2
魔力暴走とは、体内から溢れる魔力をコントロールしきれず勝手に体外放出されてしまう生理現象だ。
赤子の未発達な肉体に宿る魔力は雀の涙ほどであり、ある程度の魔力は血流と同じように体内を巡る。しかし、生まれつき体容積に収まらない魔力を持って生まれる子が稀に存在する。そのほとんどが生後三ヶ月以内に平均魔力量まで減衰し安定するか、あるいは魔力の増強が止まらず悪化していき熱暴走を繰り返す。後者の赤子の死亡率は著しく高い。魔力量に耐えられる体に育つか内側から壊れるかのチキンレースが強制的に繰り広げられる。
信心深い老人たちは魔力暴走で死んだ赤子を『神に愛されすぎたゆえに神の御許に戻った』のだと崇める。時代遅れも甚だしい考えだが、表立って否定するのはごく限られた若い世代くらいだ。それほどまでに魔法界は魔法至上主義の宗教に染め上げられていると言っていい。
ならば。魔力暴走によって一度死んだかに思われたがケロリと生き返り、現在まで魔力量を落とすことなく生きている幼児はどういう扱いを受けるのだろう。
アビス・レイザーらしき子供にしがみつき、レイザー邸から転移術で脱出したナマエ。一回でブワッと魔法局のエントランスにたどり着いた……わけもなく。
「ふっ、ふっ、ハッ、ホイ!」
「……………………」
めちゃくちゃ小刻みに瞬間移動を繰り返していた。
一度に目的地に飛ばず5〜10mごとの飛び飛びの転移は魔力の無駄でしかない。というか常人ならすぐ魔力切れを起こして徒歩移動に切り替えるだろうが、ナマエに長距離を歩く体力はない。むしろ暴れる魔力を発散するために連続で魔法を使用する方が現実的な移動方法だった。
ライオ・グランツの教育方針は魔力コントロールより魔力放出に重きを置いていた。発作が起こった時に無害な魔法を連発することで周囲への無差別攻撃を抑えてきた。転移魔法もその一貫であり、部屋の中でのみ練習したそれの範囲は5mほど。視認できる位置までしか飛んだことがない。一回の転移を刻んで魔力を無駄遣いすることこそが身の安全に繋がるのだ。
というわけで、住宅街から魔法局の荘厳な城に続く緑の炎は多くの人間に目撃され、大真面目に警備隊が駆けつけたりオカルトチックに都市伝説化したりと騒ぎがあったのだが、移動に必死なナマエはもちろん預かり知らず。
ぽてっ、と。
大人しい、というか何が起こっているのか分かっていないアビスと一緒に魔法局のエントランスに不時着した。魔法界の最高決定機関への不法侵入を防ぐための転移阻害だ。急に魔法が使えなくなった子供二人、大理石に仲良く尻餅をついた。
スケートリンク並みに広大なエントランスには少なくはない魔法局員が行き来している。「うぉッ!?」「こ、子供?」「保護者は何をしている?」当然、急に転移してきた子供二人組を不審に思う。
囁き声がそこかしこから聞こえてくる中、ポカンとしたアビスと目が合った局員がいた。
────バサッ。
魔法で浮かせていた書類が突如として重力を思い出す。
無差別に床に広がる紙束。一拍置いて、小さくない声量で男の悲鳴が上がった。
「悪魔の目……ッ!?」
そこからは阿鼻叫喚の地獄絵図。
「ふぇっ」
主にビックリした幼児のせいで。
だって魔法局にいる大人はみんなナマエに親切だった。親元から離されて暮らす境遇に同情的で、いくら部屋を開放的にリノベーションしたって悪態の一つも吐かなかったので。こんな風に温かみのない目で見られるとは思わなかったのである。
後から振り返れば、その優しさにもまた理由があったのだけれど。
最初にアビスが取り乱して蹲る。「ごめんなさい、ごめんなさい、」と謝り続ける子供にショックを受けるナマエ。転移阻害のせいでさっきまで順調に消費していた魔力がわだかまり、まだ暴れ足りないと言わんばかりに体から噴き出した。
何もない宙に芽吹く月桂樹。
