トゥリシュナーの毎日は幸せだった。

綺麗な布で飾り立てられ、たくさんの家来たちに傅かれ、愛してくれる父母がいて、大きなお屋敷で大事に大事に守られて。外の空気が吸いたくなると、カルナがやって来てピクニックに連れ出してくれる。

アルジュナのように花盛りの蓮池ではなく、洗濯婦たちの営みが見える川や色とりどりの屋根が密集した街を見下ろす丘、太陽が沈む直前の広野など、なんとも独特なピクニック。けれど、トゥリシュナーにとっては楽しい楽しい外出だ。頭だけ念入りにヴェールを重ねて顔を隠し手を引かれて歩く。風に乗って香ったスパイスの芳しさとは違った、一つ一つ挙げるのも億劫なほど混然とした匂い。今を生きる人々の営み。民草の伸び伸びとした活気は、“彼女”にとっては喜ばしいことだった。


「カルナ兄さんの色は太陽の色なのね」


地べたに胡座をかいたまま、アムラの実を口に放り込むトゥリシュナー。馬車が巻き上げた砂埃で咳き込んだのを聞き取ったカルナが、喉に良いからと木を探して採ってきてくれたもの。酸味が強い黄緑色の粒はどことなく梅の実に似ていて妙な郷愁を抱かせた。


「この石のことか? 確かに太陽神の赤ではあるが……」
「そうじゃなくて、髪も肌も真っ白でしょう?」


胸に埋め込まれた赤い宝玉。そこに添えられていた指がゆっくりと胸板を滑る。相変わらず戦士にしては細長くて優美な手だ。トゥリシュナーは静かに嘆息した。


「太陽の光は白だもの。カルナ兄さんはどこもかしこも神様の愛で包まれているのね」


これには流石のカルナも幼児のように固まるしかなかった。


「太陽は天において赤く燃え盛るもの………………白いな」
「ねー。赤いと言われて育ったら赤だと思っちゃうよね」
「なるほど、これがお前のよく言う固定観念か。そうか、そうか」


目が焼けるギリギリまで父神の威光を熱心に見上げるカルナ。手持ちのアムラの実を食べ尽くしてしまったトゥリシュナーは、陽の光を受けてより一層白く輝く若武者の横顔を観察していた。

本当に、変わらない。

カルナとトゥリシュナーが初めて会話した時。つまりトゥリシュナーの中身が生まれ出でてから──二十余年。

そんななんでもない昼下がりのこと。

世界は春夏秋冬のように四つのユガに移り変わり、やがては帰滅する循環の中にある。人々の徳と善心によって支配された黄金時代クリタ・ユガから徐々に悪化していき、現在は第三期ドヴァーパラ・ユガ。暗黒時代カリ・ユガを目前としたこの時代において、人々の善心は半分が悪心に落ち、世界の半分は罪に濡れている。

世界が変わるということは人間の肉体ですら変わってしまうこと。この時代の人間の平均寿命は200歳を優に超える。成熟してから肉体の時間が恐ろしく鈍重なのである。

二十年以上前にはとっくに成人していたカルナにしても、非の打ち所がない白皙の美貌に翳りは一切なかった。

とはいえ、これは彼が偉大なる父神の血筋によるところもあり、ただの人間ならば少なかれ老いの兆候が見えてしかるべきである。二十年とは人生の十分の一に当たる長さなのだから。

しかしこのトゥリシュナー。見目が二十年間一切変わることなく、少女と女性の曖昧な境目で芳しく咲き誇る花のままであった。光の加減で青く煌めく濡れ髪に、新月の夜を切り取ったような黒い眼。森の奥へ誘う若い女鹿の腰つき。頼りない四肢を手に取って宝物庫に閉じ込めてしまいたくなる。清廉なる蓮の香を纏った匂い立つ美女──神の血が入っていない人間が、老いも衰えもせず二十年。


『とこしえに、とこしえに、それは美しい女が生まれるだろう』


聖仙の言葉に嘘偽りはなかった。

トゥリシュナーは二十年間、見目も生活も変わることなく生きてきた。しかし、トゥリシュナーの小さな手が届かないところではどうだろう。

カウラヴァの百王子とパーンダヴァ五王子の確執は言うまでもなく、ドリタラーシュトラ王としても息子たちの争いは本意ではない。五王子を仲違いさせるために奸計を張り巡らせるドゥリーヨダナと、徹底抗戦を仕掛けるべきだと息巻くカルナ。王は相談役と交えて話し合い、結局当初の予定通り別の都を与えることで両陣営の鎮静化を図ることにした。

分かりやすく言うと、『お前らは森で、わし様たちは王都で暮らそう』である。

パーンダヴァ五王子はドラウパディーを伴って未開の地へと旅立った。クル国の辺鄙なところにある森を切り拓き、人を呼び、年月をかけ新たな都を築き上げた。インドラプスタはもはや第二の王都と言っても過言ではない栄えっぷりであり、まるで楽園のようだと喩えられているらしい。

一方王都に残った百王子たちは、憎きパーンダヴァを辺境に押しやったことで毎日がお祭り騒ぎであったし、クシャトリヤとしての本望を果たすべく諸外国の平定も推し進めた。ユディシュティラさえいなければドゥリーヨダナはクル族の王に相応しいのだと声高に証明するように。

その間トゥリシュナーは王都の宮殿にて大事に大事に仕舞われ続けた。二十年物の引きこもりである。

パーンダヴァが結婚してから猛威を振るった求婚者の群れは治まり、現在では誰一人として現れない。あの五王子やドゥリーヨダナを退け何年も結婚しないまま実家に居座る女などおかしい。人には言えない欠陥があるのではないか。滅多に外に出ず顔を見せないのはとんでもない醜いからで、比類なき美女の噂は娘可愛さに父親が流した嘘なのではないか。などなど。実際に求婚者を跳ね除けているのは父兄であるのに、あたかも気難しい姫であるかのように好き勝手。

