ヒールで踊るメメント・モリ
※本誌1058話とFILM GOLDとワノ国の話にサラッと触れています。
※不特定多数と遊んでいるタイプのオリ主です。
某日、“新世界”カライバリ島。
海賊の模範解答の群れがひしめく島にて。ひときわ大きなサーカステントを無遠慮に──エレガントに侵入した女がいた。
正面から堂々と入って来たというのに、誰もがその女を止められなかった。声すらかけられず、黙って生唾を飲み込むことが唯一の抵抗だ。
それだけ女は、イイ女だった。
すらりと伸びた背に体のラインに沿った黒い濡れ髪。オールバックで後ろにかきあげ乱れたそれもまた妖艶。形の良い眉とスッと通った鼻、薄い唇に乗ったルージュはむしゃぶりつきたくなるようなワインレッド。真っすぐ前を向くとろりとした瞳と同じ色だった。
控えめなフリルのついたドレスシャツはボタンを五つ開け、その下で形の良い胸を支える黒いカップ付きコルセット型のインナー。程よく肉のついた足腰を強調する黒いハイウェストパンツ。小気味よい音を鳴らすのは15cmの赤いピンヒールだ。
背中に背負った黒い大太刀がなければ、上流階級御用達のクラブでグラスを傾けるイイ女にしか見えない。
誰が呼んだ商売女か、どこぞの客人か、バギー座長の縁者か。そわそわケツの青いガキ丸出しで落ち着かない下っ端の細波。有象無象たちなど一切眼中になく、女は無言で階段を昇りきり、カツンという一音を最後に歩みを止めた。
バギーズデリバリー改め、クロスギルドの三枚看板の眼前で。
左肩から右下に走る古傷が目立つ胸元。谷間から取り出されたのは例のビラであった。
「師よ、これはどういうことか」
見目に似合わぬ平坦な硬い声。慇懃であり、敬虔な使徒が教祖に言い募るような切実さが滲み出ている。邪に盗み見ていた面々の背筋がまっすぐ伸びた。
女が一心に見つめる相手は、異名に相応しい鷹の目をゆるりと細める。
「あなたが道化の下につくとなると私も追従することになる。泥船遊びでも始めるつもりか」
「ほざけ。お前がおれに恩を感じるのはまだ先だ。誰もついてきてほしいとは頼んでいない」
「会いに来ると思って連絡を寄こさなかったのだろう。タダ働きは御免だぞ師よ」
「交渉ならこの男としろ。おれは知らん」
ミホークが顎で指示したのは相変わらず生首で苛め抜かれた千両道化のバギーであるはずだ。女もはじめは涙と鼻水で濡れた汚らしい男を見た。しかし、行き過ぎた視界に映ったもう一人を無視できるほど、師に対して盲目に怒ってはいなかった。
「──あら、ご機嫌ようサー」
「あァ、ご機嫌ようレディ」
元王下七武海、“砂漠の王”サー・クロコダイル。
葉巻をふかせる偉丈夫を認めた瞬間、武人の如き立ち姿が見た目に相応しいシナを作った。
「二年ぶりかしらね。ますますの男ぶりでびっくりしたわ」
「クハハハ! 相変わらず男をその気にさせるのが上手いな。悪酔いしちまうぜ」
「やだ。そんなイジワルお言いにならないで。……分かっているのでしょう?」
女をねめつけるじっとりとした熱。同じだけの熱を乗せてうっそり微笑む女。
ただならぬ雰囲気に当てられる者多数。異様な闖入者を諫めるのは師匠と呼ばれた男しかおらず。
「お前、クロコダイルと切れていなかったのか」
「嫌な言い方はやめてくれ、師よ」
変わり身早く武人の口調に戻った女ではあったが、その表情は夜の気配を芳しく纏っていた。
「私とていつまでも子供じゃないんだ」
世界最強の剣士、ジュラキュール・ミホークに拾われて22年。
ミホークに殺される未来まで8年が迫った、楽しい某日であった。
***
ナマエ、と呼ばれて反応が遅れたのは、その男が怖かったからではない。自分の名前だとナマエ自身が認識できなかったからだ。よくよく聞いてみれば父が自分を呼ぶ愛称を縮めたものであり、原型などほとんど残っていないソレを訂正する気力はなかった。
父は二年前に死んでいた。ちょうど海賊王が処刑された年に、珍しくもない流行り病でぽっくりと。
母は先月に死んだ。出稼ぎに乗った船で、活発化した海賊に襲われて海に投げ込まれた。
天涯孤独になった10歳の少女に残されたのは、父が遺した大きな刀と母の私物、わずかばかりの生活費のみ。近所の人たちは初めは同情してくれたけれど、それだけだ。父は余所者で、母は変わり者で、少女は異物であった。
同情による施しや物乞いもそろそろ通用しなくなる。こことは別の地で暮らす方が最適だと分かっていても、父の刀は巨大すぎて持っていけない。せめて刀だけでも持ち出したいが、10歳の少女には物理的に無理だ。2mの武器を背負う少女なぞ怪しいにもほどがある。
せめて、父の墓にでも供えていきたい。しかし墓荒らしなどに遭われても……。
懊悩するナマエの前に現れたのが、その先22年も師事することになる運命の男であり、
「お前を父親と同じ強さまで育てる」
40歳になったら己の命を刈り取る死神であった。
ジュラキュール・ミホーク21歳。後の世界最強の剣士はその時点で既に最強の片鱗を見せていた。
そんな男を負かし続けたのが40歳の父だった。大太刀を振り回し黒刀を受け止め児戯のように薙ぎ払う。鬼神の如き強さでもって圧倒した男が、ただの病で死んだことをミホークは嘆いていた。そして何度目かの死合の最中に笑ってこぼした戯言を何故だか思い出したらしい。
『おれの娘はすごい。女の身で刀神様に愛されている気配が伝わってくる。いずれはおれを超える剣士になるぞ』
「お前が40になる頃、おれは51。剣士として死んではいないだろう。気が遠くなる話だが、30年後に楽しみを取っておくのも悪くはない」
