4/fin.



『お母様、これは何のお肉なのですか?』


その質問は我が家の笑い話として今でも話題に上ることがある。

綺麗に磨かれた銀のカトラリーと白い皿の上に横たわるステーキ。噛めば噛むほど味わい深く、たった一枚の量でお腹がいっぱいになった。なんて高級そうなお肉を子供に食べさせるんだろう。それだけ裕福なお家に生まれてしまったんだなあ。呑気にもそんなようなことを考えていた。そして、今しがた食べたばかりの肉について、何の気なしに母に尋ねた。母は父と顔を見合わせて、それから心底おかしいという風に肩を揺らした。上品な色の唇にワイングラスを当てて、湿らす程度の量を口に含む。その毒々しい赤色すら、幼い私には未知のものだった。


『これはね、――――』



***



人間を家畜と呼ぶことは、人間だった自分を貶めることと一緒だ。

だから私は、人間は家畜じゃないと言う。といっても、同じ生き物だとかそういう耳触りのいいことを言うつもりもない。それをふまえて、人間は放し飼いにされたペットあたりが的確かもしれない。食べるために餌をやって太らせて、時には愛玩して、時には叱って、そうやって時を経るごとに当初の目的が薄れていく。情が沸くほど食べることができなくなる。喰種にとっての人間も似たようなものだと思うんだよね。ペットと違うのは人間が同じ言葉を操れること。つまりコミュニケーションを取れるからより深い絆が生まれやすいってこと。そして錯覚してしまうんだ。彼らは自分と同じ生き物だ、ってね。

捕食関係が成り立つ時点でありえないことなのにね。

その点そこらに落ちてる喰種は得な思考回路をしていると思う。だって人間を餌だとか家畜だとか思い込んで最初から別の生き物扱いしてるんだもん。人間から見たら災難なことだけど、喰種からしたら生きやすいことこの上ない。罪悪感とか面倒なもんを食事のたびにいちいち感じないで済むし。こーいうの、人間で言うところの食育ってやつなのかね。好き嫌いをしちゃいけません。人間さんだって生きてたんだからね。食べ物は粗末に扱ったらいけないんだよ、ちゃんと感謝して食べなさい、なんてね。そうだとしたら、昔人間の私もずいぶん小さい頃からそれにお世話になっていることになるよね。

おかーさまおとーさまありがとー。思ってもいないことを口ずさみながら手元の作業に集中する。眼球の、ちょうど視神経が繋がっていたところに針を通して、中から硝子体と呼ばれるゲル状の液体を器に移す作業。少し面倒だし早くしないと腐っちゃうから大変だけど、綺麗に瞳が残ったほうが器にできて可愛いと思う。だから頑張っちゃう。透明なコラーゲンの固まりがゆらゆら揺れて、美味しそうだなあという感想が漏れたのは無意識のことだった。人間だった頃なら魚の目玉だって気持ち悪くて直視できなかったのに、四半世紀の化け物生活でこのザマだ。なんということでしょう。そりゃ、つい最近こっち側に来た若者と合うわけ無いわ。

あの大告白と約束をして以降、一回もお店に来ない金木くんをチラッと思い出す。すこーしだけでも虐めたのが堪えたのかもしれない。それはそれで打たれ弱い子だなあと呆れてしまう。THE・現代っ子ってか。まあ、嫌いって言われたヒトにわざわざ近づくような鈍感さんではないか、あの子は。


「綺麗、可愛い、美味しそう」


美味しそう! 仄かに甘くて、爽やかで、サッと口の中で溶けていくような、そんな味。鮮やかな赤色が味の違うチョコを三層に分ける。キッチリ綺麗なムースを眺めているとヨダレがじんわりと口の中に溢れてきた。できたできた。三つあるそれを保冷剤の入ったケースに入れて、適当な格好で目的地まで急ぐ。意外と作るのに熱中してしまって気が付けばお昼の三時を回っていた。

目指すは東京20区・喫茶あんていく。夕方まで間に合えばいいなあ。



***



来客を告げるベルが鳴る。


「いらっしゃい、ナマエちゃん」


定休日の看板を下げていたにも関わらず、勝手に押し入ってきた彼女を認めて芳村が名前を呼ぶ。


「急だけどお店を引っ越すことになってね。今みんなで掃除しているところだから、今日はコーヒー一杯しか出せないんだ」
「じゃあ、一杯だけ」


いつも通りの無愛想な顔。四方のように引き結んだ口元が僅かに開いて、申し訳程度に一言発する。いつも通りの彼女。ただいつも通りじゃなかったのは、その格好だった。


「今日はお店の格好で来んだね。少し驚いたよ」
「天使にでも見えました?」
「そうだね、それくらいよく似合っているよ」


黒いロングコートを脱いだ下は、白いブラウスに白いスカート。全身真っ黒が常の彼女が幽霊のように周りの景色から浮き出て見える。まるで彼女のマスクのように。髪色も白いせいで、中身以上に人外じみた何かのようであった。

