幾千の未来と過去と昨日と明日



彼女は地獄に対していい感情を持っていない。それは彼女が一度その地獄に落ちたことがあるのを意味し、もっと言うと閻魔大王にすら呑み込みきれない怯えと非難を抱いて生きている。そう、本人は死人でありながらまだ生き物だと自分を認識しているのだ。それほど瞬時に殺されて、殺された理由を不当なものだと信じていた。いや、彼女にとっては地獄に落ちたことも地獄から追い出されたこともすべて不当で、今この居場所を得たことこそが唯一正当なものだと言えた。思えた。もう死んでいるが故に死ぬことを許されない彼女の、変わることのない日常が天国の桃源郷に広がって固着していた。


「おはようございます」
「おはよう兎子(トウツ)ちゃん……」


兎子。それが彼女の呼び名になったのはずいぶん昔のこと。

店の奥。ボサボサの頭に前をとめることなく上着を羽織った格好で出てきた男は、涼やかな目に温かみを込めて彼女に挨拶した。いつにも増してだらしない印象を受けるのは明らかに二日酔いでグロッキーな雰囲気を醸しているからだろう。こんな時彼女は住み込みで働いている弟弟子を思うと複雑な心境に陥る。苦労しているだろうな、私以上に、と。これで基本的に温厚で憎めない性格でなかったら彼女とて彼に拾われようとは思わなかったに違いない。

神獣白澤との付き合いは長い。恐らく千年は経っている。神である彼の寿命からすれば短い時間ではあるだろうが、人間からすれば悠久にも等しい年月。だから、便宜上長いとしよう。

住み込みではないものの、彼の薬屋に勤めて以来彼女は白澤に対しては深い感謝をしている。身寄りのない女一人を拾って一人前の薬師にまで育ててくれた。それだけでなく心身ともに疲弊しきった彼女を癒してくれた。普段の飄々とした優男の印象と違って、彼は彼女のことを子供か孫のように大切にしてくれる。本人は『光源氏の気持ちを味わいたかった』などと意味不明なことを宣ってはいたが、会った当初から現在まで変わらず見た目18歳のままの彼女に向かって紫の上は無理がある。


「兎子ちゃん二日酔いの薬作ってー……桃タローくんが薬草摘みに出てて困ってるんだ」
「あなた今起きましたね。何時だと思ってるんですか」
「何時だろ。日はけっこう高くなってるよね……あ」
「あ?」


顔面蒼白で吐き気の波が押し寄せてきたのか口元に手のひらを当てる様子は本気で具合が悪そうだ。いつものことだが。軽い小言を返しつつ、薬膳でも作ってやろうかと鍋の場所に向かっていた足は、白澤の気の抜けた声に反応して急遽ブレーキをかけた。


「そういや今日は昼にあの野郎が来るんだった」
「え、それを早く言って、」
「もう来てますよ」


ズザザザ

ものすごい音をたてて後ずさる。薬草を吊るしてある干し物のカーテンをすり抜け薬品が並べられた棚を揺らしたのは、意外にも白澤の仕業ではなかった。


「あー、ごめん兎子ちゃん。これは僕のミスだ」
「いちいち大袈裟に反応するのやめてくれませんか」
「……桃太郎くんのお手伝いにいってきます」
「だめです」
「ひっ」


強い力で握られた手首。尖った爪と青筋が浮いて見えそうな真っ白い手。固い皮膚の感触と重低音の声を受け取り、その持ち主の正体をまざまざと実感させた。悲鳴と一緒に鳥肌が出てきたのは彼女の彼に対する気持ちを分かりやすく表したものだった。


「あなたに用事があるんです」
「わ、私にはありません」
「私は用事があると言っているでしょう」
「っ白澤さま!」
「ごめん、今日は本当に君の話らしいんだ」


と言いつつ地味に後ずさりしているのは件の人物にガンつけられているからである。唯一の味方を失い絶望を露にする彼女に、その元凶である彼、閻魔大王の第一補佐官鬼灯は短い眉毛を僅かに釣り上げた。


「いつもいつも白豚の影に隠れてうじうじうじうじ……あなたもいい年なんだから独り立ちでもしたらどうですか!」
「よ、余計なお世話です……あなたは私のお母さんかなんかですか……!」
「あれ、白豚ってのは否定してくれないの? 兎子ちゃん否定してくれないの?」
「ブーブーうるさいですよ豚」
「助けてくれないなら黙っててください豚さん」
「お前ら実は仲良しだろ!」


などと軽い漫才を披露していても、彼女は限界に近かった。掴まれた手は小刻みに震えているし、顔は今にも泣きそうなほど歪んでいる。

彼女は地獄を嫌っている。憎んでいる。恐れている。それは過去のトラウマに縛られて、未だ消えない傷を抱えているということ。魂に傷がついているのだと白澤は訳知り顔で教えてくれた。そのせいかは知らないが、千年以上天国に住み、それ以前に悠久よりも遥か長い年月を地獄で過ごしたというのに、彼女は未だ転生も果たすことなくここに居続けている。彼女の魂と合う波長の身体がなかなか見つからないのだと、地獄からも天国からも説かれ納得するしかなかった。彼女の居場所は、やっぱり天国の桃源郷にしかないのだと。

地獄に関係するものを忌避する彼女は、鬼灯と対面するたびに怯えと拒絶を前面に出して威嚇した。来訪する際は白澤に頼んで鉢合わないように融通してもらっていたくらいだ。鬼灯にとってそんなものは小動物の悪足掻きに等しいが、如何せん彼は無類の動物好きである。普段ならこれだけ嫌がられれば軽く弄る程度に留めていた。が、今回ばかりはもともと鬼である心をさらに鬼らしくして話を聞いてもらわなければならない。なにせこれは彼女のための話なのだから。


「あなたの転生先が見つかりました」


音が止んだ。

息を飲んだ音がどこかから漏れ、戸口にいつの間にかいた桃太郎の手から薬草の束が滑り落ちた。

← back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -