一説によると古代日本には赤・青・黒・白の四色しか色がなかった。

もちろん古代であろうと現代と変わらず世界には色が溢れていた。しかし、それがどんな色なのか形容するために使われたのはこの四つだけ。日本の目まぐるしい四季から取ったとも、大陸から流入した四神伝説からとも言われている。平安中期に紫色の雲を歌った貴人がいるのだから、それ以前のことだろうけれど。

名残は現代までしぶとく生き残っている。


艶やかな黒毛の馬は“青毛”。
瑞々しい緑色の竹は“青竹”、と。



「聞いているか、トゥリシュナー」


自慢の艶髪を摘まんでいたトゥリシュナーは、ユディシュティラの一声でパッと指を離した。

サラリと落ちた黒髪は光に翳すと青く煌めいている。動き回れば絡まってしまうからと今日も髪飾りはつけていない。ゆえに座った絨毯には鳥の尾羽の如くまっすぐ広がっている。

トゥリシュナーの向かい側に座るのは五人の美男子たち。クル国の王子にして前王パーンドゥの子、現王ドリタラーシュトラの甥に当たるパーンダヴァ五王子である。

父亡き後、未亡人の母と弟たちのために家長を務めてきたユディシュティラ。王子として王都に招かれてからも、兄弟間での発言は長兄からと決まっている。聡明な面差しをやや厳めしく固め、声音だけは柔らかくトゥリシュナーを呼ぶ。


「我々は思い違いをしていた。見目が成熟しているのなら中身も同等であろうと。生まれて三月の赤子と思えば齟齬もなかったろうに」


深く頷いたのがこの会の発端アルジュナ。ユディシュティラの左隣で背筋を伸ばして座っている。その逆隣のビーマはといえば普段の豪快さをむっつりしたまま隠している。


「良いかトゥリシュナー。世俗は善き人のみで回っているわけではないんだ。特に此度の相手は、」
「そうだぞお前、悪徳の権化代表に目を付けられた不幸を自覚しろ。アレはマジでないぞ。きっとギー壺じゃなく肥溜めから生まれてきたんだ」
「兄上、従兄弟殿をそこまで悪し様に……」
「ヤツの日頃の行いを思い出せサハデーヴァ。お前とて他人事ではないだろうに、ユディシュティラの兄貴といい寛大が過ぎるんだよ」
「お前たち、長兄がまだ話しているだろう」
「ハハッ、アルジュナの兄貴はお堅いね。言いたいことくらい自分で言えば良い」
「お前は過分だナクラ」


ナクラが肩を竦める。

世界で一番美しいと自負してやまない端正な顔立ちを不機嫌そうに歪め、黙ったままのビーマの代わりと言わんばかりにドゥリーヨダナをこき下ろす。その実長兄の判断に任せたアルジュナを非難しているようでもあった。


「そんなに酷い方なの?」
「王子とは名ばかりのチンピラ百人だ」


誰も否定しない。

温厚な長兄も穏やかな末っ子も唇を重く蠢かせるばかりで。深々頷いたのが今まで黙っていたビーマだった。


「兄貴の言うとおりだった。俺が屋根に登らなけりゃ、ドゥリーヨダナの目に留まることも、」
「違います。そもそもカルナを寄越した時点でずいぶん前から事は始まっていたのです」
「しかし、アレらが嫌っているのは俺だろう。都に来たての頃は加減が利かずに百人斬りしちまったし」
「最初に森育ちの蛮族だとバカにしてきたのは向こうだぜ」
「静観していたヴィカルナまで投げてしまったからでは?」

「良い、良い。話が逸れているぞ弟たちよ」


鶴の一声ならぬ長兄の一声。賑やかだった弟たちが居住まいを正す。

ユディシュティラはいつもの微笑を一旦引っ込め、厳格な年長者の面持ちでトゥリシュナーに向き直る。


「贈り物があるのは喜ばしいことだ。年頃の娘が花を貰ってはしゃぐこともあろう。強請ったお前の行いは決して悪ではなかった」


もったいぶった言い方はトゥリシュナーを慮っているようで、気が立っている弟たちを宥めている。トゥリシュナーの方も熱心に聞く気が削がれてしまうものだ。


「だがな、相手が悪い」


曰く、百王子の長兄ドゥリーヨダナは生まれたその日に凶兆があった。不吉な王子だと周囲は捨てるように忠言したが、ドリタラーシュトラ王とガーンダーリー妃は我が子可愛さに跳ね除けた。そうして今日に至るまでドゥリーヨダナはカリの化身ではないかと囁かれ続けている。

