首を振る運命



終わる。今日で終わる。これでわたしは自由になる。

尾張城の天守閣。将軍様の御簾の前で身を正し、わたしは笑う。下から聞こえる誰かの悲鳴と、人事だとは思えない地響きを正座に感じながら、不敵な笑みは決して絶やさない。

だってわたしは否定姫。尾張幕府に仕える鬼女の一人なのだから。


ここまで長い道のりだった。

否定姫と自覚する前も、してからも。己の征く道を見定めるまでもなく敷かれていたこの二十数年間、この日をどれほど待ちわびたか分からない。

四季崎の一族が外海の血を取り入れるために用意されたわたしという存在。その事実が運命という大きな流れに身を任せる決意をさせた。前世で知っている物語のように歴史を作ることの運命を、受け入れざるを得なかった。

否定姫という、この名前とは言えない呼び名とも長い付き合いになる。思えばわたしは自身の名をこの世界の者に明かすことはほとんど皆無だった。それはわたしがこの身に生まれる前から唯一持っていた財産だったからかもしれないし、この否定姫という女に名前がなかったことへの同情かもしれない。曖昧なことをそのままに、分からないままにわたしはわたしの本当の名前を誰にも知らせず、大事に大事に抱えて生きてきたのだと思う。

たった一人、わたしの我が儘に黙って従ってきた彼以外には。


そう、彼も今日死んでしまうのだ。


わたしが、今まであるべき歴史のために見殺しにしてきた人間の一人になる。

低い、木の軋む音がだんだんと近づいてくる。これがこの歴史の節目へと導くカウントダウン。そして、彼が死んでしまったことの証明。

身体の中の血液が頭から心の臓へと下がっていく。この生において最後となる罪悪感と後悔は、今まで感じたどれよりも静かに身に沁み渡った。涙さえこみ上げることもない。わたしはどうやら身も心も本物の鬼女に変じてしまったらしい。


「お姫さま、」


音が、止んだ。

顔を向けなくても分かる。けれどわたしは、階段を上がってきたその人物を見ようと顔を上げた。

おかしい、何かが違う。

血塗れで体中に瀕死の傷を負いながらも無表情に立ち尽くすその巨漢は、ことが上手く運んでいる証明に違いないはず。なのに何なのだろう。この言い知れない気持ちの悪さは。

流しきれない疑惑を心の内に押し込めて、わたしは否定姫を演じ続ける。

四季崎記紀の目論見。あの一つ二つどころか万も癖がありそうなご先祖様が、未来の国の危機を本当に憂いていたのか疑問がある。それでも六代も積み重ねて七代目でやっと完成した……完了した変体刀、虚刀『鑢』には及第点くらいはくれるでしょう。そのための一部に否定姫が組み込まれていたのは、少し腹立たしいけれど。


「あんた、本当はとがめのこと、好きだったんじゃねーの?」


ああ、その質問は覚えている。
その質問の答えも、もちろん。


「嫌いじゃ、」


なく、
なくも、


「、なかったわ」


口から滑ったそれは二重ほど否定が足りない返事になってしまった。ああ、気が抜けている。もしくは、気が急いていると言うべきか。

早く、速く、疾く。この時間が過ぎることを祈った。否定姫の面の皮が微笑み続ける限り。否定の言葉を吐き続ける限り。わたしはわたしに戻れない。

そして、とうとうその時は来た。


「ちぇりおーっっっ!」


亡き奇策士の掛け声と共に崩壊する尾張城。将軍の血すら見えないほどの瓦礫に覆いつくされた惨状の中、わたしと七花くんはそこに立っていた。

終わった、と感傷に浸るにはまだ早い。これから武器庫に行って四季崎の刀すべてに塩水を撒かないといけないのだ。それから七花くんを安全な経路で尾張から脱出させて……わたしは、一人旅に出る。この一つの歴史の物語を正常に見届けて、わたしはこの国の片隅で静かに余生を過ごすんだ。そのために今までコソコソ準備してきた。余生を送るための金も家も仕事も名も。今まで通りわたしはわたしの本当の名を誰にも明かすことなく、孤独に、静かに、穏やかに、この世界から旅立つ日を待ち続ける。

これが、わたしが今まで生きてきた本当の目的。

そのはずだったのに、



「名前さま」



なんで今更こんな幻聴が聞こえてくるのだろう。

軽く首を振り、聞こえないと自己暗示をしようとした時、今までの違和感の正体にようやっと気づいた。

『姫さま。あなたのために死ぬことを、お許しください』

七花くんは、わたしに右衛門左衛門の散り際の一言を伝えてない。最期まで否定姫のために生きた、彼の言葉を。


「呼ばれてるぞ、お姫さま」


絶え間なく聞かされる幻聴と七花くんの言葉に振り向いたわたしの目に入ってきたのは、紛れもなく、


「えもん、ざえも、ん」
「はい、名前さま」


わたしの名を呼ぶ、わたしの従者。何度でも何度でも、わたしという存在をこの世界に縫い留めるたった一人の、愛しい人。

わたしが見殺しにしたはずの、左右田右衛門左衛門がそこに立っていた。


「な、んで、だって七花くんに殺されたはずじゃ」
「おれは完成系変体刀の破壊に来たんだ。右衛門左衛門を殺しに来たんじゃねえ」
「変体刀の破壊? 違うわ、七花くんはとがめを殺されて、それで、」
「あんた、何言ってるのか意味分かんねえ。とがめは死んでないぜ?」
「え?」


