個性の話が出た時、私は笑って『防音』だと嘘をついた。

公的な個性届にもそう書いてある。叔父さんにも確認してもらったし。友達と一緒に即席カラオケボックスしたり隠れておしゃべりするのに重宝されていた。あれは便利グッズ扱いだった。

知らないって幸せだよね。その気になったら一生しゃべれない体にできるのに。


「服ちゃんと着れた?」
「うん……」


お父さんが置いていったパジャマと未開封の新品の下着は、轟くんには少し大きかったみたい。袖と裾が軽く折られている。

シャワーを浴びて、濡れた髪のままリビングの入り口に立ち尽くす轟くん。手でちょいちょいすると子供みたいな足取りで私が座るソファに近寄って来た。濡れているのに逆立っている。ごわごわだ。


「ドライヤー使っていいのに」
「うん……」


轟くんはうちに来てからずっとトロンとしている。

流石に他人の感情とか意思とかに個性を使うのは慣れていない。なにかおかしな誤作動を起こしている可能性もある。その場合、轟くんが“とろろきくん”になっているのは私のせいになる。

まあ、それでもやめる気はゼロなんですが。


「これ、火傷のあと?」
「うん」
「痛くない? というかシャワー沁みなかった?」
「あんまり……ちくちくはした、かも。いろいろ鈍くなってて。俺、もう前みたいに戻れないって言われた」


服を着ていても首とか手足のガサガサは目立つ。それだけ凄惨な炎に焼かれて、奇跡的に助かった。もしくは、誰かに救けられたか。


「今までの話、聞かせてくれない?」


タオルで髪をゴシゴシしてあげたり、うちにあるなけなしの保湿クリームをぬりぬりしたり。私にされるがままになりながら轟くんが語ったのは、嫌な予感がする話だった。

三年も保護してた施設。顔の見えないテレビの向こうの人。皮膚培養や移植でつなぎ留められた命。

へーーーえ??

それってあるていに言って誘拐拉致監禁だよね。


「よく逃げてこられたね」
「? 逃げた、ってことになるのか? 俺はただ、家に帰りたくて」
「帰って、どうしたい?」
「家に帰るのに理由がいるの?」
「おうち帰るだけなのに人の家を燃やすのはまずいでしょ。必死にならなきゃいけないようなことがあったとか」
「必死に……?」
「したいことがあったとか」
「したい、こと…………」


口に入った食べ物が何味だか分からない、みたいな反応。

ソファの背もたれに体を預けて、まっすぐ天井を見上げて黙っちゃった轟くん。いつまで待っても、きっと答えは出てこない。私は保湿クリームを顔に塗る作業を始めた。特に顎のところがカサカサしててつらそうだったから。

ぬりぬり塗り広げて、終わったら目元の火傷に。そっと人差し指を乗せたところで、グリンと青緑色の瞳が私を見た。


「俺は、どうしたらいいかな?」


やっと目が合った気がした。

途方もなく、砂漠の真ん中に取り残されたみたいな、無人島に置いてかれたみたいな、知らない街で記憶喪失みたいな。ああ、そんな目をされると困っちゃうな。余計に、放っておけなくなる。

死んだと思ったら知らない家で目が覚めて、知らない人に家族になろうと言われて、逃げだして家の近所までやって来た。その途中で小中の同級生に出会ってさ、他人の家に引き込まれてシャワーまで借りちゃって。こんなにベタベタされても逃げないで、理由がないとおうちに帰れないみたいなこと言い出して。

轟くんが家に帰る理由は、お父さんしかなかったんだ。

私の個性がその理由を隠しちゃったから、もうどうしようもなくなっちゃって。


「お手紙、書こうよ。三年もいなかったのに、急に帰ったらビックリしちゃうよ。まずはさ、今から帰りますってお手紙書いて、ついでに気持ちの整理もつけちゃって、堂々とおうちの敷居またげばいいじゃん」


