その異変に気が付いたのは、恥ずかしいことにずいぶんと後になってからでした。

冬が終わり、綿抜きの季節が訪れた頃。分厚い賭け布団が薄くなったことで、足の形がくっきりと浮かぶ。

夜の離れでしか会えなかったこと。行灯の覚束ない灯りの中で、神々しく晒される裸体が目に毒で、足元にかかった布団が気にならなかったこと。私が特別鈍かったのではなく、きっとあの方によって巧妙に隠されていたのだと。

「その足は、どうなさったの……?」震える声で尋ねると艶やかに微笑んで、それっきり。何も教えてくれなかった。それが答え。

おじい様があの方の足を奪ってしまったのだと。それくらいのことは平気でなさると分かっていましたから。

野に飛ぶ蝶を捕まえて、綺麗だからとピンで留める。────なんて残酷なこと。

正体が恐ろしい鬼とはいえ……いいえ、人じゃないからこそ、人間の醜い欲に良いように縛り付けられる美しい生き物が憐れで、切なくて、愛おしくて。怯えが少しずつ小さくなっていって、気が付けば必死になってあの方の力になりたいと思っていました。おじい様にも、お母様にも、叔母様方にも、女中にも、時ちゃんにさえ隠しながら、お屋敷中を、村中を探し回った。

羽衣を羽織るあの方は、本物の天女様よりずっと本物らしいと思ったの。

あの方は、そんな矮小な枠に収まる方ではなかったのに。



「村長さんは奥様とは長いの?」
「は、」
「好い仲なのでしょう。素敵ね、二人だけの秘め事」


顔を上げた先で、美しい人がクスクス肩を揺らして笑う。

美しい容貌は左頬だけ赤く腫れている。お母様がぶったのだと女中たちが噂しているのを耳にしていた。まさか本当にそうだとは思わなくて、障子を開けてすぐに頭を下げてしまった。

憎まれる。見放される。ここから連れ出してもらえなくなる。不安に押し殺されそうになりながら土下座する私を制して、紅い唇が吐き出したのは予想だにしない人の名前。

長田さん。私が生まれるよりずっと前からいる下男だった人で、おじい様に気に入られて村長になった人。庚子叔母様の旦那様。それが、どうしてお母様と?

何を言っているのか理解が追い付かなかった。

……いいえ。本当は、私が知りたくなかっただけ。


「長田さんはうちに長く仕えている方で、お母様とそのような事実はありません」
「本当に?」
「ほ、ほんとうです! お母様が不貞だなんて、そのようなことをするはずが、」
「ああ、そう、やっぱり。だから秘め事なのでしょう?」


ご自分が言ったことがよほどおかしかったみたいで、弦を弾いたような笑い声がきゃはきゃは品のない雑音に変わっていく。

下世話な、女中たちが陰で嘲る足りない女の声音で。


「肉体の繋がりはないのでしょうね。距離も主人と使用人の域を出ない。奥様は特に気を遣ってらっしゃる……のに。ふっ、うふふふふふふふふ! 村長さん、糸目で本当に助かったわねぇ。あんなに分かりやすい目ってあるぅ? “ボクは奥様がだいすきです! 一生お守りします!”って! 奥様よりよっぽどオトメだわ!」


ついにはお腹を抱えてくの字になって、それでも足りずに畳の上に仰向けに寝そべってしまう。豊満な乳房がお椀型に潰れて、肺を圧迫してしまうのでは、などと場違いな心配が浮かんだ。


「愉快ねぇ、あなたたちの地獄。よくもここまでしっかりと組み上がって。いつジェンガが始まるのかしら。混ぜてほしいわ」
「あなた、たち……? いえ、ですからお母様と長田さんは、」
「沙代さんも気付いているでしょう? 庚子様と奥様とで、村長さんの接し方がずいぶん違うって」


ひぅっ。喉が異様に張り付いて、それで、今まで見ないふりをして来たことが、泉の如く湧き上がってくる。

お母様が倒れそうになった時に添えられる手。煙草に火をつける手。段差がある時の手。背に添えられた手。あの手は、使用人以上の何かが秘められていたのでしょうか。


「確かに、不貞とは言えないでしょう。“龍賀の女”として御父上に逆らうことはできないもの。つけ入られる隙は必死に隠してきたんでしょうね。────でも、心までは縛られない」