細い木々が寄り集まり、先端にかけて鋭く尖がって、──びゅんッ!空気を裂くように飛んでいく枝。全方位へ雨あられに降り注ぐ天然の木槍が大理石に深々と突き刺さった。ふきぬけの広々としたエントランスいっぱいに、不規則に、無差別に。先ほどとは比べ物にならない悲鳴が上がった。
その中心に座り込む二人、特にアビスの方はもうキャパオーバーだった。周りよりも自分にしがみつく幼児が訳が分からなくて、未知数で、怖くて仕方ない。
「やめ、やめて、よ」ガチガチと歯の根も合わずナマエの服を引っ張る。そこで初めて涙の膜が張った目と目が結ばれた。
あっ、と言う間に空中に浮かんでいた木槍がかき消える。どころか剣山のごとき残骸も消え、後に残ったのは穴だらけの大理石とボロボロの局員、転移阻害のために走るしかなかった警備隊の魔法使いたち、大人に囲まれた泣きべそ二人ぼっちだった。
やっちゃったぜ。
「テンサイだ……」
これはどっちの意味か分かるぞ。
さっきまでの混乱状態を終え、やらかし幼児は急に冷静になった。
ちなみに阿鼻叫喚地獄絵図イベントはもう一回残されている。
「『イヴル・アイ』……悪魔の目か! なんと悍ましい!」
避難先としてもともと目指していた目的地、ブレスじぃじである。
とりあえず責任者に、と言わんばかりに連れて来られた魔法魔力管理局の副局長のデスク。つい三時間前に送り出した幼児が見知らぬ男の子を引き連れて戻って来たばかりか、悪魔の目持ちだったことでブレスの方が目を剥いた。
ブレス・ミニスターは典型的な魔法信仰の人間であり、神が作りたもうた世界の調和を乱す輩に排他的だった。ゆえに神が与えた魔法を否定する悪魔の力はもちろん度し難く思っている。
問題は、匿ってくれると信じ切っていた幼児の絶望である。
いい年した大人がまさか面と向かって子供に差別用語を言うなんて……悪魔の目って蔑称か? え、わかんない。ナマエ四歳だもん。この世界のことなんもわかんないけど。
「ふぇぇぇ……!」
「ひっ」
信じていた大人に裏切られることは、誰だってショックなことだ。
「じぃじ、このせかいにあるものはかみさまがつくったって、すごぉいっていってた。このこの“め”だって、かみさまがくれたものでしょう? なんでかみさまのものをわるくいうの?」
「いや、しかしっ、何事にも例外というものがあってだな、」
「じぃじはうそをついたの?」
「グゥッ!!」
というやりとりを一波乱過ぎ去った後の執務室で繰り広げている。
倒れた書類棚や真っ二つのデスク、床に散乱する書類が魔法によって粛々と元に戻っていく。その真ん中にいるナマエはしっかりとアビスの左目と見つめ合ったままおしゃべり続行。アビスの方は蒼白顔のまま必死に目をかっ開いている。たった二回でナマエの魔力暴走がトラウマになってしまったらしい。シンプルに可哀想。
孫のように可愛がっている幼児の世間擦れしていない貴重なご意見にブレスの口数が減っていく。とはいえ論破されて反論に窮しているというよりは、幼い相手に分かりやすく説明する言葉の持ち合わせがないという方が正しい。要はイヴル・アイに対する心象は依然悪いままだということ。
暖簾に腕押し。糠に釘。生きた年数だけに常識の強度が違う。こりゃあ根深い。
ナマエはだんだんと憂鬱な気分になった。なにせブレスがイヴル・アイを説明するごとに眼前の八芒星がゆらゆら滲んでいたから。
遅ればせながら、本人に聞かせていい話ではなかった。
反省したところで時間は戻らず、むしろ魔法局からの知らせを受けて駆け付けた養父母によって事態は悪化する。
詳細は省くが、聞いていたナマエがわりと初っ端からアビスの耳を塞ぐような内容だったとだけ。
レイザー夫妻とブレスの話を聞いていると、我が子を幽閉していたことより悪魔の目持ちの子がいることを隠していたことを非難しているように聞こえる。始終苦虫を噛み潰した顔で弁明する養父と悲劇的に涙を流して謝る養母。相対するブレスは事務的に、いっそ冷ややかなほど養子先の適否について意見を詰めている。子供は完全に蚊帳の外に置かれてしまった。
