浮かれ猫 世にはばかる



週末になると花を持ったロブ・ルッチがブルーステーションのホームに立っている。ウォーターセブンの住民にとってはお馴染みの光景だった。

海列車の到着予定時刻など頭に入っているだろうに。ふと線路の向こうを眺めたかと思えば手の内の花をジッと見つめ、この種類で良かったのだろうかとでも言わんばかりにハットリに向ける。くちばしに花粉を付けられたハットリがわずらわしそうに羽を広げ、相棒にあしらわれたルッチはしょんもりと元の体勢に戻った。

一人のルッチは腹話術をしないのでただの無口な偉丈夫だ。今だって直立不動で水平線に視線を固定している。そのくせ周りに流れる空気がそわそわと落ち着かない。静かなんだかうるさいんだか。

時計を確認した駅員がいつもより大きめの声でアナウンスを流した。


「10時ちょうど着、セント・ポプラ発の海列車が間もなく到着します」


ルッチの恋人を乗せた車両が飛沫を上げてウォーターセブンに停車した。



「ルッチ!」


のんびりと下車する人波をじれったく待つことしばらく。集団を抜けて軽やかに走り寄って来た女が、勢いを殺しきれずにルッチの胸にダイブした。

右手に持った花を潰さないよう左腕だけで抱き止めたルッチ。ハットリは一瞬宙に飛んでからシルクハットの上に止まる。鍛え抜かれた船大工の上半身に支えられ、女はクスクスと子供みたいに肩を揺らした。


「ごめんなさい、あなたを見たら嬉しくなっちゃって。ハットリも驚かせちゃったね。大丈夫?」
《クルッポー》
「良かったぁ」


ルッチに抱き着いたまま交わされるやりとり。生ぬるい視線を向けていた駅員が気をきかせて仕事にはけていく。抱き着かれている側といえば、いつものムッスリとした表情のまま。彼女の背中に左手を添えた状態で固まっていた。


「そのお花、」


ハットリに向いていた目が右手の花に注がれる。


「今日の私のスカートと同じ色ね? すごい偶然。今日の私たちって息ピッタリなのかも」


「あ、もちろんルッチとは気が合う恋人同士のつもりだけれど……!」と。ほんの少し早口で言い切って頬を赤らめる彼女。久しぶりに浴びた恋人の可愛らしさにルッチの膠着時間は延長された。

この男、恋人に対して免疫力がアホほど下がる。








ルッチとナマエが初めて出会ったのはセント・ポプラの噴水が美しい広場でのこと。

ルッチは船に使う木材の仕入れのためにセント・ポプラまで足を伸ばしていた。普段なら仕入れや交渉役の人間がやる仕事ではあったが、今まで手に入っていた木が流通しにくくなったとのことで、代わりとなる別の木を検分しようと職長代表として赴いたのだ。

商談が終わり、海列車に乗ってわざわざやって来たのだからと自由時間に入った直後。噴水の向こう一点を見つめてルッチが動きを止めた。

同じく代表として来ていたパウリーが訝し気に声をかけたところで、肩に止まっていたハットリがひと鳴き。ゆっくりと飛び立ち、再び足を付けたのは一人の女性の膝だった。

「ハレンチ!」叫ぶパウリーを置いて急に時間を取り戻したルッチがズンズンと突き進む。慌てて追いかけたパウリーが見たものは、仁王立ちで女性をジロジロ見下ろす同僚の姿だった。


《クルッポー。こんにちはお嬢さん》
「は、ハトがしゃべった……」
「あーー……このハト野郎は腹話術でしか喋らねぇんだ。怖がらせて悪ぃな嬢ちゃん」
「へ、へえ」


明らかに引いている。というか怯えている態度にパウリーは頭が痛い。

折りたたみ式の椅子に座った女性は絵筆を持っており、隣に立てかけられたスケッチブックには独創的な人物画が描かれている。地面に置かれた帽子には少額の紙幣やコインが入っていた。似顔絵かきをやっているのだとすぐに察した。