それ絶対に親の欲目だよ。
父との試合はすべて木刀であったし、父に一太刀も加えられたことはない。本物の刀を振るったこともない小娘に、ミホークは本気で父の鬼神を見ているらしい。
40歳までの30年で父を超える剣士になる自信などこれっぽっちもない。雲上人は雲に隠れて見えないから雲上人であり、見えないものにどうなれというのか。
しかしここで首を横に振れば40歳どころか10歳の身空で飢え死にもありえる。もしくは人攫いか、賊の食い物にならないとも限らない。なにより、父の形見を安全に持ち歩けるかもしれないのがこの男であったので。
ナマエはこっくり頷き、ミホークも同じく頷いた。
ミホークについていけば命は助かる。などと甘く見ていた自分を呪う時間がそれから半年続くとも知らず。
「ミホークさん、これ、なに」
「その重りを背負っておれの元まで戻ってこい。期限は日没までだ」
「えっ」
「ミミミホークさん! あそこ熊がいる、いるよっ!」
「それくらい倒せないでどうする。ナイフはやるから好きにやれ」
「えっ!?」
「ミホークさんミホークさんもう無理、剣持てないぃぃぃ!」
「絶対離すな。離したら生身で受け止めろ」
「えぇぇーーっ!」
「ミホークさんたすけてっ、飲み込まれるっ! 海王類に食べられちゃうっ!!」
「待て、この新聞を読み終わるまで耐えよ」
「えェェェんッ!!」
言葉少なに、稽古か鍛錬か手合せのことでしか意思疎通が取れない日々が半年過ぎたある日。
「、ぁっ」
ナマエが隙を見せたのと、ミホークの腕に力が入るタイミングが奇跡的に合致した。
果物ナイフでしかない刃物から放たれた斬撃が10歳の少女の上半身に巨大な刀傷を残した。左肩から右の脇腹まですっぱりと。柔くて白い肌に熱が走り、次いで視界いっぱいに赤が噴出した。
死。死ぬ。死んでしまう。
擦り傷切り傷がない肌などどこにもない。柔らかい黒髪はザンバラに刈られ、頼りない手足はいつだってフラフラ。赤とも紫ともつかない目はいつも潤んでいて、ミホークがいないときはぐすぐす泣いている。拾ったミホークが期待外れだったかと何度も捨て置こうとして、そのたびに父の遺品の大太刀にしがみついた。泣き虫、弱虫、意気地なしのナマエは、
「────ちがう」
唐突に、理解した。
死の恐怖。死の痛み。死を思う。剣士として最上級の男から放たれた一撃は、脳みその髄の髄、DNAの塩基配列の結合ひとつひとつにまで潜り込み、ナマエという人間を一匹の“侍”へと作り替えてしまった。
「刀の持ち方、構え方、いや体か、筋肉の付き方だ。刀に見合っていない。なんと脆弱な。刀を振るえない。ちがう、ちがうな。そうだろう、うん」
ぶつぶつ、ぶつぶつ。
胸から血を流しながらひとり言を呟き続け、ひとしきり満足したのか。再び顔を上げたナマエは別人になっていた。
「もう一回頼む、“師匠”」
ミホークの名誉のために付け加えるならば、彼が放った斬撃は見事の一言に尽きた。たかだか果物ナイフの一撃とて航海士が定規で製図を引いたようにまっすぐ美しい。ゆえに、すぐに手当すれば傷も残らず綺麗に癒えたはずだ。
それが化膿して熱を持ち後年に残る刀傷となったのは、ナマエが一向に手当をさせてくれなかったからだ。
「もう一回」「もう一回」「最後だ、もう一回」
ずっとずっとミホークに挑んで返り討ちに遭い続け、また立ち上がって挑んで。ミホークの方が止めなければ失血死するまで続いていたことだろう。
甘ったるい葡萄ジュースのようだった瞳は、熟成が始まったばかりのワインに様変わり。ミホークの喉が我知らず渇きを覚えた。
(これを飲み干せるまで、あと30年か。)
今までの半年間が嘘のように。ミホークを師と認めたナマエにとっても、ナマエを弟子と認めたミホークにとっても、それからはひたすら楽しい日々であった。
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ナマエ18歳、ミホーク29歳。
「お前に教えることは何もない」
「は?」
ナマエはひとり、偉大なる航路に放り出された。
「師よ待ってくれ。まだ奪うべきものがたくさんある。私を置いていくな師よ。待って、ま、……待たんかクソハシビロコウッ!!」
8年。頼りなく泣き虫な小娘は背も手足も伸び女の盛り。体力も筋力も増すにつれ刀の技量もぐんぐん伸びていく。あんなに泣いていた子供はどこにもいない。今はただの戦闘狂のミホーク2号。強さを求める獣であり、師匠に追いすがる立派な弟子である。
実のところ、ミホークは年々育っていくナマエをつまみ食いしたくなる衝動を抑えきれなくなっていた。流石にまだ早いと我慢に我慢を重ね、他へぶつけすぎた結果“海兵狩り”などという二つ名がついてしまったのは記憶に新しい。これでは酔った勢いで襲いかねない。厳めしいツラの下で人知れず苦慮していた。
その頃の情勢といえば、海賊王の処刑から端を発した海賊の活発化は収まらず、新たな抑止力に海軍は貪欲だった。海軍からの執拗な王下七武海加盟の催促で二人の周りは騒がしい。未知の強敵を求める伝手としてそろそろ折れてやるかと思案している。
しかしミホークはナマエを連れて七武海入りする気は毛頭なく、何よりこれ以上構っていると斬り合いの加減が効かなくなる。
とっさに黒刀“夜”を右手で抜いてしまった先日のことを思えば、殺さず育てる難しさは骨身に染みていたので。物理的に距離を置き、武者修行させた方がよっぽど確実だと判断したのだ。
「覚えてろよーーーーッッ!!!!」