茶化したつもりであったのだろう。天使という呼称に肯定を返した芳村を、ナマエは面倒そうに見返した。


「君がいれば、トーカちゃんもヒナミちゃんも……アヤトくんの心配もいらないね」
「放任主義なもので、期待してもらっちゃあ困りますよ」
「相変わらず嘘が下手だね」


苦笑する芳村を尻目にコーヒーを一口。挽いたばかりの豆の匂いが鼻を通る、昔から変わることのない味が酷く心地よい。ナマエが記憶を頼りにすることなく美味しいだろうと分かるのがコーヒーの善し悪しだけだった。だからこそ、この最高のコーヒーの味を忘れたくない。


「芳村さんは、嘘が下手になりましたね」


伏せられた目が一瞬開き、すぐに和らぐ。


「ナマエちゃんも、ずいぶん大人になった」


しみじみと、まるで子の成長を見守る親のように。芳村は懐古した。もうここにいない男によって繋がった彼女との縁。ボサボサの黒い髪を無造作に伸ばしていた彼女が、彼を忘れるために真っ白く髪を染めた彼女が、一人で立って歩けるようになった彼女が。大切なものを大切にできる、彼のような大人になった。最後の日に気がかりの一つが無くなったのだと、心残りが減って肩の荷が少しばかり下りたような錯覚を覚えた。

最後の一口を飲み干してナマエは立ち上がる。カウンターには今日作ったばかりのムースの箱が置いてあり、芳村だけでなく入見と古間の分まで入っていた。


「二人に会っていかないのかい?」
「あんまり仲良くないですし」
「昔のことだろう」
「今もですよー」


今も仲が悪いなら、わざわざ差し入れなんてするはずがないのに。芳村の言いたいことが伝わったのか、ナマエが不満げな雰囲気を出した。無表情のままであるにも関わらず、彼女の心情は十分に伝わってくるのだ。


「あちらに行く前に、君に会えて良かったよ」


いつも通り、本心からの言葉をかける。あちら。最愛の人には会えないだろう場所に、きっと彼は落とされるのだろう。そうしたら、きっとこの感情は苦しみに塗りつぶされてしまうかもしれない。どんな責め苦を受けたところで、芳村の罪は消えることはなく、彼女に会うには汚れすぎた。

そんな自嘲を知ってか知らずか。ドアノブに手をかけたナマエは、白けた目を芳村に向ける。何を馬鹿なことを。如実にそう言っている目だった。


「私たちには天国も地獄もありませんよ」
「それは……喰種にはってことかな?」
「人間も喰種も関係なく、です」
「じゃあ、ナマエちゃんはどうなると思うんだい?」

「生まれ変わるんじゃないですか? 次は人間にでも」


永訣を告げる、ベルが鳴る。



***



東京20区。日が落ち既に夜へと突入した都会の一風景は一瞬にして血腥い戦場へと様変わりした。CCGの喰種捜査官と猿面犬面も喰種たちの抗争。羽根のような巨大な赫子で命を刈り取る男。命が散って、散らされる。阿鼻叫喚の地獄絵図がこの街で繰り広げられている。

ナマエはとあるビルの屋上からこの世の地獄を覗き込んだ。甘い香りが風に巻き上げられて鼻に届く。スイーツの香りづけに使われていそうなその香りが、血の臭いであることは疑いようもない。毎日と言っていいほどに嗅ぎなれた、大好きな香りだった。すぐにでもその場に駆け出して、好きなだけ貪り尽くしてしまいたい。喰種の本能はいつも凶暴に理性を唆そうとする。そんな自分をいつだって彼女は馬鹿にしてきた。獣め、畜生め、化け物め。

喰種を化け物と罵倒することは、自分が化け物であると認めることに違いないというのに。

彼女が生きた日々はいつだって矛盾に満ちたものだった。人間だった頃を尊く美化しながら人間を無意味に虐殺した。喰種である自分を肯定しながらただひたすらに喰種の本能を疎んじた。どれもこれも必要で、無意味。いつも幸せで、不幸せ。