パーンダヴァ五王子はあくまで前王の子であり、現王の子ドゥリーヨダナと99人の王子たちがいるのだから、クル族の王位に付くにはいささか疑問が残る。それでもユディシュティラを王に押し上げようとする大臣たちは、ドゥリーヨダナを悪魔であると誹る者が大半を占めていた。

パーンダヴァ五王子が王族としての地位を確かにするためには、彼らを味方につけなければならない。ゆえにこそ、ドゥリーヨダナの悪評を黙認しなければならないのだ。


「アレは俺たちの食事に毒を盛って」
「ビーマ兄ちゃんを縛って川に流した」
「私たちが使う武器をわざと古いものにすり替えて」
「ちょっとでもドローナ師に褒められると神の血を引いているからとぶつくさ言って」
「うるさい。顔に声に態度に空気にとにかくうるさい」


……まあ、悪評も何も日頃の行いが悪いのだが。

またやんややんやと騒がしくなった弟たち。長兄が苦笑を漏らした。


「不吉なことってなぁに?」


そこに、もう過ぎ去ったはずの話題がまろい声と共に差し込まれる。


「お誕生日になにがあったらそんなに嫌われるの? もし私もそうだったら捨てられていたの?」
「何を言うかと思えば。安心なさい。お前の生まれはバラモンに祝福されたものだ」
「なら、その、ドゥリーヨダナ様は祝福されなかったの? ヴィヤーサ仙がお生まれに関わっていると聞いたわ。兄様たちのおじい様なのでしょう? なのに不吉なことがあったらダメなの?」


ドリタラーシュトラとパーンドゥはそれぞれ別の妃がヴィヤーサ仙と交わってできた子である。当時の王が肺病を患い子を成さぬまま身罷られたため、ニヨーガの習慣の元、夫の代わりを務めたのがかの聖仙だった。

そして、ドゥリーヨダナを筆頭としたカウラヴァの王子たちが、一つの肉塊から百一人の赤子として生まれることができたのもヴィヤーサ仙の助力あってのこと。

聖仙が関わっておきながら魔のものとして捨てられかけたほどの凶兆とは何か。


「おじい様、などと……。聖仙は世界を正しく廻すために苦行をしているのだ。彼らのような尊き身分を軽々に、」
「星が流れ、獣が騒ぎ立てた」


困ったように眉根を寄せて優しく叱りつけるユディシュティラ。その隣で未だむっつり腕を組んでいたビーマが望んだ答えをぶっきらぼうに差し出した。


「何もない夜にそのような兆しが現れることもあるまい。シャニの凶星まで出ていたと言うぞ」
「星……星かぁ」


むむむ、と眉間に皺を寄せて腕を組むトゥリシュナー。そうしてウンウン唸ったかと思えば。


「満月だったのかしら」
「、なに?」
「明るい夜だったらビックリして吠えてもおかしくはないでしょう? それに、満月は闇に紛れた小動物のまなこに似ているらしいよ。それで狩りをする肉食獣は月を見上げて吠えるの。だから、その日は満月だったのかもって。星も季節が変われば天体だって、」


得意顔で推理未満の思いつきを垂れ流して、俯いていた顔を上げると、もの言いたげな十の目に押し黙った。

そうだ。ここは正真正銘の神が実在し、人の域を超えた力を持つ仙人がいる。──あそこと違って。


「……はじめてお花をもらったの」


ビーマがグッと唇を噛む。他の四人もそれぞれに表情を変えてしまうと、廊下から風に乗って咽せ返るほど送られてくる、花の匂い。


「あんなにたくさん、はじめてだったわ」


赤に、オレンジに、ピンクに、紫に。おおぶりで、優美で、鮮烈で、香り高い花がたくさん。運びこまれた部屋が色で溢れ、目がチカチカと眩んでしまうほど。ひとつひとつが派手で完成された花なのに、それがたくさん寄り集まって主張がぶつかり合う。端的に言って品がない。

『私に似合う花を』というリクエストに『とりあえず派手なの』を返したのが見え見えだった。もしもかの男の耳に入っていたなら『何おう! お前に似合いの花がありすぎて悩んだ結果じゃい! 有難く受け取るがいいわ!』と反論しただろうけれど。

王子の権力でほとんど押し入る形で宮殿に花を置いていった家来たち。

もともとカルナの件を話し合うつもりで来訪した五王子は、玄関から客間まで続く花の群れに呆然としたものだ。そしてアルジュナがドゥリーヨダナの花ではないかと思い至り、告げた。