ログポースもなく大太刀一本・身一つで放り出されたナマエはたまったもんではなかったが。
親切な海賊さんが通りかからなければ、40歳になる前に海上で餓死するところだった。
「やっぱりな、こりゃァ霜月の刀工が鍛った大業物じゃねぇか。……へぇ、おれの弟と同じ名前だ」
偉大なる航路で父と同じ国出身の侍に会えるとは。
ミホークに拾われた件といい、白ひげ海賊団の隊長格イゾウに拾われた件といい、毎度拾われる相手が大物すぎる自覚はナマエにはない。
本体であるモビーディック号から分かれて別行動をとっていたらしいイゾウとその部下たち。遭難民としてどうにか島まで送ってもらい、ログポースまでカンパしてもらえた。海賊とはなんだろう。
「ついでにコイツもやるよ。お前さん年頃だろう。紅の一つでも差しゃァ別嬪さんの仲間入りだ」
貝合わせの高級なものだった。
山野をかけ海の上で潮風を浴び美容の美の字も知らずに育ったナマエが、初めて手にした化粧品。何年経っても時々取り出して眺めている。美への目覚めであり、性自認に一役買った思い出の品だ。
侍の血に目覚め、剣士の道を志し、立派な一匹の獣として師に認められた自負がある。ゆえに、40歳でミホークと殺し合う未来をナマエは心待ちにしているし、結果がどうあれ自分の寿命はそこで尽きるのだと納得している。
残り22年の命。もちろん剣の修行に明け暮れることも大事だが、たった一度の限られた人生をそれだけで終わらせて良いものか。
荒くれ者を伸した報酬で久しぶりに取った宿。鏡に映る田舎者丸出しの芋女に紅を差す。唇が赤く染まっただけの違いでときめく胸は、無視できなかった。
刀を向け合う試合も好きだが、女として着飾ることも同じくらい好き。
奇しくも両親の趣味趣向を併せ持った性質に成長した自覚は、やはり本人にはない。ただ本能が求めるままに好きなものを求め続けた結果、完成品に限りなく近付いていく。
ザンバラだった髪は顎下まで伸ばして艶やかに。日焼け気味だった肌を休め、化粧水や美容クリームでしっかりと労わってやる。男物のシャツとジーンズをやめ、町に滞在する間は体のラインが出るタイトなワンピースドレスを愛用するようになった。
泣き虫だった影響か、もともとの濡れたような瞳を化粧で際立たせると、芳醇に匂い立つ魅惑のワインレッドに様変わり。同系統の口紅を差して店で黄昏ていると、何も知らない男に話しかけられる機会が増えた。
ナマエの父はワノ国出身の侍だ。ワノ国の女は男を立て男に仕え男の三歩後ろを歩く。母はそういう女ではなかったが、父はナマエにそういう女になるように躾けているフシがあった。
逆に、母は我が強く愛嬌でワガママを聞かせる天才であった。とろんと濡れた瞳でジッと男を見つめればたいていは何とかなると豪語するようなメス豹である。父もそうやって丸め込んだことは想像に難くない。特に父が亡くなってからはナマエに女としての生き方を仕込もうと積極的だった。
さらに、父母亡き後に引き取ってくれた師匠のミホークは、剣のこと以外になるとかなりの無口。もしくは合理主義の塊と言えばいいか。無駄口は叩かず行動で示せ、察して動け、そのくせ言いたいことやしてほしいことがあるなら口で言えと、矛盾している謎の生き物であった。
その三人の親に育てられたナマエ。気遣い屋で、甘え上手で、人の機微に敏感な女になっていた。
美人で、スタイルが良くて、優しくて、勝気で、察しが良くて、隙があって、可愛らしく、適度にドライ。これに数年の経験を重ねると話術やセンスに磨きがかかり、床上手まで加算される。なんだその夢のワガママ盛りはと言わんばかりだがそうとしか言いようがない。なんか才能があった。
とろんと濡れた瞳に、愛を乞うような薄い唇。アルコールで湿らせた赤い舌がちろちろと覗き、谷間の上を走る傷すら一種の興奮材料になる。
「私の相手をしてくれるの? お優しいのねミスター。素敵な夜になりそうだわ」
誰が見てもイイ女の出来上がり。
「貴様、男漁りのために方々をほっつき歩いているのか。父親が草葉の陰で泣いているぞ」
「師よ。放置していた人間が何を言うか」
もちろん剣の修行の片手間の趣味であったが。
5年ぶりに再会したミホークが嫌悪を露わにするほど、ナマエは女に磨きがかかっていた。逆説的に言い換えれば、趣味に熱を上げる時間があるほど、強者たる剣士に遭遇する機会にとんと恵まれなかった。
「やはり連れて行ってはくれないか」
「今度こそ殺すぞ」
「頼む。師と一緒の方が修行になるんだ」
「断る」
「ケチ」
小さな無人島を半日で更地にした二人は、そんな会話をしてまた別れた。
ナマエとミホークが別れて旅するようになった14年間で、二人が剣を交えたのは十回に満たない。偉大なる航路の気分次第で引かれ合ってまた別れる二人だが、ナマエが40歳になるリミットまで続く関係を疑ってはいなかった。
***
偉大なる航路前半の島。砂漠の国アラバスタに初めて上陸したのは28歳の頃。
レインディナーズの街を堪能し、ホテルに戻る前にカジノに立ち寄った。直近で臨時収入があったため、遊ぶばかりのポーカーやルーレットを堪能し、バーで一杯カクテルを飲んで終わりにしようとしていた。
そこで声をかけてくる男がいた。
「ほほう、今日入国されたばかりなのですね。では、夜の砂漠も初めてで?」
「そうね。噂には聞いていたけれど、とっても寒いのでしょう?」
「ええ、ええ、昼の情熱など影も形もない。砂漠でも凍えることはあるのですよ。特に今日はひどく肌寂しい」
つまり、寒い夜の毛布になれと言っているのだ。
