トーカには年の離れた姉がいた。


「よー」


黒々と艶のある髪に黒いワンピース、黒いタイツに黒いブーツ。薄手の黒いカーディガンを羽織った喪服のように全身黒づくめの格好と、それらとは対照的に浮き出るような白い肌。少しだけ彫りの深い顔がのんべんだらりと構えている様子には不思議と親しみを感じる。血は繋がっていない。名字も違う。顔だって似ていない。けれど確かに、トーカにとって彼女は姉だった。


「あー! ナマエちゃんだ!」
「トーカ、走ったら危ないよ!」
「あ、お姉ちゃん!」


公園からの帰り道。向こうからやってきた少女の姿を見つけてトーカは父の手を離した。彼女が、名前がぴくりともしない表情のまま手を上げている。それだけの動作がトーカには嬉しかった。後ろから聞こえてくる父の注意も、弟の呼ぶ声も気にならないほどに心が躍る。


「ナマエちゃん! 今日は何持ってくれたの?」
「さあてね、なんだと思う?」
「チーズ! レアチーズ!」
「それはこの前食べたでしょー。今日はフォンダショコラです」
「えー、なんでなんで!」


きゃらきゃらと腰にまとわりつくトーカを片手であやしていると、慌てた様子のアラタがアヤトを抱き上げて追いついてきた。見上げた先でナマエの表情がほんの僅かに動く。ナマエがアラタを見る顔が嬉しそうなことをトーカは知っている。その表情を見ることが、トーカはとても好きだった。


「こんにちは、ナマエちゃん。トーカがごめんね」
「こんにちはアラタさん。アヤトくんもこんにちは」
「こ、こんにちは、ナマエちゃん」
「今回はアヤトの好きなチョコだぞー」
「ほんと? またチョコ食べれるの?」
「ほんとほんと」


途端に人見知りしていた顔が笑みを浮かべる。引っ込み思案で内気なアヤトはナマエに会う度に人見知りをするが、彼女が帰る頃にはトーカよりも駄々を捏ねるのだ。それを知っているアラタは落ち着きのないアヤトの様子を見て苦笑する。アラタはアヤトを抱いたまま、ナマエは空いてる右手でトーカと手を繋ぐ。その時ばかりは姉が母だったら良かったのにと少しだけ思った。

トーカはナマエのことをほとんど知らない。

父の知り合いで、たまに家に来て“美味しい”ケーキを持ってくることぐらい。ときどき佐藤のおばちゃんや近所の人にケーキを配っている時もあるけれど、父がそれを見て慌てる様子を楽しんでいるらしい。何故父が慌てるのか。それをトーカが知ったのは随分後のことだ。それくらいしか、彼女のことを知らない。霧嶋家と彼女の関係は、思ったよりも希薄だったのかもしれない。けれどナマエは自分たち以外で初めて見る喰種で、自分を偽らなくとも一緒に食事できる稀有な存在で。何よりそっけないふうに見えてトーカとアヤトの遊び相手になってくれる彼女は、確かにトーカとアヤトのお姉ちゃんだった。

その時までは確かに、そうだった。


「私は、あんたたちを庇護するつもりはない」


喰種捜査官に追われ、命からがら逃げ出した二人。姉弟を保護したナマエは単刀直入にそう言った。久しぶりに会った彼女の髪は脱色でひどく傷んでいて、肌と同化するほどの白さは以前よりも浮世離れした印象を残した。正直トーカは一瞬彼女が誰だか分からなかった。それは髪のせいだけではなく、その瞳の温度のせいだ。


「金は出す。住む場所も、保護者も探してあげる。だから、ここから出て行って」


唯一黒を残した瞳が虚ろに歪んでいる。涙は浮かんでいないのに、悲しみは痛いほどによく伝わった。抱きしめられて、髪をくしゃくしゃに撫でられながら、トーカは思い知る。彼女にとって父がどんなに大事な存在だったか、その時になるまでトーカは知らなかったのだ。