子供たちの方と言えば、目を離さないためにナマエの頬っぺたを両手で挟んで固定するアビスと、思いっきり腕を伸ばしてアビスの耳を両手で塞ぐナマエの図。お互いに顔を突き合わせて固まっているこの状況はまるでキスする五秒前。実質大人たちの話し合いの間これ以上の被害を拡大させないための安全確保であり、真顔と怯え顔を突き合わせてる現状が大変シュール。わけわかんねえなコレ。
悪魔の目を持っているからと蔑まれ無視されるアビスに対して、魔力暴走でレイザー邸の地下と魔法局のエントランスを破壊したナマエは一切のお叱りを受けなかった。もちろん好きで暴走させたわけじゃないし、止めようにも自分の意思で止められないものだと一般的に知られているからだろうけれど。それ以上に。
“強い魔法を使えるから”
“三本線だから”
そういう盲目な信仰を感じてならない。
魔法局の大人たちが魔力暴走常習犯幼児に優しかったのは、魔法の才能を約束された幼児だったからだろうか。
迫害されるよりは圧倒的にマシだが、あからさまな贔屓もどうかと思う。
「やはり三本線の子供を預けるには不適格と言わざるを得ませんな」
「そ、そんな!」
「私たちには跡取りが必要なのです!」
「あなた方の血を引いた嫡男がいるではありませんか」
「ですから、アレは“病気”だと!」
「生まれながら神に愛された子供のそばに、悪魔の目を置くなど……」
静かにドン引きしているうちに話がよくない方向へ進んでいく。
このままでは養子先探しがふりだしに戻ってしまう。何より、アビスと離ればなれになってしまう。
体感2℃ほど下がった体温。
いつにも増して明瞭な思考。
気怠さなんて感じない軽やかな体。
すべて魔法を否定する悪魔の目のおかげだ。
魔力暴走に気を張らなくていいなんて天国?
これを逃してなるものか。
「じぃじ」
「この子を神覚者にする環境、を…………なんだい? じぃじは今だいじなお話をしているんだよ」
今とんでもないことを言わなかった?
うーうん。幼児なにも聞いてない。
「おにぃちゃんがほしいの」
「うん?」
「このこに、おにぃちゃんになってほしい」
「は。な、なにをっ、滅多なことを言うものではないッ!」
予想外にブレスは憤った。
何かを言おうとして、口ごもって、子供の耳に入れていい言葉に置き換えることを何度も繰り返し、そのたびにナマエが目をうりゅうりゅさせて首を振るので、ついには途方に暮れてしまった。愛娘が駆け落ちした直後の父親みたいな草臥れ方だった。
ちなみにアビスはまた泣かれるかもしれないと必死にナマエの目を追いかけていた。やっぱりシンプルに可哀想。
でもでもだって、一度知ってしまった健康は手放せないし。
我が意を得たりと勢いづく養父母と一緒になって説得し(心なしかふるふる首を振っているような気もしなくもないアビスを見なかったことにして)、晴れてレイザー家の養女になったのだった。ぶい。
「おにぃちゃんといっしょがいい」
「アレを兄などと呼んではいけない。お前にとって無関係なモノだ」
「えっっっ?」
レイザー邸に帰宅後、ちゃっかり地下牢に戻されかけてたアビスが地上に呼び戻された。流石にまた屋敷を壊されるのは避けたいらしい。当たり前である。
幼児の全力の駄々こね(と魔力暴走未遂)によりアビスのお部屋が地下からナマエのファンシー部屋にお引越しになった。というのも、今まではインフル並みの熱っぽさがデフォルトで毎日寝苦しかったのである。アビスと目を合わせてうとうとするとおやすみ三秒だった。のびくんもビックリ。
養父母としても寝ている間に暴走する心配もないとくれば、枕元にアビスを許容するしかなかった。幸いベッドも無駄に広くて大人三人眠れる広さである。子供二人なんて余裕余裕。
カチンコチンに固まってドライアイ寸前まで見開いていたアビスも、朝起きたらぐっすり眠っていた。地下牢のベッドより寝やすかろう。これぞウィンウィンな関係。ナマエはのほほん親指を立てた。
