グロキシニア、アトリエ、エスプリ



政府直下の帝國図書館の蔵書には古今東西様々な本が並んでいる。ステンドグラス越しの柔らかい光に照らされてたくさんの本棚が整列する神秘的な雰囲気。普通に生きてきた新米特務司書の私にとって、そこはなんとも宝の持ち腐れのような場所だった。

たくさんの本棚の中に興味を引く本がないわけではない。けれど、私でも知っているような有名な本のほとんどは有碍書として特別指定の本棚で厳重に監視されている。その全部が一緒に働く彼らの代表作だというのだから、とても複雑な気持ちだ。不勉強な私だって知っている有名作はそれだけ浸蝕者に狙われやすい。好き勝手に書き変えられて見る影もない内容になってしまえば、話題に出すのも忍びなくなってしまうものだ。

浸蝕者なる未知の勢力に対抗して帝國が募ったアルケミスト。すごい能力を持つというエリート集団に私のような一般人が徴兵されたのは、私もそのすごい能力を開花させてしまったからだ。侵蝕者によって書き変えられ、人々から忘れ去られてしまった本のことを一般常識の範囲内で記憶している。普通の人が忘れてしまった彼らの作品を覚えている。それだけで素質を見出されるのが特務司書という特異な職業だった。

良いおっちゃんな館長と何故か喋る猫に説明を受けて、最初におっかなびっくり転生させた徳田秋声さん。正直教科書と乱読家の父の話を流し聞いたくらいの知識しかない私には初めて聞く名前だった。秋声さんは納得半分とザンネン半分の微妙な顔をしていたけれど。というか彼はいつも微妙な顔をしているから最近ではあまり気にしなくなった。むしろ感覚だけなら私に近いものがあったので、早々に模様替えした畳の司書室でよく一緒にポテチをつまんで駄弁る仲だ。

浸蝕者との戦闘は文豪のような本に対して強い想いを持つ者じゃないと成り立たない。文豪の魂を持って転生した彼らのみ、有碍書に潜って侵蝕者を屠ることはできない。それだけ彼らは文学を愛し、文学を育て、文学に生かされてきた。中には依存が過ぎたり逆にいい加減な人もいたりするけれど、常人に比べれば十分に逸脱した価値観を持ってるんでしょう。

なら、特に本に対して特別な感情を持っていない人間が彼らを指揮するのはどうなんだろうか? ふとそんなことを館長に聞いてみる。するとアッサリ一言、予想外の答えが当たり前に返ってきた。


『だからお前が選ばれたんだろう』


その意味に気付いたのは、つい最近になってからだ。

帝國図書館に配属されて、すでに季節が二つ変わった。秋に着任し、冬の雪を眺め、春の暖かさを肌で感じる。文学が芸術の分野である限り、彼らとの会話に季節感がくっついてくるのは仕方ないことだ。紅葉狩りも雪遊びもお正月も、子供の頃よりきっちりと行事として取り行った。バレンタインやホワイトデーについては私のやる気の問題で彼らには教えてないけど。知ったら森先生あたりは悔しがるだろうか。こっちとしては、白米をお供にチョコレートを食べるなんて光景、見なくて済んで万々歳だ。


「高村先生? ぼーっとしてどうしたんですか?」


図書館の一角。常設されている椅子に物憂げな男の人が一人。いつもの穏やかでクールな姿が身を潜め、ぼんやりとステンドグラスを見上げる先生。こっちから聞いたものの、答えはもう知っている。彼がこういう顔をする時は決まって作品製作についての考え事だ。


「ん? ああ、この風景を絵にしたらどうかと思って」
「ここを?」
「ここに来て長いのに、まだ描いていなかったことを思い出してね」


やっぱりね。思った通りの答えが返ってきて少しだけ得意な気分になった。

ぐるりと見上げた帝國図書館のステンドグラスは今日も太陽の光を浴びてキラキラしている。高村先生は、それをただ眩しそうにじっくりと観察していた。私には高村先生の金色の目の方が眩しくて、暖かい。