芳村に預けられて、家を与えられた二人。最初はナマエに裏切られたのだと思っていたけれど、彼女は意にも介さず二人の元に足を運んだ。庇護する気はないと宣った唇で今までと何にも変わらず名前を呼ぶ。そんな彼女のことが二人には分からない。一緒に暮らしていないだけで、これでは保護されていることに変わりないではないかと。そう言いたい口を必死に噤んだ。言ったそばからナマエが逃げてしまうかもしれないと考えたからだ。父を亡くしたばかりの二人は彼女に心を寄せるしかなかった。寄せる相手を、失くす失言は意地でも避けたかった。

今までも、これからも、避けていく気だったのに。


「ナマエさん、最近来ないな」


カネキを救出するためにアオギリに潜入したあの日から、ナマエはあんていくに来ていない。たかだか数週間だったが、毎週決まった時間に訪れる彼女を心待ちにしていたトーカには寂しいものがあった。カネキが店を去り、ヒナミがカネキについていく形になり、トーカは一気に置いて行かれたような気になった。いや、実際にそうなのだろう。

母に置いていかれ、父に置いていかれ、弟に置いていかれ、カネキに置いていかれた。

そして今度は、ナマエに置いていかれるのだ。


「ひとりにしないで……」


何度も願ったその言葉を、トーカはもう一度誰かに願う。ひとりぼっちの彼女には、そんなことしかできなかった。



***



昔。すっごい昔。私がまだ、人間だった時。世間話程度の軽さで言っていたことが、この世界では当たり前の苦行として私につきつけられている。人間、ご飯が美味しくなくなったら、人生半分損だよね、なーんて。ポッキーつまみながら笑った内容を、真っ暗な河川敷の橋の下でふと思い出していた。

全身粉々で、腹から内臓飛び出てて、足も腕もバッキバキ。半殺しどころか十分の九殺しで放置されてから既に何時間も経過している。汚い溝川を照らした夕焼けはとっくの昔に沈んで月がテッペンまできてる。さすがに肉を食べないとやっていけない。本当にやっていく気があるなら、の話だったけれど。

別にこの世に未練はなかった。死んだって別に悲しんでくれるようなヤツは誰もいない。そういう付き合いを心がけてきた。うざったいヤツは五万といる。気に入らなけりゃとりあえず目ん玉抉った。ムカついたヤツは指を何本か詰めた。ガチのやなヤツは遠慮なく赫包をほじくり出した。それもこれも、ただの八つ当たり。意味はない。理由もない。それでいいし、それがいい。そう思ってた。今でもたまに思う。


『君は、まだ生きてるね』


けれどまあ、我ながら大人しくなったと思うのは、あのお人よしのせいなんだろうなあ、と。真夜中に死体拾ってたのほほん顔を思い出して実感するわけだ。

腹立たしい。ムカつく。あの人に、なにより自分に。あの人の優しさとか惨さに当てられて見事に術中にハマってしまったんだ。そうだ。こんな得体の知らないロクデナシに気をかけてくれたのも全部、あの子達のためだったんだと思うと、恥ずかしすぎて爆発しそうになる。そこらじゅうのヤツらを皆殺しにしたって収まらない。思い上がっていた自分が、心底馬鹿らしい。私の作るものすべて親子でおんなじ顔して美味しい美味しい言ってた、あの光景すらぶち壊したくなる。

所詮、あの人にとっての私はもしもの時の保険だったんだ。自分が死んだ時に子供たちを庇護するための存在を、作った。それだけのために私に家族ごっこなんてさせていた。そう気づいた時には既に手遅れだった。私はトーカとアヤトに情が沸いていて、彼は人間なんてもんに殺されて。そんで、今がある。未来なんてものになってしまっている。これがムカつかなくてどうしろってんだ。

あーあー、私がもし、あと十年早く生まれていたら。


「アラタ、さん」


あんたが奪われる前に、私が奪ってやったのに。



***



SSSレート喰種、隻眼の梟。突如アオギリ掃討戦の最中に現れた予期せぬ大物。奇跡的にその怪物の撃退に成功し首の皮一枚繋げた黒磐と篠原の頭上から、聞き慣れない女の声が降ってきた。


「特等、上です!」
「なっ」


アラタの暴走に伏した篠原を抱えながら見上げた黒磐は、その滑らかな面が間近に迫っていることにようやく気がついた。斑に黒く染められたそれが、本当は白かったことは容易に想像がついた。その面が白かった時を、黒磐は実際に見たことがあったからだ。