散々な言われように召使いたちは憤慨していたが、トゥリシュナー本人は実際に被害に遭っていないので反応しづらい。というのも、カルナとのピクニック中に何度か押し入って来た意地の悪そうな戦士や女の召使いたちは、トゥリシュナーの顔を見た途端魂を抜かれたようにボゥっと立ち尽くしてしまうのだ。『もし?』声をかけると、ようやく息らしいものを始め、何も言わずに逃げ去ってしまう。通りすがりの野生動物と同じように流してしまえる存在でしかなかった。

トゥリシュナーが引きこもりをしているのは、戦車による連れ去りを警戒したことであり、引きこもりをやめるには結婚することが一番手っ取り早い。けれど今まで五王子やカルナがそばにいる厄介さで誘拐の危機にあったことは一度もなかった。何より、トゥリシュナーが宮殿に仕舞われていることに父母や兄たちは慣れ切ってしまっていた。姿かたちが変わらない美しい娘は、長くそこに在ればこそ、なくてはならない置物という認識を強固にしていく。

嫁に出すという選択肢が消えるほど、一所に長居しすぎてしまったのだ。

本来は五王子との結婚を白紙にした時点で新しい結婚相手を決めるべきであった。クシャトリヤの娘ならば婿選びを儀を執り行い武勇を示した男に娶わせるのも手であっただろう。けれど縁談の兆しは一切なく、トゥリシュナーは夫でも血縁でもない男と細く長く付き合っている。

当のカルナはこの二十年間暇を見つけては宮殿に通い、御者の子として過ごした人生の中から思いつく限りの遊び場に連れ出す。ユディシュティラより年長の子でありながら親に捨てられた生まれから、本来の兄の立場を示せる相手がいなかった。その反動がトゥリシュナーへの態度に現れているのだろう。なにくれとなく世話を焼く様は甲斐甲斐しく、傍目から見れば夫に尽くす妻のようですらあった。


「光は白く見えるけれどね、本当はいろんな色が混じってこの色なの。虹は七色でしょう?」
「虹……?」
「知らない? 空気が乾いているからかな。あのね、雨が降った後の水の粒が必要なの。白い光からいろんな光に分かれていってね、空に橋がかかったみたいに」
「雨後の空にある光か? ならばインドラ神の弓インドラダヌスのことではないか」
「あ、あー。そうだけど、そうじゃないっていうかぁ」


妙な唸り声を上げながら地面に倒れ込んだトゥリシュナー。人前でこれほどの無作法を見せるのは五王子を除いてカルナだけであった。

さらに、一緒に過ごした時間で言えば圧倒的にカルナの方が長い。まさしく家族のような気安い会話。血縁のない男女の間柄など度外視した関係性を二人は築いていた。


「本当にインドラ神の弓だったら雨が降るたびに自分の武器を放り投げてることにならない?」
「力の一端を人間の目に分かりやすく誇示しているのだろう。偉大なことだ」


神話の登場人物が絶対に言わない現代人マジレスをブッ込む女。さらにマジレスで返す男。あまりに際どい。

なおも父の威光を見上げ続けるカルナ。トゥリシュナーは地面から飛び跳ねるように立ち上がり、高いところにある顔にそうっと手を伸ばした。


「そろそろ目が焼けるよ」
「そうか」


ふいと空から地上に目を向けたカルナは、今度は近くに来ていた白い手を凝視した。

トゥリシュナーは、本当は髪を撫で梳いてやりたかったが、ちょっと考えてから、桃の産毛を撫でるようにカルナの頬に指を這わせた。頭は神聖な部位であり、無遠慮に触ることは相手への侮辱になる。女の身なればこそ、偉大なる王の髪に触れることは避けるべきで。

でも、どうしてか。無表情ながら好奇心を内包したカルナの素直さに、時たまどうしようもない情が溢れてしまうのだ。


「お前といると、世界の在り方に思うことが増える」
「それって良いこと?」
「どうだろう」
「口やかましい? 兄さんの前でも黙った方が良いの?」
「いや……オレは構わない。お前の言動を縛るほど狭量ではないつもりだ」
「はいはい」


武器など握ったことのない柔肌を受け入れながら、カルナは碧色の目を細める。言動のぶっきらぼうさと合わせると素直じゃない子供を相手にしているようだ。

でも、きっと言葉の選び方が固いだけなのだ。

なんと微笑ましいことだろう。


『お前にはオレを子ども扱いする気質があるらしい。オレは子供ではない』


いつだかに溢したカルナの抗議を、忘れた頃に思い出しては不思議に思う。

カルナはどこからどう見ても立派な戦士であるし────。



「ッ、伏せろ!!」



■■■■に子供なんていなかった。


ひゅぅ。不気味な風の音が鼓膜を引っ掻く。トゥリシュナーが尻餅をつくように地面に逆戻りした。鋭い声に促されて蹲った直後、空に無数の黒い線を描きながらまっしぐらにこちらに向かってくる何か。──矢だ。

どこからともなく撃ち出された矢がカルナ目掛けて雨の如く降り注いだ。

すかさず槍を取ったカルナが車輪のように柄を振り回し、弾かれた矢の残骸が野に積もっていく。川の下流で人気のないところだったのが幸いした。これが洗濯婦が大勢いる上流であったなら多くの人間が命を落としていただろう。

もしくは、どこで撃とうとカルナにしか当てない自信があったのか。

矢の雨が治まると、地面を揺らす車輪の嘶きが近付いてくる。ハッと顔を上げた時には立派な戦車がすぐ横を通り過ぎていて、何者かがカルナの前に飛び降りた瞬間であった。


大喰らいヴリコーダラが王都に何用か」
「大事な女を迎えにな。大遅刻しちまって急いでいるんだ」


棍棒を担いだビーマセーナだった。

場違いなほど爽やかな風が吹く。紫の髪が悠然とたなびき、好戦的な瞳がギラギラ光る。年の頃も精悍な顔つきも二十年前と変わっていないように見えるが、纏う空気は鋭く美しい。長い放浪生活と修羅場を経て、風神の子は一層雄々しい戦士に成長した。

