サンタマリアの堕胎



その瞳を、冷たい目だとはどうしても思えなかった。

無表情、無言、無為。無を体現したようなその人間は、私を見下すことも罵ることもなく、ただ当たり前のことだと、言わずとも分かるだろうと、そういう動きで、己の獲物を私に振り落とした。

私にはそれが救いだった。家族もなく、仲間もなく、知りたくもない情報ばかりが頭の中で倒錯する、こんな空っぽの世界で、己が正義だと信じて疑わない人間どもの戯言も、己が食物連鎖の頂点だと粋がる同族どもの哄笑も、全部同じにしか見えない。相手をゴミクズと罵って殺戮を楽しむ異常者にしか見えない。滑稽。不愉快。消えろ。死ね。死ね! 死ね!! 何度思ったところで叶うわけはなく、世界は歪んだまま、誰も正しく生きれない。嘘ばかりの正しさが内側も外側も覆って、世界は全部嘘に染まる。こんな世界に生まれた意味などあるのか。こんな世界で息をして、正義を騙るクズ共に怯えて、逃げて、屠って、貪って、汚して、傷ついて、散らかして、そして、殺されるのだ。

その瞳は冷たいのではない。温度という概念がまずないのだ。

己の赫子をしまい、赫眼でそっと最期の景色を眺める。その瞬間だけは、人間でも、喰種でもいたくなかった。隻眼の喰種なら、それができたのだろうか。痛みも感じられない一瞬の闇に突き落とされて、ぼんやり、思った。


「ありが、と」
「どういたしまして」


それは一瞬だった。

景色が変化する。空気が変異する。世界が、怪異する。目の前で上がった血飛沫は痛みを伴ったものではなく、人と喰種の入り混じった匂い。男が持っていたクインケは見たこともない上等なレートのもので、顔つきや服装、果てには相棒すら別人になっていた。おかしい、おかしい。世界が違う。見えているものが、頭に受け入れられない。見た目のわずかな誤差はあっても雰囲気は全く変わらない。あの、温度のない瞳が、私を写している。じゃあ、この言い知れない胸騒ぎはなんだというの。


「有馬特等、この少女はどうしましょう」
「目標は殲滅した。私が本部に連れて行こう」
「とく、とう」


混乱が混乱を産み、頭の中を直接かき混ぜられたような痛みを訴える。だって、目の前の男は異例の抜擢で16歳で喰種捜査官になった逸材で、現在は三等捜査官として頭角を現し始めた新人だと、つい先日仕入れた情報ではそう記されていたのに。そう、こんな無気力に座り込む喰種を目の前に呑気に仲間と喋っているような甘さを持たない男だと聞いたのに。


「なんで、殺さない……目の前に化物がいるのに!」
「それはたった今処理した。君もその目で見たはずだろう」
「だから殺せって言ってるの! 殺してよ! 殺せ早く! 早く早く早く早く!」


救われたと思った。救われると思った。たぶん、初めて幸福の片鱗を掴めたのだと、感じて、預けて、有頂天だった。私が天国に行けるだなんて思っていないけれど、まさにそこへ辿り着く階段に足をかけた瞬間だった。なのに、なのに、


「お、落ち着いて!」


見知らぬ捜査官が私の肩を抱く。鬱陶しい。邪魔。こいつを殺せば殺してくれるのかもしれない。今からでも遅くない。殺して、殺せ、殺せよ。感情の昂ぶりが頂点まで思考を持っていく。肩の筋肉に力を入れて、血肉が皮膚を突き破る感覚に身を任せようとして、任せようと、任せ、まか、



「私は人間は殺さない」



捜査官の手から、男の腕に囲われる。抱え上げられた、と分かる前に地面から遠ざかった浮遊感と妙に短い手足が揺れて、耳が拾った情報は上手く噛み砕かれない。ニンゲンってなんだっけ。私ってなんだっけ。私は私を殺した男に身を預ける。そう、私は確かに死んだんだ。死んで、生まれた。人間の女の子に。世界は正しさが満ちていて、惜しみない愛は自分のもので、夢は叶うためにある。そんな希望をこの嘘だらけの世界に期待して生きていたんだ。