高村光太郎先生は銃の使い手で一番最初に来た文豪だ。秋声さんとオダサクさんの次に来たから古株の域に達している。第一会派でネガティブすぎる秋声さんとポジティブすぎるオダサクさん、ついでに変人すぎる乱歩先生の仲を取り持つ緩衝材的な存在だ。今では秋声さんとのコンビネーションがすごすぎて鏡花さんよりニコイチな関係を築いている。

文豪であると同時に芸術家である高村先生は仕事以外のプライベートはよく何かしらの作品制作をしている。絵を描いたり彫刻を彫ったり、もちろん詩を書いたり。時たま啄木さんにお金を無心されてたり、賢治さんとサイダーを飲んでたり、犀星さんや武者さんと絵の制作をしたり、荷風先生と難しい話をしていたりする。誰に対しても柔らかく、そして生き生きとおしゃべりしていて。ああ本当に今を楽しんでいるんだなあって傍目からでもすぐ分かった。


「できたら私にも見せてくださいね」
「もちろん。一番最初に君に見せるよ」
「みんなの後でいいですよ。荷風先生とか、犀星さんとかの方が素敵な感想をくれるでしょうし」
「そう言わないで。僕は最初に君に見てほしいんだ」


高村先生は本当に綺麗に……嬉しそうに笑う人だ。

彼が笑うと私も自然と笑顔になる。勝手に緩む口がちょっと恥ずかしくて、ごまかすように小さく頷いた。我ながら不純だ。だって今は文学史を守るために戦争をしている。その最中で、こんな個人的な気持ちを高村先生に抱いてしまうなんて。

何より恥ずかしいことは、文豪の半分が私の気持ちを察していることだ。そりゃあ彼らはもともと人ひとり分の一生を過ごした先人たちだ。たった二十年生きただけの小娘の機微なんて透けて見えるのだろう。問題は、肝心の高村先生が私の気持ちに気付いているのかどうか、だ。

今だって、先生はこんな風に気取らず私を喜ばせる言葉を言う。高村先生のような好青年に言われると勘違いしてしまいそうでいけない。オダサクさんは『勘違いすればええやん』とか雑なことを言うし、賢治さんも無責任に『言っちゃえばいいのにぃ』とほっぺを膨らませてくる。啄木さんに至っては『ご祝儀入ったら金貸してくれ』とか……文豪の人たちは物語に生きすぎている。

私は今、恋に恋しているって状態なんだと思う。だって高村先生と結ばれる未来なんて少しも思い浮かばないし、今の関係が崩れるのはよろしくない。戦う彼らの指揮をして、たまのプライベートでお話する。それだけで満足で、それが幸せ。高村先生も、一応上司の私との煩わしい関係なんて求めていないだろうから。戦争が終わるまでずっと、このまま。


「そんなに嬉しそうな顔をされると困るな」
「どうして?」
「そうだな……君からのあまりの期待に手が震えてしまうから、かな?」
「まさかあ」


私が何度、高村先生に同じセリフを言ったと思っているんだ。

爽やかな顔で今さらなことを言う彼に一つ笑って、私は時計を確認する。今日は第二会派の面々との作戦会議の後、新たに出現した有碍書への潜書を始める予定だった。図書館内を通って司書室に集まっているだろう彼らを思い浮かべる。朔さんと直哉さんはともかく、男だらけを嫌う谷崎さんは荷風先生が連れてきてくれるだろう。


「ん。そろそろ行きますね」
「くれぐれも気を付けて。新しい有碍書は何があるか分からないからね」
「もちろんですとも。高村先生も、夕飯には戻ってきますから、それまでここでぼーっとしないでくださいね」
「僕だってそこまで盲目ではないさ」


