月に吠え■/descended



※マハーバーラタ未読ネット知識だけで書いたマハーバーラタつまみ食い話。嫌な予感がした瞬間読むのをやめてください。
※奏章Tプレイ済み。ネタバレはありません。
※知識としては全部デタラメだと思って読んでください。
※落ちはわし様のつもり。全然出ません。



トゥリシュナーの父は前王パーンドゥの乳母兄弟であり、王位を退いてからも厚く支援をしてきたクシャトリヤのひとりであった。

隠者の呪いを受け女に触れられぬ身になったパーンドゥは子を作れない。だからこそ森に住処を変え苦行に身をやつしたというのに、苦行の末に天に至るためには子を成さねばならなかった。そこで妻クンティーの協力の元神々を降ろし二人の妃に子を産ませた。それがパーンダヴァの五兄弟だ。

五人もの子を得て幸福を手に入れたパーンドゥ。それでもと、俗世から遠退いた兄弟分を父が侘しく思うのも仕方ない。なにくれとなく品を送り彼らの生活を支えてやった。トゥリシュナーとの縁談もまたその一貫だった。

神と人との間に生まれたパーンダヴァの五兄弟のうちの誰か──特に長子たるユディシュティラか次男のビーマセーナ──と結婚させよう。名実ともに縁続きになろう。快く酒を酌み交わそうとした二人に、難色を示したのがクンティーだった。

というのも、トゥリシュナーは白痴の子供であった。

父母の子らはむくつけき息子ばかりだったので女の子を欲していた。しかし母は出産するには歳が行き過ぎている。そこでふと思いついたのがカウラヴァの百王子のこと。長く子に恵まれなかったドリタラーシュトラ王の妃ガーンダーリーが聖仙を手厚くもてなしたため、恩寵として百の王子を産んだ。自分たちも同じように授けてもらえないだろうか、と。

果たして、聖仙からの恩寵はあった。


「とこしえに、とこしえに、それは美しい女が生まれるだろう」


そうして生まれてきたのがトゥリシュナー。生まれつきのミルク色の肌に濃い青の髪をした美しい女の子だった。

青は偉大なるシヴァ神、ヴィシュヌ神の尊い色である。美しいのは見た目ばかりではなく、きっと加護多き人生を歩むだろう。父母は歓喜して聖仙に額ずき、大切に大切に育てた。

しかしトゥリシュナーはニコリとも笑わず、赤子でありながら泣き声ひとつも上げなかった。無貌と見紛う無表情。まるで置物のようにされるがままの子供に、不安と焦燥を隠しきれなくなった父母。これは本当に我が子なのかと怯え始めた。

そこで再び姿を現した聖仙に泣き縋れば、全能の如く鷹揚に頷かれる。


「この娘は肉を得たばかりで、美しくなるのはまだ先のことだ。美しい娘はその時に生まれるだろう」


望んで産んだ女の子は、まだ生まれていない空っぽの器だった。

聖仙を疑うこともできず、さりとて鵜呑みにすることもできずに、十年二十年後の我が子を思って大切に育てた。

この器に注がれる人格が良いとも悪いとも分からない。むしろこのまま人形の姿で生を終えるかもしれない。そういう心配からクンティーは我が子との婚姻を拒んだ。ゆえに、パーンダヴァ五兄弟とトゥリシュナーの婚約は口約束でしかない。

そして、パーンドゥが亡くなり、パーンドゥの子らが王子として王都に呼び寄せられても、トゥリシュナーは空っぽのままだった。

ドローナを武芸の師と仰ぎ日夜修行に励む王子たち。もともとトゥリシュナーと彼らの関係は薄い。正確に言うと、武芸に優れ森を駆けることを好むビーマやアルジュナ、四男のナクラは自主的に動かない女の子に興味を示さず、温厚なユディシュティラと大人しい末っ子サハデーヴァが気にかけてやるくらい。それでもちっとも感情が見えない子供は不気味でお荷物だった。