刹那、大きく手を振り上げたのがビーマだった。

壺の割れる音。木桶が転がる音。水盆から滴る音。いくつもの破壊音が宮殿内にこだまし、廊下を伝って奥へ奥へと走っていく。家来たちが帰るまではと奥の部屋に隠されていたトゥリシュナーが騒ぎを聞きつけると、咽せ返るような花の匂いと散り散りになって宙を舞う花びら、それらを長い髪にくっつけたビーマがいた。

破壊の神の様相でいながら、それは一枚の絵のように美しくて。怒りや悲しみどころか混乱さえ彼方に吹き飛ばされてしまった。茫洋と立ち尽くす妹分は、ショックで固まった可哀想な女の子に見えたのだろう。いくつめかの壺を砕いた拳を突き出したままビーマは固まり、逆に兄弟の暴走に固まっていた王子たちは融解した。

ユディシュティラが仕切り直すために手を叩き、見計らった家来たちが花を片付け始める。客間は見るも無惨な花の殺害現場だったので、慌てて設えた近くの部屋に移動して、冒頭に戻る。

ビーマの口数が少なかったのはそういうことだ。反省はしているが後悔はしていないと、如実に顔に出ている。

無知なまま悪徳王子の毒牙にかかりかけている妹分。それを心配するあまり暴走した兄貴分。捉え方によっては美談になるビーマの破壊を、兄弟たちはなかったことにして本題に移行した。とにかくカルナを介したドゥリーヨダナとの交流は控えるように、と。

トゥリシュナーは思うところはあれど頷くしかない。一度だけ顔を見た殿方とこの数ヶ月遊んでくれたお兄さんたち。選ぶなら明らかに後者だろう。ただ、“私”の価値観と“彼女”の憤懣がノイズになってどうも落ち着かないだけで。

素直な妹分に満足したのか、五王子たちは各々言葉をかけながら宮殿を去って行く。次の来訪はいつになるのだろう。

宮殿の奥から簡易的に見送った後。トゥリシュナーは一瞬だけしか見れなかった大量の花々が気になった。トゥリシュナーの美しさに参った男たちは山のように贈り物を寄越したらしいが、一度も受け取ることなく突き返しているために、実際に目で見て手に取ったことはカルナの帯を除いてなかったから。

いつもそばに控えている侍女はいない。ビーマが破壊していなくても、花があまりに大量すぎて家来総出で片付けを行なっているのだ。慌ただしい人の行き交いの合間を裸足ですいすい通り抜け、床に花びらが敷き詰められた一画へと辿り着く。

鼻がむずむずするほど匂いが充満している。

足の裏で丁寧に踏み絞ると余計に匂いが強くなった。サクサク、サクサク。黄色や赤や紫の大きな花弁が混ざり合って、粉々で、変な汁が出て、花粉がダマになって指の隙間に潜り込む。

花を踏む。足が汚れる。匂い立つ。

幼児の無垢なる残虐性を秘めた遊びを無心で続けるトゥリシュナー。


「……いッ!?」


突然、足の皮膚に痛みが走った。

大きな声が飛び出しかけ、思わず手で口を押さえる。少し離れた部屋で家来たちが忙しなく花を運んでいるのを確認し、そっと足の下を確認した。

花弁の下に紛れた金色の輝き。

繊細な造りの人差し指と親指がちまちまと花弁を避ける。目当ての物は緑の茎に巻き付いていた。

ブレスレットだ。

華奢な金の腕輪に小さなダイヤモンドが点々と嵌め込まれており、その中心にひときわ大きな真珠が鎮座している。金細工は蛇と蔦。多産と生命力。よく見るとブルーサファイアやイエローサファイアの星々も混じっている。

そんなブレスレットが、花弁が全て落ちて萼としべばかりの茎を束ねていた。

誰に言われずとも直感した。

彼が本当にトゥリシュナーに贈りたかった花とは、真にこの一束だけだった。

もう何色の花だったかも分からない死体ではあるけれど、コレこそ不吉な王子がトゥリシュナーを想って選んでくれた贈り物なのだと。


「フ、ふふ……すっごくシャイなひとね」


目眩しが派手すぎるわ。

大量の花々に埋もれてしまった一束の花。見つけないでほしい気持ちと、見つけてほしい気持ち。二律背反の葛藤を感じられる贈り物。トゥリシュナーが見つけてしまったと知ったら、あの王子様はどういう顔をするかしら。

女も文が書けたら良かったのに。

文字を教える発想すらない環境に初めてもどかしさを感じた。

ブレスレットに付随する鎖でグルグルに巻かれた茎。どうにかすべて抜き取ってしまうと、わずかに残ったしべにそっと鼻を近付ける。きっと甘い香りがするだろうと期待して──。


