蛇足



柔らかな光が降り注ぐ表層を、ただ沈黙をもって眺める自我。深層に立つ俺がいつ浴びることになるのか、今になっても分からないままでいる。

長いフライトを終えて辿り着いた空港。どこもかしこも真新しい空間を、こうも連続して見ると逆に慣れてしまうものだ。アメリカのワシントンから何時間とかけてやってきた日本。何の因果か、外交官の親を持つボンボンとして生まれてしまった俺は、今まで異国の地で何不自由なく育ってきた。だから日本の地を踏むのはこの体では初めてになる。

日本が戦争に負けたのは数えて六十年以上も前になるらしい。負けて得た未来。腑抜けた顔で歩く人間。テレビの向こうで反戦と平和を唱える政治家。陛下を現人神だと崇める狂信者は皆死んだ。大日本帝国を知る人間は皆老いた。俺たちが孤独の道を歩んだ意味は結局、どこにもありはしなかったのだろう。事実と納得はコンマ数秒の間を置いて降ってくる。そう思った方がまだ気が楽だった。スパイの道を進んだのはもともと自己満足のためであって、御国も家族も、結城中佐のためですらない。所詮、俺は自分のためにしか生きられない人間で、あそこの連中はみんな似たようなものだ。同じ穴の狢。佐久間中尉の言うところの化物というものなのだろう。

生まれ変わってもなお、禁忌の扉は中途半端に開いたまま。錆び付いて動く様子はない。変わらず隙間から覗く感情は死に際に行き着いた本心。綺麗に撫で付けられた後頭部と細身の背中。あの張り付いた笑みはこちらからは見えない。それは“彼奴”が振り返らないからか、俺が声をかけないからか。どちらにしても今の俺には関係ない話だ。思い出すだけ無駄ならば覚えているメリットもデメリットもない。開きかけた扉は階層の奥底で寂しく忘れ去られていくのだろう。

スパイであったのは昔の話。今の俺は、ただのしがない一般人だ。

そのはずなのに、何故日本に戻ろうと思ったのだろう。ビル風と共に飛んでいく枯葉を横目で追った。

以前の面影のない道を、事前に調べておいた情報のみで歩き回る。昭和十年代の記憶の中の東京。大東亞文化協會跡地は真新しい高層ビルで面影も何もあったものではない。毎夜繰り出していたダンスホールも神永が気に入っていたカフェーも、実井行きつけの煙草屋も福本の使いで訪れた魚屋も。残っているものもあれば跡形もなく変わってしまった場所もある。そのどれを見ても俺の意識は一向に惹かれなかった。ただ昔と今の写真を並べて観察しているようなものだ。こんなにも無関心でいられるものだとは、我が事ながら呆れすら湧いてくる。

大方、過去の自分の記憶の整理だとか精算だとか、そういうくだらない目的のための現実逃避に違いない。俺なりに随分と人間らしい感情を持っていたのだなあ、と。出来の悪いガキでもあやすような心持ちで仕方なく渡日してきたというのに。蓋を開けてみれば検討はずれの答えだったらしい。相変わらず化物の片鱗が残っているものだ。

化物ついでにあの人にでも参ってこようかと、軽い気持ちで入った境内。国の英霊が所狭しと祀られるそこで目当ての名前を探す。そうして、結局見つからなかった事実に少なからず驚いた。

都心から電車を乗り継いで一時間。古いながらもよく磨かれた墓石。いくつも連ねられた名前はどれも見覚えはない。どれが彼の名前か、覚えている必要もないのでもう忘れた。どうせ俺が使う呼び名は一つだけだから。


「お久しぶりです佐久間さん」


花も線香も土産もない。背広と革靴で腕を組んで見下ろす。結局、あの実直な軍人は英霊として祀られなかった。祀られる未来から見放されてか、はたまた必死に逃れてこの冷たい石の下で眠っている。良いか悪いかはともかく運のある人だった。亡くなったのはちょうど四半世紀前。俺が生まれる先年に病死したのだとか。まあ、病魔に冒されている身でまた化物と対面することはあの人にとって心労でしかないだろう。その点では、運が良かったとどこかで笑っているかもしれない。

あの世か、現代の日本で。


「あなたの嫌いな化物はみんな死にましたよ」


俺は生まれ変わった。スパイはもうできない。大日本帝国は死んだ。民主制の日本がここにある。佐久間中尉の知っている日本はもうどこにも存在しない。そもそも、俺たちが知っている日本はどこもかしこも偽りのハリボテだった。


「結局、誰も本当のことなんて分からないものだな」


人より、何より軍人である佐久間中尉より、広い視野で世界を見てきたつもりだった。けれど所詮、それも独りよがりの自負だったのだろう。日本に来てから呆れの溜息が何度も口から出ていく。こんなにもあっさりと昔の身辺整理が出来てしまったのだから、飛行機に乗ってやって来た甲斐がない。

俺のこの記憶が夢か現かさえ確信できなかった。それが分かっただけまだマシだろうか。誰もいない石に向かって独り言を呟く程度には疲労を感じているらしい。軽く肩をすくめて行きと同じく手ぶらのまま、墓に手を合わせることもなく踵を返す。その瞬間、今まで錆び付いていた扉が音を立てる。