小さな女の子を、それもクシャトリヤの高貴な姫を王都から森へ連れ出すのも可哀想だと、王子たちが王都に来るまで長く会っていなかったのもあるだろう。同じ都、近くの宮殿、定期的に宴をともにする仲でありながら、隣り合って座るばかりで一向に仲が深まらない。

そも、女の使用人に匙を差し出され、緩慢に口を開き、言われるがままにもそもそと粥を食む人未満をどう扱えばいいか考えあぐねている。亡き父の旧知であり自分たちの厚い支援者の娘ということで邪見にもできない。


「見苦しい。せめて食事くらいは一人でできるようにすべきだ」
「時が来ればそうなる。今から目くじらを立ててもしようがないだろう」


生真面目なアルジュナは眉を吊り上げ小言を言い、ユディシュティラが苦笑して諫める。

生まれ持った欠陥ではなく、それはトゥリシュナーに定められた運命なのだ。何をしたところで変えられるものではないだろう。

未だ成人に遠いビーマはすでに触れることを諦めている。触れれば壊す剛腕と無抵抗な子供との相性は悪い。一方的に上機嫌に話しかけ「分からんか!」と哄笑とともに立ち去る。あるていに言って壁か壺にひとり言をぶつけているようなもの。これがまともに関係性を築けるかと。

これはユディシュティラが娶るのが一番だろう。

幼少期から長兄以外の兄弟間で暗黙の了解となっていたこと。しかし今は曲がりなりにも王子であり、成人していればドリタラーシュトラ王の次の王に決まっていた。帝位に付くとして、この調子の子供を妃に据えて良いものか。

力加減が難しいビーマはないとすると、アルジュナが娶ることになるのかもしれない。アルジュナは五王子の中で最もドローナに愛された武芸者である。トゥリシュナーの父もアルジュナならばもろ手を挙げて歓迎するはずだ。

そういう空気をヒシヒシと感じているからこそ、アルジュナの小言が増えだしたのだろうか。

「トゥリシュナー!」叱責する声が聞こえるたび、悪くないのでは? と兄弟の視線が交差する。この時分は恋や愛よりもチャンバラ遊びが楽しい若武者たちであったので、いかに武勇を示すか以外で頭を使いたくはなかった。

誰も彼もがトゥリシュナーの加護を、聖仙に予言された美しさを甘く見ていたのである。

年月とは平等に過ぎ去るもの。少年から青年に成長した清く正しく美しいパーンダヴァの五王子と、因縁深きカウラヴァの百王子。同じ師を仰ぎながらも相容れぬ従兄弟王子たちは、ドリタラーシュトラ王に武勇を示す御前試合に臨んでいた。

剛腕無双のビーマ、棍棒術に長けたドゥリーヨダナ、剣技自慢のナクラ、そして比類なき弓術使いアルジュナ。

そこに闖入してきたのが本来ならば王子と肩を並べることすらできない御者の子カルナ。最優の戦士たるアルジュナと張り合った彼がさらなる試合を持ちかけるも、周りは身分の差から猛反対。しかしパーンダヴァをやり込める機会に乗っかったドゥリーヨダナはカルナにアンガ国の王の地位をやろうと宣言した。一国の王ならば、王子の前に立つには相応しい、と。

ドローナの弟子たちの勇姿をお披露目するための試合が、日が傾くほど泥沼化してゆく。その最中、



「────ぃ、────ばんざぃ」



花が降った。

パーンダヴァの五王子でも、ドゥリーヨダナでも、カルナでもなく。

トゥリシュナーに、神の祝福が降っている。

観覧する王侯貴族の日除けの下から日の元へ。飛び出した素足は白い。ミルク色の肌は日に翳すと黄色く煌めき、黄金色に見えなくはない。黒い肌を脱ぎ去ったパールヴァティーの化身では、などと褒めそやす声は確かにあった。

ドレープがたっぷりとした青いサリーを蹴りよけ、緻密な蓮花の金刺繍が施された帯をはためかせ。クシャトリヤの若武者たちが立つための場所に躍り出たトゥリシュナー。婚約者の晴れの舞台だからと目一杯に粧しこまれたからか、それはいっとう光り輝く女の形をしていた。

女。女だと──?