間接照明すらゴテゴテ跳ね返す金の装飾。金は持っていても品は持ってらっしゃらないみたい。グラスについたルージュをしなやかな指で拭き取る。その直後、勝手に手を捕まれて、ルージュを拭ったばかりの指先にそっと口づけられた。
品は金では買えない。いい例だ。
サッと抜き取った手をこれ見よがしにおしぼりで拭う。そのままチップ多めで立ち去ろうとしたところ、案の定相手はついてきた。ここまで来るとさすがに気持ちが悪い。
どうやって巻こうかと思案していると、追いすがって来る気配が急に立ち止まった。
「お客様、なにかお困りでしょうか」
葉巻の香り。渇いた砂のさざめき。逞しく均整の取れた体にオーダーメイドで誂えたフォーマルウェア。砂漠の夜に似合いの毛皮を肩にかけた偉丈夫が、鈍く光るフックを持ち上げた。この金色は悪趣味ではないな。妙に見入ってしまった。
「さ、サー・クロコダイル!」王下七武海。ミホークと同じ地位にいる海賊を見るのは、これが初めてだった。そういえばこの街でカジノを牛耳っているのだったか。遅れて納得していると、可哀そうなほど縮こまっていた男がグリンとナマエに顔を向け、
「き、傷のある女などこちらから願い下げだ!」
などと泡を飛ばして言うものだから、思わず鼻で笑ってしまった。
「傷ごと女を愛す甲斐性もないのね。寒いのは砂漠の夜だけじゃなかったみたい」
浅黒く憤慨する男が何かを喚く直前、「クッ、ハハハハハ!」フロアに響き渡るほどの笑い声がクロコダイルから上がった。
「女から奪うばかりじゃ嫌われて当然だなァ。男なら与える側に立ってこそだろうに」
「あら、女だって素敵な殿方には与えたくなるものよ。持ちつ持たれつ、与えあってこその男と女ではなくて?」
「言うじゃねェか。気に入ったぜレディ」
「光栄ね、サー」
ナマエはクロコダイルの左側に立っていた。必然、引き寄せられるなら左腕に装着しているフックでだろうと身構えていた。しかし、クロコダイルは面倒を厭わずにわざわざ半身を翻し、暖かい肉の右手でそっと腰を抱いてくれた。それでいて無遠慮にコートの内側に引き寄せず、あくまで添えてエスコートするための手つきである。
これがきゅんとせずにいられるかという話。
「初めてのアラバスタの夜を無粋なまま終わらせたくねェ。良ければこちらで飲み直さないか」
「嬉しいわ。英雄のお話が聞けるなんて」
「よしてくれ。あれも所詮は七武海の仕事でしかない。今はヒーローだなんだと騒がれるより、……お前の声を聴いていたい」
最後だけ声を狭めて、じっくり聞かせるバリトンボイス。体の芯に熱が灯った。
今まで生きてきて一番の、掛け値なしに極上のイイ男だ。
もともと潤んでいる瞳に熱を浮かべ、見上げた先の瞳は金。この色も悪趣味ではない。獲物を見定めた肉食獣のように、狩りの冷徹さを十分に残している。酔いながら醒める男は久しぶりだった。
その日の夜はホテルに戻ることはなく、翌朝目覚めたナマエがシャワーから出て身支度をしていると、クロコダイルが跪いてベージュ色のピンヒールを履かせてくれた。
情熱的に抱かれた夜よりも、強烈に焼き付いた光景。
それからナマエはここぞという勝負の日にそのヒールを履くことにしている。
***
その日のヒールは砂漠のようなベージュ色だった。
「無理言ってごめんなさい、イゾウさん」
「構わねぇが、本当にいいのか? おっ始まったらお前、海賊の仲間になっちまうぜ」
「もともと海賊の仲間みたいなものなの。顔は最低限隠すわ」
コーティングされて海底を進むモビーディック号の片隅。イゾウの横に立つ黒マントの正体を、白ひげ海賊団の船長と隊長たちしか知らない。イゾウの目を信じ、ちょっとした戦力として乗せることをオヤジが許した。それだけで息子たちは良しとしたのだ。
白ひげ海賊団対海軍。時代が変わる大戦。たくさんの死傷者を出しながら前へ前へと躍進する海賊たち。迎え撃つ最高戦力は海軍三大将と王下七武海。一進一退の攻防と裏切り、脱獄囚たちの乱入。悲喜こもごもの繰り返しの末、包囲壁によって湾内に閉じ込められた海賊たちは、降り注ぐ赤犬のマグマと消える氷の足場に苦戦していた。
集中砲火で焼かれる海賊、白ひげと苦楽を共にしたモビーの沈没。マグマによって釜茹で地獄の様相を呈した戦場に、音もなく現れた黒マントが一人。
燃えるモビーの中から現れ、沈みゆく船首の揺れる足場にしかと立つ。ヒールの甲高い音を聞いたのは、白ひげとマルコと、他に誰がいただろう。
身の丈よりも長い全長2mの大太刀。大業物“
菊啾々”。鞘から抜いた刀身は武装色の覇気が染み込み切った黒一色。それでいて当たる光の加減で亡者の涙の如き荒々しい刃文が浮かぶ。
右腕一本で持ち上げられたそれは、大きな溜めを作った数秒後、真横一文字に空気の隙間を“断った”。
「よけろォォォ!!!!」
白ひげの、マルコの声に従って頭を下げた人間は、頭上を過ぎ去った脅威を遅れて思い知った。
海賊を湾内に閉じ込めていた包囲壁が、たったひとりのたった一振りによって脆く瓦解する。豆腐のように切り落とされ海軍の上に降り注いだのだ。
「なんちゅう斬撃だ……」
「“鷹の目”かよ!」
「あんな化け物が何人もいて堪るかッ!」
「岸に上がれるぞ! 先を急げ!」
エース奪還の士気が戻ってくる。我先に走り出す彼らの後ろを悠々と見送る黒が言った。
「送ってくれてありがとうございます」
「行きの駄賃は今もらった。ついでに帰りの分も稼いで来い」
それっきり。15cmのヒールで踏み切り戦場に降り立った黒い異物。マントを翻しながら頑なに顔を隠し、襲い来る将官たちを蹴散らして進む先は、処刑台の足元。
