ラブ・ゲーム/fin.



深い深い階層の奥底。死ぬ直前まで固く閉じられた禁忌の扉。それが今音を立てて開いた。

血が大量に溢れ出し、とめどなく床の上を滑っていく。明らかに人が生き残れるような出血ではない。優秀すぎるほど優秀な頭がすぐに答えをはじき出す。あと二分か。救援を頼み治療が終わるまでもってくれる限度を超えている。突然の爆発。建物の崩落。支えを失った天井が部屋全体に降り注ぎ、折れた柱がちょうど腹の真ん中に穴を開けた。恐らくはこの国で活動する抗日家たちによる無差別攻撃だろう。最近活発化してきていることは既に知り得た情報だ。それがまさかこんな日本街の中心部で爆破テロを始めるような阿呆だったとは。そこだけが俺の誤算だろう。腑抜けめ。結城中佐の嘲りが耳を擽った。

記憶を洗ったところで憂慮する失敗は見当たらない。何もかもが完璧に終わり、結城中佐に報告まで済ませ、明日帰国する手筈だった。それがこの様だ。俺は死ぬ。スパイとしてではなく抗日運動に巻き込まれた不運な日本人として。死。なるほど、これが俺の死に時か。理解した瞬間に自然と瞼から力が抜けた。

階層の扉が開かれる。一つ、二つ、三つ。いくつも暴かれていく深層心理の向こうにお綺麗な笑みを浮かべる男が立っていた。


「………………」


三好、何故そこにいる。

心臓が大きく高鳴った。血流が早まる。出血が増える。理性の叱責を押しのけて気付くはずのない真実が浮き彫りになっていく。

俺の同期の男。それ以上も以下もない、ただの男だ。ただ人を食ったような態度だけは少し鼻に付いた。波多野も神永も……否、あそこにいた者のほとんどはそういう男ばかりだ。俺だってその一員であったはずなのだ。それでも何故かあの男だけは違う。恐らく俺は彼奴が嫌いなのだろう、と。その感情を深く己の底に沈めて隠した。個人的な感情は任務に支障を来す。三好はいつも任務の最善を歩んでいる男だった。その手腕に否やを唱える必要は皆無。勝手な感情であの男の歩みを止めさせるのは俺の矜持が許さない。幸いと言うべきか三好も俺もよく海外での任務が多く、たまに帰国時期が被った時にしか顔を合わせなかった。長く閉じきった感情は三好への嫌悪を忘れさせた。

腑抜けめ。思えば結城中佐から同じ叱責を受け始めたのは三好が死んでからだ。どんなに完璧な任務を終えてもその評価は覆らない。辞任を促すわけでもなくただ俺を見下すのだ。中佐には何が見えている。三好が死んだからと何も変わったつもりはなかった。それでも田崎あたりは声をかけてくる頻度が増えた気がする。感情はずっと閉ざされている。三好の死は端的に事実のみが俺たちの元に届けられた。その時だって俺は眉一つ歪むことはなかった。

死だ。スパイとしての汚点。三好と同じ不名誉を俺が負う。三好と同じように結城中佐の耳に入り、すぐに忘れられるのだろう。この胸の高鳴りは出血量のせいか。違う。屈辱から来るものか。違う。ではなんだ。階層が開く。終わりが近付いていた。真実が開く。三好が笑う。感情の波が、俺を、違う、そうだ、これは別の、違う、何か、三好、貴様、俺は貴様を、三好を、三好、俺は、


貴様の死を悲しんでいたのだな。


仕舞った感情は嫌悪ではなかった。あれは敬愛だ。誰よりも結城中佐の影を纏う貴様が、俺は好きだった。誇りだった。誇らしかったのか。そうか、俺は貴様を好いていたのだな。そうか、そうだったのか。人を愛したことのない俺が、愛と名のつく感情を恐れたのか。気付いてしまえばなんと簡単なことだろうか。俺は貴様を愛していたのか。そうか……そうか。

