やさしいせかい/fin.



傷一つない白い手が左目を覆う。視界いっぱいが暗く閉ざされるその時間が、俺は昔から好きだった。

伸ばされた手に自分の手を重ねると、右目から名前が微笑むのが見える。心底安心したような顔は、初対面の時のことを思い出しているのかもしれない。十年も昔のことだ。まだ覚えてるのかとか、そう簡単に馬鹿にできない。それほどコイツには衝撃的だったのか。そう考えると体の芯から凍りついていくような気がした。右側を使いすぎた時のような、あの感覚に似ている。唯一違うのは忌々しいはずの左側に添えられた名前の熱だけで。これがまだ俺に触れているということだけがただ救いだった。


「焦凍は優しいね」
「……なにが」
「だって、触っても怒らないもの」


びくりと震えた手。左目の瞼を柔い手が擦る。擦れたのはコイツの手だったが、震えたのはもちろんコイツの手じゃない。添えていただけの手が名前の手を握り潰そうとするのを必死に諌めた。


「どっちが優しいんだよ……」


十年前だ。顔に火傷を負ったばかりのあの日。病院の待合室で隣に座ったコイツ。初めて姉以外に同じくらいの年の女の子に会った。名前は初対面で包帯で覆われた俺の顔を心配して、手を伸ばしてきた。その時から今の優しさの片鱗があったらしい。恐らくは純粋な善意の塊だったはずのその手を、俺は叩き落とした。ただ怖かった。あの白い手が、大きさも形も違うはずのお母さんの手と重なって見えた。また否定されるのかもしれない。醜いと、憎しみに濡れた顔でまた罵ってくるのだろうか。叩かれた手を抑える何も知らない名前を、俺は力いっぱい睨みつけたんだ。

名前は泣かなかった。最初に丸い目をさらに丸くして、次の瞬間には安心したように笑ったんだ。真意は未だに分からない。けれどそれから現在に至るまで、コイツは俺を優しいと言うようになった。

それが何の偶然か。もしくは幸運か。五歳の俺が傷つけた名前が、今こうして俺の隣で微笑んでいる。世間の汚いものを何も知らず、何も染まらず、何も受け付けない。全部綺麗なものに作りかえてしまうような女が、俺のそばに寄り添っている。醜い左側も、お母さんの右側も、全部綺麗だと言う。火傷で爛れた皮膚でさえ名前にかかれば愛しいものに変わってしまうらしい。俺だけに向けられる感情を優しさと言わずして何と言えばいいのだろう。

左目を覆っていた手を頬までよけると、名前の唇が俺の左瞼に降ってくる。それさえもただ優しく。触れて離れるその瞬間まで、花びらでも降ってきたんじゃないかという錯覚すらあった。


「こんなことしても、許してくれるのは焦凍くらいだから」


初対面で手酷く拒絶したせいか、名前は自分の手を拒まないというだけで俺を優しいと言う。コイツへの好意を自覚するまであんまりな態度しかしてこなかった。愛想も何もない受け答えを繰り返すだけの俺を、本気で優しさに満ち溢れた人間だと信じて疑わない。そんな俺に優しくすることはコイツにとっては息をするよりも当たり前のことなんだ。


「……俺以外にしたら、許さない」


昔から変わらない微笑みを浮かべる名前に、少しだけムッとしてその薄い体を引き寄せた。

世界は優しさで出来ていない。汚いことも醜いことも当たり前。優しさなんてどこに転がっているのか見当もつかない。だからコイツが見ている現実は全部嘘だ。世界のどこにもそんな楽園は存在していない。コイツが優しいと思うこの世界で、本物なのは俺だけで十分だ。

優しさを吐き出すばかりの唇に、優しさの欠片もないキスを贈る。それでも名前は、俺を優しいと言った。



***



生き物が死んでいく温度を知っている。知りたくなかったけれど、覚えている。暖かかった毛布が放置されて冷たくなっていく感じ。もう暖かくならない毛布を見下ろして、涙と吐き気を堪えながら目の前の台に置く。まだ終わらない。もう終わって。強く祈っても私の手にはまた新しい毛布が届けられた。お願いだから冷めないで。目を瞑って手のひらに意識を注ぐ。そうして冷たい毛布は増えていった。

最初はこんなんじゃなかった。

道端で、野良犬に噛まれた猫がいて、みゃーみゃー死にそうな小さな体が可哀想だと。『いたいいたいの、とんでいけー』三歳の私は血の滲んだお腹を撫でた。猫は弱々しく暴れながら鳴いていたけれど、次第に力は弱まって静かに眠ってしまった。痛みも何も感じないで、暖かい寝床のある家猫みたいに幸せそうに呼吸をしていた。そう、あの時は確かに、冷たくなることなんてなかったのに。私は眠ってしまった猫を見て思った。私の手は魔法の手なんだって。『いたいいたいの、とんでいけー』それから何度も何度も、調子に乗って、エスカレートして、それで……。