「おはよぉ、おにぃちゃん」
「………………っ!? オッ、おご、っます!」
寝ぼけまなこのアビスにはめちゃくちゃビビられたけれども。どおして。
せっかく兄妹になったのだから慣れてもらわなければ困る。まだ初めて会って一日だし、おいおい慣れていくだろう。
「グェっ、ぁッ、ッ! 〜〜っ!」
まさか一年後にマウントで首を絞められるとは思わなかった。
おいおいね〜とか悠長なこと言ったのどこのどいつよ。
太陽も昇っていない深夜。月明りがカーテンの隙間から差し込まれる薄暗い寝室。ベッドの上で寝起きの力が入っていない体に跨るアビス。しっかりと悪魔の目を活用しながら両手でギリギリ細い首を握りしめている。これには魔力を放つことも魔法を唱えることもできない。
そんなに恨まれることをしたっけ。
『外出先や客人が家にいる時は使用人として接するように。呼ぶときは兄ではなくアビスと呼びなさい。分かったか?』
どうしてもレイザー家の子供と認めたくない養父の手前、昼間は呼び捨て、お部屋ではお兄ちゃん呼び。逆にアビスは頑なに『お嬢様』呼びをしている。これかな?
『アビス、これなんてよむの?』
『お嬢様、質問は私めに』
『わたしはアビスにきいてるの。ね、アビス?』
『そ、れは……ごめんなさい分かりません』
『ふぅん。せんせー、おしえて』
暴走防止のお守りとして家庭教師のレッスンにも付き添っているから、どうせなら一緒に授業してもらおうと話を振りまくったアレ?
『アビスおにぃちゃん、これたべれない。たべて』
『ナマエお嬢様のおやつですから。私がもらうのは、』
『たーべーてー』
『は、はい』
アビスも一緒にいるのに一人分しか用意されていない茶菓子が忍びなくて無理やり押し付けていたこと?
『おとーさん、おかーさん、わたしね、あたらしい魔法をおぼえました』
『おお、どんな魔法だ? 後で見せてくれ』
『まだ四歳なのにたくさん学んでいるんですね。偉いわ』
『アビスおにぃちゃんにおしえてもらったの。おにぃちゃんね、せんせーみたいなんだよ。ねー、おにぃちゃん』
『えっ、いえ、そんなこと、』
『そうか。食事の後に時間を作ろう』
『我が家の未来は明るいわね』
どうにか家族の団欒にアビスを混ぜようとしてやんわりスルーされるのを毎週繰り返していることかな?
『おにぃちゃん。あつくて寝れないの。寝るまで目をはなさないで』
『……はい、お嬢様。仰せの通りに』
引き取られた日から現在まで睡眠導入剤の代わりにずーーっっっっと同じファンシー部屋でぬいぐるみに囲まれて寝かしつけてもらっているコレ?
…………結構やらかしてるね?
走馬灯のごとく流れてくるこの一年間のダイジェスト。どの映像にも涙目だったり俯いていたり強張った顔をしたアビスがいた。やることなすこと見事に空回っている。
ナマエが頑張ったのは、あくまで居心地の良い家族仲にしたいという一点のみ。この最悪な空気をいつまで引っ張るのよと苦言を呈する代わりにアビスを兄扱いしていただけ。
そのはずだけれど。
実の息子を差し置いて他人の子を可愛がる両親を見るのは、子供にとっては残酷なことだろう。そういう理解も確かにあって。
されるがままに生理的な涙で滲む視界が、アビスの苦し気な表情をじっくりと観察していた。
そんな顔をするならやめた方がいいんじゃないかな。
「────ぁ」
抵抗を止め大人しくなった幼児。
五歳になりたての小さな女の子の上で、アビスは急に手の力を緩めた。
気道を塞いでいた力が弱まり、急激に流入した酸素。ベッドでけほこほ咽る小さな体は痛々しく、後ろに尻餅をつくようにアビスの体が離れた。咽る声の裏で過呼吸寸前の荒い息遣いも聞こえてくる。とんでもなく怯えた様子で、自分の胸を押さえて泣いていた。
「ごめっ、な、さ」
「おに、……ちゃん」
「ッごめんなさい、ごめんなさい、ご、ごめんッ」
「わたし、いないほうがいい?」
「っ違う!!」
えっ違うんだ?