あまりにも懐かしく、そして神々しい立ち姿にポカンと口を開けたトゥリシュナー。衝撃が抜けきらぬうちに不意打ちで腰を攫われ、危うく舌を噛むところであった。

カルナがトゥリシュナーを横に抱きかかえて遥か後方に飛ぶ。混乱が加速する最中、先ほどまで座り込んでいたところにビーマの腕が伸びていたのを遅れて気が付いた。


「おいおい、お前にゃ用はねえがソイツにはあるんだ。攫ってくれるなよ」
「異なことを言う。オレにはお前の方こそ人攫いに見える。違うか、ビーマセーナ」
「ア? あーー、うむ。大雑把に言えばそうなる、か?」
「そうか。ならばこちらもそのように対応しよう」


矢を薙ぎ払うために持っていた槍をしかと握り直し、鋭い穂先をビーマの心臓に向ける。湖面の瞳をギラリと眇めたカルナは、強敵を討ち取らんとする灼熱を飼っていた。


「お、いいな! 俺もこっちの方が性に合っている!」


棍棒を構えるビーマ。同じく槍を構えたカルナが、一瞥も寄越さないままトゥリシュナーに語り掛ける。


「死にたくなければその場から動くな」


口を開くより先に粉塵がトゥリシュナーの全身に降りかかった。「けほっ」口や目に入った砂で涙目になりながら、どうにか様子を確認するが、平野の只中で台風のように巻き上がる粉塵しか目視できない。時たま距離を取った途端に矢の雨が局地的に降り、近付けば金属がぶつかり合う音が響く。たったの一蹴り・一薙ぎで大地を抉り空をかき回す。神々の戦争をこの目にしているような圧巻であった。

なにより、馬車のたてる埃一つで妹分の体を思いやってくれたカルナが、こと戦闘においては砂まみれにさせても看過しない無頓着を露わにした。これにはトゥリシュナーも口を開けてアホ面を晒すしかなかった。

トゥリシュナーが初めて見る、本気の殺し合いであった。


「何故今さらトゥリシュナーを攫う。お前にはドラウパディーという妻がおり、子も三人いるはずだ。それでいてなおも妻を求めるとは、欲が深いことだな」
「欲深いのは否定しない。俺がもらうのもやぶさかではないがね。大本命はユディシュティラだ。お前も耳にはしているだろう。もうすぐラージャスーヤが行われる」


世界を制覇した王の中の王であるしるしとして催される帝王即位ラージャスーヤ祭。全クシャトリヤの支持を得、集まったバラモンを心ゆくまでもてなし、神々の王インドラと並ぶ威厳を示す。何千の王を凌駕したと讃えられた者が死後インドラの天界に至り、祝福された永遠の生を約束されるのだ。既に没した父も、ユディシュティラ自身も、その血族も、ラージャスーヤを成功させれば死後楽園へと導かれるのである。

その準備のためにパーンドゥの子らは東西南北へ遠征に出かけ、諸王との戦争と協定を繰り返している。

法の神の子ユディシュティラが治めてこそ世が平和になると信じて。


「ユディシュティラが全世界の王になるんだ。これなら叔父貴(トゥリシュナーの父)も結婚を許すはずだ。また昔みたいに兄弟仲良く暮らせるんだぜ? 最高だろ」
「そうか。お前の言い分は理解した」


カルナの槍が、赤々と父の威光を宿す。


アンガ王オレが勝てばラージャスーヤは行われない」
「ハハッ! 言うじゃねーか!」


全身の筋肉を隆起させてビーマが棍棒を振るう。只人の膂力をはるかに超えた重い一撃を、カルナは一薙ぎで躱しきった。しかし一撃で終われるほどビーマは大人しい男ではない。弾かれたそばから振るい返し、弾かれ、また振るい、弾き。互いの武器が削れ摩耗しヒビが入るほどに打ち合いが連続してゆく。

矢は既に尽きていた。互いの腰には剣を差していたが、それもすぐに使い物にならなくなる。得物が壊れてしまえば次に来るのは単純な力比べ。パーンダヴァ随一の力自慢ビーマと、細身のカルナでは分が悪い。しかしカルナには生まれ持った黄金の鎧があり、カルナが不死身であることの証左であった。

「おっと」ビーマの膂力に耐えかねたのか、カルナの槍に打ちのめされたのか。最初に形なく崩れたのはビーマの棍棒の方であった。すかさず剣を抜いたビーマ。勝機とばかりにカルナの猛撃が始まる。槍と剣とではリーチの差は歴然であったから。

見る見るうちに傷が増えていくビーマだったが、もちろんやられっぱなしではない。突きで距離が縮まった一瞬の隙を狙って重い拳を打ち込む。流血を伴った捨て身のボディーブローがカルナの薄い体を宙に浮かせた。


「やはり拳が一番しっくりくるな」


折れた肋骨が内臓に刺さる感覚。口からゴポリと血が溢れる。槍を持っていない方の手で拭ったカルナと、血だるまのくせして表情は晴れやかなビーマ。見てくれはビーマの方が重症だが中身に関してはカルナの方がぐちゃぐちゃだ。


「鎧を通してこのダメージか。恐るべき男ビーマの名は伊達ではないな。パーンダヴァの中でも最大の脅威と言える」
「アルジュナを除いてだろう。相も変わらず嫌味な野郎だ」
「? お前がそう感じたのならそうなのだろうな……?」


何か噛み合っていない空気が漂う。蚊帳の外で戦いを見守っていたトゥリシュナーでさえ感じ取れた。

ちがうのビーマ兄ちゃん。
カルナ兄さんのソレは額面通りなの。

砂まみれで座り込みながら苦笑するトゥリシュナー。人のことを考えていられるのは今の内だった。

お尻に感じる振動。接近する戦車の存在に気が付いた時には、もうすぐそこに来ていた。

両雄の激しい戦闘音によって車輪の音が完全に紛れてしまっていた。すぐ近くに突然現れた戦車と、そこから伸びる誰かの腕。悲鳴を上げる間もなくトゥリシュナーは戦車を操る御者によって囚われてしまったのだ。