『おかあさん。せんせい、おきた?』
『ええ、もちろんよ』


保育園で、いつも優しい先生が具合が悪そうだった。だから私は魔法を使った。先生は一ケ月も目を覚まさなかった。


『名前ちゃん、あなたの“個性”は魔法の手よ。たくさんの人を救える手なの』
『おかあさん?』
『まだ人に向ける時じゃない。だから練習しましょう。大丈夫よ、お母さんもお父さんも応援しているからね』
『何をするの?』
『名前ちゃんに魔法使いになってもらうの』


『ごめんなさいね』お母さんは小さく謝った。私はよくわからないまま言った。『いいよ』って。手を引かれて連れて行かれた病院の、奥の奥。白い部屋の中、監獄みたいに遠くまで敷き詰められたゲージからうごめくたくさんの気配。肩に置かれた手が震えるほど痛かった。

私の“個性”は『麻酔』。手で触れた生き物に薬で麻酔をかけるのと同じ状態にさせる。違うのは副作用がまったくないってことと、薬が効かない人にもちゃんと効果があるってこと。お母さんもお父さんもお医者さんだったから、二人はその有用性を怖いくらいに知っていた。

たとえば、がんの末期患者は完治が絶望的になると、どれだけ楽に余命を過ごせるかという方向に治療がシフトチェンジする。けれど悪化した体にはどんな薬も効果が薄いことの方が多い。普通の麻酔が聞かなくてモルヒネを使っても副作用ばかりが強くて効果が微々たるもの、なんてこともあるみたい。そんな人に、副作用もなく絶対に効く薬があると言ったらどう思うだろう。もう死ぬしか苦しみから解放されない。けれど誰も殺してくれない。そんな時に、少しでも痛みから逃れられる薬があるとしたら、それは救いだ。

お母さんもお父さんも、私に求めたのはその薬になることだった。


「お前は優しすぎる」


焦凍との初対面は、何匹目かも分からない毛布を冷たくして疲れ切っていた時のことだった。

“個性”を使いすぎてぼんやりしていた頭は、先生に触れた時と同じようなことを考えていた。火傷を負ったばかりで、定期検診で病院に来ていた五歳の男の子。『いたそう』『かわいそう』『はやくよくなって』ノロノロ伸ばした手がその子に叩き落とされて、初めて自分が何をしようとしていたのか理解した。また先生みたく眠らせたとして、先生みたく起きてくれる保証はない。そしたら、今度こそ私は人殺しだ。それも良いかもしれない。もう人を救うために生き物を殺すのは嫌だ。

一瞬浮かんだ笑み。とても自己中心的な考えだった。今思い出しただけでゾッとする。現実から逃れるために焦凍を殺そうだなんて、当時の私は疲れ切っていて、狂いかけていたんだって。


「焦凍は優しいから、そんなことが言えるんだよ」


優しい考えしか知らないから、私にそんなことが言えるんだ。

もう誰も何も冷たくしない手のひらは、それでも簡単に生き物を殺すことができる。そんな凶器に触れられても焦凍は快く受け入れてくれる。また私が一時の気の迷いで殺してしまうかもしれないのに、焦凍は私の手に触れてくれる。この手を拒否して正解だった五歳の自分の行動を心の底から悔いて、無条件に私の手を愛してくれる。そんな焦凍は、私にとっては優しすぎる世界だった。

ヒーローになるためにお母さんを捨てさせられた焦凍と、人を救うために生き物を殺し続けた私。誰かの救いになるために、自分が苦しい思いをする私たち。矛盾しているようで、きっとそれは世界の当たり前だ。誰かの喜びは誰かの悲しみで、誰かの救いは誰かの苦しみに繋がっている。そんな誰かの幸せを、四六時中祈ることなんて私には耐えられない。焦凍のように優しくない私には潰れてしまうほどの重荷だろうから。

私たちだけの優しさが、私たちにとっての優しすぎる世界で、私たちしか分からない幸せの中を一緒に生きて行く。強く吸い付いてくるこの唇だって、きっと優しさの1つになってくれるでしょう?


「焦凍は優しいから、だいすきだよ」


優しい焦凍が、私の世界。


お互い微妙に勘違いしてる共依存な似た者カップル。別サイトで載っけてた話に彼女サイドを新しく書き加えたら闇が深くなりました。彼女の両親は別に虐待とかじゃなくて、“個性”で娘を犯罪者にしたくないという思いから国に許可を取って実験用ラットで訓練させていました。動物好きな方すいません。

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