こんなの無視して出てっちゃえばいいのに。素直に頷くんだもんなぁ。

これは重症だ。




***




日はすっかり暮れていて、夕飯時に差し掛かっていた。学校帰りに買い物を済ませる暇もなく轟くんを拾ったから、冷蔵庫の余りものでどうにか二人分作るしかない。

私も一人暮らしをしている女子高生。それなりの物は作れる。これくらい余裕ですよってちゃっちゃかオムライスを完成させた。


「初めて冬美ちゃんが作ったオムライスに似ている」


冬美ちゃんお料理は小学生から始めてませんでしたか。

小学生レベルと言われて皿を引っ込めたくなった。お察しの通り、お料理はあんまりできないんです。いつもお弁当とかテイクアウトばかりなんです。


「無理しないで……」
「ううん、懐かしい味で俺は好き」


黙々と口に運ぶ轟くんは、結構お腹が空いていたみたいだった。どこから逃げてきたかは分からないけど、結構な距離を走ったらしい。むしろ寝起きでそれだけ走れるって流石はヒーローの……なんでもない。

ケチャップの味が濃いチキンライスを消費しつつ、綺麗に空になった目の前のお皿に、まだスプーンを付けていない側のオムライスをそっと分けてあげた。秒で空になった。

三年間寝てたということは、裏技でもない限りは点滴で栄養を補給していたと思う。……その場合、急に固形物を入れたらダメなんじゃ?

気持ち悪そうだったら最悪個性を使おうかとハラハラしていた私に、轟くんはきょとんとしいていた。まだ“とろろきくん”が微妙に残っているらしい。大丈夫なら、いいけどね。

「ごちそうさまでした」をした轟くんはまた手紙を書く作業に戻った。シャーペンを片手に半分も埋まっていない便箋と向き合っている。「お父さん、お父さん、は……」うわ言を呟いて、数文字書いてすぐ消しゴムで消す。そういう戸惑いを、課題をしながら見守っていると、突然「あっ」という顔が私に向けられた。


「名前ちゃん、どうしよう。俺ここにいていいの? 勝手にして名前ちゃんのお父さんとお母さん怒らない?」
「いないよ」
「いないって、あー、一人暮らしなの? そっか、三年経ってるなら高校生だもんな」
「うーん、高校生よりも前から一人だよ。9歳からね」
「え……!?」


そりゃあビックリするよね。

正確には4歳からほとんどネグレクト気味で、本格的に離れて過ごすことになったのが9歳だったのだけれど。あの人たちは悪い親ではなかったし、100%悪意があってやったわけじゃないから。


「個性事故でね、一緒に住めなくなっちゃって。お金だけ払ってもらって知り合いの人に預けられてるの。まあその人とも一緒に住めないんだけど」
「個性って、『隔絶』てやつ? どんな個性?」
「簡単に言うと、誰にも分からなくなるの」


簡単に言ったつもりで全然伝わらない言葉を使ってしまった。眉間にシワを寄せて怪訝な轟くんに、本当に伝えて良いのかちょっと迷った。


「4歳の時ね、自分が個性を使ってるのを知らないまま、2週間くらい親に無視されて過ごしたの」


『隔絶』された私は、誰も知覚しない。誰も覚えていない。もともと子供がいなかった夫婦であるように、当たり前に過ごす両親を4歳の私は見つめ続けた。

両親は共働きで、お母さんは私を残して出勤してしまった。保育園からの来園していないことに対する確認の電話に“うちに子供はいません! 何度も言わせないで! 迷惑行為として訴えますよ!”と怒鳴るところを見た。

私は何度となく“パパ! ママ!”と叫んでは一切視線もくれて寄越さない両親に絶望した。

体力が尽きたのか、個性を使えるような気力がなくなったのか。部屋の隅で植物みたいに座り込む私をお母さんが発見したのはそれから2週間後だった。

もう、手遅れだった。


「親に見てもらえないって、4歳にはつらすぎるよねぇ」
「……他人事みたいに言うね」
「うん。『隔絶』したから」


綺麗さっぱり隔てて離して消し去った。

そうして前世の自分なんてモノを完全に思い出したんだ。


「俺にも、同じことをしたんだ」


尖った芯が飛び出したシャーペン。

切っ先がこっちに向けられているのが、“とろろきくん”の気の抜けた感じと真逆で。だからこそ、精一杯の抵抗がそれなんだろうなと思った。


「怒ってる?」
「すっごく。殺してやりたいくらい」
「ありゃ怖い」
「俺のセリフなんだけど。なんだよ、人の気持ちを何だと思ってるわけ」
「厄介だなって思ってる」
「うそつき」