《一目惚れだ。おれと付き合ってほしい》
「はぁッ!?」
「──────」


パウリーの大声が女性の言葉をかき消した。

広場中の視線が否応なしに大声に釣られる。そのせいで余計に困惑するしかない女性。ルッチの眉がピクリと震えた。

それからサッとあたりを見渡して、目についた花屋の店先にあったバラをすべて買い上げた。手早くリボンまで巻いてもらった花束を抱えて女性に目線を合わせる。

こういう時に跪くのではなく屈むだけなのがふてぶてしいルッチらしい。パウリーは変なところで納得してしまった。それ以外の現実が受け入れがたかったとも言う。

膝にハットリを乗せたまま、眼前に突きつけられたバラと真っ黒い三白眼の眼光。パウリーが助け船を出す前に、圧に押し切られた相手がコクリと頷いてしまった。


「おっ……まえ、脅迫じゃねぇか」
《クルッポー》


それから二人の間になにがあったのかパウリーは知らない。ルッチの私生活に興味がなかったとも言えるし、藪蛇でいらぬ火の粉が降りかかるのを避けたとも言える。ただルッチがあのまま男として不名誉なことをするようなら、と。アイスバーグに相談してしまい、事は職長とカリファの間でひっそり大きくなった。

ナマエが週末になると海列車に乗ってウォーターセブンまでやって来るようになったのは初対面から一月後。

ルッチがブルーステーションで恋人を待ち、次の日に同じ場所から見送るルーティンができてもう二年も経つ。









「今日はマダムにいいチーズを分けてもらったの。ワインもね、いつもより奮発したから楽しみにしててね」


ナマエはセント・ポプラのパン屋に住み込みで働きながら絵描きをしている。いつもウォーターセブンに来るときはパン屋のマダムから何かしらのお土産を持って来るのだ。


「……、………………」


ルッチは、ナマエ相手だと普段の腹話術を使わない。大きな背中を丸め、小さな丸い耳に唇を寄せてボソボソと声を吹き込む。ルッチのちゃんとした肉声を知っているのは、少なくともウォーターセブン内においてこの恋人より他はいない。


「いいの、そんなの気にしないで。海列車のチケット代はいつもルッチでしょ? これくらいしないとフェアじゃないわ」


フェアじゃない、という言い回しに若干不服そうにしたものの、渋々と頷くルッチは相変わらずの無表情。何も感じていなさそうな面で、黒い三白眼だけは熱心に恋人を見つめている。

口でしゃべらない分、目はうるさいくらいに物を言う。
ルッチを知っている人間ほど恋人への溺愛っぷりが分かるものだ。

けれど一部の熱狂的なルッチファンには腹話術をしないルッチはそっけない態度に見えるらしい。

ある時、職長たちがブルーノの酒場で安いエールをあおっていると、二人の女が近寄ってきた。どうにも一緒に飲みたいということで無遠慮にカウンターに座ってきて、なんなら腕や肩にベタベタと触ってくる。ルルやタイルストンはともかく、パウリーはもちろん『ハレンチ!』と叫んだし、カクもやんわりと手を避けていた。

そんな中、ルッチに狙いを定めた女が言い放った一言。


『恋人に放っておかれて寂しいでしょ? 私だったらずっとそばにいてあげられるのに』


──ガチャンッ!

静まり返った酒場で、テーブルに叩きつけられたジョッキからたらたらこぼれるエール。


《おれが浮気するようなクソ野郎だと?》


いつもの腹話術よりややうわずった声。
無表情の威圧感に狼狽えた女に、それでもルッチは止まらず。


《これで靡くような男を手に入れたところでまた別のヤツに浮気される。そんな野郎と付き合えて嬉しいか? 少なくともおれは御免だ。アイツを悲しませるクズにはならねぇ》


ギンッと鋭い眼光が、女にとって最初で最後の目が合った瞬間だった。

この出来事を逃げ帰った女が広めたのかは定かではないが、ルッチが恋人にゾッコンであることは周知の事実となった。同時にルッチに大っぴらに秋波を向けるウォーターセブンの人間もパッタリと止んだ。