「っくち」


くしゃみが出た。

当たり前だ。だって花粉だもの。

匂いどころじゃなくムズムズ落ち着かなくなった鼻先。立て続けにくしゃみすること四度。どこまでも上手くいかないものだ。

誰も見ていないのに気恥ずかしくて、軽く鼻先のこすって誤魔化すことにした。


「トゥリシュナー?」


とっさにブレスレットを懐に仕舞えたのは奇跡だった。


「あ、アルジュナ兄さん?」


動揺で裏返った声。ムズムズする鼻のまま振り返って、一度は帰ったはずの王子の姿に首を傾げる。

一方アルジュナと言えば、赤い鼻で慌てるトゥリシュナーの姿に美しい形の眉を歪めた。


「泣いていたのか?」
「いいえ……?」
「だが、」
「花粉が入ってしまったの。それだけよ」


ブレスレットの存在を知られたらきっと壊されてしまう。懐の贈り物を隠そうとしてしどろもどろに話すトゥリシュナーは、どう見たって泣いていたのを隠すいじらしい女でしかなく。アルジュナは痛ましい心持のまま、「そうか」とひとまず納得した風に見せた。


「どうかしたの? 忘れ物?」
「ああ、出かけないか。お前に、兄弟の償いをさせてほしい」
「つぐない」


とても大袈裟な言い回しだが、生真面目なアルジュナらしいと言えばらしい。

それからあれよあれよという間に身支度を整えられ、アルジュナの腕に囲われる形で馬に相乗りした。

身支度というか梱包だ。目すら隠す勢いでグルグルに巻かれベールを三重に被り身動きすら一苦労。きっと傍目にはアルジュナが大荷物を運んでいるようにしか見えないだろう。宮殿の敷地の外に出たのは御前試合以来で、トゥリシュナーの意識としては初めてのことだった。

「少し辛抱なさい」と上から宥められ、不明瞭な視界のまま無言で揺られた。

しばらくして街の喧騒とは程遠いどこかに着くと、人がいないのを入念に確認した後、アルジュナが梱包を開封しにかかる。顔が出るベールだけを残して身軽になったトゥリシュナーは、この人生で一度も吸ったことのない清涼な空気を肺一杯に満たした。


「おはなばたけ!」
「正確には蓮池だ。以前の遠征帰りに見つけたんだ」


馬の揺れで痛めた尻もなんのその。アルジュナの訂正なんてほっぽって駆けていくトゥリシュナー。沓の裏で草原を踏みしめ、池のほとりでそっとしゃがみ込む。緑が青々と繁る森の中、開けた場所で群生する蓮は赤子の顔のように無垢に綻んで。淡いピンク色の花弁と真ん中の黄色いしべが天に向かって差し出される。後の世でインドの国花になるのも頷ける美しさだった。

宮殿の庭は高貴な者に相応しい品位を保っているが、花の類いは驚くほど少ない。装飾用に摘むためのごく少数ばかりで。

もっと近くで見たい。トゥリシュナーは履いていた沓を脱いでサリーの裾を両手でたくし上げた。


「ッ、待ちなさい!」


アルジュナが馬を繋いで戻って来たのは、トゥリシュナーが池に素足を付けた瞬間だった。

──とっぷん。

想定したよりも深い池の底。指先で触れたかと思えば硬さもなく沈み込み、踏んばることもできず太ももの半ばまで飲み込まれた。そのままバランスを崩して倒れ込む直前、アルジュナに腕を引っ張られどうにか池の外に助け出された。


「蓮池は浅い池のようで実際の底は深い。外から見えているのは澄んだ上澄みと柔い泥の集積だ。油断して飛び込めば足を取られて上がってこられない! 何人の子供が死んだと! 何を考えて……考え、て………………あ」


足と一緒にスカートまで泥まみれになったトゥリシュナー。まあるい黒目をさらに丸く目立たせてアルジュナを見上げる。蓮のように無垢で清らか。

何にも汚されず、ゆえに何も知り得ない。



「お前は、子供だったな……」



深く深くため息をついた。


「違うよ。もう大人だよ」
「子供の言い分だ」
「兄さんは子供と結婚するつもりだったの?」


ツンと唇を尖らせたトゥリシュナー。子供っぽいくせに痛いところを突いてくる。


「……お前の相手はユディシュティラでしょう」


あからさまに話を逸らしてからさっき剥がしたばかりの布で泥を拭い、また別の布で薄っすら脂肪を帯びた細足二つを一本にグルグル巻きにした。


「え、ええ? 歩けないよ?」
「私が抱える」
「歩く、歩けるよぉ」
「大人なら大人しく鑑賞くらいできるでしょう」
「そんなー」


さながら仕留められたナーガの有様になったトゥリシュナーを、アルジュナは軽々と横抱きにして歩き始める。ナーガ()は開き直ってアルジュナの首に腕を絡めながら、未だツンとした唇で二言三言ぼやいてみる。