シャーペンが轟くんの手から滑り落ちる。握力が落ちてるって話も聞いているけれど、それだけじゃないんだろうなってのも察していた。


「こんな簡単に、俺のこと弄びやがって。お前なんかに俺の火は消せないんだ。お父さんにだって消せなかったのに、どうしてお前なんかに。──ふざけんな」


テーブルに転がるソレを拾って、ガサガサした手に手を取って持たせてやる。間を置いて、ゆっくりと握り込まれた拳はぶるぶる震えていた。


「なんで、なんでこんなに晴れやかな気分なんだよ……おかしいだろ……ッ!!」




薄い眉をいっぱい下げて、強張った目元で、ツギハギのせいで口裂け女みたいにずっと笑っている顔で、轟くんは。

大切な宝物がガラクタになっても捨てられない、今まで見向きもしなかったくせに捨てられそうになって必死で駄々をこねる。そんな理不尽でありふれた子供のように、呆然とこぼす。



「この俺は、お父さんを過去にした」



────名前ちゃんが個性を解いたら、元に戻るのかなぁ。


結局、便箋の一枚も埋められないまま、轟くんは寝落ちてしまった。




***




「そうだね、その通りだよ」


寝たきりだったとは思えないぎっしり筋肉の詰まった体をどうにかソファに転がす。寝室から持ってきた掛布団をかけてやり、私は枕と毛布で足元に自分の即席寝床を作った。

あと、最低でも二時間ほど。ここでうとうとしていなければならない。私の個性は自分自身に使うのなら恐らくほぼ永続的にローコストのオート機能搭載だが、他人に使うのはさすがに疲れる。名字を一個覚えにくくするみたいな簡単なのならともかく、人一人の人生に根を張った感情となると話が変わって来る。

寝てしまったら、ほとんど効果はなくなるかも。

そうしたら、轟くんは。

とどろき、くん、は………………。









「かえる、帰らなきゃ、みんなに謝って、お父さんに見てもらわなきゃ! 俺まだお父さんのこと大事だよ、だってまだ見てもらってない、なにもできてない! 生まれてきて良かったって思ってもらえてないのに、どうしてこんな、こんなところで寝てなきゃいけないんだよ!? ねぇ、うちに帰らせて! 帰る! ッ帰らせろよォ!!」


きれいな、蒼い炎が。

ぼぅぼぅと腕からパジャマの袖に引火した。人間が燃えると臭いのは化学繊維の焼けるニオイと混同しているからだってなにかで聞いたな。

寝ぼけていた視界が一気に鋭く冴えわたって、私は個性を使った。

轟くんの個性を『隔絶』した。

轟くんの情を『隔絶』した。

轟くんの新しい火傷を『隔絶』した。


「は…………ははっ、なんだそれ。チートじゃん」


さっきまで炎を出して荒ぶっていたとは思えないほど、穏やかで戸惑った雰囲気を帯びた轟くんが、飛び起きた勢いと同じようにソファに沈んだ。手すり部分に後頭部をぶつけるオマケつきで。

急に叫んで喉を傷めたのか、しばらくゴホゴホ咳込むので、冷蔵庫からスポドリを持ってきてあげる。どころか、背中に手を当てて飲む介助までしてあげた。ゴクゴクとスポドリを飲んでいる轟くんの目は、私から一切離れなかった。


「轟くんは、まだおうちに帰りたい?」
「それさ、やめろよ」
「どれ」
「燈矢って呼んでただろ。会った時。なんで戻った」
「私が初めて会った轟くんだから?」
「だからじゃねェよ。うざい、から、とーやでいい、よ……」


“とろろきくん”になってしまった。やっぱり他人に使うと加減が難しい。

うとうとし出した“とろろきくん”に、夜泣きした赤ん坊をあやすママみたいな気持ちでトントンおなかを優しく叩く。すると素直にうとうとしてくれるのだから、“とろろきくん”は優秀な赤ちゃんだ。


「おれを、みてよ……」
「うん」
「ねるまで、ずっとみてて……」
「うん」


そう言う轟くんの方がもう目が開いてないのに。


「やくそくだよ、名前ちゃん…………」
「約束するよ、燈矢くん」


数秒置いて、「すぅ……」と良い子の寝息が聞こえてきて、やっと私は肩の力を抜くことができた。

個性を使うために触れた手のひらには火傷ができている。轟くんに水分補給させがてらペットボトルで冷やしていたから、ちょっと赤い程度で済んでいるのは良い方だろう。本当は個性で『隔絶』してもいいんだけれど、ちょっとその気力もない。