麦わらのルフィが走る軌跡を追って辿り着いたその場所。火拳のエースの表情すら分かる位置で、目的の人物を視認した。
ナマエの目的は、初めからエース奪還ではなかった。
十字架に似た黒刀と、久しく見ていなかった金色の間に刃を通し、極めて柔らかく黒刀を押し返す。マントから伸びた細腕は女のものだ。近くにいた人間は2mの刀を振り回して包囲網を崩した人間が女である事実にどよめく。
同時に、水を差された張本人であるクロコダイルは、戦場を踏み締める見覚えのあるヒールをマジマジと観察した。何度も己の手で華奢な足に履かせてやったヒールと同じだった。
「久しいな、“鷹の目ミホーク”」
人前で師匠と呼ばないのは、三度目の遭遇から決めていた。
「ここに来てまでお前とやるのか」
「二年もお預けを食らった。そろそろ腕が鈍ってしまうぞ」
「その程度で鈍る腕ならここで斬り落としてやる」
「手厳しいな、相も変わらず」
武人同士、剣士同士の邂逅。または再会。お互いの得物は同じ黒刀。背格好も同じで、違うのは性別だけか。
“鷹の目”を抑えようと向かっていた隊長たちが急転換して別の方へと散り始める。始めから“鷹の目”の相手をさせるつもりで乗せてきたのだろう。
「手配書はあるか!?」「顔が見えない!」「白ひげの新入りか?」ざわめく海軍の隙間で、負傷したダズ・ボーネスの横に憮然と立つクロコダイル。
そこで、あえて無視したのか本当に今気が付いたのか。振り返った黒マントの下から覗くワインレッドが、ふぅわりと綻んだ。
「ご機嫌よう、サー。こんなところで会えるなんて奇遇ね」
武人の空気が、婀娜っぽい夜の女に切り替わった。
「あァ、ご機嫌ようレディ。昼中で見るのは初めてだな」
「いつも夜か朝だものね。窮屈なところにいたようだけれど、あなたの魅力を損ねるほどではなかったみたい」
顔は見えずとも、醸し出す雰囲気は極上のワインに違いない。クロコダイルの喉が渇きを覚える。それも一瞬、余裕を感じさせるために表面上の笑みを浮かべた。
「クハハ! 嬉しいことを言ってくれる。丁重に相手してやりてェところだが、ここじゃ女を口説くにゃ騒がしすぎるな」
「また相手してくれるの?」
「もちろんだとも」
「素敵。早く終わらせてデートしたいところだけれど、──ごめんなさい」
振りかぶった黒刀が黒刀とぶつかり合う。衝撃がクロコダイルのコートを巻き上げ、辺りの一般兵から悲鳴が上がった。
クロコダイルが女を抱いた時、胸元の傷を舐め上げてやると、それはそれは甲高い声をあげて悦んだものだ。誰につけられた傷かとあえて踏み込めば、イイ女は含みたっぷりにとろけて見せた。
『内緒』だと。
「最高の時間は、長く楽しみたいの」
お前の傷は、“鷹の目”のせいか。
ベッドの中で泣き啜る情欲。遜色なく同じものを浮かべて飛び上がった女。お気に入りの遊び相手でしかなかった存在に、戦場を忘れて歯軋りした。
一方、ナマエの世界には既にミホークしかいなかった。
嘆きを吸い込む夜か、夜に咲き誇る菊か。
刃を交えるごとに衝撃波が伝播し、マリンフォードの面積をいたずらに削っていく。鍔迫り合いが拮抗した一瞬、ナマエは足を振り上げ、武装色を纏ったヒールで追撃した。一秒なぞ遥か彼方に置き去りにした一蹴は一本の刀と遜色なく、足の二本は刀二本と同義である。
大太刀一本とヒール二本。合わせて三刀流。
成長期をとっくに過ぎた女の体は180pで背が止まった。もともと2mの大太刀を引きずらないために履き始めた15pのピンヒールであったが、突き詰めると女の膂力不足を補うナマエだけの武器になっていた。
「お前の父親は刀を足蹴になぞしなかった」
「生憎と、剣の師匠は別にいる」
受け損ねた大太刀の斬撃がミホークの目の下をかする。つぅーっと流れた血の一筋は、何年振りの歓喜であったか。
「……小娘が鬼神を超えるとは、こういうことか」
────ああ、悔しいなァ。
私はこんなに、あなたしか見ていないのに。
あなたは私の父しか見ていない。
「剣先がブレたぞ。何を惑う」
「無粋な男がいたんだ。次は首を獲る」
「よくぞほざいた」
潤んだ瞳はすぐに乾く。瞬きをする暇なんてない。
この時、この全てに、ただ感謝を。
ナマエ30歳、ミホーク41歳。
何度目かの楽しい殺し合いは、白ひげ死亡とエース処刑の両名の命によって強制的に幕を下ろした。
***
海軍が歴史の勝者として君臨した頂上戦争。
終結後、海は荒れた。海賊の抑止力たる白ひげが死に、縮こまっていた玉無しどもが大きな顔をするようになった。
今までは大太刀を抱えているだけの無害な女旅人を装っていたナマエも、こうなってしまえば他人事ではない。
世にのさばる無法者と調子付く海軍の軍靴に耐えきれなくなり、半年後。なんとか突き止めたクライガナ島シッケアール王国跡地にて12年ぶりに師匠との共同生活を送った。というかミホークと定住する経験はこれが初めてだ。
「…………」
「…………」
「や、やだァ〜〜〜〜!! なんつー気まずい飯食ってるんだよコイツら!! もっと賑やかにできねぇのかっ!!」
「その肉要らねえならもらうぞ」
「私のローストビーフに触るなロロノア!!」
予想外のオマケが二人いた。
王下七武海ゲッコー・モリアの部下と、かの麦わら海賊団の剣士。「お前以外に育てるハメになるとはな」とクツクツ笑っていたところを見るに、どうやら本気で気に入っているらしい。