ただの白痴の子どもと見下げていた者どもは、何も知らない者どもは、パーンダヴァの五王子たちは、誰も彼もが第三の目が開く心地だった。

天上から降り注ぐ琵琶や太鼓の音に混じって髪飾りが甲高く鳴く。年を経るにつれ濃い青はどんどん暗く煮詰められ、ほとんど黒に近くなった長い垂髪。帯と一緒に尾を引いて風に揺れると、そこから漂う蓮の花の香。どんなに淡く遠くとも鼻先をくすぐって離さない。

金の環を纏わりつかせた四肢はほっそりと伸び、青色を纏った体躯は成長の過渡期を迎えた膨らみを持つ。少女とも女ともつかない曖昧な色気があった。

ただ真っ直ぐに立ち尽くしているだけなのに、皮の内側から光が漏れるかのごとき凄絶。前を見る瞳は黒々として、光を貪る闇と言い表せる。白痴の無感動。──無貌。

初めて、ゆぅるり動いた。


「く────・ふ────ん
 ────と──ぷ・────
 しゃ──── ────っしゅ
 にゃ──────・つ────」


怒り。



「くとぅるふ・ふたぐん 」



憤怒。悲憤。呵責。

眉間にシワを寄せ、唇を噛み締め、憎悪の炎を内側で燻らせ、迦陵頻伽の声で鳴く。

聴いてはいけない、■■的な音が勝手に耳から弾かれる。だからこそ、視覚情報としてカーリーのごとき炎を面と向かって浴びてしまった。

ああ、この女は本当に女神の化身なのかもしれない。

それを間近で見たのはアルジュナとカルナの両名ばかりであろう。瞬きの間に火は吹き消えて、代わりに浮かんだのは微笑み。

すべてを照らす慈悲の愛。

焼かれた思考は、いつの間にやら止んでいた天上の調べにすら気付いていない。その場に存在するすべての命が、魂を抜かれたように、恍惚と。

トゥリシュナーが自らの帯を取り、カルナの黄金の鎧に巻きつける様を見守った。



「王さまには、綺麗なおべべ、でしょう?」



とこしえに美しい女の降臨・・である。




***




(穢された。)


目が完全に見えるより先に、聞き馴染みのある声が訴えかけてくる。


(貶められた。)


我が身の不遇を、無辜の証明を訴えかけてくる。


(なんて辱め。)


太陽の光と、蓮の花びらと、異国情緒あふれる音楽を浴びながら、ああ、と。納得する。



(許さない。)



これは“私”の声だ。

“私”の体を借りて現界した、■■■■の抗議だわ。

ぱちり。目を瞬かせたトゥリシュナーは、薄暗い部屋をそぅっと眺める。時刻は昼を過ぎて夕方に程近く、日はゆっくり傾き始めている。宮殿の奥まった部屋には明かり取りの窓がいくつも並んでいるが、ピーコックグリーンの重いベールで閉ざされてしまっている。

あの御前試合から三ヶ月。トゥリシュナーは宮殿の敷地から一歩も出ていない。

いかにクシャトリヤの高貴な娘とはいえ、女は男の持ち物である。高価な財産ほど大事に仕舞い込むもの。世間一般では俗に言う“誘拐婚”が許容されている。いかにクル族の王子の婚約者とはいえ、トゥリシュナーの美貌なら強引に連れ去ろうとする輩が群れを成すのは必定であった。

現に今も、トゥリシュナーを一目見ようと宮殿に侵入しようとして守衛に取り押さえられた野太い悲鳴が聞こえる。こんなことが何度もあってはいけないだろうに。

天井の緻密な細工を観察する遊びを止め、クッションから体を起こす。そうして乱れた髪を手櫛ですく……前に、女官が近寄ってきて丁寧に整えてくれた。トゥリシュナーが自分から身だしなみを整えようと動くとは思っていない所作だった。