「ユディ兄様と結婚したら私が姉さんになるんだからね」
「姉と敬われるような振る舞いを身に着けてから考えよう」
「もーー!」


ジタバタしたら吊り上げられた魚。努めて厳格な表情を保っていたアルジュナが、耐えきれずに「フッ」と失笑した。

それからアルジュナはトゥリシュナーの足になりながら森で生活していた知恵を教えた。あの草はかぶれるから触ってはいけない。あの鳥は求愛の時に良い声で鳴く。あの木の傷は獣のマーカーだ。目についたものをひとつひとつ教えるたび、トゥリシュナーは興味深く耳を傾けた。


「本来ならば、もっと幼い時分に一緒に教えてやるはずだった」
「? 無理だよ?」
「そうだな。教えたところで覚えてはいられなかっただろう」


その頃のトゥリシュナーは、そもそも意思無き人形だったから、人形遊びをする森の子らの図が出来上がってしまう。

そういう意味での指摘は、もちろんアルジュナには伝わらない。

伝える気も、ない。


「これから教えてくれればいいよ。私たち家族になるのよ」
「……そう、だな」


ユディシュティラの妻になるということは、将来クル国の王妃になるということだ。

結婚してしまえば誘拐される心配はなくなり、今よりも容易に外出できるだろうが、王妃の立場になった女に花畑に繰り出すような自由があるだろうか。

それは、トゥリシュナーにとって幸福なことなのだろうか。


「ユディシュティラは法に忠実であり、ビーマセーナは暴力に従っている。これは生まれつき変えられぬ気質だ。たとえ内情はどうあれ、我々はそうあれかしとできている」


ジッと蓮池の向こう、王宮のある方角を見つめるアルジュナ。トゥリシュナーは幼げに若武者の横顔を見上げていた。


「お前を思っていないわけではない。たとえ真逆のように見えても」
「どぉしてアルジュナ兄さんが謝ろうとしているの?」
「それは、あまりに不憫だったから」
「どぉして? 私、なんとも思っていないわ」
「しかし、」
「それだけドゥリーヨダナ様がお嫌いなんでしょ」


「そういう話では……ッ!」否定しようにも事実だから嘘はつけない。苦々し気に口を閉じるアルジュナに、トゥリシュナーはころころと笑った。

本当に、なんとも思っていないように。


「近々、私たちは王宮から別の宮殿に引っ越す。ドリタラーシュトラ王の思し召しだ。百王子との不和を国政に響かせてはいけないと、一所にはいられなくなった」
「遠くへ行くの?」
「ヴァーラナーヴァタだ。落ち着いたら兄弟で迎えに行こう。私たちが走れば馬よりも早い」
「まあ」


冗談なのか本気なのか分からないことを言う。アルジュナが真顔なのだから、十中八九本気だろう。

つくづく規格外の肉体をしている。細身の体で自身を抱えながらすいすい野辺を歩むアルジュナに、トゥリシュナーは小さく感嘆した。


「長兄の婚姻が済めば次は私たちだ。どこぞの後ろ盾を得ることができれば良いのだが……」


ひとり言のつもりであろう呟き。

至近距離で聞いていたトゥリシュナーは、極めて冷静に、冷徹に、「私に妹ができるのね」と未来を飲み込んだ。




***




いくら求婚しても取り合われることなく姿も見せない姫に、若い貴族の男たちは諦めて引き下がった。最後まで残ったのは色好みの五人の貴公子。彼らは少しでも美しい姫がいると聞きつければ飛んで行って粉をかけるような男たちであった。

五人の貴公子は来る日も来る日も屋敷の周りを歩き回り、手紙を書き、返歌がなくとも通い続けた。これに音を上げたのは老い先短い養父であった。養父に恩を感じていた姫は、貴公子たちの愛が本物であるならば、と難題を投げかける。