「ころしたら、いなくなっちゃうよ?」
そこで首をブンブン振られても困ってしまう。
殺したかっただけで死んでほしくなかった? 謎解きかな。
「わたしに苦しんでほしかった?」
──ブンブン。
「わたしが嫌い?」
──ブンブン。
「えっとぉ、おひるのおやつが少なかった?」
──ブンブン。
「おとーさんとおかーさんにほめられるわたしがジャマ?」
──────ブン。
最後ちょっと悩んだな。
いくつか質問しても、反応が早い鈍いの違いだけで明確な答えは返ってこない。
一問一答にも疲れて来てぐったりぬいぐるみにもたれかかる。
「わたしにいなくなってほしい?」
「っ、ぁっ、いっ、」
一番はじめと同じ質問を繰り返して、ようやく言葉らしい返答がやって来た。
「いなく、なったら……ヒッ、っまた、地下に戻されちゃう」
ギュッと眉根を寄せて顔を上げたアビス。
薄暗い部屋の中で、黄色い左目だけが怪しく光っていた。
アビスだって、義妹の魔力暴走を止める目的で外に出られていることを理解している。だから義妹への感情がどんなものであれ一緒にいなければならない。
義妹はアビスにとって必要な存在だ。
アビスも義妹にとって必要な存在だ。
「でも、もうすぐ、君がいたって、どうせいらない子になってしまう」
「ん?」
必要、だった。
「もう、危ないことにはならないでしょ、う。一ヶ月も、暴れてないんだ」
聞いた言葉を噛みしめ噛みしめ。
そういえば、最近は魔力暴走を起こしていないな、と。
常時風邪を引いているような気怠さは残っているものの、アビスのおかげで安心して眠れる環境を手に入れた。万が一暴走してもすぐに止めてもらえる安心感が子供の健全な成育を後押ししたのだろう。体はしっかりと成長し、膨大な魔力を受け止める器が完成しつつあった。
もう魔力暴走は起きないかもしれない。
「外に出ていい理由がなくなってしまう。また、暗いところでひとりぼっちだ……っ」
ナマエにとって喜ばしい変化が、アビスにとっては自由な日々の終わりを意味していた。
「こわい」
両腕で自分を抱きしめながらガタガタ震える。幼児の細っこい首に手をかけた理由もきっと分かっていない。ただ何かしなければと足掻いて、空回って、暴走した。その結果がこの憐れな生き物だ。
なんて可哀想な子だろう……。
……………………。
「なぁんてね。とう!」
「へっ?」
手にしたお高いテディベアをアビスに投げつける。ぼふっと顔面で受け止めたのをいいことに、五歳の健康優良児ボディでアビスの上に乗り上げた。
やられたらやり返す。マウント返しである。
アビスの顔に腹を押し付ける形で乗っかったテディベア。柔らかいモヘア生地と綿ごしに幼児パンチがぽすぽす入る。ぜんぜん痛くない振動を鼻先で感じながら「えっ、えっ?」と混乱するアビス。
そんなの構わずナマエは殴る。ぽすぽす間抜けな音を立てながら殴り続ける。
「こわいこわいのとんでけー、とんでけー」
「あ、あぇ? おじょ、さま?」
「とんでけー、とんでけとんでけー」
「いつまでこれ続けるの?」
「けー、けー、けー」
「めんどうくさくなってる……」
そうして心ゆくまでテディベア越しの間接パンチをしまくり、ふぅと一息。深夜にいい汗かいてしまった。
「アビス、おなかすいた。ごはんたべよ」
テディベアをぺいっと投げ出し、手を引いてコソコソ深夜のお屋敷探検に繰り出す。アビスはずっと解せない顔でナマエを見下ろしていた。
深夜のキッチンは当たり前に薄暗い。飯泥棒をしに来た手前、明かりを出すのは最小限にして探しまくる。朝食用の食材を除いてめぼしいものは冷や飯しかなかった。白米とかこの世界にミスマッチすぎる。
仕方ない。こうなったらおにぎりで妥協するか。