「クソが」


いくつも離れたビルの屋上には赤黒い鎧が二つ。着る人間が二人。遠くからでも視認できる禍々しい気配。懐かしい彼の気配。以前にそれなりの損傷を負ったはずのクインケが真新しいまま男たちの体を覆っている。つまり、アレを製造できる大元がまだCCGに存在しているということだ。

もしかしたら、赫包の持ち主である喰種は生きているのではないか。

その確証を得るために、ナマエは危険地帯となった20区の闇に姿を潜めた。そして、希望を見出した。


“アラタさんが生きてる”


まだだ。まだ判断材料が少ない。実際に動くには憶測で物を考えすぎている。人間である理性が止めるにも関わらず、口に出してしまった身体は歓喜に打ち震えた。

アラタという喰種に、ナマエは執着していた。喰種でありながら柔和で、思慮深く、大切なものを守ることにしかその凶暴性を発揮しない。喰種の本能を徹底的に支配下に置いた彼は、まさしく彼女にとって憧れであった。憧れて、焦がれて。彼女は自分が彼に会うまでの“人生”を不貞腐れて生きてきたことを理解させられた。獣のような本能のまま、理性すらも怒りをぶつけることに必死だった、昔の自分がちっぽけに思えて仕方ない。

旧約聖書でイヴに裸であることを気付かせた知恵の実。まさしくアラタはナマエにとってのそれに違いなかった。

釣り上がった口元の隙間から鋭く尖った牙が覗き、耐え切れないと言わんばかりに唇の肉を噛みちぎる。しっかりと鉄の匂いがするそれの正体は喰種の血に流れるRc細胞の匂い。どれほど人の食物を口にしたところで、喰種の血は人間の血より色濃い。そんな当たり前のことが、当たり前じゃなかったのに。

遠く、近く、人間たちの動揺が空気を伝ってやって来る。肌を刺す殺気と熱気。それらの発信地に見つけた二つの気配が、彼女の衝動を突き動かした。白い髪が、黒いコートが、風に煽られて夜を靡く。ビルの上からナマエは重力に引っ張られるままに飛び降りた。倒れるままに下り、頭から落ちる直前に態勢を立て直し足で着地する。ただの人間なら骨折どころでは済まない衝撃を喰種の体は難なく耐え切ってしまうのだ。

足がコンクリートを蹴り、街の影を駆け、鼻の利くままに走り抜ける。何分、何秒かけて、辿り着いたその場所には、いつかの絶望が現実となって再現されていた。

赤黒い鎧。雨の中で倒れ伏す体。見たことも聞いたこともない彼の死の情景が、ナマエの頭の中で幻のように出来上がっていく。どこにいるのか、どこに行ったのかも分からない彼の姿。


「ア…………」


“アラタ”は確かに、そこにいた。



***



死ねない。死にたくない。死ぬわけにはいかない。
たくさんの死が彼の中を侵していく。

死は彼の隣にいつも寄り添う存在だった。いつだって彼の大切なものは死に魅入られてしまう。父も母も、義理の兄弟たちも、恋人も。死が刈り取っていく命は化け物の胃袋を満たすだけのために使われた。死は化け物が飼いならす悪だ。ならば、その化け物こそが忌むべき存在なのだろう。

この世界はおかしい。血も涙もない化け物が悠々と生き、弱い者は怯え淘汰されるばかりの、こんな世界は間違っている。間違いは正し、歪みは直さねばならない。けれど、武器を取り世界を正そうとした者から先に死に魅入られるのだ。

不条理な世界を正したかった。不条理を産み落とした化け物の気持ちを理解したかった。

その答えが、ついさっきまで目の前にいた。もう、会うことはできない。それは残念なことではあったが、今は生きることに精一杯だった。化け物でありながら、化け物であることを拒む少年。アイツ”を人殺しにはしたくない。

目を閉じ、雨音だけに耳を傾ける。その時、彼の耳はひとつの足音を拾ったのだ。


誰かがそこにいる。


眠ろうと閉じた目を再度開く。霞む視界の先で、たった一人立ち尽くすソレを彼は見つけた。

白い髪に、白い服。静かに上方からこちらを見下ろす。誰にも理解し得ないであろう、無表情の瞳。感情という色のない、黒い瞳。


「あ、」


互いの第一声が、奇しくも同じ音として同時に重なる。どちらの声も、全く別の人物を呼ぼうとして出た音だとは気付けるはずもなかった。

彼は一瞬、死神が立っているのだと思った。御伽噺の黒衣の死神ではない。尊敬すべきあの男が、有馬貴将が、死に際の彼をあの世へ見送るように立っているのだと。死に抗おうという自分の深層心理が見せた幻だろうか。血を大量に失った脳が正常に回っているわけがない。幻が、靴の音を響かせて彼に近づいてくる。そうして、すぐ目の前で止まった靴で、それが女のものであることに気が付くのだ。


「あなたの人生って、本当に悲しい」


雨に紛れる甘い香り。聞き覚えのある声。すぐそこで膝をついたスカートが、水溜りと血で赤く汚れる。

差し出された手が彼の頭を抱きかかえ、柔らかな膝の上に導かれる。全身を白で纏めた見たこともない格好の彼女。美味しいと言いながら頬をピクリとも動かしたことのない彼女が、それはそれは楽しそうに、満面の笑みを浮かべて彼を慈しむ。


「……死にゆく最期に、私がちゃんと同情してあげますね」


ねえ、亜門さん。

おもむろに、白い髪が彼の顔に降ってくる。雨から彼を守るように覆いかぶさった上半身。意識も朦朧とする彼の、血に濡れた唇を湿った何かが撫でた。彼女の舌だと思い至った頃には、それは彼の口内にまで及んだ後だった。まるでキャンディーか何かを食べるかの如く、すべてを征服するように、蹂躙し尽くすまで。唾液混じりの血を貪って、貪って。ようやく離れた唇の生々しい余韻を感じることなく、彼は自嘲した。


こんな時にまで、なんて悪夢を見ているのだろうと。



「さよなら、私のペットちゃんオトモダチ



紅い目をした化け物は、亜門の親友の姿をしていた。

両の目を血走らせ、顔という顔に亜門の血を付けた。獣のように薄汚い。そのくせ、眉は悲しげに寄せられて、涙のようなものすら目尻を彩っているのだ。

そうか、お前は。化け物の姿でも、俺の死を悲しんでくれるのか。


「泣く、な、ナマエ……ッ」


残った左腕を、その顔に伸ばそうとした。その後の記憶は、彼にはない。



***



『ごめんね、もう、会えない』


あんていくが消えてしばらく。久しぶりに会ったナマエは、トーカの大好きなレアチーズケーキを手にやって来た。見たこともない真新しい眼帯を左目にしていた。なんで眼帯をしているの。そう聞くと、珍しく笑顔になったのを覚えている。どこか懐かしい雰囲気をしていて、それが金木と同じような気の抜けたものだと後から気付いた。そして二時間。いろいろなことを話した。トーカのこと。ヒナミのこと。四方のこと。今後のこと。アヤトのこと。何を言っても何かしら言葉を返してくれるナマエがまた滅多にあることはなく、トーカはだんだんと嫌な予感がしたものだ。そうして、最後に靴紐を確認して立ち上がったナマエが言ったのが、お別れの言葉だった。どうして。聞きたいことは咄嗟に出てこない。その間にナマエは窓から駆け抜けていった。呼び止める暇はなかった。しばらく泣いて、憎んで、本当に捨てられたんだと悲しくなった。最後に挨拶をしに来ただけ、彼女にしてみればマシだったのかもしれない。

看板を店先に出し、軽く伸びをする。空はどこまでも青く、今日という日がいい一日になることを告げているようだった。トーカは口元を緩ませた。閑古鳥の鳴く店も、今日くらいはたくさん客が来そうな気がしたからだ。軽く掃き掃除をして窓の曇りを雑巾で拭う。そうしていると、窓ガラスに白い影が映った。

見覚えのある、真っ白い髪の彼女の姿が。


「ナマエさんッ!?」


思わず振り返った先には、確かに彼女が立っていた。白い髪に白いスーツ。黒いストッキングに白いパンプスを合わせた、髪色以外はどこにでもいそうな女性。じわりと涙がトーカの目に滲む。急に泣き出したトーカに慌てたのは彼女の方で、ポケットからハンカチを取り出してトーカに差し出す。最後に会った時と同じように左目に付けた眼帯は仰々しいものだったが、露わになっている右目は変わらない彼女のものだったから。トーカは安心してハンカチを受け取った。ポロリと落ちた涙は、嬉しいという感情を多分に含んでいる。久しぶりに会った彼女は、変わらずトーカに優しいヒトだ。

何も変わらず。あの時のまま。


「なんで、私の名前知ってるの?」


ポロリ。涙がまた落ちた。



詠えよ惨憺
これにてパティシエ主のお話は終わりです。閲覧ありがとうございました。

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