それでも人気がなくなることはなく、むしろ『恋人に一途なルッチさん素敵』という声が増え、今度はナマエの方にちょっかいをかける女が来た。


『ルッチが私を好きなことと、あなたがルッチを好きなことは別の問題でしょう? どうして私に言いに来るの? ルッチ呼びましょうか?』

『他人の幸せが許せないのね。心が疲れているんですよ。好きなことたくさんして、よくご飯食べて、温かくして寝てください。他人の私が言えることはそれだけです。ご家族に相談してくださいね』

『あまり大きな声を出さないで。ルッチの声が聞こえないじゃない』

『だれ? 初対面の人にそんなひどいことが言えるなんて、人間関係うまく回っています?』


ナマエは日向に咲く可憐な野花のような見た目でそんなことを言い放つ。

本人悪気は一切ないきょとんとした顔で柔らかく諭すように打ち返してくるので、やましいことがある女ほど効果てきめん。煽るはずが逆に煽られ、席を外していたルッチが戻ると面白いほどに醜態を晒すので、結果的に変な女は寄ってこなくなった。

きっぱり断るルッチと婉曲で撃退するナマエ。二人並ぶととほんわり春の木漏れ日のような空気でコソコソ顔を寄せクスクス笑い合う。いつでもどこでもお互いがいれば不可侵な聖域を作り出す恋人たちを、周りは生温い目で見守るようになった。


「今日のお野菜は何がおすすめですか?」
「………………」
「だぁめ。お肉ばっかりじゃ美味しいもの作れないの」
「……!」
「あっ、くすぐったいってば!」


買い物しながらカップルのいちゃいちゃに巻き込まれるのも慣れっこだ。

夕飯の食材をあらかじめ買い、荷物を置きにルッチの家に向かった二人。普段はほぼガレーラカンパニーの仮眠室に入り浸っているからか、週末に掃除しなければすぐ埃がたまる。それを見越してデートの前に一度寄ることにしているのだ。

冷蔵庫に買ってきた食材を詰めた後、二人で手分けしてキッチンとリビングダイニング、ユニットバス、ベッドルームの掃除に取り掛かる。あまり使われていないせいか物も少なく、軽い掃き掃除で終わるところもあればベッドのシーツを洗って干さなければいけなかったり様々だ。ついでに夕食の水水肉の下ごしらえやピクルスに塩を揉みこんで冷蔵庫にセット。そうしてちょうどよくランチの時間になると、身軽になった二人はようやくデートに出かけるのだ。

ルッチの住むアパートは中央街から路地を四つ外れたところにある。そこからさらに外れた街の“ヘリ”には景色の良さが売りのレストランやホテルが並んでいる。その内、いつもいくピザとドルチェが美味しいお店でランチを取るのがデートの始まりだった。

手始めに頼んだマルゲリータを一切れかじりながら、話すことといえば各々の仕事の話。ルッチは船大工を、ナマエは絵描き志望の似顔絵かき。二人とも趣味と仕事が合致している。

といっても話すのはナマエばかりで、ルッチの話はほとんど頷くか首を振るかの二択しかない。それでもほんの僅かな表情の動きでナマエは満足する。単語だけなら唇の動きだけでも分かるので、それで事が足りてしまう。二年の付き合いはそれだけ濃密で深い。

時たまナマエの口元に付いたバジルをルッチが拭い、ルッチの空になったコップにお代わりの水を注いであげたり。二人がお互いの世話をしあいながらランチが過ぎていく。

そうして店を出れば次はショッピングだ。ウォーターセブンの市場や服飾、商店を眺めるのがナマエは好きだった。冷たさが目立つ石畳に調和しながら暖かい素材を掛け合わせた水路の街並みはインスピレーションが掻き立てられるのだとか。


『ここに住めばいいじゃねぇか。二年も付き合ってんならそろそろ身を固めちまってもいいだろ』


アイスバーグに依頼された似顔絵を届けた時のセリフだ。

ナマエの人物画は独特な誇張がありながら特徴を捉えた良い作品だが、本人に喜ばれることはほとんどないのが難点だ。

妙に首が太くヒゲの線が濃い自分の似顔絵にアイスバーグはムッとした顔をし、覗き込んだカリファや職長たちは口を揃えて『似ている』と笑った。今でもアイスバーグの似顔絵は額縁に入れられて会社のエントランスに飾られている。