頂上戦争で白ひげ側についたのはあくまでミホークと対戦するための修行の一貫だったので、麦わらの印象はほとんどない。海賊の事情はとんと疎い女の存在を、ミホークが海軍側に伝えていないのはそういうことだ。
立場などというふざけた枷は、この師弟には邪魔だった。
横着して伸ばしっぱなしの前髪をかきあげた長い黒髪の女。真っ青なマーメイドドレスと黒いピンヒールで古城を歩き回る様は完全に鷹の目の愛人にしか見えず、若者二人は妙に居心地が悪い。弟子だと紹介されてもかなり疑わしかった。形よく盛り上がった胸の上に走る一文字の傷を除けば、女はただのイイ女に見えたから。
無言で咀嚼する鷹の目のグラスにワインを注ぎ、空になった皿を下げ、ツマミのナッツを出し、終わればキッチンに片づける。この後は着替えのバスローブを届けに行くのだろう。言葉なく繰り広げられるツーカーにドン引いていたともいえる。
結局、ナマエは半年で師匠の元を去った。お互い我慢できずに一戦交えてしまい、無人の国土を三分の一ほど削ってしまったから。
「これ以上やると城まで壊す」
「加減が効かんな」
それが別れの挨拶である。
目ん玉むいて見稽古に集中していた剣士が何かを喚き、ゴースト娘が泡噴いて気絶していた大事件だった。
それから一年、海の喧騒から離れるために身を寄せたのは海上エンターテインメントシティ“グラン・テゾーロ”。海賊も海軍も政府も関係ない完全中立国家。
カジノもショーもホテルもアミューズメントパークも何でもござれ。横着していた美容のツケはこの一年の高級サロン通いでお釣りが来た。
儲けようと欲をかかずオーナーの機嫌を損ねなければ居心地の良いバカンス地なのである。
「もうすぐ一年になるのね」
「君ほどこのカジノを堪能した人間はいないだろうさ」
機嫌を取りすぎた。
全面ガラス張りのジャグジーは眼下の黄金街をすべて見渡せる。ブルーの間接照明がなくとも眠らない街の黄金が十分な光となって二人を照らしていた。
全ての指に黄金が嵌まっている右手。抱き寄せられ、素肌と素肌の間の泡が逃げ出した。ぴっとりとくっつく体温はお湯とは違う心地よさを感じる。気怠い体も相まってうとうとしていると、左手がゆっくりと胸の傷を撫でた。
薄く引き攣れた古傷は他の皮膚より敏感だ。たまらずうわずった声を上げると、テゾーロはナマエのコメカミに唇を落とした。
「おれの国にいれば、二度とこんな傷は作らせない」
まどろんでいた目が急激に冷える。
「一生、この黄金に守られていればいい」
これは、何か勘違いされているな。
ナマエがとろりと笑ったのは一瞬だけ。肩に回っていた手を外し、テゾーロの膝に乗り上げ向かい合う。逞しい筋肉にむき出しの乳房を押し付け、左手は焼き印でザラつく背に回し、余った右手で見せつけるように傷跡をねっとり撫でた。
「この傷は、私に生きる道を示してくれた。私の心なの」
ビクリ。怯えるように震えた巨体は、やはり心に決めた誰かがいる。欠けた左薬指の黄金こそ、その誰かへ捧げた心だ。
男と女は持ちつ持たれつ。
与えあってこその男と女。
「私の心は黄金では満たされないわ」
他人へのプレゼントを与えられるほど、落ちぶれてはいない。
優しい拒絶を突き付けてしまった瞬間、もうここにはいられないと確信した。実際、翌日にはバカラの運転で丁重に見送りされ、一年のグラン・テゾーロ暮らしは幕を下ろした。
「イイ男だったのにな」
あの金色は、最後まで落ち着かなかったっけ。
ゴールドに輝くピンヒールはすぐに海に捨てた。
それからあてどなく武者修行の毎日が戻って来るかに思えたが、世界は怒涛の急転直下で海賊の時代を加速させた。
“新世界の怪物”ギルド・テゾーロの逮捕。
世界会議による七武海制度の撤廃決定。
四皇ビッグ・マムとカイドウの敗北。
新たに四皇入りを果たした麦わらと千両道化。
……不死鳥のマルコからもたらされたイゾウの訃報。
一つ、不可解だったものが腑に落ちた。
「何故顔を隠さん。二年前のように適当に変装していれば手配書など出なかっただろう」
心なしかムッとしたミホークの隣で、ナマエは持参したワインのコルクを開けた。
きゅぽんッ。可愛らしい音の後に漂う芳醇な葡萄の香り。とろりと揺れるワインレッドの瞳から漂ってきたのかと、見る者が見れば誤解しかねない。そんな表情を浮かべていた。
ナマエがカライバリ島に到着した翌日。ニュース・クーの朝刊に挟まっていた真新しい手配書は、どこからどう見てもイイ女だった。腰までの黒髪にワインレッドの瞳、胸元の傷、背中の大太刀、服装からしてここに来る直前に撮られたことが分かる。
「師の弟子なのだから、私も海賊のようなものだろう」
「今まで14年大人しく遊んでいた女が無為に暴れたのか。ウサギを狩る獅子が本気を出すほど見苦しいことはない」
ミホークは、弱いものイジメが嫌いだ。ナマエも同じなので、師が本気で不快に思っていることを察した。
「……イゾウへの義理立てをやめた」
「白ひげの伝手か。あの男とお前に何の関係がある」
「私を女にしてくれた」
「ぐぇぇぇッ!!」汚い悲鳴が上がり、目を向ければ生首の道化が金色のフックで大変なことになっている。
そういえばこの場にはバギーの暴挙に青筋を浮かべまくっている男たちをなだめるために来たのだった。クロコダイルへの灰皿とミホークへのワインを渡し、そして小脇に抱えた新聞を読もうとしたところ、ミホークに奪われたのだった。
「節操無しめ。白ひげの隊長にまで手を出したのか」
「師が身一つで放り出したせいで遭難しかけた私を拾った命の恩人だ。寝るわけがない」
「いい加減冗長に話すのをやめろ。端的に言え。何故、恩人への義理立てをやめ、賞金首になったのか」