その現実を、たった数分で理解できるわけもなく、私は私を殺した男の腕の中で、必死に赫子を出そうと足掻いていた。




***




「こんにちは」


突然の訪問だった。20区支部の会議室の扉を開いた有馬の姿に室内にいた者は飛び上がる勢いで立ち上がり礼を取った。篠原と什造を除いて。


「こらジューゾー!」
「女の子がいます〜」
「は? おんな?」
「いや、いいんだよ亜門。今日は彼女を紹介しに来たんだ」


彼女、という単語に首を傾げ、辺りを見渡す。けれどどこにも女性の姿は見受けられない。そういえば先ほどの挨拶も有馬のものではなくもっと高く、男ではありえない声で。その声の正体を探した亜門は、有馬の足の隙間からこちらを覗く二つの瞳に気付いた。


「ほら名前、自己紹介して」
「貴将、子供扱いはやめて」
「だが、そういう約束だろう」
「曲解だよ、それ」


高い、子供の声だった。有馬の背後から軽口を叩きながら身を出した青いワンピース。白いカーディガンに白いキャスケットを被った少女は、愛想も礼もなく会議室中の大人たちを見上げた。いや、睨みつけた。年の頃10を過ぎたか過ぎないかの幼い容貌には不似合いの年季の入った顔だった。


「有馬特等捜査官付き補佐官の有馬名前です。この度臨時で20区の篠原特等捜査官付き補佐官として着任することになりました。適度によろしくお願いします」



それが、今朝のこと。


「嘘ですよね亜門さん、あんなちっちゃい子が有馬特等の補佐官だったなんて! てか同じ名字って、特等の親戚かなんかですか!?」
「声が大きいぞ滝澤」
「だって納得いかないっすよ! ジューゾーに続いて特例で子供を仕事に引き入れすぎです!」
「滝澤」
「ここは子供の遊び場じゃないんですから、特等のお考えとはいえ役に立たない子供を押し付けるなんてあんまりですよ!」
「あなたができないことができるから私が呼ばれたんですよ、馬鹿」
「ばっ!?」
「あーあ」


黙々とカレーを消費する暁と不満をぶちまける滝澤、それを窘める亜門という昼時の風景に第三者の声が介入した。篠原と什造と共に現場から帰ってきた名前が滝澤の背後に立っていたのだ。座っている自分と同じ目線の少女の姿に振り返った滝澤がサッと顔を青ざめる。それを見ていた篠原はやっちゃったという顔で苦笑い。什造は相変わらずお菓子を貪っている。


「じょ、上官に向かって馬鹿はないだろ!」
「私の上官は篠原特等なので」
「理由になってねぇよ!」


キャンキャン吠える滝澤を軽くあしらう名前。これではどちらが子供でどちらが大人なのか。


「まあまあ政道、名前ちゃんはちゃんと役に立ってるから」
「煽てたら駄目ですよ篠原さん! このクソガキ絶対図に乗りますって!」
「矮小……」
「は?」
「何も見てないのに見た目と年齢だけで他人を評価するんですね。そういうの、底が知れますよ、滝澤二等」


僅かに顎を引いて同意した暁はさておき、その日の滝澤は一日中不機嫌だったことは言うまでもないだろう。




***




「何故、そんなにも死にたがる」
「人間も喰種ももう見たくないから」


その男、有馬とかいう捜査官にまた会ったのは衝撃の日から次の季節のことだった。

私は喰種被害者の孤児として〔CCG〕の施設に引き取られ、治療を受け続けていた。というのも、五歳児の体に成人の意識を定着させた私は人間どもにとっては不気味に写ったのだろう。あらゆる精神疾患の可能性を考えうる限り調べられ、検査し、医療紛いの行為を受けた。何も残らなかった。何も変わらなかった。私としては当たり前の結果ではあるのだけれど、人間どもにとってはそうではないらしい。