お母様。
厳格で甘えをお許しにならないお母様。

お父様の前では常に深く刻まれた眉間のシワは、長田さんの前ではどうだったでしょう。


「思いだけはキレイなまま、ずっとずっと守って来たのかしら」


仲が良い、気心が知れた仲。そこに男女の想いが押し込められていたのかしら。


「沙代さんはぁ、まるで自分ひとりが地獄にいると思っているようだけれど、ちょぉっとだけ違うの」


寝そべっているせいで、いつもよりずっと下にあるお顔。ぬらぬらとした金色の目が俯く私の顔を捉えて離さない。

ああ、それ以上はダメ。言わないで。

お願い。



「時貞様以外の全員にとって、ここは地獄なの」



時麿様の平安装束は、神職として龍賀の当主を全うできるという誇示。こんなにも一族のために精進潔斎励んでおりますと訴えている。嫁取りをしなかったのもその一貫かしら。もしくは、時貞様がお許しにならなかったか。どちらにせよ、もう当主になるしかあの方に生きる意味はないでしょう。

丙江様は、もう時貞様に関わりたくないのね。化粧を濃くして、酒に男に溺れて、どんどん若い娘の自分から遠ざかって行ってる。そのくせ正気に戻ると悲しくなって、また快楽に逃げるんだわ。そうやって自分を守ってきたのね。

庚子様の支えは時弥様かしら。一族唯一の男孫。時麿様がダメになった時に当主にの座につけるのはあの子しかいないもの。次期当主の母親ともなれば、これ以上虐げられることもないでしょうし。

それから…………。


「皆さま、こんな地獄にいて、一緒に立ってくれる何かをお持ちなのね」


ひとりひとり、ひとつひとつ。

私がずっと、この家で息苦しかった原因が、地獄を作り上げている歯車だと思っていた人たちが、私と同じ地獄に生きる人間なのだと。蜜柑の薄皮を剥くように、果肉を一粒ずつ摘まみ取るように。丁寧に、丁寧に。


「地獄にひとりは寂しいものねぇ」
「………………ぁ、や、やめ」
「それで、あなたは?」
「ちが、やだ、っやめて!」


「あなただけ、なぁんにも持っていない」



「いぁ、いやだ、……いや、うそよッ」違う、あの方はこんなひどいことを言わない。私をここから連れ出してくれる尊い御方で、私の憧れで、私の、私の…………!


「可哀想な沙代さん。こんな地獄でもひとりぼっち。でも安心して。あなたには私がいるもの。きっと一緒にここから逃げましょう」



私だけの■■■■。



「あなたをひとりにしないわ」









なのに、あなたは水木様を誘惑した。

私を置いて、私じゃない誰かと一緒になろうとした。

私が羽衣を見つけられなかったから?

私が水木様と逃げようとしたから?



『お子さんを探しに来られたと聞いています。まだ小さい女の子だと。もう探さなくていいのですか?』
『あー、あー、そうだったそうだった。いいの、だって見つけたもの』
『? この村の小さい子は男の子しかいませんよ?』
『ここにいるじゃない。小さいと言うには無理な年だけれど、この際そこは許容しましょう』
『え……』

『欲しかったのよね、沙代さんみたいな可哀想な女の子』



私が、可哀想じゃなくなったから?




***




「そちらさんだってさぁ、外国でニーハオ言われたら差別だなんだって憤るでしょう? そのくせ自国では似たようなことしてんだからどの口が案件よねー?」
「いやわし大陸の方へはあんまり……」
「だからって人違いしてもいいわけ? ハァ??」
「す、すまぬ。……最近の若者は忍耐がなくてかなわんな」
「お? 聞こえたぞ今の」
「いかん本音が漏れた」
「今度は若者差別か? お? お? おーーーー??」
「おぬし面倒臭いとよく言われんか?」


なんだ、騒がしいな。

よく眠ったはずが妙に体がだるい。寝返りをうつのも億劫で、軽く身じろぎをすると生っぽい質感がむにゅッと頬にぶつかった。

むにゅッ?


「? ……?? ……どわッ!? あ、アンタどこに入って!?」
「あら、もうお目覚めのようですね。おはようございます水木様」
「おおおはようもクソもあるか!! 俺の布団から出ろ!!」
「まあ……」


なんで落ち着いているんだこの人は!!
面前に乳房があったら誰だって驚くだろ!?


「お忘れなの? 水木様が私を呼んだのですよ?」
「俺が? そんなわけあるか!」
「昨晩、水木様が私に向かって“来い”と。夏とはいえ夜は冷えますから」
「な、はっ、あぁ!?」


ね、寝ぼけていたのか……!?