「ビーマ王子! お迎えにあがりましたよ! ビーマ王子!!」


御者の声にまず反応を示したのはカルナだった。遅れて戦闘に高揚していたビーマも反応する。二人は囚われのトゥリシュナーと目が合うと、爆走する戦車に向かって一直線に走り出した。

単純な敏捷ではカルナの方に分がある。現にたった数瞬の差で目に見えて距離が開いてしまったから、ビーマは近くに生えていた木を引っこ抜くと、無防備なカルナの背に向かって大きく放り投げた。

流石に槍で弾くことはできない大木であった。足を止め避けざるを得ないカルナ。その間にも何本の木がビーマによって宙を舞い、矢の如くカルナの上に降り注ぐ。そうこうしている内にビーマのもとへと戦車が迎えに近づき、止めることなくビーマが飛び乗った。


「ご命令通り都を一周して参りましたよ!」
「早かったな! いや、ちょうど良かったのか? あのままやり合っていたら死ぬまで止まらなかったからな!」
「は、はあ」


ビーマをこの場に降ろした後、ハスティナープラの街をぐるりと回って戻って来たらしい。

血まみれの王子に褒められ、怯えの混じった様子で馬を操る御者。このまま万事恙なく王都を離れインドラプスタに帰還できると油断した。

肌が泡立つほどの──殺気。


「決着がついていない敵を前にして背を向けるか。見下げ果てたものだ」


馬に跨って追走するカルナだった。

すかさず馬車に残っていた矢を続けざまに六本。過たず命中する直前に叩き折られる。続けて十本放つもカルナの肌に傷をつけることはなかった。馬に当ててしまえばと狙っても同じように落とされる。

既に馬を限界まで走らせていた。それはカルナとて同じことで、両者ともに先に馬が使い物にならなくなった方が終わりとなる。

だからこそ、カルナは槍を構えた。

矢が一本もない状態で、投げられるものなどそれしかなかった。

「ヤベッ!」危険を察知したビーマがトゥリシュナーを伏せさせ、戦車の屋根に飛び乗る。たらりと流した冷や汗をそのままに、数秒と間を置かず飛んでくる衝撃に筋肉を固まらせた。


「今この身に許されし最大の一投、受けるがいい」


片手で掲げられた槍に赤と白の閃光が混じり、宿り、燃える。

それはカルナが身分を偽ってまで聖仙パラシュラーマに教えを乞い習得した奥義。ブラフマー神の力を借り受け、あらゆるものを焼き尽くす必中の破壊光線。

そして────。



「『梵天よ、地を覆えブラフマーストラ』!! …………ッ!?」



聖仙を騙した罰として、肝心な時に使い方を忘れる呪いが発動する。

命を燃やし尽くす熱を纏っていたはずの槍が、投擲されると同時に徐々に光を失っていく。ビーマの心臓目掛けて飛んできたソレは、剛腕によって呆気なく叩き落されてしまった。

戦車と馬の距離が広がっていく。いつもの無表情が嘘のように悔し気に歪むカルナ。

その様子さえ、もう見えない。

追手が消え、車輪の音ばかりが響く戦車の上。肩透かしを食らったビーマが不可解そうにドッカリと座る。対して、未だ攫われた自覚に乏しいトゥリシュナーは、およそ二十年ぶりに再会した兄貴分に戸惑った。なんと声を掛ければ良いか分からなかったのだ。

「ところで、本当に良かったのですか」馬を操っていた御者がポツリと溢した。


「王都ではナクラ王子がカウラヴァと会談中ですのに、こんな近くでアンガ王アンガラージャと一騎打ちなんて」
「おう、俺から謝っておく!」
「は……」


絶句する御者。
イヤな予感がする。


「ナクラ兄に言ってないの?」
「言うつもりだぞ? 帰ったらユディシュティラの兄貴も交えて六人で家族会議だ!」


長兄にも言わずに出てきたなんて思わなかった。

パーンダヴァ五人の総意かと思い違いをしていたが、これではビーマ一人の暴走ではないか。

「その前に飯だな。向こうには美味いモンがたくさんあるんだぜ」唖然とした二人などほっぽって、昔と変わりない態度で話しかけてくるビーマ。辛うじて相槌のようなものを打ちながら、トゥリシュナーはとてつもない不安に苛まれた。

大変なことになってしまった、と。



***



一週間後。インドラプスタの宮殿にて。

大広間の王族用にしつらえられた席。真ん中をユディシュティラ、その左右にビーマとアルジュナ。さらにそのそばにナクラとサハデーヴァの双子が控える。美しくも精悍なパーンダヴァの五王子たちは、皆一様に気難しい顔で押し黙っている。

一段下がった席に座り込む妹分を、沈痛に見下ろしている。


「もういっかい言って」


無表情のトゥリシュナーが、可憐な唇を震わせて乞う。

ユディシュティラは柔和な面差しを痛ましげに歪め、猫を撫でるように噛み砕いて説明した。


「お前が拐かされたと知った兄君たちが私兵を率いてこの都に進軍してきた。こちらが先に仕掛けたとはいえ、都にむざむざと兵を入れるわけにはいかない。話し合いか、それが無理ならある程度脅かして引かせるしかあるまい。私はビーマに落とし前をつけよと命じたのだが……」
「────殺した」


ユディシュティラの言葉尻を引き継いだビーマが重々しく口を開く。


「話し合いの場を設けようにも耳を貸さず、痛めつけても一向に軍を引かせる気がなかった。言葉でも武力でもダメならば、あとは行きつくとこまでとことんやるしかない。それが俺たちのやり方だろ」