塩の場所が見つからず、代用でブラックペッパーをパラパラ。アビスの分はナマエが、ナマエの分はアビスが握り、なんとも言えない固さと形のボールを二人で貪る。腹が減っているからこそギリギリ美味しい部類に滑り込んだ味。ペロリと一つずつ平らげてしまうと、締めのお水を一杯。しょっぱいものの後のお水は格別だった。
「お嬢様は、この目が怖くないの」
「こわくないよ」
証拠隠滅を済ませ部屋に帰る途中。
思い詰めた顔のアビスがゆっくりと尋ねてくる。
「その目はこわくない。アビスは、ちょっと、こわい」
なので、丁寧に答えてやる。
繋いだ手のひらが震える。冷たい汗がじわりと滲んだ。いったいどっちの汗だろう。
子供のやったことだ。被虐待児のやったことだ。生い立ちを加味すれば情状酌量の余地はあるだろう。でも、完全に無罪にしていいほどやったことは簡単じゃない。
前世で一回。今世で一回。死んだことがあるくせに、やっぱり死ぬのは怖い。
殺されるのはもっと怖い。
「だから、この家からでていくね」
「え?」
「いますぐじゃないよ。もっと大きくなったら。はたらけるようになったらね。そのときは、アビスももっと自由になっているよ」
「自由……って、」
「わたしよりおにいさんだもん。大人になるのも早いでしょう?」
繋いだ手に力が入る。
アビスの手がまるで引き留めるように、……なんて妄想だろうか。
「大人になったらね、子供にはできないことがいっぱいできるようになるの。だからね、なりたい大人になれるように今からがんばろ」
「なりたい、大人……でも、父さんはお嬢様にこの家を継いでほしいんだよ」
「継がないよ。ここはアビスが継ぐんでしょ?」
「そんなの、できっこないよ」
「できるようにするのー。アビスならできるって」
「…………じゃあ、お嬢様は、何になるの?」
「んぁ」
考えてなかったソレ。
アビスを差し置いてお金持ちの家を相続するのは気まずいし、魔力がたくさんあるからって魔法局勤めなんて絶対無理。神覚者とか勤まる気がしない。そもそも魔力量と魔法の才能ってイコールで繋げられるのか、などなど。
なりたくないものはすぐに浮かんでも、なりたいものは少しも考えたことがなかった。
えーーっとぉ、ええっとねーー?
「ぱ、」
「ぱ?」
「パン屋さん、かなぁ?」
急にIQ下がったな。
「ほんとのパパとママがパン屋さんなの。きっとわたしにもパン屋さんの、さ、才能? があるとおもう、の〜。えへへへ」
ものすごく痛ましいものを見る目で黙られた。
なんでや、パン屋さん可愛いやろ。
深夜の背徳ブラックペッパーおにぎりを食べたことで飯泥棒という罪を二人で背負った。つまりアビスとナマエは秘密の共犯者である。共犯者は一蓮托生。裏切りは許されない。墓場まで持っていく秘密の共有こそ二人の仲を深めるのだ。
と、意気揚々と力説したところ、アビスは気のない返事しかしなかった。「へぇ」て。
ナマエはシレッとお兄ちゃん呼びを止めた。アビスは変わらずお嬢様呼びだが、二人きりの時は滅多に呼びかけられない。お嬢様扱いは最低限で、名前を呼ぶほど親しさもない。険悪ではなく、しかし兄妹らしい馴れ馴れしさもない。
ただ、今までできていなかった当たり前のコミュニケーションが取れるようになった。それだけで十分だ。
よく考えなくとも魔力暴走の心配が付きまとう幼児なんておっかない存在だ。爆発物のようなものなのだ。本人よりも周りの方が気を遣う。特に、初対面で魔法局のエントランスを穴だらけにした所業を見せつけられたアビスは恐怖でしかなかっただろう。最初に怖がらせたのはアビスではなくナマエの方だった。
危険物の隣に居続ける恐怖。
自分から交流を持とうなんて思わないだろうなぁ。
引き取られてかなり経った後に、相手の気持ちをようやく理解した。初めからサッサと理解していたらあんなに無神経なほどベタベタしなかったのに。
…………はじめから?