頬に手を添え、困ったように眉を下げる名前さん。それがまた、おねしょをしたガキを見るような目で。騒いでいたこっちが恥ずかしくなってくる。とにかく仕切り直そうと布団で浴衣のあわせを隠してやり、いそいそと距離を取る。


「騙されてはいかんぞ水木よ。そこな女は自らおぬしの布団に入ったのだ」
「名前さん??」
「もう、ゲゲ郎様ったら」


オイこの人開き直ったぞ。


「昨晩は魘されてらしたので、起こすべきか悩んでいるうちに眠ってしまったのです。思えば殿方に対してふしだらなことをしてしまいました。申し訳ありません」
「あ、いや、」


指先を併せて折り目正しく頭を下げられると、どうも強く出られない。

夕日色の髪が滑り落ちて、眩しいほどのうなじが朝日に照らされる。こんな美人が一晩中同じ布団にいたと思うと、照れや恥より畏れ多い気持ちが勝った。

美人局か? 持ち合わせはほとんどないぞ?


「朝餉は既に届いているようです。食事しながら、というのも行儀が悪いでしょうが、少しお話をしませんか?」


ゆるりと体を起こし、にこやかに小首を傾げる手弱女。突き刺さるゲゲ郎に胡乱な視線がどうにもきになった。

俺が寝ている間に何やら仲良くなっていたらしい。蚊帳の外に置かれたようで少し面白くない。

布団を片付け背広に着替えている間に、端に寄せられていた御膳を名前が二つ並べる。一つはゲゲ郎の前へ、もう一つは俺の……前に行かず、名前さんの前に置かれた。おい。


「魚の小骨を取って差し上げるだけです。少しだけ待っていてくださいませ」
「要らん。骨なんぞ噛めば良いだろう」
「よく噛まないで飲み込んでしまうではないですか。いつ喉を詰まらせるかハラハラしておりましたよ」
「わしのは?」
「あなたは(妖怪だから)大丈夫でしょう」
「けちじゃのう」


ガキ扱いされてないか?

昨晩のことは一切覚えていないが、頭の片隅で母親に寝かしつけられている思い出が浮かんだ。ま、まさかな。


「それで話ってのはなんだ」
「沙代さんにはお会いになりました?」


口にかき込んだ飯が詰まるかと思った。

そら見ろと言わんばかりの温い視線が突き刺さる。名前さんはともかくゲゲ郎にまで笑われるのはかなり癪だった。


「実は、沙代さんには良くしていただいたんです。余所者で針の筵だった私の話し相手になってくださって。その折に、羽衣が戻ってきたら一緒に逃げようと約束を。けれどどこを探しても見つけられなかったみたいで」
「そうだったのか……」


沙代さん。俺なんかに夢を見ちまったせいで利用されている女の子。Mの秘密を探るためとはいえ、あそこまで好意を寄せられると戸惑っちまう。


『名前様は、鬼なのですから』


箱入りのお嬢様らしい可憐な顔が歪んだ。あれこそ鬼か何かを飼っているような形相で、少なくとも慕っているようには思えなかった。

どちらかが嘘をついている。もしくは、どっちもか。


「沙代さんが探せなかった場所は、湖に浮かぶ禁域というあの浮島と、龍賀一族が成人にならないと行けない秘密の地下室」
「地下室、ですか」
「ええ、お屋敷のどこかから行けるみたいなのです。生まれてこの方村から出たことがない沙代さんが知らない場所となると、もうそこしかないと」


浮島は先日行って酷い目に遭った。あそこには巨大な井戸と凶暴化した妖怪ばかりで、建物らしい建物は見当たらなかった。

沙代さんはMの工場の存在を知らないはず。ならば考えられるのはその地下室か。


「お二人の探し物のついでで構わないの。どうか、私の羽衣を探してくださいませんか」



今日は沙代さんの手引きで孝三氏と会うことになっている。聞けるようなら話をしてみるか。

っと、その前に。


「名前さんはアイスクリームは好きか?」
「ひょうか、ですか」
「この村、いっちょ前に駄菓子屋でアイスなんか売ってるんだぜ。昨日見つけてゲゲ郎と食ったんだ。後でアンタにも買ってきてやるよ」