試行錯誤、暗中模索の末、呼ばれたのがこの特等にまで若くしてのし上がった寵児。私が死んで六年ほどで下っ端から最上にまで上り詰めた男がわざわざ小娘一人のために足を運んできたのだ。

冒頭のセリフを言ったきり男は黙りこくった。私も答えることは答えたから黙った。私は死にたかった。喰種にも人間にも期待などしていない。汚い。いらない。いくら消えろと祈って願って呪っても消えてくれないのだから、私が目を閉じるしかないのだ。私を不幸にする存在を見るくらいなら。そう、私は、私は、


「幸せになりたかったの」
「しあわせ……」
「喰種だった時も、人間になった今も、そう思った。けど、いくら努力したって幸せにはならなかったし、誰も教えてくれなかった。だから、楽になりたい」


あなたに殺されて、一瞬だけでも幸せかもしれないって錯覚できたの。だから、幸せだったのに、こんなの望んでいなかったのに。


「ねえ、私、実は喰種だったのよ? こんな形だけど、人間だって同族だって食べたわ。白鳩だって必要なら殺した。最悪なヤツよ。そんな化物が人間の皮を被って孤児に紛れてるの。危ないでしょ? ここにもう置けないでしょ?」


だから、殺して。

何度も何度も、男を説得するために言葉を重ねた。私がどれだけ喰種として極悪で忌むべき存在かを、ゆっくりと、子供に聴かせるように紡ぐ。口だけは達者な自信はあった。それに私の本心の全てを乗せているのだから、いつかはこの男も落ちるだろう。そう参段を立て、根気強く話し続けて、それで男は納得した。


「……分かった、条件を出そう」
「何かしら」
「君の持っている情報を全て私に流してもらう」
「いいわ」
「交渉成立だ」


そこから一時間も経たずに孤児院から自由の身になった私は、天高く聳えるマンションの一室で、よく焙煎された豆のコーヒーを出され唖然とした。


「君は今日から有馬名前になる」
「は」
「君の願いをこれから叶えよう」


テーブルに投げ出された書類。戸籍標本には有馬名前の文字。目の前の男、有馬貴将の、養子という位置づけだった。生まれ変わったと知った時と負けず劣らずの衝撃が頭を直に揺さぶった。



「君を、幸せにする」



私は有馬貴将という男を見くびっていた。



デフォルト:有馬緒戸(オト)

元喰種現人間(属性幼女)。原作時11歳。喰種時代は情報屋紛いなことで危ない橋を渡ってきた。〔CCG〕からの呼び名は『告げ口』。羽赫。戦闘力は並だが他の喰種と手を組んだ場合厄介だったためSレート。17歳の有馬三等捜査官に殺される。その後なんの因果か人間の胎児に定着し、十月十日の後人間として生まれ出る。そして五歳になる頃に両親を喰種に食い殺される現場を目撃したショックで前世の記憶が呼び起こされ死んだ直後と中身がリンクしてしまう。いろいろあって有馬の養女になり、有馬に振り回されながら喰種の情報を垂れ流すお仕事に勤しむ。
人間にも喰種にも期待していない。人間になってからは有馬のためにそれなりの人付き合いはするが、偏見持ちがとにかく嫌いで刺々しい態度を取る。行動理念はすべて有馬のためだけれどそれは有馬に幸せにしてもらうためであって好意や依存はそこまでない。
東京喰種界の人類最強有馬さんを幼女と組み合わせて犯罪臭ry微笑ましくしたくて書きました。有馬さんのキャラがイマイチ把握できてないのですが、彼は天然なの? マイペースなの?

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