困ったような顔で笑う先生は、私と同じくらいの年齢の見目でとても深い大人の余裕を見せてくる。くすぐったくも苦い感情が、いつのまに湧いてくるようになったのか。高村先生の肩越しに連行されてきた谷崎さんの姿が見えて、一度自分の中の私情を追い出した。


「じゃあ、いってきますね」
「うん、いってらっしゃい」


これも恋のスパイスの一つなのかね。私は初めてした恋らしい恋に酔っていて、特に深く考えることなく日々を過ごす。このまま、これからも、ずっと。

桜の蕾が膨らみ始めた春。私の後悔はすぐにやって来た。


「鏡花の小言並みにイライラさせてくれるよね」


春真っ盛り。桜が咲いて、近々花見でもする計画が出始めたころ。司書室のちゃぶ台でポテチを広げて、いつものように私と秋声さんの二人で駄弁っていた時。いつも浸蝕者に対して言っているセリフを何故か面と向かって投げつけられた。


「なんで私に言うんですか、ソレ」
「イライラしてるから」
「八つ当たりぃ」
「本人への仕返しは八つ当たりじゃないだろ?」
「ひゃあ辛辣」


何か怒らせることをしたっけ。


「高村がなんかしたわけ」
「いや、何も」
「僕みたいな地味なヤツには色恋が分からないと思ってるのかい」
「秋声さんは地味じゃなくって、堅実なんですよ」
「堅実って地味の隠喩じゃないか」
「頑なすぎませんかね」
「君がね」


秋声さんはいつになく飄々としていた。ここに来てから秋声さんは一貫してネガティブな人かと思えばそうでもない時もある。彼は自信がないことにはいくら言ったって卑屈なままだ。でも一度自信を持つとテコでも動かない頑固さを持っている。それがかっこいいやら憎らしいやら。今回にしたって人生経験豊富な秋声さんにはお見通しなんだろう。そういう題材の本でも書いていたのかな。


「君さ、高村の作品を読んだことがあるだろ」


秋声さんが安いお茶葉で淹れたそこそこの緑茶を啜る。ついでに私も一口啜ると、案外カラカラだったことに気付いた。


「わ、私、文学はド素人ですから、」
「あるんだね。もしくは最近思い出した、ってところか」


秋声さん、本当にイライラしているらしい。いつもは気を遣って避けてくれる話題が簡単に出てきて、私は腹をくくるべきかと思案を始めた。

私の父は乱読家だった。近代文学はもちろん、古典も中世も西洋も日本も故事も好きなものは好きだし、辞書や図鑑や、変わり種だと何かの製品の説明書とか化学の参考書とか、とにかく偏りが半端ない本棚を持っていた。たまに勧められたものを読んで感想を言い合ったりした。その中のほとんどは賞も取ったことのないようなマイナーなものばかりだった。

その本棚が埃をかぶり始めたのが、ちょうど浸蝕者による文学史への侵略が始まったころだ。当然だ。ほとんどの文学は先人たちの名作に感化されて書かれた物が多い。その基礎がめちゃくちゃになれば文学は積み木のように下から崩れ落ちる。崩れてぐちゃぐちゃになった本は父の琴線に引っ掛からなくなり、結果的に私の目にも止まらない。つまり私は父に勧められた本の存在を曖昧にしか思い出せなくなっていた。曖昧に覚えているだけでも特異なのだと館長は言っていたけど。

父の本の中には教科書に載っているような文豪の本も稀に混じっていた。太宰さんとか芥川さんとか、敦さんの『山月記』なんかもあったっけ。あれはびっくりしたな。だって有碍書の浄化が完了した瞬間に頭の中で『我が友、李徴氏ではないか?』というセリフを思い出したんだ。じわりと、インクが滲むみたいに虎の描写が浮かんでくる、それは不思議な感覚だった。

その感覚を久々に感じたのが高村先生の本。出会ってから死別した後もなお愛し続けた彼の奥さんへの詩集、『智恵子抄』。私が好きだった愛の本を、有碍書の浄化が終了したと同時に私は思い出す。