「しんど」


最低、あと二日は徹夜だ。




***




土日は学校が休みだから、家に引きこもっていても監視は不思議に思わない。

私は金曜の夕方に轟くんと一緒に『隔絶』してからこの世界に存在しないことになっている。けれど学校の在籍書類や名簿、机や掲示物には名前が残っている。知らない生徒の名前にみんなが首を傾げることだろう。

それは、私を監視している公安も同じことだ。

私が轟くんに付き合えるのは土日が限度。それ以上はお迎えが来る。


「もういやだ」
「だめ、ペンを握って」
「なにも書くことなんてない。俺に家族はいない」
「いるでしょ、冬美ちゃんのお兄ちゃんしてたじゃん。夏雄くんと同じ部屋で寝てたんでしょ。焦凍くんに謝りたいって言ってたじゃん」
「しらない、かえったってみんな俺のこと嫌いになってる」
「違うかもしれないから、まずはお手紙で聞いてみようって」
「こわいよぅ」


あまりにも書いて消してを繰り返すものだから、シャープペンと消しゴムを禁止にしてボールペンを持たせた。新しい便箋を前に、震える字で数文字書いて、怯えたようにペンを落とす。私はそれを横から拾って握らせるのを繰り返した。

轟くんにはこの二日でどうにかなってもらわなくちゃいけない。


「なんでこんなことするの? 俺、名前ちゃんに何かした?」
「私の人生めちゃくちゃにした」
「しらないよ、しらない」


そりゃそうよ。だって私が勝手に決めて、勝手に台無しにしちゃったんだ。


「知らないで済ませて堪るかよ」


でもさ、私の人生もうめちゃくちゃが確定しちゃったんだから、その引き金を引かせた轟くんには、少しでも救われてほしいんだ。じゃなきゃ、私が報われないでしょう?

ペンを握る拳に自分の手を重ね、ジッと轟くんの目を見つめる。すると、轟くんはビックリするほど大人しくなる。お父さんに見てほしかった。その欲求は『隔絶』されてしまった。行く当てがなくなった不安で、誰でもいいから見てほしいと縋るようになった。

私の黒い目でも、いくらかマシなんだろう。


「名前ちゃんの目、よく見ると緑色が混じってるね」
「そうだね、燈矢くんのに比べたら地味だけど」
「寝るまで見ててよ。ぜったいだよ」
「うん、いーよ」
「ありがと、名前ちゃん」


夜になると、ソファに横になってぐずる轟くんをなだめる。お腹をトントンしながら、小さな声で子守歌を歌うようにお話に付き合ってあげるんだ。

きっと、寝る前にお話しを聞いてくれる人がいなかったんだろう。轟くんは寝そうで寝ない微妙な境目で、形が曖昧な言葉をふにゃふにゃ口ずさみ続けた。


「俺、どうしてお父さんに見てもらいたかったんだろ」
「好きだったからじゃない?」
「じゃあ、もう好きじゃないのかな」
「『隔絶』したからね、本心ではまだ好きだと思うよ」
「ふぅん。実感湧かねぇや」


右手でトントンしながら、左手は肘をついて自分の顎を支えている。すぐそこにあるツギハギの引き攣った顔は、運動会のお昼に見た轟くんの横顔に似ていた。


「名前ちゃんは、お父さんとお母さんのこと、好き?」
「ううん、何とも思ってない」
「それも『隔絶』したの?」
「覚えてないよ、4歳のことだよ?」
「一回『隔絶』したら、消えてなくなるのか」
「というより、消えるまで閉じ込め続けたのかなあ」


4歳の“志村名前”は子供らしい手加減のなさで自分全てを『隔絶』し尽くして、空っぽになった器の底に前世の私が残った。4歳の“志村名前”はあの時死んでしまった。

名実ともに、ね。


「俺も消えるまで閉じ込めるんだ?」


そうできたら良かったんだけどね。

ポツポツ、ポツポツ、交流というより情報交換のような会話を合間に挟めながら、土日は過ぎていく。『隔絶』された私と轟くんにも、平等に時は進んでいく。




***




日曜日の夜、買い物に行くと言って私は家を出た。轟くんのお手紙を持って、轟くんのおうちに着く。立派な家だ。ヒーローどんだけ儲けてんだ。金があるならお手伝いさん増やして冬美ちゃんの負担減らせっての。

どうにか形になった、というか人に読ませるには脈絡がなさすぎる、轟くんの言葉が連なっているだけの手紙。無理やり捻り出させて書かせて埋めた便箋5枚と、私が書いたメモ一枚。同じ封筒に入れてポストに投函した。