普段着の薄紫のサリー。帯とベールは省略されているものの、以前よりは格段に高価な布を使っている。それでいて腕輪や髪飾りがなくなったのは、ここ三ヶ月の“成果”だ。

「ビーマ王子が参りました」先触れの女官がやって来ると同時にトゥリシュナーは跳ね上がった。


「ビーマ兄ちゃん!」


女官の横を通り抜け使用人が脇に寄るより早く廊下を走る。背後からの制止の声なんて知らんぷり。そのまま中庭が見える広間まで走ると、筋骨隆々の背に飛びついた。


「よぉトゥリシュナー! 大人しくしてたか?」
「もちろん! ユディ兄様のお言葉だもん!」
「偉いぞ。後で兄貴の方にも自慢してやるからな。俺たちのトゥリシュナーは猿の真似が上手い」
「だってビーマ兄ちゃん登りやすいのよ。アルジュナ兄さんだと足を引っ掛ける場所がないの」


木登りの要領でビーマの体を登るトゥリシュナー。太く逞しい首を背後からギュッと抱きしめても、もちろんビーマの気道が圧迫されることはない。むしろ加減の効かない腕力で触れるより自力でしがみついてもらった方が助かるというもの。

首からとんでもない佳人をぶら下げて中庭に移動したビーマ。降り注ぐ陽光は棘を含んだ厳しい熱線。女の柔肌を容赦なく焼き焦がすソレは、今のトゥリシュナーには別の意味で焦がれたものだった。


「で、何をして遊ぶ? チャンバラでもやるか? お前相手だと木偶の真似しかできないが」
「肩車して。久しぶりに空気を吸いたいの」
「屋根に登ってやるか?」
「いいの!?」


全く良くはなかったし、後からユディシュティラと父に怒られるのだが。

首からぶら下がっていたトゥリシュナーがどうにかビーマの肩にお尻を落ち着ける。ビーマは妹分の足を折らないようにそうっと腿を抑え、瞬く間もなく跳躍した。巨体に似合わぬ軽い着地。兎のようにピョンピョンと屋根を跳ね、一番高いところで風を感じる。風神ヴァーユの子への礼賛とばかりに良い風が二人を迎え入れた。

トゥリシュナーを外に連れ出せるのは婚約者たるパーンダヴァ五王子のみ。地位はもとより武芸にも優れた見目麗しい青年が連れ歩けば、娘の安全も確保でき、連れ去ろうとする不届き者の野心も挫けるだろう。父の命にひとまずは頷いたものの、新鮮な空気も吸えない生活には参り始めている。

聖仙が言うところの美しい女に至った瞬間、トゥリシュナーの自我は芽生えた。この十数年の記憶を朧げながら持ちつつ、初めて意思というものを知ったのだ。

赤子に等しいアイデンティティ。それが年相応に成熟するまでの三ヶ月間。やったことはよく遊びよく学ぶこと。特に最初の一ヶ月は今までの無気力無感動を脱ぎ去り、小猿のようにうろちょろと宮殿を駆け回った。

妹分の変わりように困惑を隠しきれなかった五王子たち。その中で一番早く正気に戻り、遊びによく付き合ってくれたのがビーマであった。

「兄ちゃん」アルジュナやナクラが使う呼び名を真似すると、眩しいものを見るように目を細め、快く「おう!」と返してくれる。まさしく兄らしい気風の男だ。

高位のクシャトリヤたちが住まう宮殿は左右対称の精密な造りであるのに対し、市民階級のヴァイシャが暮らす町には所狭しと乱雑に家々が詰め込まれている。カラフルな洗濯物が熱帯魚の群れのように風を泳ぎ、生きている人の営みを感じさせた。


(知らない土地。異国。大陸の香辛料の匂い。)