三好。貴様はどんなことを思ったのだろう。死に際に何を思って屈辱を被ったのだろう。少なくとも、俺のように閉ざした感情が発露したわけではあるまい。最期になって惨めたらしく貴様を見つめる俺のようには。

胸のすく思いをすぐに噛み締め、飲み下す。俺は未だ生きている。生きているということはスパイであるということだ。涙は眼球を覆わない。瞼は半分も降りてこない。唇で言葉を紡ぐことはない。建物の下敷きになり即死した人間は泣いて最後の言葉を喚くものか。死んだスパイを懐古しながら終わりを待つ綺麗な死を、迎えるわけにはいかないのだ。

口を半開きで留めたまま瞳は虚空を藻掻く。視界が暗転する。流れ切った血が服を湿らせる、その感覚すら曖昧になってきた。

三好の微笑みは薄く消えていく。暗い孤独は未来に待ち受けるものだが、それは真に孤独と言えるのだろうか。少なくとも、真の孤独は俺を。

俺をどこにも連れて行ってはくれないだろう。



***



「ゲームに参加しないのか」


月夜に煙草を燻らせる。風通しの良い食堂裏の勝手口で、適当に持ってきた椅子で一服していたところだった。向こうには割烹着姿でグラスを拭く福本の背が見える。それを遮るように三好の秀麗な面差しが俺を見下ろしていた。


「小田切が抜けてしまってな。貴様も入れ」
「断る」
「何故?」
「貴様がいるからだ」


深く吸った煙を外に吐き出す。目を向けずとも薄らと笑っていることが分かった。彼奴は俺の答えを承知の上で俺に言わせようとしているのだ。口から離した煙草を弄ぶ。続きを促し続ける男のために渋々と答えてやることにした。


「貴様は俺の味方ばかりを狙ってかすめ取る。ゲームの主旨が変わってくるだろう」
「元々そういうゲームだ」
「貴様、ふざけているな?」


俺の味方を横取りするために三好は何度か負けている。情報戦を制するためのこのゲームで自ら負けを選ぶなど、訓練の名目がなくなってしまう。本当に遊んでいるだけではないか。このとりわけ自負心と自己愛の強い男がだ。不可解にも程がある。気持ち悪いとすら思えた。

もう話すことはないと、唇に再度煙草を銜えた。苦い味が脳を痺れさせる。これも所詮麻薬と変わりない。現実を虚構にし、理想を現実にする。見えるものを見ないようにするための道具。現実は毒を浴びても尚見たくないものだろうか。見えなくなったところで意味はない。見えないものにこそ本質はある。探るものが増えるだけ手間だというのに。唾液で湿ったそれを舌で一撫でしたところで白い指が眼前に現れた。


「おい」
「貴様が旨そうに吸うのでな」
「理由になっていないぞ」
「そう」


俺から奪った煙草を悠々と吸う三好。言えば新しいのをやったものを。こんなに手癖の悪い男だとは。新しい煙草を取り出したところで三好が顔を寄せる。火種にこちらも近寄ると彼奴の瞳がじっくりと俺を見つめていた。


「貴様が見つめるのは僕だけであってほしかった」


赤い唇は煙草を挟んでいたが、言葉を聞き取るのは容易であった。煙草が揺れて火種を受け取りにくい。文句は不思議と出てこなかった。こちらも煙草を銜えていたから、喋るのが億劫だったのだと。言い訳がましい言葉は誰に言うでもなく舌先に寝そべった。見つめ返した三好は光に照らされ輝いている。俺たちを未来で待ち受ける暗闇を飲み込まんとする光。目が眩むのは瞬きにも等しい。現実と一緒だ。見えないからといって決して目の前から消え失せることはないのだ。その幻想に俺たちは酔えない。

とっくの昔に火のついていた煙草は弱々しい紫煙を夜に放つ。その瞬間だけ、月明かりが俺たちの孤独を隠した。


愛(だと勘違い)した話。これくらいの距離感が好きです。三好の口調が迷子でした。柩ショックに立ち直れなかったために書き始めた話でさらに死にたくなる手の込んだハラキリショー。余談:主人公の趣味はテニス。

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