『ンマー、社員が喜んでるなら……』と飾られた似顔絵を苦く見つめ、世間話をしている間に挟まれたのが結婚の話だ。

ナマエは緩く首を振った。


『セント・ポプラでやりたいことがまだあるんです。それまでは結婚なんてできません。ルッチも、結婚するより楽しいことがここにあるじゃないですか』
『そう言われちまうとおれも立つ瀬がないな』
『いいんですよ。仕事と趣味が同じなんて幸せなことです。私も早く一人前を名乗れたらなぁ』


その会話を遠くから盗み聞いていたルッチがどんな顔をしていたか。パウリーとカクのうんざり顔を見れば答えが分かるものだ。

走った方が早いから普段は使わない二人乗りのヤガラブルに乗る。恋人が密着するために使われるため、慣れたヤガラはじれったいスピードでカップルのムードを作りに貢献する。気が付けば夕暮れの時間に差し掛かっており、水路に反射する夕暮れの赤が眩しかった。

逞しい腕がナマエの肩を抱き、小さな頭がルッチの胸にコテンと寄せられる。海風の冷たさとお互いの体温を感じながら、ヤガラは人気のない水路を選んで進んでいった。

そうして帰宅した二人は交代でシャワーを浴びると、下ごしらえしていた水水肉を使って料理にとりかかる。とはいえルッチはあまり料理ができないので、皿やグラス、カトラリー、ワインの準備がメインだ。

ルッチが買ったストライプブルーのエプロンを付け、髪を一つに縛ったナマエ。スープの味付けに首を傾げると美味しそうな白いうなじが露わになった。

無言で近付いたルッチは、そっと薄い体を背後から抱きしめる。「わっ、」ビックリしているようでいつか来るだろうと身構えていたナマエ。「“待て”だよ」と口ではたしなめつつ、甘えたように後頭部をルッチに擦り付けた。やりとりに夢中で料理を焦がす失敗がこの二年でどうにか減ってきている。


「もう少し我慢したら、ご褒美あげるね」


「……期待している」家の中でもナマエにしか聞こえない声量で熱を吹きかけたルッチ。あまりの熱っぽさに、今まで少女のように無邪気で強かだったナマエも手弱女の顔になった。

楽しい食事の時間だ。丁寧に作られた恋人の手料理は美味い。いつもよりお高いワインも料理に合う。デートに付き合ってくれたハットリも満足そうに豆を啄んでいる。

楽しい時間は過ぎ去っていくもの。
けれど、これから始まるのもまた楽しい時間だ。


「ご褒美、何がいいかな。まだ悩んでいるのだけれど、ルッチはどうしたい?」


日向に咲く可憐な野花は、頼りない間接照明の前では夜の女神に姿を変える。慎ましやかに見えてそれなりに起伏のある体でベッドに腰かけ、うっとりと濡れた眼差しでルッチを見上げた。

ここで初めて、ルッチの顔に表情らしい表情が浮かぶ。

唇を吊り上げ、喉を鳴らし、瞳孔が開いた目が爛々と獲物を見定めている。ナマエが両腕を広げると、ほとんど食らいつく勢いでベッドに乗り上げてベッドに体を縫い付けた。ふわりと香るシャンプーの香り。それに混じったワインのほろ苦さや興奮した汗の匂いがなんとも淫靡だった。

厚い唇で女の華奢な鎖骨や首筋、頬をたどりながら、ルッチは最後に耳元でグルルと唸って見せた。



「さっさと喰わせろ」



「……にゃあ」いたずらな猫のひと鳴きを最後に、恋人たちの夜は更けていく。









借金取りから逃げに逃げ、住宅街にまで足を伸ばしたパウリーはたまたまルッチとナマエのカップルを見つけた。そういえば週末だったな、と思い至ったところで突風が二人を襲う。ナマエのスカートがぶわりとめくれ、髪の毛が巻き上がり、無駄に良いパウリーの目がそれを捉えた。