「SSレート、バンシー……!」


二人に駆け寄ろうとしていた捜査官たちが各々のクインケを構え女の周りを取り囲む。その頃には天井にぶら下がっていたバンシーは既に床に着地していて、変わらず黒磐の顔を覗き込んでいた。滑らかな面からはその赫眼はまったく見えないというのに、黒磐は心臓を握られた心地でその距離を受け入れるしかなかった。

彼は、バンシーの様子がいつもと違うことに気付いていたのだ。


「ずるい」


頬に張り付いている血塗れのマスクの奥からさっきと同じ声が響く。薄く、細く、弱く、脆い、声が漏れる。


「ぜんぶ、押し付けて、ひとりで、勝手に」


果たして、今まで遭遇したバンシーは、こんなにも頼りない女だっただろうか。

あの、聞くものに地獄を連想させる悲鳴がない。力強さも、狂気も、怒りも、愉悦もない。伸ばされた手すら人喰いのものとは思えないほどに震えながら、黒磐の鎧にそっと添えた。


「黒磐さんッ!!」
「やめろッ!!!」


何故そう叫んだのかは分からない。だが、黒磐は、このままいけばバンシーの仮面の奥を、彼女の本心を伺い知れるのではないかと。そんな淡い期待を抱いていた。どうせ知ったところで彼は彼女を殺すしかないというのに。

制止の声も虚しく、バンシーはクインケに胸を貫かれた。ぼたりと重々しい赤が黒磐の顔を濡らす。けれど彼女は虫に刺された程度にしか思っていないようで、変わらず添えていた手に力を込めて、クインケを……アラタの一部をへし折った。


「思い通りに、なってあげないんだから」


その一言を残して、バンシーは跳んだ。アオギリのマントを突き破って出現させた細い鱗赫でクインケを細切れにし、捜査官たちの隙間を縫って窓から飛び降りたのだ。梟戦後で負傷していたとは言え、ほぼ無傷のままのSSレートを取り逃がした。バンシー相手に生き延びたと安堵するもの。本当にあれはバンシーだったのかと怪訝に思うもの。アオギリにバンシーが所属している可能性に頭を痛めるもの。その中で黒磐だけが一人、あの声音の意味を深く考えていた。


「アラタを、知っているのか」



***



「おっすカネキくん」


暗がりから姿を現した誰かがカネキを呼び止める。真夜中の人通りも少なく、ましてやついさっき6区のギルに待ち伏せされたばかりだ。またその類だろうかと警戒する万丈と月山を他所に、カネキはその声の持ち主にすぐさま思い当たった。


「こんばんは、ナマエさん」
「artiste!!」


カネキの声に被さるように月山が歓声を上げる。それに僅かばかり嫌そうな素振りを見せるものの、特に手を上げる気はないようで、ナマエは手に提げていた袋をカネキに差し出した。


「頑張ってるっぽいから、差入れ持ってきた」
「え? えっと、ありがとうございます?」
「僕には? 僕にはないのかいっ?」
「オメーにはパンの耳で十分だ」
「それもartisteのお手製というなら僕は満足さ!」
「私は芸術家じゃなくて菓子職人なんだけどね」


無造作に放られたパンの耳……ではなくクッキーの詰め合わせを月山が恭しくキャッチする。物腰柔らかな動作であるくせに、その目は赤く、口の端からは涎が目視できた。隣の万丈が距離を取ったのも頷ける気持ち悪さだった。


「で、カネキくんはこれね」
「はい? ……んぐっ」


月山の様子に苦笑いを浮かべていたカネキは、次の瞬間に有無も言わせず押し込まれたものを抵抗することができなかった。


「な、なに、」
「君は食事を拒んでそうだと思ってさ。無理矢理じゃないとダメかなー、と。違った?」
「やめ、やめて」


口の中に広がる甘い味。唾液が理性と関係なく溢れ出し、喰種の体が衝動のまま口の中の物を飲み込もうと躍動する。吐き出そうにも力強い細腕に顔を抑えられ、カネキは思わず飲み込んでしまった。