思い返す。水色髪の養父母、特に養母はアビスに似た顔立ちをしている。レイザーというファミリーネームも、一人息子がいるという情報も、漫画を読んでいたなら察するべきではないか。それが閉じ込められたアビスを見るまで全く頭にかすりもしなかった。
何年も前、それも前世に読んだ内容だから? そうかもしれない。でも、決定的な場面を見た途端に冴えわたる脳細胞はなんなのか。
やっぱり、何かがおかしい気がする。
なんと言えばいいか、記憶が制限されている…………封印?
「実績解除か……?」
「あら、難しいお顔をしてどうしたの? お紅茶が口に合わなかったかしら」
「あ、いいえ、とってもおいしいです。ケーキとよくあいます」
「そうでしょう? 私のお気に入りなの。アビスくんも遠慮せず食べてくださいね」
「は、はい。お心遣いありがとうございます」
レイザー邸は庶民の一軒家と比べるまでもなく広いお屋敷だったが、ウォーカー邸はどちらかと言えば城だ。そんな城に住むイメルダ・ウォーカー夫人から小さなお茶会の招待状が届いた。
レイザー家に引き取られて二年。六歳になってから魔力暴走は一度も起きていない。アビスを同行させることでようやく外出が許可されるようになった。
これはとんでもない進歩だ。だってあの養父がアビスを外に出す許可を出したのだから。それだけここ一年のアビスの努力が凄まじかったということ。
貴族や旧家出身の子供は六歳になると初等部のあるイーストンかセント・アルズに通わせることが多い。もちろん家の教育方針によっては中等部から編入させるのも珍しくないが、やはり早いうちからエリート魔法使いの卵として人脈を作らせるものなのだろう。実際、九歳のアベル・ウォーカーは既にイーストンの初等部に通っているらしい。
出会った当初、七歳だったアビスは初等部に通っていなかった。養父母が息子を人の目に触れさせることをひどく恐れていたから。
しかし今はこうしてレイザー家の馬車に乗って高位貴族のお城に訪問できている。親子で日常で会話を交わすことは一切ないが、心境の変化としてこれほど分かりやすいこともない。
左目を黒い眼帯で覆ったアビスが緊張しきりで受け答えする。対してナマエはマイペースに高級ケーキにほわほわしっぱなしだ。他人の金で食うケーキは美味い。
「手芸屋さんが軌道に乗り始めて、また新しいお客様もできたの。この調子なら新しいおうちも続けられそうでホッとしたわ」
「あたらしいって、孤児院のことですか?」
「ええ、そうよ。もともと遊びで組紐のお手伝いもしてもらっていたけれど、何人か手先が器用な子がいたの。今はぬいぐるみ作りのマダムたちに混ざって頑張っているわ。この前差し上げたウサギも、すごく上手な男の子が仕上げをしてくれたのよ」
「あのぬいぐるみですか? かわいくてベッドにかざっています」
「うふふ。みんなが頑張ったかいがあります」
ウォーカー夫人は慈善活動の一貫で雑貨ブランドを立ち上げた。従業員は寡婦であったり、生活が苦しい奥様や、働けない老婦人。主な商品は洋服の端切れからできたハンカチやぬいぐるみ、スカーフ、ランチョンマットなど。始めは買うだけで慈善活動になると熱心な貴族夫人に触れ込んで安価に販売していたが、クオリティが一定の水準を満たし始めると純粋な顧客もつき始めた。
その売り上げの一部で小さな店を建て、店舗販売も始めたらしい。もともとウォーカー夫人の個人資産で成り立つ慈善事業。儲けなんて度外視の道楽だが、赤字が黒字に転じ始めると従業員の士気も上がり、ゆっくりと良い方向に向かっている。
孤児院の設立も、孤児の支援をしたい夫人と建設のための雇用の拡大、住み込みで働きたい女性たちの需要が合致したものだった。
『“かわいそう”ってやさしさがねこちゃんをころすんだよ』
聞かれていると知らなかったとはいえ、正論で滅多刺しにした幼児相手に、夫人は伝言ウサギで連絡を取って来た。