「…………それは、」
何故だったのか、腑に落ちたのはつい最近だ。
イゾウには生き別れの弟がいた。菊という男は線が細く女顔負けの美貌で、ナマエにどことなく雰囲気が似ているのだと。懐かしそうに、切なそうに、18歳の小娘に言って聞かせたその顔に、ナマエは亡き父を見た。
お互いが、もう会えない家族を重ねて見ていた。
ナマエが賞金首にならなかったのは、イゾウの弟への郷愁を汚したくなかったから。弟のイメージに犯罪者の自分を被せたくなかったからなのだろう。それが父への親孝行になるなどと、頭のどこかがバグっていたとしか思えない。
マルコの手紙では、イゾウは死ぬ前に弟と再会できたと記してあった。実の弟が、彼を丁寧に埋葬して供養していくと。その文字を読み切った瞬間に、肩の荷がごっそりと減った。
もしイゾウが生きていたなら、8年後に“鷹の目”に殺されるナマエを悲しんだだろうから。
「親孝行、だな」
「説明も碌にできなくなったか。憐れな」
「とにかく、七武海が撤廃されたのだから煩雑なしがらみもなくなる。心置きなく同行しても構わないだろう?」
「この手配書を見て言っているのか?」
ピラッと改めて広げられたソレは。
『DEAD OR ALIVE
鷹討ち ナマエ
3億4000万ベリー』
初頭金額にしてはなかなかのものだ。頂上戦争から逃げ延びた海賊を決して許さない海軍の本気度がうかがえる。
「お前に討たれた覚えはない」
「由来は海軍に聞いてくれ」
「聞かずともおおかたの察しはつく。ふざけた真似を……」
あの戦争でナマエは“鷹の目”だけを狙って走った。海軍からすれば“鷹の目”に恨みがある人間に見えたのだろう。ゆえに“鷹討ち”。安直だが分かりやすい。
おかげでクロスギルドに合流する道中は快適だった。ナマエが“鷹の目”と潰し合うなり負傷させるなりすれば“鷹の目”の捕縛が楽になるからと、アッサリここまで素通りさせてくれたのだ。このままクロスギルドの一員としてナマエが働けば、あの将校たちはどんな顔をしてくれるだろう。
「ふふふ」弟子の時は緩まない口元が、女のように嫋やかに震えた。
「ジュラキュール・ミホークの首は私が貰い受ける。“鷹討ち”は願掛けにちょうどいい」
今はただの大口でしかないけれど。
死んでも鷹を討ち落とす覚悟が、未だかつてなく身体中に満ち満ちていた。愉快で愉快で仕方ない。
終始鋭い目つきで睨みつけていたミホークは、弟子の雰囲気が変わったことをつぶさに観察していた。
刀を持ち自身と相対する修羅となる女。泣き虫の小娘から一匹の獣へと姿を変え、ついには己の首へと刃をかける存在。その奥底に眠っていたつまらない諦めを“鷹の目”は見透かしていた。
どうせ自分には勝てっこない、などという弱音を吐きながら刀の神域に踏み込むこの女は、あと少しで神になる。
ミホークは薄く開いた口を、新月のようにゆっくり持ち上げた。この感慨を、人は親心と呼ぶのか。
「せいぜい励むことだな……ナマエ」
それは、初対面の開口一番で呼びかけられて以来、22年ぶりに師の口から聞いた名前だった。
────ああ、嬉しいなあ。
父でなく、私を見てくれたみたいで。
嬉しくって、なんだか余計に笑いが止まらなくて、心が暖かかった。
『良かったな、名前』
どこからか、懐かしい声が聞こえた。
***
などという師弟の心温まる話は、他人にとってはどうでもいい。腹が立つほどどうでもいい茶番劇。
「ハァイ、サー。今夜はご機嫌ナナメかしら。怒った顔も素敵ね」
「良く回る舌だ。また噛んでやったら静かになるか?」
「……今朝はごめんなさい。聞きたくもない話を、延々と聞かせてしまったわね」
形の良い眉を下げ、今にも泣きだしそうなほどに瞳を潤ませる。物憂げなイイ女の仕草に、今日ほど腹立たしいと思ったことはない。
サーカステント群の内で一番上等な内装の一棟。巨体に見合った最低限の趣味趣向に即した家具一式。寝酒を飲むための小さな応接セットに、ナマエが持参したボトルとグラスが並ぶ。
呼び出したのはクロコダイルだが、素直に呼び出されてくれるとは期待していなかった。
「私は、40歳になったら死ぬと思って生きてきた」
女の個人的な話を聞くのはこれが初めてだった。
アラバスタの夜を何度となく過ごした二年間。クロコダイルがインペルダウンに収監されてからも、あのイイ女はイイ男の腕の中で微笑んでいるのだろう。そこに嫉妬はなく、当然の帰結として受け流していた。イイ女だが、海賊としての野望にかすりもしないただの女だ。
それが覆ったのが頂上戦争での再会。海軍本部をめちゃくちゃに切り刻んだ二匹の獣。
柔らかさを味わいつくしたあの唇が好戦的に慄いていた。
耳に馴染まない硬い口調が戦場を飾り立てた。
持ち上げた肉付きの良い足腰が何度“鷹の目”の刃を受け止めたか。
そのフードの下の瞳は、どんな熱を帯びている。
知り尽くしていると思っていた女の知らない表情がすべて別の男に向けられている。この屈辱をなんと呼べばいいのか。
「死ぬと分かったら、今を楽しむことを覚えたわ。剣を極めるのも、女を磨くのも、なんでも楽しいの」
「享楽がお前の生き方か。嫌いじゃねェ」
「でも、今は楽しくない」
こくりとワインを飲み干して、グラスを置いた女が立ち上がる。
座るクロコダイルと女では向こうの方が目線が上になる。見下ろされている程度で疼くプライドなんぞなかったはずだが、この現状では額に青筋が浮かんだ。
「あなたが怒っていると、ぜーんぜん楽しくないの」
「お前の都合でおれの機嫌を支配できると? 本気で言ってるならずいぶんな思い上がりだ」
