし、さらに着込んだような絢爛豪華な着物を着た……むしろ着られてさえ見える年若い女。服以上に長々と伸ばされた白髪が生で見ると本当に人の目を引く。

尾張幕府家鳴将軍家直轄預奉所軍所総監督、奇策士とがめが、そこに立っていた。

彼女は笑顔だった。

普段、彼女が否定姫を視界の隅にでも入れようものなら、その顔を辛酸を舐めたように歪めさせ、次の瞬間には舐めた辛酸を吐き返す勢いで噛み付いてくる。そんなはずなのに。

とがめは笑顔だった。


「やあやあ、これは久しぶりだなお姫さま。久しく見ない間に随分と健康優良になったようで。どうやら仕事のほうは万事上手くいっているみたいだな」


その笑顔から、予想通り、妙にねちっこい響きを持って辛酸の代わりに皮肉が吐き出される。笑顔は笑顔でも嘲笑だった。うん知ってた。

身長差のせいでこちらを見上げざるを得ないとがめ。それなのに蘇芳の瞳ははっきりとわたしを見下している。とっても器用だなあと、ちょっと感心してしまった。

最近、否定姫としてのわたしの立場は大幅に揺らいできている。立て続けにわたしの配下の配下の配下の部下がミスを犯し、それが配下の配下の部下に連鎖、配下の部下にまで影響が出た。結構シャレにならない事件にまで発展しかけて、その責任が何故だか全部わたしにひっ被された。言うまでもなく、絶対とがめの仕業だ。敵ながら鮮やかな手口で現実逃避しかけた。鬼女って怖い。

そんなこんなのてんやわんやの直後が今。こうして待ち伏せされたのは大方、二度と会わないつもりの否定姫に対する別れの意味もあったのかな。とは言え、この笑みからすると相手を逆上させたい節がもろ見えだけれど。

ぶっちゃけ、わたしはとがめという登場人物が好きだ。彼女の過去もこれからも知っているし、何が何でも復讐を成し遂げようとする彼女の執念は結果的に四季崎の思惑を挫き、四季崎の願いを達成させた。ご先祖さま的に感謝してもいいくらいの相手だと思う。

何より、とがめの童顔と小柄な体型のせいか、どうもその顔が誇らしげに笑う小さい女の子にしか見えなかった。例えるなら、かくれんぼで最後まで鬼に見つからずに隠れきった子供のような。『えっへん』という声まで聞こえてきそうなドヤ顔だ。怒りも不快感もちょっとも湧いてこない。むしろ微笑ましさすらある。ああ、七花と会う前のとがめはこんな風なのだなあ、と。感慨深く頷く程度には。

表面上では否定姫らしい否定の挨拶で喧嘩を買い取るのだが。


「否定はしないわよ? どなたさまかの計らいで田舎の空気を堪能することにならなければ、の話だけれど。そこんとこどうなのかしらねえ、奇策士さん?」


いつものように皮肉を皮肉で返し、懐から取り出した鉄扇をばん、と開く。

途端に、とがめの笑顔が綺麗に剥がれ落ちる。相変わらず否定姫に口撃が通用しなかったことが癪に触ったのか。はたまた、嘲笑であろうと否定姫に対して笑顔を向けるのが精神衛生上よろしくなかったのか。どちらにせよ不愉快に思っていることには違いない。


「今に見ておれ。もうすぐ、すぐにでも二度と尾張を歩けぬようにその怪しい面もろともけちょんけちょんに潰してくれるわ」
「否定する。わたしはあんたのその言葉を否定するわ。何度も言うようだけどわたしは怪しくない。それにあんたにだけは言われたくないのよ。あんたは奇策なんかよりそこらの下町で水飴でも練ってたほうがよっぽどお似合いだわ」
「なにをっ! そっくりそのままきさまに返してやるわ。だいたい、怪しいのはきさまだけに限ったことではないぞ。きさまの補佐どのだってそうだ」
「右衛門左衛門こと? あんな根暗仮面にまでいちゃもんつけようっての? 軍所総監督って役職は随分と暇なのねえ」


面倒くさそうな表情を作って自分の金髪を弄ぶ。そんなことはそれこそ耳にたこどころか岩石も小惑星もできそうなほど言われたことだった。今さら指摘されたところで痛くも痒くもない。

そんな否定姫の態度にとがめは一瞬青筋を浮かべる。が、次の瞬間にはそれを引っ込めて、また笑った。かくれんぼで最後まで隠れていた子供のように。はたまた鬼の首を獲ったどこかの歴史の武将のように。


「仮面などつけて顔を隠しているのだ。怪しんでくれと言っているようなものだろう。ましてや好き好んであのような面妖な服を着せていては、な。きさまの趣味なぞ分かりたくもないが、それにしたってお遊びが過ぎるのではないか?」


………………。

面妖。趣味。遊び。

一瞬。それにも満たない時間の中でそれらの言葉がぐるぐると巡る。

突然だけど、わたしには前世から今に至るまで趣味と実益を兼ねた特技がある。

それは服作り。たった一枚の大きな布を測って裁って縫って仕立て上げる、一連の全ての工程が大好きだ。自分のものは自分で作りたいし、自分の趣味で飾り立てたい。その想いから布の買い付けやら染色技術、糸やボタンの製造方法の確立、果てには外海からわざわざ羊を輸入して毛糸を作らせるなんてこともやってのけた。それほどわたしは服飾に対して並々ならぬこだわりを持っていると自負している。