軽やかなノックが三回、突然俺の耳元に届いた。



「忘れたのか、見えないものにこそ物事の本質があるのだろう?」



扉の向こうから死者がこちらを覗き込む。そんなゾッとしない幻覚が脳裏を過ぎった。禁忌の扉だなんて大層な呼び名を作ったところで、そんなものは元々ありはしない妄想だと。鼻で笑って指摘するように、革靴の音が石畳の上を歩いてくる。メリットデメリットでその存在を忘れようとしたくせに、体はこんなにも抑えきれない感情で震え始めるのだ。

己がどんな顔をしているのかすら自覚できないまま、唇は滑るように軽口を叩き出した。


「なんだその白百合は。自分の墓でも参考にしたのか? 鑑みるに、貴様の柩はずいぶん“らしく”飾られたようだな」
「ああ、僕の顔に似合いの花だろう?」
「性根でいえば、今から供えられる相手の方がよほどお似合いだな」
「冗談。イワシの頭に飾る花なんて、タンポポあたりが妥当だ」
「死者への供物を刺身のツマ扱いか」
「だって、ここには誰もいない。骨にも満たないゴミだけだ」


きっちりと整えられた髪。生白い肌。やけに赤い唇。手に持つ花束の意味は『純潔』。全てが全て、絵になる美しさを纏っているというのに、その整えられたかんばせからは死者への冒涜が垂れ流される。なんと矛盾を孕んだ光景だろう。それがこの男をこの男足らしめる要因に違いない。

貴様は、やはり、

一度開きかけた口を閉じ、俺は堪え切れず笑ってしまった。


「……貴様も一度はそのゴミになったのだぞ」
「貴様が言えた義理ではない。そうだろう?」


ああ、そうだ。その通りだ。貴様が言うことは正しい。何もかも、正しい。だからこそ、こんなにも求めてここに舞い戻ってしまったのだろう。存外人間らしい感情で、またこうして巡り合ったというのに。巡り合った自覚がある時点で俺たちは何も変わらない。完璧な人間にも完璧なスパイにもなれなかった、腑抜けで、独りよがりで、半端者で。

結局、俺も、貴様も。


「死んでもなお、化物のままだな」


そうだろう、三好。尋ねると共に初めて寄せ合った体。押し潰された白百合が弱い悲鳴を上げる。近付いて、肩に額を乗せただけの触れ合いはただ、温かくて。満たされて。人を小馬鹿にした顔も見えないというのに、何もかもを分かった気になる。

それも所詮、独りよがりだ。


「貴様の目は、いつまで経っても節穴だな」


耳元で囁かれる声は、酷く掠れていた。


「化物が抱擁ごときで泣くものか」


都会の片隅に忽然と現れた墓地に、遮るものなど何もなく。降り注ぐ陽光は俺たちの姿を否が応でも明らかにする。滲む視界は光を拡散させて、世界には暗闇など存在しないのだと錯覚させられた。死に際にスパイとして泣けなかった涙が溢れ出す。俺の眼球に膜を張り、目から頬を伝って三好の背広に滴った。途端に首筋をかする湿った肌。スンスンと鳴る鼻が聞こえ、三好がどんな表情をしているのか何とは無しに思い描いた。


「貴様も、難儀な男だ」


『貴様が見つめるのは僕だけであってほしかった』などと突然言われてどうしろと言うのだ。俺にだって、俺たちにだって口にしなければ分からないこともあるのだぞ。俺が三好だけを見つめていたとして、絶対に貴様のものになる確証はないというのに。正しい判断を下せる男が、私情になるとこうも不器用になる。これでは素直になれない貴様の代わりに俺が素直になるしかないじゃないか。

ようやっと背に回せた手がもがくように相手を抱き締める。一度死んだ俺たちに似合いの場所で、より一層触れ合った相手からは生きている温度を感じ取れた。俺たちは人間だ。どうしようもない自負心と孤独の化物に飼われていた、ただの人間だ。

人間は結局、一人では生きていけないのだ。


「三好、」


言いかけた唇は艶やかな赤に飲み込まれる。まるであの時の夜のように、けれど少しだけ近い距離で瞳を覗き込む。三好は数度瞬いてから“幸せそうに”目を瞑ってしまった。もしくは、これが正真正銘の幸せなのか。

なんだか無性に煙草が吸いたい。落ち着かない衝動を誤魔化すように俺も目を閉じる。瞼に浮かぶ夜空を掻き消すほどの晴天。血潮のかよった皮膚を通してなお陽光は眩い。いつかの紫煙がどこからともなく立ち込めて、数瞬であの日の夜へと消えていった。


ゲーム・セット
以上、再会編もとい蛇足でした。佐久間さんは怒っていい。一応D課設定で佐久間さん以外は前世の記憶持ちだったのですが、まったく活かせなかったので機会があればまたチャレンジしたいです。ここまでのお付き合いありがとうございました。

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