それがクシャトリヤの領分だ。戦士としての法。勝った方が偉い。負けた方が財産を差し出して許しを請うのが当然。

負けた兄たちは黙ってトゥリシュナーを差し出すことが正しい行いだった。

負けても歯向かってきた時点でビーマに殺される未来は確定したのだ。

理解はできる。納得も、一応はできる。ここは神話で、古代の価値観で、法に従って生きる彼らの言い分は正しい。

ならばこそ、通す筋というものがあるだろう。


「私、結婚しない」
「トゥリシュナー、私たちが憎いのも分かる。しかしな、」
「お父様が喜ばない結婚はしたくない。たとえ兄様たちが大切にしてくれるとしても、私はお父様の言葉に従います」
「お前は既に俺が略奪した。俺のモンで、俺たち兄弟のモンだ」
「どうして? どうして今さら……20年も放っておいたでしょう?」


眉をハの字にして言い募るトゥリシュナーは気丈で、余計に憐れっぽく映ったのだろう。

押し黙る兄弟たちの中で、公明正大なアルジュナだけが唯一口を開いた。


「お前が結婚しないからだ」


一瞬、頭が理解を拒んだ。

思わず縋るように他の王子たちを見遣るが、誰も否定しない。ただ気まずい顔をするだけで、完全にアルジュナに喋る役を任せてしまっている。そのアルジュナといえば立板に水の有様で、真面目な性格を最悪な方向に作用させていく。

一向に嫁ぐ気配のないトゥリシュナーへの疑問。
絶えることのないカルナとの噂。
頻繁に会っているらしいのに持ち上がらない縁談。
ドゥリーヨダナがパーンダヴァ憎しで妹分の縁談を妨害しているのではないか。
カウラヴァの嫌がらせをトゥリシュナーの父がどうにか往なしているのではないか。
これ以上放っておいては目も当てられない結果になる。
ラージャスーヤを行い全世界の王となったユディシュティラならば、トゥリシュナーをこちらに呼び寄せることで護ってやれるはずだ。

何故なら我々は幼い頃から結婚する約束をしているのだから。


「もともと義叔父上を説得して穏便に連れて来る話はあった。ビーマが先走ってしまったのは覆せない。誘拐婚でも自由恋愛ガンダルヴァ婚でもいい。法の元において婚姻を済ませてしまわなければ、お前を手元に置いておける大義名分が立たない」


なんだ、その言い分は。


「お前が嫌だというなら無理に私と結婚しなくとも良い。見目麗しい双子のどちらかでも、もちろんアルジュナでも。私たち五人を夫に望んでも、どうにか叶えられるようにしよう」
「ユディシュティラもこう言っているんだ」


まるで、トゥリシュナーのためを思ってしたことで、自分たちに義があるような。


「分かってくれますね、トゥリシュナー」


こちらがワガママを言っているような…………。



────────ブチッ。



あっ。


「────あら、あら。きっと私の耳が悪いのね。こんな聞き間違えをするなんて。今先ほど、貴方様のお口が“自由恋愛”などと。本来はもっと違うお言葉をおっしゃりたかったはず。そうよねえ?」


トゥリシュナーの空気が変わった。

足を揃えて横座りしていたのを、一度スッと腰を上げ、背筋を伸ばしたまま正座する。長い裾の捌き方も髪の乱れの直し方も無駄がなく、ただ一つの動作を取ってもしても恐ろしく優美。先ほどまで取り乱していた女が成りを潜め、身も心も洗練された一人の姫に豹変したのだ。


「お歴々が私に懸想したことなど一度としてなかったではありませんか」


意味ありげに小首を傾げ、白い手で口元を覆いながら冷ややかに流し目を送る。きっと手のひらの内ではゆるりと優しい笑みを浮かべているだろうに、決して良い感情ではないと図れてしまう。王都に呼び寄せられたばかりの頃、作法に不慣れな五王子たちを田舎者だと嗤った大人たちに似ていた。


「まあ、否定なさらないのね? 言葉だけでもと期待した私が愚かなのかしら」


誰だ、この女は。

戸惑い固まる五王子を直接は見ず、柔和に細めた目はやはり冷たい。川のせせらぎのような一定の声音のまま、耳に痛い言葉を奏で続ける。


「貴方様方にとってのトゥリシュナーは、一度逃してしまった仔鹿か何かなのでしょうね。逃げるばかりならいざ知らず、他の者が狩ることは許さない。ほほほ、ご立派ですこと」
「ッ急にどうしたのだ。お前らしくもない。言いたいことがあるならハッキリ言いなさい」
「──よろしいので?」


川の流れがせき止められる。

黒々とした瞳が嫌に生っぽく、女の情念を不必要なほど婀娜っぽく飾り立てた。


「ドラウパディー様はこの件を承知しておられるの?」


きっとより鋭さの増した言葉が振り下ろされると思っていた。

身構えていた面々はらしくもなく肩透かしを食らった。その空気が伝わったのだろう。ピクリと眉を跳ね上げたのも一瞬。トゥリシュナーは再び朗々と音を紡ぐ。


「スバドラー様は? 大切な奥様なのでしょう、アルジュナ王子?」


五王子は、いったいその質問の真意がどこにあるのかと顔を見合わせた。そうしていつも通り、代表して長兄が五人の総意を簡潔にまとめた。


「ドラウパディーにはこの話が終わり次第説明するつもりだ。アルジュナも同様であろう。何の問題もない」


途端にトゥリシュナーの顔が失望に歪んだ。

この話し合いの後。後でと来たか。

大国の姫君で、ラクシュミー神の生まれ変わりとも言われる輝かくばかりの美女を嫁にもらっておいて、大切に連れ歩いておいて、その程度。


「気持ち悪い」


ハクリ、ハクリ。

鉛を食むように。


「誰が、妻を何人も持つ男に喜んで付き従いますか。どうしてヘラヘラ笑っていられると? 全部我慢しているに決まっているじゃないですか。貴方方を信じてついていくしかない女の気持ちを、この、何故そのように簡単に……そんなにも、男は偉いのですか。神の子で、王子で、見目麗しくて、法に従っていれば、人の感情など度外視して良いと?」