「思い上がらせたのはあなたよ、サー」
しなやかな指が無遠慮に伸ばされ、葉巻を灰皿に避難させたと思えば、クロコダイルの顔を丁寧に撫でさする。今まで一度だってして来なかったスキンシップだ。
「“鷹の目”と私が話している時のあなた、おっかない目をしてた。この金色が冷たいばかりじゃなくてぐつぐつ煮え立っていて、私、とってもドキドキしたの。──あなたってばどんな時でもイイ男なんだから」
唇を這う親指を口内に招き入れる。血が出るほど噛んでやろうかと悪心が囁いた。クロコダイルは悪人なので、つまり本心すべてだ。
その機微すら楽しむ女は、本当に享楽的な生き方をしている。わざとクロコダイルの犬歯が噛みやすいように指をスライドさせた。
指に食いついている間は、逃げられないだろうと言わんばかりに。
クロコダイルの膝に乗り上げて、上から黒髪のヴェールを垂れ下げながら、
「私を見て、あなたの言葉を聞かせて。それだけでいいの」
そう、懇願した。
こんなにも、クロコダイルの神経を逆撫でする女はいない。領分を弁えたイイ女らしくない、子供のような独占欲を剥き出しにした、こんな女なんか。
怒りがどっかに逃げ出した。きっと海の底だ。クロコダイルでは取り出せないほど深く潜って、二度と浮上してこないだろう。
「おれを見ろ。名前を、呼んでくれ」
口の中から親指が抜き取られる。
それから太い首いっぱいに細長い両腕が巻き付いて、形の良いクロコダイルの耳に女の吐息がかかった。
「私の名前、ナマエじゃなくて本当は名前って言うのよ。クロコダイル」
──この世で知っているのは、クロコダイルだけ。
「……名前」砂漠の蜃気楼を追いかけるような、実態を持たない曖昧模糊な音。この先数え切れないほど口にするだろう名を、舌に含めて外気に触れるたび、名前の腕の力が強くなる。この細腕で2mの刀を振り回しているだけある。およそ窒息しそうなほど首を絞められても、クロコダイルは甘んじて受け入れた。
「名前、お前、いつもの靴はどうした」
「…………靴?」
「とぼけるな。いつも、同じ色のヒールを履いていたはずだ……」
砂漠によく似た優しい色のピンヒール。
ナマエがクロコダイルに会いに来る時、いつも砂漠の上を歩くように履きこなしていた。
それをここに来てから見ていない。昨日は赤で、今日は黒だった。
抱きついていた細腕が緩まる。身を離してクロコダイルと見つめ合ったワインレッドは、落ち着きなく揺れていた。
「…………意識しているみたいで、恥ずかしかったの」
「なにを?」
「ぁッ、なた、を。……クロコダイルが、履かせてくれたヒールだから。大切な日は、いつも履いていたの」
その瞬間、マリンフォードの戦場を駆けるピンヒールが、クロコダイルの脳裏に鮮明に浮かび上がった。
「クッ、ククッ……」
あの時の渇きも、苛立ちも、“鷹の目”を理由に袖にされた屈辱も、何もかも。全てが裏っ側にひっくり返ってこのザマだ。
「クハハハハハハッ!!」
今まで見たことがないほど顔を赤らめて、いっそ泣いてしまった方が良いくらいにブスくれる名前。笑いが治らないまま、右手で優しく背中をさすって宥めても、名前の憂い顔が消えることはなく……。
「いっそ舌でも噛んでやろうかしら」
などと可愛らしいおねだりをしたので、クロコダイルは乱暴に左腕のフックで名前の首を引き寄せた。
とろけたワインレッドの瞳を覗き込みながら、ワインの残り香と柔らかな舌を堪能する。弱々しく抗議していた名前は、最後は自らねだるようにクロコダイルの頭を両手で挟み込む。
男と女、与えて与えられる関係。
まさしく二人は、そういう形にまあるく収まったのだ。
・
・
・
「お前、“鷹討ち”じゃなく“鰐討ち”するのか?」
「海軍に打診してみては?」
「ならば今日の打ち込みは中止するか」
「師よ、私は“鷹討ち”です」
「ならば今から討ってみせよ」
口調だけ硬く、中身はゆるく。
ベッドの中で見せるような、とろけたツラして“鷹の目”の後ろをついていく女は、クロコダイルの不機嫌などきっとお見通しで。今夜も機嫌を取りに侍ってくるのだろう。
「サー、一口くださる?」
「、あァ。ご自由にどうぞ、レディ」
いつの間に引き返してきたのか、クロコダイルの口から葉巻を抜き取ると、慣れた様子で軽くひと吸い。味なんぞ分からないくせに、満足した顔で再びクロコダイルの口に葉巻を戻した。
「ありがとう。……あら、私の口紅が移ってしまったわね? ごめんなさい」
きっと絶対にわざとだろうに。
「イイ男は口紅も似合うのね。素敵よ、サー」
意味ありげにクロコダイルの唇をそっと伸ばして、すぐに“鷹の目”の背を追いかけていった。
残された側が葉巻を吸うたびにどんな衝動に駆られるのか、知り尽くした上での犯行。忘れたくても忘れられない唇の味が葉巻の味に覆いかぶさる。せっかくの葉巻が台無しだ。
「………………クハッ」
これだからイイ女は!
一回くらいサーの夢書いてみたいよって話でした。
お名前は教えてもらえたけれど、自分だけ知っていたいので人前ではレディ呼びを継続するクロコダイル。ならばと自分もサー呼びをするオリ主。めんどくさいなコイツらと思ってる師匠。
デフォルト名の話になるんですけど、主人公の本名は「長子」です。父親が「お長」と呼んでいたのをミホークが「オナガ→ヨナガ→ヨナ?」とうろ覚えで呼び始め、「ヨナ」と名乗るようになりました。
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