頭が真っ白になる。なんで、わたしは確かに命令したはずなのに、どうして、


「裏切ったの? 右衛門左衛門」


否定姫の仮面が剥がれる。声が震えて、鬼女の皮からわたしという弱いだけの人間が顔を出す。それほど、物語から外れた展開が恐ろしかった。わたしを裏切ったわたしの腹心が、最後の最後にここにいることが、ただ。


「名前さま、申し訳ありません」
「どうして? わたしでは否定姫になれなかったってこと?」
「違います、違うのです」


とうとう声だけじゃなく身体も震えだした。右衛門左衛門の否定の言葉が怖い。否定姫の仮面を被り続けたわたしが、否定姫の専売特許を恐れる。それは滑稽であると同時に理に適った事象でもあった。

わたしは、この男が死ぬよりも、この男に否定されることが何より恐ろしかったのだから。


「わたしは否定姫さまではなく、名前さまと共に生きたかったのです」


跪く右衛門左衛門。『不忍』の仮面が間近で血の臭いを漂わせた。


「あなたさまがこの歴史の改竄の後、どこかに消えてしまうことは知っていました。否定姫さまという仮面を脱ぎ捨てて、名前さまとしての人生を歩まれるのだと。わたしは、烏滸がましくも願ってしまったのです。その人生に、わたしも組み込まれたいという身に余る望みを」
「右衛門左衛も、」
「わたしは、これからもあなたさまの人生に付き従うお許しを、頂戴したいのです」
「右衛門左衛門、あなた、」
「どうか、どうか」


血塗れの洋装。乱れた髪の毛。変色したリボン。全部が全部、わたしが用意した品々。それらをすべて台無しにされて、平時なら鬼のように怒るであろう崩れきった風貌を前に、わたしは膝から崩れ落ちた。


「名前さま」


もう、無理だ。


「何度もその名前を呼ばないでよ」
「は、申し訳ありません」
「今まで人がいる前では決して言わないでって、約束したのに。どんだけテンパってるの」
「申し開きもございません」
「もう謝んなくていい」
「いいえ、わたしはあなたさまのお許しを得るまでは、」
「だから、いいって言ってるの」


目の前の仮面を撫でる。粘ついた血で指が滑った。

全部、終わった。これで全部、投げ出して、逃げ出したって誰にも非難される謂れはない。

……いいえ、本当は今までだって誰に何を言われることもあるはずがなかった。この道を進んできたのはわたしの勝手。わたしが否定姫の場所にいて、否定姫は四季崎の思惑に組み込まれた存在で、何よりわたしが好きなこのお話を、何も始まらず、それでいて終わることもない物語にしたくなかった。全部わたしの我が儘で、この苦しみは自業自得のはずだった。

すべて終わったら、否定姫の仮面も外してしまおう。わたしの好きだった否定姫そのままの記録だけ残して、わたしはわたしに生まれ変わろうとした。

それが、終わる目前で、こうまで揺さぶられるなんて。物語から外れた歴史が、生きていてくれた存在にともに生きたいと乞われて、自分の本当の望みが分からなくなる。

思えば、人は一人では生きていけないのだ。あの人外埒外とまで恐れられた真庭忍軍が里を作って生活しているくらいなのだから。わたしのような見栄とハッタリだけで生きてきた女が、どうして孤独に耐えられようと思ったのか。


「ちゃんちゃらおかしいわ」


跪いたままの右衛門左衛門の手を取って立ち上がる。


「とりあえずここから逃げよっか。どっかの仮面野郎のせいで時間食っちゃったからね」
「本当はそういう奴だったんだな、お姫さま」
「人間、外身と中身が一致しないものだから。というより、さっきまでよく空気を読んで黙ってられたよね、七花くん」
「空気は見えないから読めんと思うのだが」
「古典的な返しありがとう。まあ、この時代からしてみれば百年単位の先取りだね」
「素になっても言ってることが意味分からん」
「不要。お前が理解する必要はない」
「どうでもいいよ、もう」


そんな、締まらない雰囲気の中、わたしたちは尾張を無事脱出した。もちろん、わたしは右衛門左衛門に抱えられてだけど。

こうしてすべての物語は幕を閉じる。いろんな者がそれぞれの大切な何かのために身を削り、代償を支払い、それでも望みは叶わず、朽ちていった絶望のお話。願ったほうには決して進むことはなく、意図せぬ形で糸は縺れ、紡がれてしまった歴史のお話。最後に残った大きすぎる予想外を持て余しながらも、願った以上の結末を迎えてしまった。そんな否定姫の成り損ないのわたしの人生は、まだ終わらない。


前サイトで公開していたお話を加筆修正してみました。書き残したなあと思うネタが結構あるので落ち着いたらもうちょい書いてみたいです。できれば全十二話で一月ずつ増やしていきたいですね。一応これが一話のつもりだったりします。まにわにとか錆白兵とかとがめとかまにわにとかと絡んでほしいです。真庭語ずっと待ってる。

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