顔を合わせたこともなく、性格も知らずに結婚して浮気をされては後悔ばかりの人生になる。どんなに素晴らしい相手だろうと、愛情を確かめずに結婚などできないのです。



「五人の公達────五人の、王子様」


“怒っている”。

“私”ではなく、“彼女”が。トゥリシュナーの柔く脆い器の内側で、猛き炎を踊り狂わせている。

アルジュナが告げたように、パーンダヴァの五王子は母クンティーと共にヴァーラナーヴァタの新しい宮殿へと引っ越していった。しかしそれは五王子の名声に嫉妬したドゥリーヨダナによる奸計であった。わざと燃えやすい素材で作られた宮殿を与え、五王子が宴を開いている間に火をつけてしまったのだ。

憐れパーンダヴァは母親と共に黒焦げの死体となって発見された。慕っていたクシャトリヤたちと都の民たちが嘆き悲しむ中葬儀は執り行われ、彼らは天の国へと旅立った。もちろんトゥリシュナーも宮殿の中で静かに祈りを捧げたものだ。

しかし、“彼女”が怒っているのはこの後のこと。

なんと黒焦げの死体は宴に招かれた客のもので、パーンダヴァとクンティーは身分を偽って逃げ隠れていた。バラモンのフリをして托鉢で糧を得ながら暮らしていたのだ。

さて、身を隠しながら放浪の旅に出た五王子たち。その先で大国パンチャーラの王ドルパダが娘ドラウパディーの婿選びの祭典スヴァヤンヴァラを開いていた。その実アルジュナを娘の婿にするために余人が引けぬ弓で的を射させる出来レースだ。当初の目論見通りアルジュナは見事に命中させ、ドラウパディーという花嫁を得た。

大国の後ろ盾を得たパーンダヴァは喜び勇んでクンティーの元へと報告に行く。ところがクンティーは托鉢で施しを得てきたのだと勘違いし、兄弟五人で仲良く分けるように言った。

アルジュナはそれを受け入れた。まずは長兄がドラウパディーと結婚し、次にビーマセーナ、自分、ナクラ、サハデーヴァの順にドラウパディーの夫となった。

前代未聞の一妻多夫が出来上がってしまったのだ。

さて、後ろ盾を得てクル国に帰還したパーンダヴァ。これに怒り狂ったのが暗殺に失敗したドゥリーヨダナ百王子たちと、トゥリシュナーの父であった。

何せ大事な娘を嫁がせる相手が、娘より先に別の女と結婚したのだ。それも隣国のパンチャーラの姫君で女神ラクシュミーの生まれ変わりとくれば表立って離縁しろとも言えない。それにしたって、長く支援してきた自分たちの娘を二番目に添えようなどと厚顔にも程がある。これにはトゥリシュナーに無関心だった実兄たちも便乗し、王宮の勢力図が変動した。

トゥリシュナーは表面上は穏やかだった。いつも通り礼儀作法もそこそこに琵琶を弾き不思議な歌を歌って嫋やかに笑む。健気にも強がってらっしゃるのよ、と女官たちが涙をこぼし家来たちが憤りをあらわにした。

なので、以前は渋々と客間に通した男を簡単に素通りさせたのはそういう気遣いなのだろう。


「息災だったか、青い髪のトゥリシュナー」
「あら、金色の耳飾りのカルナさん。お噂はかねがね」
「どの噂だろうか」
「クル国の傘下をよくよく増やしてらっしゃるのですって。とぉーってもお強いのでしょ」
「違いない。噂も嘘ばかりが広まるわけではないらしい」
「うふふ、ご立派ね」


琵琶を持ったまま、ベールも被らず姿を現したトゥリシュナー。カルナと初対面の時から変わらず美しく、変わらず少女性を孕んだ面差しをしている。ただ一人宮殿にこもっている間に教育が進んだのか、所作のひとつ声音のひとつに艶を帯びている。


「またドゥリーヨダナ様からのお使い?」
「いいや、俺個人の用立てだ」
「やっぱり」


ドゥリーヨダナからの贈り物はあの花束とブレスレット以来ひとつも来なかった。

パーンダヴァが死んで寡婦のような扱いを受けていたトゥリシュナー。新しく相手を見つけて結婚しても誰も文句はない。ドゥリーヨダナの求婚もあからさまなものになるだろう。誰もが予想していたが、驚くことにパッタリと音沙汰がなくなった。

ビーマが憤った通り、あの求婚まがいの贈り物はパーンダヴァに対する当てつけでしかなかったのだ。


「聞き忘れていたことがあった」
「なぁに?」
「何故、あの時俺に帯を渡した」
「帯……どぉして今?」
「思うところがあってな」


カルナ曰く。

件のドラウパディーの婿取りにカルナも参加していた。余人には引けぬ弓で腕試しをしたかったのだと。人外の膂力で目いっぱい引き絞り、さあ的を射ようという段階でドラウパディーが悲鳴を上げた。