それから、意を決して轟家に足を踏み入れた。

誰も私の存在に気が付かないけれど、扉を開けたりすれば不審に思われる。慌てず騒がず三年前の記憶をたどって、あの立派な仏壇の前に立った。

遺影は、変わらずそこにあった。

三年経っても飾る程度には大事に思ってるくせに。それか、失ってから大切さに気付いたパターンかな。不器用ここに極まれりだわエンデバー。

ふわふわの真っ白い髪。青緑色のたれ目。雪みたいな色白の肌。学ランに着られている頼りなさげな男の子。今の轟くんと大違いだった。この写真のことを忘れるくらい、今の轟くんのイメージが私の中に浸蝕していた。

燃えて、燃えて、もう元に戻れないんだと、悲しくなった。


「かわいそう」


誰も聞いていないから、誰も見ていないから、誰も私を見ないから。

他人の遺影を抱きしめて、ほんの数分、同情のための涙を流した。

そうして額の中から写真を抜き取ると、轟家の裏手にある山の開けた場所で持っていたライターで端から丁寧に炙っていく。思ったよりも時間がかかったけれど、写真はしっかり灰になって、風にさらわれて、この世に存在しなくなった。

誘拐。
拉致。
監禁。
洗脳。
深夜徘徊。
不法侵入。
器物損壊。
脅迫。

うん、満足。

帰り道の途中で炭酸二つと某アイスの自販機でイチゴ味とクッキー&クリーム味を買ってマンションに帰った。


「ただいまー」


廊下を通ってリビングに行く。その途中で、お母さんの部屋の扉が全開になっている。そうっと覗き込んで、呆然と立ち尽くす轟くんの背中が目に入った。その背中越しに、ウォークインクローゼットの扉が開いているのも。


「燈矢くん」
「ねえ、これ」


振り返らないまま、轟くんの指が一点を指し示す。

両手に抱えていた炭酸とアイスを足元に落として、私も轟くんの隣に並んだ。

柔らかい木目の両開きの扉。鈍く輝く小さなお釈迦様。黒い位牌。何年も火をつけていない蝋燭。こじんまりとした“りん”。子供が好きそうな動物型のビスケットのつつみ。


「これ、だれ」


小さな女の子がカメラに向かってピースする写真。


「私」


“志村名前”の遺影だ。



***




「4歳の時、個性事故でしばらく無視されたって話したじゃん。あれで結構ダメージ食らったのがお母さんでさ。真面目で繊細な人だから、自分が子供を虐待してたのがよっぽどキツかったみたいでさ。しかも私って個性の扱いがよく分からなくて、その後もちっちゃい事故を何回か起こしちゃったんだよね。そういうのがあって、9歳になる頃にはお母さんの中では“生きているのか死んでいるのか分からない娘”から“4歳で死んで度々幻になって出てくる娘”にすり替わっちゃったんだよね。お葬式まであげてたよ。死亡届は流石に受理されなかったけど」


仏壇は、こうして飾ってある。

着の身着のまま出て行ってしまったあの人たちだけれど、きっと新しい仏壇は作ってあるんだろうなぁ。

“りん”をチーンと鳴らす。手を合わせる。“志村名前”は笑っている。私も“志村名前”なのに、この頃には戻れないんだって意識はずっと重くのしかかっていた。

それから、ついでだから仏壇の引き出しから写真を取り出して轟くんに見せてあげることにした。


「私のおばあちゃん、ヒーローだったんだって」
「え……でも、お父さんは警察官で、ヒーロー嫌いだって」
「小学生の話よく覚えてるねぇ。たぶん根っこの部分ではおばあちゃんの影響があったと思うよ」


黒いコスチュームに白いマント、黒髪の綺麗な人が男の子二人に顔を顔で挟まれて笑い合う。幸せなお父さんの記憶。この写真を置いて行ったのは、もう要らないという意思表示でしかない。