そうして私は恋の終わりを知ったんだ。


「いい詩ですよね……」


智恵子さんを想う高村先生の詩が、ザッと四十編以上。プラス、近代の再編集された小説数編。


「私、『あなたはだんだんきれいになる』が好きだったんですよね。読んだことあります? 女にとっては夢溢れる内容ですよ、年取っても心から綺麗だって思ってくれる旦那さんがいるんですからね。秋声さんとか面と向かってシワとかシミとか指摘してきそうじゃないですか。そこらへん女の人は敏感なんですよ。私とかに言ったらデコピンじゃ済まさないですからね。あ、それから『元素智恵子』とかも私、好きなんですよね。目に見えない粒子ひとつひとつがいなくなった愛しい人の残滓だって、いつまでも自分を満たして一緒にいるんだって……死が二人を分かつまで、なんて言葉すら跳ね除けて永遠に二人は幸せなんですもの。いい夫婦だなって、私も、そんな風に愛される、奥さんに……」


なれたらいいなって、思ってたんだけど。

込み上げてきた何かを根性で飲み下す。焼けそうなほど熱い喉を労わるように、ゆっくり、私はその詩の名前を言った。


「『僕等』が、一番好きでした」


まだ智恵子さんが元気で精神分裂を起こしていない、ただ普通の幸せな夫婦だった時に書かれた詩。愛し愛され手を取り合い、比翼連理な二人の関係は永遠に続くのだと感じさせる詩。そういう関係に憧れた。私の結婚に対する理想が高くなったのは、その詩のせいだと勝手に思っている。

こんな素敵な人と結婚できたらいいなあって。ふわふわと具体性のなかった願望を、私は高村先生本人に向けて現実化させてしまった。それが恥ずかしくて、苦しくて。いっそ一時の思い出にしてしまえば良い小説になるのでは、と誰かにネタ提供をしたくなった。とは言え、すごく取材したそうにしていた藤村さんには絶対話さないと決めているけれど。

恋に恋するお年頃、とか言って。客観的に自分が見えているみたいに思い込んできたものの、結果はこんなにも無様だ。失恋したとも断言できず、かと言ってまったくの無傷なんてこともなくて。いい経験をしたとか達観できるまでにはあとどれくらい時間がかかるだろう。考えれば考えるほどに気が遠くなる。


「君は僕の名前を知っているかい」


一人で悶々としている私を遮るように。秋声さんが深く、それこそ吸ったもの全部吐き出す勢いの溜め息をついた。


「徳田秋声さんでしょう?」
「秋声は雅号。本名は末雄だ。でも、それは僕の名前じゃない」
「どういう意味?」
「僕たちは生まれながらに文豪だけれど、前世のまま生まれ変わったわけじゃないってことさ」


うん? 日本語が難解すぎじゃないですか?

首を傾げた私の様子は最初からお見通しだったらしい。秋声さんは珍しく饒舌に言葉を操る。そういうのあまり好きじゃないんだろうな、という私の半年間の所見を覆すほど。


「僕の前世は徳田末雄という男が秋声と名乗って本を書いた」


彼は淡々と、それでいて一生懸命に自分の話をした。


「だけど僕は生まれた瞬間から徳田秋声だ。この意味が分かるかい?」


そこでやっと、何となくだけど、秋声さんが言いたいことを雰囲気で察した。


『お前が“彼ら”のことをよく知らないからこそ、彼らは日々健やかに過ごせるんだ』


察して、同時に館長が言っていたことの意味に気付いた。“彼ら”とは前世の彼らで、今の彼らのことではないってことを。思い入れがないから、今のそのままの彼らと新しい関係を築けるのだと。