「っ、ぁ!」
「当店自慢のマカロンはお口に合いましたでしょうか、カネキ様?」
「ぁ、ああ」
「吐き出したら殺す」


すぐに吐き出そうと口に指を突っ込んだカネキの、首筋と両目に細い赫子が突きつけられる。間近だからこそ見える細い鱗を纏ったそれが、ナマエの鱗赫だと気付くのに時間がかかった。これには今まで黙っていた月山と万丈も動こうとするが、同じく二人にも細い鱗赫が無数に巻き付き完全に拘束していた。繭のように細く無数に存在する赫子。こんなもの見たことがない。知り合いだからと油断したわけではないが、カネキは冷静に己のこれから取るべき行動を模索した。


「何が目的ですか」


意外にも、カネキの言葉に驚いたのはナマエだった。次いで、そうくるのかという風に目を細める。これは彼女なりの微笑みであったが、カネキには自分を嗤っているようにしか見えなかった。


「そんな物騒な理由はないよ? ただ、私の作品を無碍にするヤツはそれなりに殺すってだけ。今日はお話をしに来たの」
「お話、ですか」
「っていうか、前からカネキくんに思うことがあって、それがスッキリしたからご報告」
「何ですか、それ」
「まあ、聞いてよ。私さ……

ーーカネキくんのこと、嫌いだった」


浅い息が、喉の奥から甘い香りを乗せて宙に漂う。カラカラに乾いた舌が恐怖に慄くように揺れ、カネキは軽く目眩を起こしかけた。ナマエの黒い瞳が、カネキの右目を捕らえて離さない。


「カネキくんって元人間らしいから、私の作品がどんだけ人間の食べ物に近いか分かってくれる唯一の存在じゃない? これは得難い存在だなーって、前はそんだけだったの。でも、残念ながらそんだけじゃなかった。君は、私の許せない人にそっくりなの。ムカつくくらいに似てるの。八つ当たりしてやりたいくらい。それに最近まで全く気付いてなくてさ。それなりに執着とか持ってたんだけど、この度ようやく理解できて執着から好意に見事ジョブチェンジ致しましたとさー、ってわけ。だから今は君のこと嫌いじゃないし、特別殺してやろーとか思ってない。そのことを踏まえて、伝えたいことがあるわけよ」


長々と話し終わった口が再度開かれる頃には、ナマエの雰囲気はいつもと変わらずゆったりとしたものになっていた。先ほどの、ほんの数秒が嘘のようにいつもののほほんとした空気を身に纏い、カネキを友好的に迎えようとする。それがカネキには恐ろしくて仕方ないのだ。


「トーカとヒナミを裏切ったら殺す。私のお菓子を無駄にしたら殺す。この二つを守っている内は、私は君の味方だ」


味方。ナマエが今更言ったところでこれほど信用できない言葉もない。けれど、彼女が今言った内容は、確かに嘘ではないということだけがカネキの救いだった。彼女が二人を本気で大切に思っていることだけが、カネキが信用に値することだ。

緩んだ拳を握りなおして、手の内の袋を持ち直す。他の二人が拘束され、カネキがされなかった理由が、この差入れを持っていたからだと気付いたのはその時だった。


「あ、あと定期的にお店に来てお菓子の感想言ってよ。絶対だよー」


それを最後に、ナマエはアッサリと拘束を外し、手を振りながら元来た暗闇へと帰っていく。狐につままれたような心地だ。たった数分の邂逅で、カネキの彼女への認識が変わってしまったのだ。180度、世界が反転する。この感覚は自身が人間から喰種への変じてしまったあの瞬間。それとまったく同じ絶望感が、カネキの胸中を止めどなく這いずり回っている。


「おっかねえ女だぜ……」


端的に纏めた万丈の一言が、奇しくもカネキの思いを代弁していた。


嗤えよ衝動
「あんたが奪われる前に、私が奪ってやったのに」は、主人公がアラタさんへ向ける感情によって何を奪ってやるのか変わってきます。そこをいろいろ当て嵌めてもらえたらなあ、という無茶振り。霧嶋母成り代わり書けるくらいにはアラタさんが好きだし霧嶋姉弟を幸せにしたい。

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