「ヒーローはね、すごいよ。自分の家族を犠牲にして他人を助けるんだもの」


お父さんがよく言っていたセリフだ。

だからあの人は家族を大事にしたかった。子供を、大きくなるまで手元に置いて、愛して愛される家庭を作りたかった。

でも、私が壊れて、お母さんが壊れたから。一緒に住めない私たちから、お父さんはお母さんを取った。


『お前はヒーローなんかになるなよ』


それが、お父さんの最初で最後の望みだった。


「だから私はヒーローにならない。お父さんのこと、好きじゃないけど、嫌いでもないし。1個くらい親孝行したかったし」


そっと引き出しに写真をしまって、私は轟くんの顔を見た。

轟くんも、私の顔を見ていた。


「轟くんはヒーローになりたい?」
「分からない。でも俺、お父さんに褒められる人間になりたかった」
「お父さんがヒーローになれって言うから頑張りたかったんだね」
「でも、でもさ、途中から急にヒーローは忘れろって、決めつけられたんだ。“お前はヒーローになれない”って。俺の頑張りを見ないで、お父さんは……」
「お父さんは、自分の夢だけ見ていた」


オールマイトを超える。

架空ゆめは現実になったこの世界で、願い続ければ叶う全能感のまま突き進んで、自分がどれほど地獄の道を舗装していたのか後から思い知る。

私はエンデバーのこと、ヒーローとして好きだ。ちゃんと強いし、ヴィランをやっつけてくれるし、オールマイトと競うためにずっと成長し続けている。知名度が上がるほど家庭を蔑ろにしてしまうのもヒーローとして仕方ないと思っていた。どっちもフルパワーで熟すなんて、もはや人間じゃないもの。

そんなの、本当の被害者を見ていないから言えたんだ。



「嘘でもいいから、一回エンデバーのこと忘れて。ヒーローでも、それ以外でも、なんでもさ。なりたい自分に、なればいいよ」



──私は、もう無理だからさ。

二日徹夜したのと、二日ぶりに外に出たのと、深夜に差し掛かった時間と、あとやっぱり個性の使いすぎかな。ぶっ続けで48時間はしんどいって。

目がしょぼしょぼする。頭も重いし、体もダルい。熱っぽい。隣の轟くんの肩にコテンと頭を乗せると、大袈裟な震えが伝わってきた。


「っ名前ちゃん、どっ、なに? 眠いの?」
「私が寝てから、将来の夢考えてて」
「は?」
「宿題。次に会う時までの」
「なにそれ。会うって、一回お別れみたいな……。それを言うなら明日の朝起きるまでとかだろ」
「そう、期限は明日の朝。いや、昼、夜かも、かようび?」


眠い。何を言ってるのか曖昧になってきた。

うとうとするのをなんとかしたくて、轟くんの肩にぐりぐり額を擦り付ける。「うひッ!?」今度こそ轟くんが変な悲鳴をあげた。


「あの、名前ちゃん?」
「あとね、これはお願いなんだけど」
「話聞いてくれないかなァ!?」
「私が起きるまで、そばにいて」


今、ここで寝たら、個性が解けてしまう。起きてる轟くんはすぐにあの執着を思い出して、きっとお父さんの元に帰ろうとする。でも、できるだけこのマンションにいてもらわないと私が困るんだ。

轟くんにはちゃんと“被害者”でいてもらわないと。



「いっしょにいてよ、とろろきくん」



ぎゅぅぅぅ、と目の前の体に抱きついて、何事かを言っている轟くんの声も耳に入らなくて。

もしかしたら、あの蒼い炎で燃やされるかもしれなくて。

…………お父さんのお願いが聞けなくなるくらいなら、その方がいいかも。なんて、酷いことを考えてしまった。



「なんで燈矢って呼ばないんだよ。バカ」


たぶん、それが眠る前に聞いた轟くんの最後の声だった。




***




9歳、犯罪教唆と詐欺の共謀。
16歳、拉致監禁と不法侵入。

9歳の時はともかく、16歳の犯罪は“子供がやったこと”では片付けられない。そりゃあ、監視だけじゃ許してくれないよね。

両手両足が拘束された状態で目が覚めた。

入口一つと、大きなマジックミラー。メタリックで無機質な部屋は窓なんてあるわけもなく、今が月曜日か、火曜日か、朝なのか昼なのか夜なのか分からない。

ただ、分かることは────


「塚内名前さん。君が轟燈矢くんを誘拐した理由はなんですか」


お父さん、ごめんなさい。



「轟くんに自分の遺影を見せたくなかったからです」



お父さんのお願い、聞けなくなっちゃった。




350話の自分の遺影に手を合わせるところで轟燈矢のことが好きになったのに、荼毘キャンセルのためには燈矢をお家に帰すわけには行かず、代わりに主人公に手を合わせてもらいました。やったね。