「昔の高村光太郎だって、“みつたろう”が作品を発表する時に“こうたろう”と名乗っただけ。今のアイツは最初から“こうたろう”なんだよ」


生まれた瞬間から高村光太郎。

その事実が、思ったよりも簡単に自分の中に落ちてきた感覚。

高村先生は、本当は高村先生じゃなかった。いや、記憶とか思い出とか思想は高村先生なんだけど、彼自身は丸まんま前世の高村光太郎ではなく、文豪としての意識を抽出して新しい人間として作り変えられた。帝國錬金術師たちの血と汗と涙の結果、彼らは文豪である以前に文豪とは別人の身体を持って現代に生まれ別人の見た目で今を生きている。

彼らは生まれながらの文豪ではあっても、彼ら自身は現代に生まれた人間と同じなんだって。偉大なる文豪ではなく、ただの一個人としての意識を持ってちゃんと生きているんだって。

概念とかフィーリングの話でしか理解できなかったけど。とにかく、文豪として生きていた前世の彼らを知らない方が、彼らの精神衛生的に都合が良かったってことなんだと思う。その点、私は他の頭の良い人よりも最適な人材だったわけだ。

それが、中途半端に知っていることがあるせいで今さらこんな面倒な気持ちに振り回せている。館長、問題ないとか笑っている場合ではないんじゃないかな。


「私、この仕事向いてないわ……」


元々向いているって自信はなかったわけだけど。


「はあ!? 君、本当に僕の話を聞いていたのか!?」


ガタンッ。秋声さんがちゃぶ台を蹴倒す勢いで立ち上がった。そして普通に膝を打っていた。わあ、痛そう。じゃなくて。スッキリとした目元を痛みと怒りと呆れで釣り上げた秋声さんが、私を見下ろして耐えるようにスーハー深呼吸した。こんなに感情をあらわにしているのは鏡花さんにイラついている時か、紅葉先生にイジられている時くらいだ。

何だか珍しいを通り越して怖くなってきて、見下ろす顔を下から伺いながらしどろもどろになった。


「と、特務司書の心構えの話では……?」
「違う。高村と君の痴情のもつれだよ」
「もつれるほどの痴情が相手にないんですが」
「あるから話を振っているんだろ」
「……はい?」
「あー、くそッ。こういうのは本人同士で決着をつけるか、そういうのが好きな連中に頼ればいいのに」
「いや、秋声さんからイライラするって八つ当たりされたんだけど」
「僕が真っ先に八つ当たりされそうだから仕方なく動いてやったんだ」
「八つ当たりって、誰に」
「高村しかいないだろう」
「うっそだあ」


高村先生はそんな人じゃないし、秋声さんは優しいからそういうことを言って私を元気づけようとしている? それだったら逆効果だ。だって私はもう、高村先生に純粋な気持ちを向けられない。彼に恋い焦がれると同時に頭の中では私が好きな愛の詩が溢れてくる。彼の中には死別した智恵子さんがいて、当たり前に永遠の愛を誓っているんだろう。それでも彼が好き、とか。報われない恋愛にいつまでも浮かれ続けるなんてこと、流石に私の気力がもたない。

畳みに寝っ転がってぼんやりし始めた私の、顔の横に白い足袋がダンッと踏み込まれる。言わずもがな、怖い顔がさらに怖く歪んでいらっしゃる。


「君の高村光太郎の詩への愛はよく分かった。でも今回はいったん横に置いて、今の高村だけを見ろ。高村にとってその詩は過去の作品なんだ。過去と現在は切り離せ。今を見て、触れて、話して来い。絶対だ。なんなら今行け。すぐ行け。行ってくれ。頼むから、本当に」
「で、でも」
「行け」
「ひゃい」


こうしてあえなく、私は自分の司書室から図書館へと追い出されたのだった。



***



今の僕の道を決めたのは僕自身だ。

だから現状に不満なんてないし、むしろ充実した日々を送っていると自負している。戦いは好かない。平和が一番。だけど、平和になるための戦いだと言うのならひとまずは仕方ないと手を貸す決心はついた。