何も呑み込めないまま広がる苦味。


「兄弟想いなのは勝手ですが、長兄なら、アルジュナなら女は喜んで頷くと思っているのが本当に無理です。気持ち悪い。男尊女卑の“もらはら”気質に“なるしすと”まで盛ってどういうつもり。手遅れにも程があります。本当に考えなしなのね。ああ、ああ気持ち悪い。ほら、鳥肌! 見て、こんなにハッキリ、魚拓を取れそう!」


唾液は重く、視界は赤く。


「だいたいね、トゥリシュナーは貴方方のことを兄のように慕っていたのよ。兄に性欲を向けられるだけで虫唾が走るというのに、仕方ないから娶るですって。ほほほ、馬鹿にして。お義理で側室に迎えられ孕むまで抱かれる女の気持ちなど想像すらしたことがないのでしょうね。一人産めば放置なのでしょう? 何せ私に懸想していないんですもの!」


ぐつぐつ煮え立つ臓腑。骨を軋ませ、肉を掻き分け、皮膚の裏側を蹴り上げるもの。


「ああ、はらだたしい! こんなところにもういられないわ! 帰る! 私ひとりでもここから逃げてやるのよ! そう、月に・・! ………………ッ?」


つき、つき、月月月月月月月月月月月月月月月月月月月月月ツキ──月月月月月月月月月月月月月月月月月月月月月月月月月────月────いあ、いあ……?


「っぐぁ、あ、ガッ!」熱と紛うばかりの強烈な痛み。堪らず蹲ったトゥリシュナーは、歯を噛みしめ口の端からヨダレを垂らしながら唸った。高価な絨毯に額を擦り付け何本か髪の毛が抜ける。それさえそよ風に感じられるほどの猛烈な激痛であった。

トゥリシュナーの豹変から理解が追い付かない五王子だったが、いち早く駆け寄ったのがビーマであった。

蹲るトゥリシュナーを抱き起そうとして拒絶が返ってくる。精神的なモノではなく痛みで体を動かすことすらできないのであろう。「ッ、ゅ、ひゅっ、」息も絶え絶え悲鳴も上がらない喉。ビーマは先ほどまで罵倒されていたことなんかすっかり忘れてトゥリシュナーを労わる。


「血は出てねぇな。なんだ、病か? 汗でベトベトだ。すぐに体が冷えるぞ。あー、俺が肩代わりしてやれたら良いんだが」


蹲るトゥリシュナーの背を精一杯加減した手のひらで撫でさする。寒いのではと上着をかけてやる優しさすら見せた。まるで不器用な兄の面持ちで、トゥリシュナーの実兄を殺した手で、優しく、優しく。


「に、ぃちゃ……け、て……」


ああ、なんて憐れな生き物だろう。

眉を下げて唇を噛むビーマに、他の王子たちはやっと正気に戻った。医者を、手ぬぐいを、水を、寝床を。各々が召使を呼びつけてあれやこれやと動き回っている間、トゥリシュナーは、ビーマの体温を感じながらようやっと気絶できた。

形なくともそこに在り、数十年の時を経て突如結晶化された特異点の核────金の杯は、トゥリシュナーの胸の内で再び沈黙した。




***




境界記録帯。この星に刻まれた記憶。かつて偉業を成した英霊をこの世に現界・干渉させる魔術概念。人類史において英雄として語られる死者に今を生きる人間の信仰によって仮初の体を与え、召喚者の兵器としてかつての奇跡を再現する。ゆえに、サーヴァント。

聖杯。あらゆる願いを叶える大釜。サーヴァントの召喚を可能とする強大な魔力リソース。サーヴァントとは聖杯に望みを賭けて格下の魔術師に喚ばれてやるのだと。

聖杯戦争。一つの聖杯を巡って七人の魔術師と七騎の英霊が殺し合う。

戦争。また戦争。


「みんな争いが大好きなのね……」


トゥリシュナーが目を覚ました頃には、ちょうどラージャスーヤが終わっていた。

何日うなされていたか分からない。眠っていたようで意識は醒めていた気もする。医者や祭りのために早く足を運んだバラモンがトゥリシュナーを診て難しい顔をしていたのは覚えている。兄が死んだ動揺をついて悪魔が潜り込んだのでは、と的外れな診断を下して帰って行った。いや、この時代にしては真っ当な意見だ。

思わず吹き出してしまうトゥリシュナーが異物なのだ。

境界記録帯、幻霊、擬似サーヴァント、■■■。それがトゥリシュナーという女の正体らしい。意識が初めてハッキリした時はノイズがかった情報の一部が、今ではするすると頭に入ってくる。

もともとトゥリシュナーという白痴の娘がいたのは確かなのだろう。本来なら白痴のまま捨て置かれるはずだった体に、英霊と呼ぶには弱すぎる霊基が潜り込んだ。なにせお姫様だ。日本においての知名度は恐ろしく高いだろうが、全盛期そのものを召喚したところで戦う力など皆無なのである。

しかもここは神話の世界。日本において紀元後九世紀から十世紀に成立したとされる物語の住人が、紀元前四世紀から紀元後四世紀に編まれた神話でどれほどの存在か。人間の肉体を持っているとしても、今を生きる五王子やカルナと比べるまでもなく弱い。

そんな死者の影が、どうしてこんなところに喚ばれたのだろう。

サーヴァントという存在は認めつつ、自意識はあくまで人間の小娘でしかないトゥリシュナーは、寝台から抜け出して月を見上げた。

トゥリシュナーの中に存在する三つのスタンダード。現代日本を生きた事勿れ主義の楽観的な“私”。二十年以上溜め込んだ魔力を消費して“私”を押しのけてまで五王子にキレ散らかしたお姫様。そして、もっとも根底に潜む邪神の

────キィーーーーーン!