遠くに流れるガンジス川の光を眺めながら、トゥリシュナーはただ、静かに事実確認を行っていた。

穢された。
貶められた。

意識が芽生えた──ダウンロードされた三ヶ月前、一度だけ囁かれた怨嗟の声。トゥリシュナーという名前の肉の器に詰め込まれたのは、依代として選ばれた日本人の“私”と、面白おかしく歪められた“彼女”の記録、そして邪神の悪意だ。

人として可もなく不可もなく生きた“私”。
人の慎ましい営みを愛し権力者を冷笑する“彼女”。
人類と神々の破滅を弄んで眺めたい邪神。

その意識が、“私”を核にして歪に構築された。トゥリシュナーなんて女の子は初めから生まれてすらいない。

境界記録帯、幻霊、擬似■■■■■■、■■■……と、言うものらしい。

詳しいことはまだ分からない。思い出そうとするとところどころノイズが走り、頭の中がぐちゃっとするので、努めて深く考えないようにしている。“私”の中では大昔のインドに生まれ変わったという認識で落ち着いていた。

だって目的がない。生きる意味なんて最低限生きていれば後から思いつくもので、ここにいる理由も父母が女の子を望んで産んだから以上の大義はない。まあ、十中八九接触してきたのは聖仙を騙った邪神の手の者だろうし、ダウンロードが開始した瞬間に祝福した神も本物かどうか疑わしいが。

好きなように振る舞い、好きなように楽しめ。

そういう役割だと思うことにした。


「アルジュナ兄さん、まだ怒ってる?」
「なんだ、また器を蹴飛ばして衣を汚したのか?」
「そのブームは二ヶ月前に過ぎ去ったの。もう遊ばないってば。そうじゃあなくって、私が、兄さんじゃなくてアンガの王様に施しをしたの。クシャトリヤの試合に水を差したでしょう? きっとまだ怒ってて会いに来てくれないんだわ」


実際、御前試合の後アルジュナが兄弟を伴わずにトゥリシュナーがいる宮殿に足を運んだことはない。ドローナとの約定を果たすために戦に赴く前夜、パーンダヴァの五王子が顔を見せに来たそれきりだ。


「それこそ三ヶ月も前のことだ。アイツだってそこまで狭隘じゃあ、……ないとも言い切れねぇな!」
「ほらあ」


アルジュナは身内に対しては特に我が強くなる。クル族の王子としての地位に恥じない立ち居振る舞いを意識するほど、家族に甘えているのだろう。

または、拗ねている、とも言う。


「お前が初めて喋ったのが俺たち兄弟ではなくカルナめだったのがよっぽど腹に据えかねたんだ。繊細なヤツめ」
「ふぅん。ぜんぜん覚えてないや。ビーマ兄ちゃんは怒っている?」
「怒るものか。これからは兄貴の嫁さんとして長く言葉を交わすことになる。最初の一言くらいなんだってんだ」
「そっかぁ。それもそうね。私、ビーマ兄ちゃんの姉ちゃんになるもの。アルジュナの姉さんとしても頑張らなきゃね」
「お! ハッハッハッ! ならば楽しみにしてるぞ、姉ちゃん!」
「うひひ、大きな弟だ!」


片や剛腕無双のむくつけき大男、片や花顔柳腰の輝ける美少女。年の頃が近い二人は屋根の上であることも忘れて豪快に笑いあった。

これがいらぬ耳目を集めてしまう結果になろうとは、本人たちも与り知らぬまま。

白痴の子供がまともに物を喋る女になった。それも聖仙が予見した絶世の美女であるのならば妃に過不足はないと、ユディシュティラの妻になるべく教育が始まった。

神々への礼拝、楽器の手習い、戦装束の繕い、妻としての家宰の役割。今までお人形さんとして過ごしたロスを取り戻すために詰め込まれる知識。やっと自分が置かれている立場を理解してきたというのに、窮屈でままならない生活がトゥリシュナーの日常になってしまった。