我ながら、いつの間にか敬語が抜けていたことにも気付かずに、相手の喜ぶ顔ばかりを考えていた。実際に、名前さんがアイスと聞いた途端に子供のように目を輝かせたから、余計に得意気になってしまって。孝三氏との接触が終わったら、結果はどうあれ一度アイスを買ってここに戻ろうと決めていた。容器に入ったものなら多少溶けてもいいだろう。


この時点では、そんな悠長なことを考えていたんだ。










「名前、さん…………」


真新しい血痕が残る製造工場とは名ばかりの採血室。見るも無惨に倒れ伏した彼女も例外ではなく。


「急ぐぞ水木。わしの妻がこの先に待っておる。……こやつにも羽衣を返してやらねば」
「ああ、そうだな。せめて形見を供えてやらないと」


首の痛みと鼓膜にこびり付く少女の怨念。ただ相棒の目的に付き合うために、手斧を携えて鳥居の群れを走り抜けた。

汗のように滲む涙は、すぐに会うことになるクソ野郎への怒りで蒸発してしまった。


いつだって弱いヤツは食い物にされるんだ。




***





「長田! 助けなさい長田ぁ!」
「奥様っ!」


人を殺した。

時麿伯父様を、丙江叔母様を、庚子叔母様を、狂骨の力で。

私の地獄を構成する人たち。
私に地獄を強いる人たち。
私にない物を持っている人たち。

今だって、お母様はキレイな想いに向かって手を伸ばしている。それに応えようと足掻く長田さんも、同じだけのキレイな想いを抱いているのね。

私には、水木様への恋心を潰して女の役目を強いるくせに。


ずるい。ずるいずるいずるい。
ずるいずるいずるいずるいずるい!!


『あなたの苦しみは私たちも通った道』ですって。『お務めを果たせば龍賀の女として認められる』? 『そんな苦しみは終わってしまえばなんてことはない』ぃぃ?


私の苦しみをお前たちが量るな。



「死ねッ!!!!」



私の初恋を道具にしないで。


水木様がゲゲ郎様を助けに行きたいと言うから協力した。早く逃げたい気持ちを押して、人質のフリをしてまでお母様に逆らって、こんな恐ろしいところまで来たのに。

水木様は私から目を逸らした。それが答え。

力が溢れてくる。龍賀に恨みを持つ狂骨たちが人を食らって力をつけて。ああ、私、殿方を持ち上げられるくらい強くなったの。水木様の首なんて簡単に絞めて仕舞えるくらい。

愛しい人。愛しかった人。打算でもいい。私をこの地獄から連れ出してくれるなら、いつか本当の愛になってくれるなら。今だけは騙されたっていい。本当に、そう思っていたの。

もう、遅いけれど。

殿方の太い首。必死に生きようと脈打つ血管。どんどん指が食い込んで、藻掻く力も弱まって。青い炎に照らされた水木様は、ぜんぜん格好良くなくて、憧れが死んだことを知ってしまった。

今、この気持ちのままあの方を視たら、もう美しいとは思わないのかしら。

水木様の痙攣する体温をじっとりと感じていた。


背中に柔らかい何かが圧しかかって来るまで。


「化け物め……ッ!」


赤い、鮮やかな茜色の髪。遅れて、嗅ぎ慣れてしまった椿の香り。

お母様の大事なモノの声よりもじわじわと背中に染み込む湿り気。

振り返らなくても誰だか分かった。

水木様の首に巻きついた私の指を、白くてしなやかな指が一本一本外していく。

知っている。知っているの。

水っぽい咳。私の肩口から水木様のシャツに赤色が飛ぶ。完全に外れてしまった手から逃れた水木様が、地面に咳き込んで蹲るのも目に入らない。

カラン。場違いなほど甲高い音が足元に落ちる。刃先にべっとりと血が付いた槍。刺さっていたのはもちろん……。


「ど、して」
「お前」


低い声だった。
いつもよりずっと乱暴な声。

でも、優しいと思った。

私の背中に、肩口に、ずるずると体重がかかって、赤い血がどろりと流れて。

鬼の血も赤いのね、なんて不思議になったりして。



「お前、ぜんぜん可哀想じゃないね」



それっきり、芯が無くなった体が地面に転がった。

あの厭らしく笑う下品な女ではなくて、恐ろしい鬼でも、もちろん典雅なお琴のように完成された天女様でもなくて。


唇と腹を血で汚して、白い肌は透き通るほどに青褪めていた。

死にかけのこのヒトは、変わらず美しくて。




「────お母さん・・・・!!」



私の地獄に連れて行くなら、このヒトがいいと思ってしまったの。




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