2話で終わらせるつもりが意味怖な話になって不時着しました。次でキャラ視点いくつか挟んでどうにかPuls ultraしたい所存です。引き続きよろしくお願いします。



※フライング・オマケ



緑谷出久はオールマイトが見知らぬ女性と話しているのをたまたま見かけた。

綺麗な人だと思った。顔立ちが派手なわけではないけれど、雰囲気とか、表情とか、立姿が。背中に流している黒髪も、切長の黒い瞳も、スーツを着こなす所作も。大人の女の人って感じでドキドキする。というかオールマイトと近い距離で笑い合っているのが、とても……。


「緑谷少年?」
「へぇぇあい!!」
「ど、どうした!?」


眺めていたのがあからさますぎたのか。オールマイトに話しかけられてアワアワソワソワしてしまう。邪魔してしまったかもしれない。

ヒールの分、出久より身長が高い女の人は、挙動不審な少年をひたと見つめた。上から下までじっくり。三往復くらいして、それからふわりと笑った。クールで芯が強そうな見た目が一気に様変わりした。

黒いと思った瞳は、近くで見ると緑がかった色をしていた。


「今は意味がわからないかもしれないけれど、良かったら覚えていてください。あ、もしかしたら聞いてるかな? じゃ、行きますね」
「?」
「“私はあなたが子育て失敗したことについては思うところはないけれど、この顔の遺伝子を残してくれたことは感謝しています。加点方式だと文句なしの及第点です。悔やむ気持ちはあるでしょうが、”」
「な、何の話ですか!?」
「ああ、流石に長すぎました? んーと、じゃあ簡潔に」


天然、というか不思議ちゃんなのか?

右手でコメカミのあたりをさすったり、宙をワキワキさせたりして言葉を探す。手のひらの色がうっすら違うのが何故だか目についた。

そうしてようやく納得したのか、一つ頷いた彼女が満面の笑みを浮かべた。


「“あんまり気に病まないでね、おばあちゃん”」


「おばあ、ちゃん……?」どういう意味だろうと、尋ねる前に女の人は足早に去って行ってしまった。スマホまで取り出して電話してるし。何者なんだろう。

答えを知っている人物を見上げて、ギョッとした。

あのオールマイトが、顔を覆って天を仰いでいたから。


「お、オールマイト?」
「ああ、すまない……ちょっと昼食の玉ねぎが染みてね」
「調理済みでは染みないと思います!!」
「染みるのさ、時間差で」
「そんなすごい玉ねぎあるんですか!?」
「あるのさ、とびきりのね」


HAHAHA!!の笑い方からして小粋なジョークを飛ばしたつもりなのかもしれない。

笑いすぎてちょっと涙が出ている顔で、オールマイトは彼女の正体を教えてくれた。



「彼女は防音ヒーロー『サイレント・イブ』。私の元サイドキックだよ」









「あ、あの! 志村さん!」
「なんだい、出久くん」
「少し前に、あなたに良く似た人からの伝言を預かっていて、

────“気に病まないで”、と」


黒髪に黒い瞳をした、サイレント・イブとそっくりな目の前の人は、溢れる涙を止めることなく微笑んだ。



「ああ、聞いてたよ」





※オマケのオマケ


「仕事用のスマホにかけてこないでくれませんか、先輩?」
『やだなぁ、歳はそっちの方が上でしょ先輩』
「このやりとり気に入ってるんですか? 私は飽きたので遠慮したいです」
『まあまあまあまあ後輩の頼みを聞いてよ。さっきエンデヴァーさんに、』
「無理です嫌ですお断りします」
『なんで先輩がエンデヴァー事務所とのチームアップを断るのかって相談受けちゃって』
「むしろ向こうの方が断る立場では? オールマイトの元サイドキックですよ私」
『そこはほら、エンデヴァーさんとこのサイドキックがね』
「天下のNo. 1が公私混同とは……」
『頼むよぉ、父親のメンツこれでしか保てないんだって! あと俺がめちゃくちゃ助かる! 俺ら結構な確率で組んでるからめっちゃ睨まれてんの、あのブルー・アッシュくんに!』
「………………変なお見合い写真送り付けないようにエンデヴァーに言っといてください。──迷惑です!!」


『うわ、スピーカーモードにしてるのバレてる』という白々しいホークスの声を最後にブチる。嫌な公安の先輩だ。

8年前に切れた縁は、切れたままでいてほしいのにな。


「黒歴史の再来は勘弁して……」



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