彼女はもともとそこらで歩けばよく見かけるようなごく普通の学生だった。特に人に誇れるような取り柄がある訳もなく、かと言って鼻つまみ者にされるような悪さをしたこともない。クラスに一人はいる、長期休み明けで久しぶりに会って顔を思い出す子。それが彼女の立ち位置。平凡さとは世間に溶け込むことに対してはとても有用だ。だからこそ彼女は大人と呼ばれる年齢に近づいても人並みの権利と価値観を持って迫害されることなく生きてこれたのだ。

けれど日常とは得てしてあっけなく崩れていくものである。物語的には必然で、本人的には理不尽な流れに流され辿り着いたのは見知らぬ場所。タイムスリップしたのだと確信したのは人と思しきものと対面して殺されかけた時だった。言葉は通じない。一見して切れ味の悪そうな槍を突きつけられた意図も、今となってはまったく知りえもしない。言葉の形態がまず意味不明で、彼女ができたことと言えば地べたに這いつくばって命乞いをすることだけだった。怖かった。当たり前だ。今まで平然と感受してきた日常がぬるま湯の理想郷へと変貌するほどに取り巻く環境が劣悪になってしまったのだから。

無理やり連れてこられた集落のようなところで彼女は奴隷のような仕打ちを受けた。昼夜問わず働かされ打たれ意味不明な言葉をぶつけられ気を失うように眠る毎日。それは彼女だけではなくもうひとりの少年にも言えることだったが、最初のうちはそんなことは眼中にもなかった。慣れない重労働の中日に日に痩せ衰え、元気も失くし、動ける領域も狭まっていく。そんな中、家とは死んでも言えないお粗末な寝床でふと、その少年が目に入ったのだ。彼は彼女よりいくつも年下で、体も小さく弱々しそうだった。けれどその表情は絶望や希望などという光暗の激しい感情を一切映さない。諦めとも違うすべてを受け入れてしまった顔が、自分よりも幼い子供がするにはあまりにも不似合いだと泣き腫らした目で思った。そして、それが普通の世界に来てしまったのだと深く理解した。湧いて出たのは熱い何か。こんな子供を作ってしまうこの環境。この子も自分と同じく不当に虐げられて生きているのだという憤りと、少しの仲間意識。決して言葉が通じたわけでもなく、むしろ少年に何かしてもらったわけでもない。けれど確かに彼は彼女の生きる原動力の一部としてしっかりと組み込まれてしまったのだ。

だから、彼女は殺された。

白い装束に着飾られた幼く白い顔。今までに見たことがないほど血色が良いのはまともな食べ物を与えられたからだろう。最後の食事だからと情けをかける程度にはその村人たちは人間味を持っていたらしい。最後、最期の食事。飾り立てられた神輿が森の中に運ばれていったのを見た。なけなしの食料が運ばれていくのも。いつも一緒に働かされていた少年が小奇麗な格好で普段は入れない家に入っていくのも。ここ最近は特にそれらしい食事を与えられていなかった彼女は、彼だけが食べ物を与えられ、綺麗に汚れを落とされていく様子を見て直感してしまった。少年はこの村から出て行ってしまうのだろうと。気づいた瞬間発狂した。自覚はしておらずとも、彼は彼女の生きる希望そのもので、彼が消えてしまった彼女が一人今の悪劣な環境を耐え抜くことなど無理な話だった。叫んで暴れて、少年に手を伸ばしたところで彼女は深い眠りにつく。決して目覚めることのない眠りに身を任せた。はずだった。


次に目を覚ました場所のことは思い出したくもない。ただ一言で言えるのは地獄。実際にはまさにあの世の地獄だったのだが彼女にそれを教えてくれるほど親切な人間は存在しない。白い死装束を身に纏う意味も分からず、地獄に法律ができるまでの長い月日を混沌の中震えて生き続けた。その時はまだ死んだという認識は欠片もなかった。

何千年と月日が流れる。長い長い月日だったが、変化は唐突に起こるものである。今まで好き放題暴れ狂っていた人間たちが恐ろしい形相の鬼たちに囲まれ無理矢理に大きな建造物の前に並ばされる。中では悲鳴と罵声が響き渡り、同じく無理やり連れてこられた彼女は言い知れない恐怖に身を竦めていた。「貴殿は血の池地獄行きである。悔い改めよ」何を悔い改めよというのだ。見上げるほどの大男を前にして言えるわけがない。当時の地獄はまだ法の整備が完全に整っておらず、月経や出産で血を流す女性は皆血の池地獄に落ちるものだった。当然月経を迎えていた彼女が例外に当てはまる訳もなく、血の池に溺れる運命は避けようもない。不当な判決を下したその男が閻魔大王と呼ばれる人物で今いるところが地獄だと知ったのはその時だった。

彼女は憤っていた。血の池に浮かんでは溺れ呼吸困難になり息を吹き返す苦しみの中で己の不運とこうなるように仕向けた誰かを恨んだ。いつか絶対に復讐してやるのだと大きな火種を今か今かと胸の内に抱き続ける。けれどその反面、もしかしたら自分は地獄に落ちるような何かをしたのではないかという疑念を少しだけ捻り出した。人間、生きていれば小さな悪さの一つや二つは必ず犯してしまうものだろう。彼女自身、小さい頃に気持ち悪さ故に虫を殺してしまったこともあった。その程度、と思うかもしれないことでも精神的に不安定な彼女にとっては恐ろしい不安要素だ。そんなことで地獄に落ちるなら人間はみんな地獄に落ちて大変だ。けれど未だしぶとく生き残っていた生来の良心は、深く己の所業を思い返していた。結局それは杞憂であったのだけれど。

また長い月日が流れて、唐突に地獄の法が改正された。たくさんの項目が見直されて、その中には女性蔑視に繋がる地獄の廃止も入っていたとか。恐ろしい鬼たちに血の池から引き上げられ、謝る様子もなく天国へと放り投げられた。そこで彼女は自分がなんの罪も悪さなく長い年月を地獄に縛られていたのだと深く思い知った。そして激怒した。今まで燻っていた火種が良心という名の蓋をこじ開けて怒りの濁流を巻き上げる。ふざけるな。勝手に地獄に落としておいて間違いの一言で済まされるものか。天国に身一つで放逐されたこの腹立たしさをどう昇華すればいい。右も左も分からぬ身で、これからどうやって生きればいいのか。


「ニーハオ」
「ニーハオ?」
「キミ暗い顔してるね? 気分でも悪いの?」


そんな時、出会いもまた唐突に訪れるもの。彼女にとって全てが唐突で理不尽で不当なものではあったけれど、この出会いだけはあってよかったと心から思える希少なものだった。吉兆を司る神獣白澤と地獄上がりの異世界人。軽いナンパから始まった、奇妙な師弟関係のはじまりはじまり。

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