浸蝕者に対する認識は本を劣化させる紙魚くらいのものだった。それがインクを垂らして文字を駄目にする子供、次いで勝手に原稿を推敲する編集、と徐々に推移していく。それだけでもおぞましい存在だというのに、さらに唾棄すべきものに変わったのは彼女のことがあってからだった。

もう彼女の顔を見慣れてしばらく経っていた。

特務司書として帝國図書館に住み込みで働く錬金術師。僕たちを人間として転生させ、有碍書の管理を任されている。ほどよく真面目でほどよくいい加減。自分の役割をよく知っているけど、自分個人に関しての重要性は驚くほど薄い。戦争をしている責任感や戦う僕たちに対する心配と負い目を無意識に隠しにしている。今も昔も価値観が変わらないのなら、僕たちが良く知る大衆の人間なのだろう。


『お疲れさまです、高村先生』


彼女は初対面の相手に必ず『先生』とつける。けれどだいたいは相手から訂正が入ってさん付けになるか、誰かに釣られて呼び名が変わっていることが多い。今でも先生と呼ばれている人のだいたいは他のみんなに『先生』と呼ばれている場合がほとんどだ。

じゃあ、なんで僕は『高村さん』じゃなくて『先生』のままなんだろう。

僕以外にも何人かは『先生』と呼ばれている人がいて不思議に思っていた。折を見て聞こうかと思い立った頃、彼女の初めての変化は突然にやって来た。


『高村先生、敦さんどこにいるか知りません?』


その時、自分がいつもの自分でいられないような感覚に陥った。転生したてで、自分が高村光太郎の文豪であったことがまだ理解しきっていないあの混乱に似ている。けれど僕はその時にはとっくに転生して半年近い時を経てすべてを飲み込んでいたし、そこそこ友人に近い関係を彼女と築いていた。

なのに、自分が分からない。

後から理由を考えてみれば、それは中島くんの呼び名の違いに起因するのだと推測できた。彼は僕と同じく何故か彼女に『先生』と呼ばれている。それが急に下の名前を呼ぶようになったのだから、驚いても仕方ない。自分自身をひとまず落ち着かせて、何気ない風を装って彼女に尋ねた。『ずいぶん仲良くなったんだね』口の端が上げにくい。違和感はちゃんと隠し通せていただろうか。

彼女が言うには、浸蝕者による攻撃で記憶が一部欠落しているのだと。中島くんの作品は学生の時分に少し触れた記憶があったが、実は父君に勧められて読んで印象に残っていたことをすべからく忘れていたのだと。『高校の教科書の内容は表題しか覚えてないんですよね……』恥ずかし気に髪の毛をいじる彼女に心の臓が圧迫される。彼女にとって父君から勧められた本の作者はすべて『先生』なのだと思う。なら、僕の書いた本も彼女は以前に読んでいて、忘れてしまったのだろう。それが寂しく、侘しい。こんなにも身近に浸蝕者による攻撃の弊害があって気付かなかった。

いや、そんなものは建前だ。僕は、僕の詩を読んだかもしれない彼女に会えなかった。いや、それだって違う。『高村さん』でも『光太郎さん』でもいい。前世の僕じゃなく今の僕を呼ぶ彼女の声を聞きたい。そうだ、彼女は今前世と今の僕をないまぜにして相対している。きっと中島くんもそうだったんだ。そして彼の作品を思い出した瞬間に彼女は文豪ではないただの中島敦を認識した。

きっと、いつか僕にだってその時は来るのだろう。

答えに行きつくと、今までの違和感はなんだったのだと首を傾げるほどスッキリとした。僕の本の有碍書はまだ見つかっていない。けれど僕の作品が後世に遺っている形跡はなく、だからこそこうして転生させられた。だからいつかは僕たちの前に見るも無残な姿で現れるに違いない。みんな眉を顰め嘲笑い悲嘆する己の作品の末路。それを体験することへの憂鬱さは、彼女に名前を呼んでもらう期待で僅かに薄れた。