よほど言われたことが衝撃的だったのか、自分の慈善活動が独りよがりではないかと相談してきたし、五歳の子供の意見を聞きたがった。もちろん的外れなこともたくさん言ったし、夫人の方から貴族の慣習やしがらみの面で難しいと苦言を呈されることがあった。
それでもナマエと夫人の縁は途切れず、こうして初めてのお茶会と相成ったのである。
「そういえば最近はパン作りに凝っているのですってね。お母様が話してくれましたよ」
「はい、小麦粉のきじをこねるのがたのしくて」
「まあまあ、そんなに小さな手で大変でしょう?」
「でもたのしいです。アビスもてつだってくれます」
「あら、ご兄妹で仲が良いのね。素敵なことだわ。今度手土産に持ってきてくださいな」
などと心の底から期待している夫人を前にして、アビスが素早くティーカップで口元を隠した。ナマエは隠す前に思いっきり顔を引き攣らせたのに。
口から出任せとはいえ、パン屋さんになりたいと言った手前、趣味くらいにはしておこうかと手を出したパン作り。早まったかもと後悔した。
生地こねるのが楽しかったのは本当だし。まだ三回くらいしかやってないし。ごにょごにょ。
不自然にギクシャクしだしたレイザー兄妹。腹芸ができない子供たちを見て夫人は慈愛のこもった笑みを浮かべていた。
「アベルも一緒なら良かったのだけれど、まだ学校から帰っていないの。次は学校がお休みの日にしましょうか」
わざわざ馬車の前まで見送りに来てくれた夫人に丁寧にごあいさつ。馬車の中から手を振ってウォーカー邸を後にした。
そのすぐ直後のこと。馬車同士がすれ違うには狭い道で先を譲った豪奢な馬車。窓の外を見ていた男の子が、アベルに似ていたような────睨まれたような。そんな気がして、ずっと窓の外をぼんやり見ていた。
だから、その子が目に止まった。
「馬車とめて」
「はい?」
「あそこに子供がたおれてる」
「は。──今すぐ馬を止めてください!」
数メートルほど通り過ぎた馬車からアビスと一緒に降りる。後ろから御者の隣に座っていた使用人もついて来ていた。
貴族の家に仕える使用人や貴族向けの商人が多く住む街。馬車の通りが多い道の端で前に倒れている子供。顔を見なくとも髪の隙間から覗く耳が真っ赤で、苦しそうな息遣いが聞いていて痛々しかった。
アビスと一緒にゆっくり体を助け起こしてやる。裾が破れたマントと艶のないパサパサとした髪。そばかすが散った頬は赤く、どう見ても体調が悪そうだった。熱があるのに無理をして遠くまでやって来たような。
「だいじょうぶ? どこから来たの? おかあさんやおとうさんは?」
寒気に身震いするようにふるふると首を振られる。言いたくないのか、それとも親はいないということか。
困った気持ちが伝わったのか、アビスが無言で子供を背負う。とりあえず医者に診せるべきだろう。乗って来た馬車を目指しながら、ひと房だけ金色の前髪を除けてやった。
それにしてもこの子……なぁんか既視感が……。
「……ぃ…………ま……」
「ん?」
「……にいさま……どこ……?」
「……、………………クッ!」
またなの? また情報規制されてるの?
ここまで出かかってるのに!?
「ひらめけ、わたしの脳細胞」
「お嬢様??」
リアルに頭を抱えてみたところで、その日のうちに何かを思い出すことは決してなかった。
そこはチートじゃないんかーい。
“大人になったら他人になろう。”
当時五歳のナマエに言われたことをアビスはずっと覚えている。アビスがしでかした凶行も、細くて小さな首の質感も。
だから、今でも面と向かって妹扱いできないでいる。
「ランスくんが羨ましい限りですよ。子供の私があんなことをしなければ、彼のようにナマエお嬢様を大切にできたのかと思うと……」
「え、本当に……? 本当に羨ましい? あのえげつないシスコンが?」
「…………あ、いえ、やっぱ今のナシで」
「よく考えたらやっぱナシだったんだ」
ナシだったみたい。
← back