『あの奴隷スータを夫にするなんてイヤ! イヤです!』


酷いことを言っているようだが、彼女はクシャトリヤの娘だ。法を重んじる教養高い姫ならばこそ、生まれと違うカーストを名乗る者に忌避感があり、何より下のカーストの男に上のカーストの女が嫁ぐことは市中引き回しの末に殺されても仕方がない違法であった。

という経緯でカルナは的を射ず弓を置き、後に順番が回って来たアルジュナがドラウパディーを得たのだった。


「本来クシャトリヤやバラモンの娘は俺のような男を忌避するらしい。だがお前は初めから平気で話しかけ、あまつさえ施しを与えた。俺が触れた贈り物を受け取り、俺の身体的特徴まで褒めていただろう。どんな精神構造をしているのか気になった」
「……………………本当に今さらすぎない?」
「お前の父親が警戒していたんだ。武力で宮殿に押し入れば二度とお前に会えないだろう」
「そう、だったんだ」


知らなかった。

パーンダヴァの葬儀が終わってから、トゥリシュナーの新しい縁談も組まれず、喪に服すように言い聞かされてきた。その間の贈り物は恐ろしいほどの数が来たと言うけれど、やっぱりすべて突き返していたらしい。

突き返したのは贈り物だけじゃなかったみたい。


「施しの、理由……」


思い出す。もう遥か昔のことのようで、実際は一年も経っていない。

目覚めたトゥリシュナーの自我は確かに“私”だったけれど、直後の体の操縦権はきっと“彼女”にあった。

“彼女”が執心しているものといえば──。


「太陽……」
「?」
「あなた様が、太陽神スーリヤの子だから」



(■■■■も、そうだったから。)



何故突然に自分の父の名が出たのか、きっとカルナは不思議に思っただろう。

けれどその瞬間のトゥリシュナーは、トゥリシュナーとは違う、まったく別の表情を持っていた。柔らかく、温かく、寂しく、切なく、虚ろな、よく分からない微笑に神秘を纏わせてカルナを眼差していたから。

カルナはいつかの時と同じように“魅了”され、何も言えなくなってしまった。トゥリシュナーが真実無垢で清純な乙女ではなく、どちらかと言えば己の恩人と似通った気配を内包した女だと薄々勘付いていながら──むしろだからこそ──頭の片隅に不意に浮かび上がる。

幻のような女だと思った。


「本当なら私の兄さんだったかもしれないじゃない?」
「何の話だ?」
「だって、クンティー様の御子なのでしょ? 兄さんたちの兄弟なら私の兄さんよ」
「知っているのか」
「あ、驚かないのね。カルナさんも知ってたんだ?」
「ああ、聖典で少しな。…………お前こそ誰から聞いた。何故知っている」
「説明が難しいの。夜の声……ええと、たまに聞こえてくるの。女神ウパシュルティ様が、言ってらしたわ」


ウパシュルティは夜に聞こえてくる超自然的な囁き声を神格化したものである。夜の女神を拝むと現れる超常の存在であり、予知能力を持つと言われている。

ある日一人で月を見上げていたトゥリシュナーの元に情報が届けられた。周囲に訊いてみたところ女神の名が出たので、しばしば聞こえてくるウパシュルティの声に耳を傾けることにしている。

昼間にも聞こえるけれど、なんなら聞こえるというより脳に直接降って・・・くるのだけれど、きっとそんなこともあるのだろう。

おかげでトゥリシュナーはある程度の未来を知っていた。

パーンダヴァが死んでいないことも、一人の妻を五人で共有することも、カルナの出生の複雑さも、あらかじめ知っていてそのように受け入れていた。


(神話ってなんでもアリなのねぇ。)


ちゃんと納得しているのに、“彼女”は全然納得していない。

一夫多妻の社会を知っている女。普段はときどき感情を漏らすばかりで、ほとんど自我などないのに。こういう時はどうしようもなく怒りをあらわにする。

浮気者。
裏切者。
不潔。
男なんて。
最低。
最低!