スケッチブックに鉛筆を押し付けるように頭の中で構図を考える。ステンドグラスの光もさることながら、優美な曲線を描く図画もまた魅力的だ。何より、その光をいつも浴びている彼女を想像して、自然と眉尻が下がっていくのを感じる。今いる椅子からは司書室の扉と、彼女が図書館内でいつも立っている特務司書用のカウンターがよく見える。

助手をしている時に見慣れた空間。僕は初めの頃にやってきたから、彼女の成長ぶりを知っていた。司書、という名に違わず、本職と同じだけの教養と技術を要求される毎日。有碍書がある時はもちろん僕らのサポートを、傷を負えば補修と称して休憩室に連れて行きメンタル面での話し相手になってくれた。有碍書が現れない時は帝國図書館内の本の点検を一人で行っていた。ここが錬金術師たちの不思議な術で普通の本なら時が止まったように劣化はしないけれど、責任者が異変に真っ先に気付かなければいけないと毎日広い館内を見回っていた。一人でするにはいささか広すぎるため、待機している第三、第四会派のいずれかが手伝う日課になっている。

僕は最初期にやってきたおかげで第一会派で有碍書に潜ることが多く、必然的に助手や見回りの役はほぼない。休憩室でのちょっとした会話と、自由時間でたまに彼女とすれ違うくらいの接点。淡い繋がりがもどかしく、早く僕の本が有碍書として浄化される日を待ち望みながら、徳田さんを羨む日々だった。

徳田さんが羨ましい。一番初めにここに来て、一番に彼女の絆を築いている。彼女の忘れ去られた記憶には彼はいなかった。だからこそ気軽に名前を呼ばれ、二人で気さくに司書室で話せる。僕はまだ『先生』と呼ばれるだけの距離なのに。

頭の中で走らせていた鉛筆がいつの間にか止まっていたようで。じっとステンドグラスを見上げる僕の視界に、幻のような姿が割って入った。彼女だった。

彼女が僕の作品に興味を持つのはいつものことだ。彼女は何事にも一定の興味を持つ。子規さんの野球にも太宰くんの自分語りにも、永井さんと谷崎くんと三人で能を見に行った話も聞いた。『みなさんのおかげで少しは博識ぶれそうです』おどけて見せる彼女からは少女のような幼さが滲んで溢れている。そこが可愛らしいと思った。


『一番最初に君に見せるよ』


少しだけ、僕の気持ちを乗せて。

言ってみたものの、出来上がった絵は誰にも見せることなくアトリエに放っておかれることになる。


「『智恵子抄』の浄化が終わってから近代で再編集されたものを読んでみたのだけれど、巻末に何度か仕事をした知人の手記が載っていてね。僕はまだ忘れていたことがあったらしい。思い出せて楽になったよ」


何でもない日だった。だからこそ、何かが起こる日でもあった。

僕のアトリエにやってきた彼女が、死にそうな顔で扉を叩いた。とりあえずは手を洗って、備え付けのキッチンからお茶と取っておいた胡麻団子を持ってくる。嬉々として手を付けると予想していた彼女は沈痛そうな顔でお茶の水面を凝視していた。そうだろうと、僕は諦観の姿勢を取る。諦めているからこそ、口は滑りよく思ったことを長く垂れ流すことができた。

新しく出現した有碍書は僕の本の為れの果てだった。そして、彼女は僕に近寄らなくなった。

何故、と逡巡して勝手に納得が勝る。彼女は、嬉しくも僕の作品を気に入っていたのだろう。それゆえに、作者である人間に理想で塗り固めた願望を抱いてしまった。そして思い出した瞬間に本人を比べて失望したのだろう。理想は高ければ高いほど落差に苦しむ。書き手としては良くあることだ、と。何も知らないふりをして、僕は彼女が見える図書館の風景を無心で描き続けた。誰にも見せる相手などいないのに、描き終わるまで何も手を出すまいと勝手に自分を諫めて。