唯一の息抜きは宮殿から連れ出してくれる五王子の存在。特にビーマやナクラら活動的で社交的な兄貴分は良いストレス発散になった。


「──王子から使者が、」


なので、女官からの先触れを最後まで聞きもせずに部屋から飛び出してしまった。


「兄ちゃ、…………?」


失念していたこと。

この国には王子が105人いる。その使者となればもっといる。しかし五王子以外でこの宮殿にちょっかいをかけられる王子となると、王位に近いカウラヴァの長兄くらいなもの。


「俺はお前の兄ではない」


今最も“彼”から信頼されている臣下といえば、真っ先に思い浮かぶのが一人。


「アンガの王様?」
「久しいなパーンダヴァの御物。いかにも、俺はアンガ国の王位を賜ったが、此度の訪問はドゥリーヨダナの名代のカルナに過ぎない。ゆえにその呼称は正しくない」


堅苦しい、プライドを感じさせる口調。そこはかとなく身内以外に接するアルジュナに似ている。そのせいもあってか不思議と苦手意識は湧かなかった。


「じゃあカルナさん。今日のご用件はなぁに?」
「これを」


絞めた鶏を掲げるような無遠慮さで、クシャトリヤにしては優美な手からバサリと滑り落ちた──帯?


「施しを受けたからには報いよ、とあの男が言うのでな。同じクシャトリヤならば武勲で返すところだが、女とあれば仕方がない。同等の品で返すのが筋というものだろう」
「同等?」
「不足か?」
「うぅん、私があげたのよりとってもキラキラしてるね」
「気に入ったなら受け取るがいい」


どことなく話が噛み合わない。

深い紫の生地に見事な孔雀が描かれた帯。翡翠色の見事な羽は中心に行くにつれ濃く深く青色に煮詰まっていく。トゥリシュナーの髪の色だと一目で分かる彩色だった。

カルナに渡した帯は盛装用の良い帯ではあったが、若武者が身に着けるには女々しすぎる意匠であった。その対価がこの絵画と見紛う逸品では明らかにもらいすぎている。


「いらないのなら捨てろ。お前の手に渡った時点で、俺の意志は介在しない」
「ふぅん。それって悲しくない? 何とも思わないってこと?」
「────お前が帯を捨て、その結果に俺が嘆き悲しんだとて、他者の行動を縛る理由にはならないだろう」
「あなた様は回りくどい言い方が好きなのねぇ」


ほうと小さくため息をつくと、幼子のような純真さから蓮の花びらを数える乙女の色に塗り替えた。


「この色、カルナさんの瞳にそっくりよ」


ミルク色の頬をじんわりと染め、何がおかしいのかくふくふと笑う。まだ丸みの強い少女の顔形ながら、黒々とした眼は睫毛のひさしの下でいっとう艶やか。直接目を向けられたわけでもないのに、まだ帯の端を握っていたカルナの指が戸惑いて力む。


「見当違いも甚だしい」
「そう? まるで同じ染物で作っているみたいよ」
「これを選んだのは俺ではなく、」

「そこで何をしている」


視界に黒が差し込まれる。

手にしていた帯がするりと滑り落ち、空の手には代わりに武人のしなやかな手がかかる。見上げれば、いかにも修行終わりといった風のアルジュナがトゥリシュナーを庇っていた。

普段は豊かに波打つ髪がしっとりと落ち着き、触れている手も少々湿っている。沐浴を終えたばかりなのだろう。身を清めたばかりで血を流すようなことはない、と思いたいが……。


「もう一度尋ねる。何故この宮殿にいる。お前が足を踏み入れて良い場所ではない」
「異なことを言う。俺はカウラヴァのドゥリーヨダナの代わりに参じた。パーンダヴァの宮殿ならばともかく、お前の許可を得る必要はない」
「……ッ! トゥリシュナーはクシャトリヤの娘だ」
「今は俺もクシャトリヤだ」
「生まれは変えられないぞ、カルナ」