もちろんのこと、右衛門左衛門が着ている洋装もわたしの作品だ。原作に忠実に再現されているそれは、採寸や布選び、縫製に至るまですべて一から手がけた珠玉の逸品。金色のボタンも飾り紐も刺繍も革靴のなめしですらこだわりにこだわりまくった。

その作品に対して、とがめは端的にこう言ったんだ。


『あの服、変』


…………イラッ。

猛烈に、ムカついた。

屋敷に帰ってすぐ普段着である自作のワンピースを着て絨毯の上で楽にしていてもそれは変わりない。

もうすぐ来る寒さに備えて編んでいた手袋も、あまりの苛立ちに手元が狂い、途中で投げ出してしまった。事実、予定の半分のまるで子供のようなサイズの手袋が部屋の隅で不貞腐れている。一旦、完成させてから投げ出すあたり、我ながらプロ意識が垣間見えるな、と自画自賛しかけた。イライラしすぎてうまくいかなかった。


「ああもう!!」


溢れ出る感情を発散するべく無意味に大声を出してみる。現在、否定屋敷に人がいないのをいいことにやりたい放題暴れ放題。今のわたしに話しかける人なんて誰もいないんじゃない? ってくらい。


「名前さま」


……訂正、勇者がいた。

いつもどおり、天井裏から音もなく降り立った右衛門左衛門は跪いて淡々と報告を始める。


「報告致します。絶刀、斬刀、千刀、薄刀、賊刀、双刀、悪刀、微刀、王刀、毒刀、炎刀、計十一本の完成系変体刀の所在は名前さまのお言葉通り確認できました」
「……そ。ご苦労さま」
「しかし、誠刀の所在を確認しなくともよろしかったのですか。名前さまなら分かっていらっしゃるのでしょう?」
「いいの。仙人に構って自分探ししてたら一年なんてあっという間に過ぎちゃうわ」
「は? 仙人?」
「誠刀『銓』の所有者、彼我木輪廻。ただの一仙人だよ」


簡潔に答えて絨毯に顔を埋める。

そこで右衛門左衛門はようやく、やっと、自分の主が不機嫌なことに気づいたみたいだった。遅いわ愚か者。否定姫ならそう言うに違いない。でも右衛門左衛門って元忍者なわけだからそういう感情には疎い方だと思うんだよね。そろそろ汲み取ってくれやとも思うけど。


「……名前さま」
「んー……なに?」
「奇策士、でしょうか?」


びゅんっ。

靡く金髪。普段のゆったりとした所作を心がけていたのが嘘のように素早く首が回る。だるそうな碧い目に炎が灯った。

図星だった。


「だったら、なに」
「いえ、なにとは……」
「奇策士だったらなんだっての」
「ただ、奇策士が名前さまに、なにかを、したのか、と」


右衛門左衛門の言葉が途切れ途切れに、音量もだんだん小さくなっていく。

その時、わたしはちょっと疲れていた。身に覚えのない部下の失敗をダシに足をすくわれたことは、気にしてないが疲労としてはちゃんと溜まっていたらしい。内部監査所なんて地位が高いほど室内で判子ポンポン押しつつ頭脳労働が基本なのに関係者回りで久々に体を動かしまくった。その疲労の中、肯定感の塊みたいなとがめに生き甲斐を馬鹿にされてプッツン。


「脱げ」


結果、大暴走。


「は……?」
「脱ぎなさい右衛門左衛門」


動揺する右衛門左衛門に一瞥もくれずに、その上着に手をかける。

いきなりのことで思わずされるがままの右衛門左衛門。主からの厳しい視線を真っ向から受け、抵抗の選択肢を端から放棄してしまっていた。それが好都合だった。


「変だって言われるくらいだし、きっとどっかに酷い縫い間違えがあったんだ。もしくは右衛門左衛門が糸のほつれを放置したか。うん。きっとそう。そうに違いない。なにせわたしの自慢の逸品なんだから。絶対絶対ぜぇぇえったい! そうなんだから! 待ってろとがめこの野郎今度会った時は思わず“ちぇりお”と叫びたくなるような逸品に手直ししてやんよふははははははは!!」


流れるような早口が部屋にこもる。もはや聞き取れないそれに右衛門左衛門は素直に流されてくれた、らしい。

テンションハイのまま手を動かし続けたわたし。そうして気がつけばわたしは、トルソーもどきに新品の右衛門左衛門スーツをもう一着作った状態で着流しの右衛門左衛門に膝枕されていたのだった。わけが分からないよ。おやすみなさい。スヤァ。



***



秋の紅葉も終わり、寂しげな寒さを纏った冬が見え隠れする霜月の頃。

尾張幕府家鳴家将軍家直轄内部監査所総監督、否定姫とその補佐、左右田右衛門左衛門が権力を失墜し、信濃の片隅で田舎の空気を堪能することになる、それは一月前のことだった。


手を振るも笑わず
こちらも以前に書いたものの手直しです。とがめとの絡みに全力を注いだら何故か主人公が暴走しました。別名・右衛門左衛門の包容力が勝手に育っていく話。

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