「我ながら子供じみたところがあってね。編集や同業者よりも先に自分の成果を見せたい相手が決まっているんだ」


“あの頃”は、見せる相手がいなくなってしまう恐怖でおかしくなりそうだった。僕は弱かったし、弱ってもいた。厳密には僕ではないけれど、ほとんど僕のような彼が心底弱り切っていた。その光景は他人事のようでも鮮明に覚えている。思い出している。

でも、だからって、今その不安と絶望を持つことがおかしい。僕にはまだ見せる相手がいるじゃないか。“あの頃”の妻ではないけれど、“僕”にとっての道はもう、目の前の彼女しかいないじゃないか。


「一番最初に見せるよって、君に言ったじゃないか」


約束を忘れてもらっては困るよ。なけなしの余裕を掻き集めて微笑めば、無言で固まる彼女と相対した。


「高村先生は、」


茶器を両手で包みこんだまま、彼女はその呼び名を口にする。久々に聞いてムッときたけれど、僕の顔はまだいつもの笑みを浮かべていたらしい。長い前髪を払って相手の表情を良く見ようと目を凝らす。いつも淡々としゃべる唇がか弱い子ウサギのように震えて何事かを伝えようとしている。僕はすぐに席を立って、椅子に座る彼女の傍に膝をついて下から覗き込む。落ち着いた茶の瞳が風に揺られる湖畔のような動の気配を帯びていた。


「職場恋愛についてどうお考えですか」


……うん?

言った相手はとても真面目な顔で僕を見ている。反面、僕はなんだか心底気が抜けてしまって、彼女の手から茶器を取り上げる。突然のことに固まった手に僕の手を滑り込ませ、やんわりと絡ませた指と指。触れた手の甲は驚くほどに滑らかで、僕に女性らしさの象徴というものを知らしめてきた。


「え、手、高村先生、手」
「光太郎と、呼んでくれたら離すよ」
「え、え、」


職場恋愛なんて、ここには彼女くらいしか女性はいないのだから、意見を求められた時点で半分はそういうことだろう。問題はもう半分の可能性だけれど。


「こ、こうたろう、さん」


うん、心配はいらないみたいだ。

ゆっくり手を離して立ち上がる。真昼に見るには毒な赤い頬が窓からの光に照らされた。ステンドグラスの光よりも、それは神々しく、永遠を直に感じられる。得難い光と対面している事実に為す術もなく高揚した。


「うん、僕も好きだよ、名前さん」
「へ……」


心底分からないという顔を見届けず、僕は瑞々しい彼女の背を抱き寄せた。彼女は椅子に座っていたから、結果的に腹に顔を押し付ける形になって、僕は堪らず上から覆いかぶさるように背を丸めてより抱き締める。脳裏に過ぎる記憶は幸福と絶望との落差が恐ろしく、いつか来る終わりを覚悟させられる。一方で、それは今考えねばならないことなのか、という疑問もすぐに湧いた。いいや。今の僕は歓喜と安堵で未来に目を向ける余裕なんてない。だったらやることは一つ。


「光太郎、さん」


この腕の中の幸いを、ただ、感じていればいい。



参考文献は智恵子抄とウィキでお送りしました。私が智恵子抄を持ち歩いていることと、ゲームで最初は推しでなかった高村先生が使っていく内に好きになっていたことと、『文豪を転生させるってこういうこと?』って雑な考察と、とにかく名前だけいろんな文豪を出したい願望を詰め詰めに書いてみました。高村先生の詩が好きなのはもちろんなんですが、奥さんの死が迫っている時に「僕の作品を見せる相手がいなくなってしまうどうしよう(意訳)」な高村先生にキュンときます。おすすめです。

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