「いッ、!」途端に前兆のない耳鳴りが頭全体を揺らす。とっさに耳を抑えた瞬間に余韻も残さず消えてしまったが、それは“私”に向けた“彼女”の抗議だった。

穢された。貶められたと“彼女”は憤っていた。

先の五王子への罵倒を経た今では、なんとも憐れっぽく、悲哀やSOSが混じった痛切な訴えに聞こえる。誰に対して。何に対して? 英霊に押し上げられたことが? それとも召喚されたことがだろうか。もしくはただの人間の意識に混ぜられた現状のことか。

月が、白々と窓から差し込む。

トゥリシュナーの形から綺麗に影を切り取ってこの世界に写し込む。あたかもこの世が影絵でできた人形芝居かのように。



「“かぐや姫”、じゃない…………?」



今度は耳鳴りが来なかった。











ラージャスーヤに参加できなかったトゥリシュナーは、楽しい踊りも音楽も美味しい食事もユディシュティラの輝かしい晴れ姿も見られなかった。

そのことを不憫に思ったのか、召使の一人が王の言葉を伝えに駆け寄った。トゥリシュナーの世話をよく焼いてくれる女であった。

大殿堂を散策されてはいかがか、と。

黄金の柱。原石の壁。宝石がふんだんに散りばめられた扉を開ければクリスタルガラスでできた屋内庭園が広がっている。大理石の床や透明な階段を通って進むと、宝石でできた睡蓮が敷き詰められた花畑があり、水鳥や魚たちが優雅に泳ぎ回っている。

神々の天界と見紛うほどの豪華絢爛の園。

この世のなにもかもがどうでもよくなるほどに。

まるで宝石箱の中に入ってしまったようだ。トゥリシュナーは久しぶりに子供のような気分で駆け回った。途中で大理石に埋まった真珠で足を痛めてからはそうっと歩くようになったけれど、いつの間にか召使を置いてきてしまうほどに動き回る。屋内とは思えないほど、果てがどこまであるのか把握できないほどに広くて、一種の迷子のような有様だったのだろう。

行けども行けども続く庭園に途中で疲れ果て、休憩とばかりに池の畔に座り込む。宝石が泳いでいるような魚の群れを冷やかし、芳しい百合の花を愛で、黒い眼をゆるりと細める。

そうして落ち着いてしまうと、今さらながらに疑問が沸いてくる。

このトゥリシュナーは本来この神話に関与しない異物ではあるが、トゥリシュナーの兄たちはそうではない。名もなき戦士であろうと確かに存在していた人間だ。そして、トゥリシュナーの婚約解消がなければ五王子の味方としてクルクシェートラの戦いに参加していたはずである。

ビーマが殺したのは兄たちだけではない。兄たちが率いた私兵およそ2500人。大戦に参加する何百万のうちの2500人かもしれないが、それでも味方になるはずの兵を殺したことには変わりないだろう。

トゥリシュナーがいたことで変わってしまった歴史。たったの2500人は、この後にどれほどの波紋を広げるのだろう。


「カルナ兄さん、元気かな」


ラージャスーヤには顔を出したと聞いたけれど、人伝ではどうも不安が残る。

手慰みに百合を摘み、クリスタルでできた花弁の縁をなぞる。そうしてコップ代わりに池の水を掬って、溢して、水滴のひとつひとつに反射する光を観察していた。

ぽろぽろこぼれる粒の合間。池の対岸に、ふらりとこちらへ向かってくる誰かを見つけるまで。


「? もし?」


それ以上進んだら池に落ちますよ、と伝えるには遅すぎた。

──ドボンッ! 清廉な庭園の空気をぶち壊す豪快な飛沫。大男一人が何の構えもなく池に落ちたのだから、体積の分だけ水が押し出されるのも道理だ。言葉の綾的な意味で歴史の波紋を心配していた矢先の、物理的な波紋がトゥリシュナーの顔を濡らす。

なんというか、矜持を重んじる男性が多いこの世界でここまで分かりやすい失態を見せる男性は初めてで、自分以外の誰かがいたことも含めて驚きの連続で。

軽くパニックになったトゥリシュナーは、助けに行かなければという義憤に駆られた。


「大丈夫ですか!?」


──バシャン!

男の元にたどり着く最短ルート。つまり自ら池に飛び込んで、水と魚を掻き分けながら助けに行ったのだ。

まとわりつく衣服が重い。池の底まで透き通ったクリスタルのせいで足元が滑る滑る。腰までしかない浅さだというのに歩くのも大変な有様で、慌てていたせいで余計に大惨事を引き起こす。

「っひゃ!」ものの見事に足を滑らせ、男の胸にダイブしてしまったのである。

不幸中の幸いは、男の体躯が大層立派で、トゥリシュナーなんて片腕で抱き止めて仕舞えるほどの偉丈夫だったことだろうか。逞しい胸板にしがみついたところで、ようやっと自分の的外れな行動を自覚したトゥリシュナー。気恥ずかしさで顔を赤らめながら、これだけは聞かねばと上目遣いに相手を見上げた。


「大丈夫でしょうか。どこか、お怪我など」


男は、月夜に垂らされる藤に似た甘やかなタレ目を丸め、食い入るようにジッとトゥリシュナーを見下ろした。

青く艶めく濡れ髪、赤い頬がよく映える珍しい白肌、泣いているのかと勘違いしそうになる濡れた黒目。豊満とは言い難いが、これ以上を望むのは野暮なほど十全に満ち足りた女の体。形の良いお椀型の乳房が男の腹筋に押し付けられている。なんともそそる絵面だ。

はじめは、池の畔で涼む天女に目を奪われふらふらと近付いた。しかしひとたびこの腕に抱いてしまえばそれは人間の女に違いなかった。

人間の手が届く、美しい女だったのである。


「召使を呼んで参りましょう。体が冷えてしまいます」
「ああ」
「? あの、腕をどけていただけませんか」
「ああ…………いやいや、ならん! 絶対にならんぞ!」
「え?」
「んんん! おほん! また滑ってしまうやもしれんだろう? そのまま掴まっておれ。畔まで連れて行ってやろう」
「まあ、それはご親切に」


とはいえ、腰を抱いたまま歩く必要はどこにあるのだろう。

太い腕にほとんど持ち上げられる形で池の外に出たトゥリシュナー。全身濡れネズミで体の起伏がハッキリと分かってしまう格好に、本人はそこまで関心はなかった。なんというか、性欲など皆無の高潔なカルナとばかり遊んでいたせいで、異性の対応に少しばかり難があるのだ。