一方の“私”と言えば本物の逆ハーレムを目の当たりにしてとびっきりの関心を向けている。

総じて、兄たちの結婚事情にトゥリシュナーは思うところがなかった。二番目だろうが三番目だろうが誰の嫁になろうが、兄たちと家族になって一緒にいられるならと。父が反対したのは予想外だったけれど。

まあ、それはそれ、これはこれ。



「良ければ、良ければね? カルナ兄さんって呼んでいいかな。二人っきりの時だけでもいいの」



こっちはこっちで面白そうだと、ニンマリ笑う女が現実だった。


「……いいだろう。俺が返せるものなど何もないが、好きにするといい」


トゥリシュナーより一回り年上の戦士は、動揺をひた隠しに頷く。揺れる緑の瞳が青々として、とても美味そうだと思った。


これで“彼女”も鎮まってくれればいいけれど。



「ところで、ドゥリーヨダナ様はお元気?」
「ああ、相も変わらず熱心に策を練っている。あの男の精神は不屈だ。必ずや望む結果を齎すことだろう」
「ふぅん。……私のことは、何か言っていなかった?」
「そうだな。…………笑っていたか」
「笑って……」
「(パーンダヴァに愛想を尽かした相談役と将軍一派が中立派になり、トゥリシュナーを娶れば浮いた勢力を百王子側に一気に取り込めると)笑っていたな」
「そう、嘲笑わらっていたのね……」


あんなに素敵な贈り物をもらっておいて、散々袖にしたのだから。操を立てた相手と結婚できないトゥリシュナーの悲劇はさぞかし愉快に違いない。

お腹の奥にキュッと力が入った。

怒りはない。それは“彼女”の役割だ。
悲しみはない。それも“彼女”の役割だ。

“私”はただ、この神話の世界を他人事のように楽しめばいい。


「嫌われちゃったのね。ザンネン」
「そうなのか?」
「もう。カルナ兄さんったら鈍感さんねぇ」
「俺は鈍感さんなのか……そうか……」





***




十七世紀半ば。
日本。
江戸。
徳川幕府。
江戸城。

大奥を中心として伸び続ける異様な特異点。迷宮と化した女の園を奥へ奥へと進むマスターたち。奇妙な廊下や部屋を通り過ぎ、潜むエネミーをえいやとやっつけ、もういくつめかの行き止まりにたどり着いた。

徒労感もなんのその。次じゃ次じゃと引き返そうとしたその時、死ぬまいと辺りを警戒していたシェヘラザードがぼんぼりの裏に隠し通路を見つける。

屈んで這い入る作りの扉。向こうは闇。ぼんぼりの光が満月のように淡く照らす。

行くか行くまいかの問答の後、マスターを真ん中にして侵入した面々。果たして、十分な面積のある板張りの間に予想していた罠はなく、エネミーもなく、ただそこにあったのはこぢんまりとした御簾だった。

音も気配もなく中途半端に上がった御簾と、その中に収まった女が在った。

臨戦態勢になり警戒するサーヴァントたち。しかし一向に相手方からの動きはなく、徐に春日局が口を挟む。


「よく見ると奇妙な着物を着ていますね。あれは……?」


結ばず下ろされた濡れたような黒髪。わずかな灯りに青く煌めく。絹でできたベールのように添うのは繊細な造りの骨格。幾重もの重たい着物を纏う身は、マスターと年頃が変わらない少女に見える。

戸惑う春日局の言葉を繋げるように、殺生院キアラは答えを口にした。



「十二単、でしょうか」



────しゃん。

────しゃん、しゃん。

正解だ、と言わんばかりに鈴が鳴る。顔の半ばまで上がっていた御簾の下、蝋人形のように凍てついていた表情の、唇だけがゆるりと動く。

三日月みたいに、ニンマリ笑う。

ハッとした瞬間、御簾の中には誰もいなくなっていた。あんなに重たい単を着込んで、音もなく素早く動けるわけがない。サーヴァントなら霊体化した可能性があるが、それはあまりにも不気味で、幽霊に遭ったみたいで。マタハリが袖を引くまでマスターは茫然と同じところを見つめ続けた。



「また、花札……」



芒に月。菊に盃。


月見で一杯。月見酒。



手土産持参でおいでなさい。











「変なのが入り込んだかと思えば、へぇ? 渇愛? またずいぶんとあちら向きのお名前ですこと。宗教のちゃんぽんなんて変わったご趣味で。人間の皆さんは自由で良いですね……ん? 求めるばかりではなく、与える愛も皆無ではない、と…………やだやだ、幼体にもなり得ない芋虫が図々しいったらないですね。領空侵犯ハンターイ。こっちに来ないで欲しいです」


「まあ、そんな貴女も愛してしまうんですけど」




参考文献に《上村勝彦著『インド神話 マハーバーラタの神々』ちくま学芸文庫》を流し読みしてます。本当につまみつまみ読んでるので知識として本気にしないでくださいね。

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