ジッと睨みあう両者。取り残されるトゥリシュナー。胸の内で高鳴る鼓動の導くまま、固唾を飲んで見守っていると、最初に身を引いたのはカルナだった。


「用は済んでいる。ここで事を起こすのは戦士として無作法だろう」
「当然だ。疾く消え失せるがいい」


“なんだ、何も起こらないの。”

静かにガッカリしたトゥリシュナー。それに驚く“私”。

すべてを見透かしたようなタイミングで、カルナは視線をこちらに向けた。どこか平坦に、無感動に、思考を巡らせた唇が吐き出したのは、


「お前にとって好ましい花はなんだ」
「っ、貴様!」
「トゥリシュナー。青い髪の女。お前に贈る花について俺の恩人が思い悩んでいる。その憂いを掃うのが此度の本来の目的だ」


婚約者を持つ女に、婚約者がいる場で、他の男からの贈り物の相談をする。とんでもないことが起こっていると理解しているのは、怒りのあまり言葉を失ったアルジュナしかいなかった。相手が幾度も自分たちを殺そうと画策したドゥリーヨダナであれば尚更。


「贈り物だというのなら、」


こてりと傾けられた小さな頭。髪飾りでまとめることなくサラリと滑り落ちた髪。黒々として、光が当たると青く煌めくそれは、一匹の巨大な黒蛇のようで。うっそりと微笑む表情もまた相応しい蠱惑を持っていた。



「私の好きな花ではなく、私に似合う花に頭を悩ませる殿方をこそ、嬉しく思うわ」



喉がひりつく感覚。無理やり搾り出した唾液でなんとか舌を湿らせ、出てきたのは「──そうか」の一言。トゥリシュナーの蠱惑をもってして、カルナは役目を終えて帰っていく。残ったのは茫洋と瞳に靄を漂わせたアルジュナで。

久しぶりに会ったのになぁ。
きっと会いに来てくれたのに、今日はこれっきりかしら。

などと他人事のように、トゥリシュナーは孔雀の羽をそうっとなぞった。




***




人が好き。自然と共に生きてゆく素朴な営みを愛している。

人が嫌い。私利私欲で他者を蹴落とし貪る様のなんと愚かしいことか。

神仏を敬う。善い行いが死後の世にて意味を持ちますように。

神も仏も馬鹿らしい。糞の役にも立たぬ驕りの虚よ。

男が好き。深く重く愛されてこそ女は輝くもの。

男が嫌い。愛しているフリをして女を物としか扱わない猿。

神の子? なにそれ、すごそうね。

神の子? なにそれ、偉ぶって良い理由がどこにある?

どんな困難が待ち構えていたって最後はハッピーエンドじゃなきゃね。

バッドエンドは良い。デッドエンドに踊る阿呆を待ち望んでいる。


空っぽの器に降ろされた“私”。
奥底で現界した記録の再現。
邪神に感化され信仰する“彼女”。

三つのスタンダードがシームレスに乱立しうる矛盾存在。

少女と女の中間地点。美しいまま永遠に年を取らない人間という異常。子供の無垢と女の残虐を持ち合わせる愉快犯。そのくせ凡庸な価値観をシレッと持ち出してくる現代人。


それがこの特異点の核たる渇愛トゥリシュナーなのである。




***




「カルデアの霊基グラフに未確認の英霊が登録された……?」
「そう。心当たりはないかな。いつものレムレムでいつの間にか夢の世界の特異点を修復していたとか」
「いやぁ、覚えてたら良かったんですけどね……」
「やっぱりダメかー。いつの間にかカルデアに来てるパターンじゃないだけマシかな。でも今後召喚される可能性があるから頭の片隅に留めておいてね」
「あいあいダ・ヴィンチちゃん」
「とはいえ、個人的な興味としては生でお目にかかりたいものだね。とんでもなく美しいんだろう? 彼女」
「うん。日本人なら誰でも知ってるお伽噺だからね。しかも最古」
「えーー。気ーにーなーるーー。名前だけ登録されているのが惜しいなぁ。解析したら顔くらい拝めないかな。



────“なよ竹のかぐや姫”」





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