なので、真面目な顔でジロジロと観察する男の視線に無防備だった。

ちなみにまだ腕は外れていない。


「もう大丈夫ですよ。とても助かりました」
「そなた、名は何という? わし様は、まあ知っておろうが一応な? 偉大なるクル国王の息子、かの百王子の長兄ドゥリーヨダナであーる!」
「ドゥリーヨダナ、様?」


それはカルナの口からよく聞く名で、王都にいれば日常的に耳にする存在であった。

トゥリシュナーは慌てて臣下の礼を取ろうとしたが、やっぱり腕が外れなかったので、そのまま挨拶をすることにした。


「お会いできて光栄です、王子様。私はトゥリシュナーと申します」
「ほほう、トゥリシュナー………………トゥリシュナー!? あのトゥリシュナーか!?」
「どの?」
「ビィィイマの女ではないか!!」


「あーあー思い出しただけでもムカつく!! カルナが万全の装備だったなら負けなかったというのになァ!! 奇襲など卑怯者のすることぞ!?」何やら一人でキレ始めた男、ドゥリーヨダナにトゥリシュナーは戸惑った。


「誰と結婚するかはまだ決まっていないので、ビーマに、王子のオンナ? とも限らないかと」
「ハァァ?? ビーマに略奪されたならビーマの嫁であろう!? カルナというものがありながら! 浮気者ォ!!」
「う、うわき? でも、カルナ兄さんは私のこと好きじゃないって」
「カルナ兄さんだァ!?」
「だって、そうでしょう? 私聞いたもの。恋愛結婚するの? って。でもカルナ兄さん、そういうんじゃないって言うから、そっかーって。私も別に兄妹で結婚するのは少し違うかもって思っていたし……」
「…………」


ドゥリーヨダナのパーンダヴァ憎しの剣幕に驚いて、トゥリシュナーはいつもの口調に戻ってしまった。たどたどしく、いじらしく、あまりに幼い。見目は確かに少女と呼べなくもない可憐さではあるが、ドゥリーヨダナと片手に収まる歳の差である。成熟した女がこうも子供っぽいとは……どんなに見目が一級品でも手を出す気が起きない。

トゥリシュナーを捕まえていた腕がやっと外れる。ドゥリーヨダナの露骨に興味を失った顔など気にせずに、トゥリシュナーは無邪気に、朗らかに。


「遅れてしまいましたが、前に、たくさんのお花をありがとうございました。腕輪も、王都に置いてきてしまったけれど、嬉しかったです。それで聞いて見たかったことがあって、本当は何色の花を贈りたかったのかしら?」


実に20年以上も前の贈り物を嬉しそうに語り、手元に腕輪がないことを寂しげに残念がり、けれど最後の問いかけはイタズラで、婀娜っぽく、酒精すら感じられる匂い立つ色気があった。

たった二言三言でドゥリーヨダナの興味が元いた場所に戻ってくる。

急激に干上がる喉。唾液でむりやり湿らせ、唇を軽くペロリと舐めた。まるで、自分が緊張しているかのようだ。そんなわけはない。このガキ臭い小娘が欲しかったのは20年以上前のことで、それ以降はトゥリシュナーの父や兄を味方につけるための建前の求婚であった。パーンダヴァの御手付きなんぞを誰が有難がるかと。

けれど、ドゥリーヨダナだって20年前に贈った花の色を覚えていた。


「わし様が贈る色など決まっておろう。そんなもの、」
「そこで何をしているドゥリーヨダナ」


答えは、宿敵によってあえなく遮られてしまう。


「ッ、貴様! トゥリシュナーにッ!」


細波のように伝播していく悲鳴。召使たちが顔面蒼白で服や布をかき集めに走る中、ビーマが大股で近寄ってドゥリーヨダナの胸倉を掴む。


「待って! ちがうの! 私が池に落ちて、それで!」
「皆まで言うな。コイツがお前を池に落としたんだろ」
「違う! 本当に違うの! ビーマ兄ちゃん!」


胸倉を掴んだビーマの腕に、濡れネズミのトゥリシュナーが抱き着く。短気で喧嘩っ早いビーマとて、病み上がりのあられもない姿をした妹分に縋られれば勢いを失くす。伸びた襟ぐりを無理やり外させたドゥリーヨダナは、珍しく何も言い返さない。ただビーマに縋りつくトゥリシュナーをジロジロと観察してから、面白くなさそうに踵を返した。


「嫁に兄と呼ばせるなどとんだ特殊性癖だな。変態が移る前にわし様は王都に帰るとしよう。ド田舎新婚ライフをせいぜい愉しむといい」
「あぁ?」
「兄ちゃ、ビーマ王子!」


トゥリシュナーという重りのせいで動けなかったビーマは、ドゥリーヨダナの姿が消えるまで狼のように歯茎を剥いて威嚇していた。

仲が悪いとは聞いていたが、こんなにも険悪な空気になるなど予想していなかった。体の冷えだけでなく恐ろしさでぶるりと震えたトゥリシュナー。流石のビーマも威嚇したままではおられず、自分の上着をかけてやろうとして──。



「────ハァァァァァァ!?!?」



本日二度目の飛沫が上がった。



「プッ、はーーはッはッはッはッ! またやりやがった! バカ王子!」
「わ、笑うでないわッ! ガラスだか池だかハッキリしないこの庭園が悪いんだッ! わし様悪くぬァーーい!!」



妹分への気遣いなど忘れて腹を抱えて笑うビーマ。遠目でも分かるほど顔を真っ赤にして震えるドゥリーヨダナ。呆れた目をするトゥリシュナーが、その場では一番大人であった。




とうとう買ってしまったマハーバーラタ山際訳版。とはいえまだちゃんと読み込めていないので、引き続きデタラメだと思ってお楽しみください。五王子には損な役回りをさせてしまい申し訳ないです。今回だけだから……。

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