脹脛やうなじにくっきり残った、何かの歯形……なにかって、あの……。


「ハレンチどもがァ!!!!」借金取りに見つかったのはアイツらのせい。後にパウリーは文句を付けに行き、ルッチの腹話術で返り討ちになるまでがセット。


ウォーターセブンは今日も変わらず、極めて平和な街だった。




***




二年前のこと。


「セント・ポプラでの諜報任務、ですか」


CP9に配属され一年が経過したナマエ。着慣れた黒衣に箔を付けるためのメイクは、年齢以上に甘ったれた表情を引き締める。闇の正義の執行人というにはまだほんの少し平和ボケして見えるけれど。

呼び出したスパンダム長官がぞんざいに書類を投げてよこした。もちろんクリップ止めされていなかったそれらはバラバラに宙を舞い、投げた本人が悲鳴を上げている間に空中ですべてかき集めたが。


「既に古代兵器の設計図を求めウォーターセブンに四人潜入しているが、三年経っても尻尾を掴めねえ。アイスバーグが持っているのは間違いねぇはずだ。となりゃあ海列車で繋がっている範囲の街に隠している可能性もゼロじゃない。その保険だ」
「なるほど」
「お前ェもCP9になって一年だろ。いつまでも新人気分じゃ困る。そろそろ長期任務にも慣れてもらわねェとな」


確かに、この一年は先輩四人が抜けた穴を埋める、というよりはジャブラやクマドリ、フクロウがやるまでもない細々とした殺しばかりやってきた。そろそろ諜報員らしいことをしなければいつまでも小間使いで終わりそうだ。

スパンダムの人柄に好ましい要素は一切ないが、出世のための悪だくみに限って回る頭をナマエは信用していた。弱者なりの機転も好ましく思う。何より、ナマエがCP9に配属できたのはスパンダムの野心のおかげだ。

スパンダムとて、ナマエが心から従順に命令を聞く珍しい部下だと分かっているのだろう。任務の通達や報告で長官室を訪ねるたびにうざったいほど恩を着せてくる。


「お前はおれに恩がある。死んでも返しきれねえ大恩だ。つまり死ぬまでお前はおれのもんってことだな! 分かってンだろーなッ!?」
「えっ、セクハラ?」
「アッすいません……」


女の部下に対して扱いが分かっていない態度もなんだか憎めない。ハラスメントの冤罪に怯えるおじさんみたいで、見方によっては可愛い部類に入る。こういうところがいつまで経っても箱入り坊ちゃんなのだろうか。

突きつけた指をしおしおと降ろし、わざとらしい咳払いを二、三。


「諜報ついでにおれとルッチの伝書鳩もやれ。電伝虫だとどうしても盗聴の心配があるからな。この件はルッチには既に連絡済みだ。適当に初対面を装って接触しろ」
「かしこまりました」
「あの野郎も殺しができなくてイライラしてやがる。ついでのついでだ。同郷のよしみで慰めてやれよ!……なーんつって」
「長官……本気で笑えないセクハラやめてください」
「ホゲッ!?」


鼻水出してビビらんでも。

矯正ギプスの隙間から目ん玉を飛び出させる漫画的表現。線と色による陰影で立体的だと錯覚できるこの二次元の世界は、ナマエにとっていつまで経っても不思議な光景だった。









人を殺すのにも才能があって、向き不向きがある。

その点でいうと、ナマエは人殺しの才能はあったが、人殺しに向いていなかった。

CP9のエージェントを養成する島で孤児として放り込まれ、ある意味誰よりも健やかに成長した。周りの子供たちと切磋琢磨しながらひとつひとつ超人の技を体得していき、最終的に六式使いに至ったのは同年代では二人だけ。

けれどCP9として採用されたのは相方のカクだけだ。


ナマエは人を殺せなかった。


嵐脚で相手の足を削いでも、指銃で体に穴を空けても、どうしても致命傷を負わせることができない。失血のショックで気絶したターゲットを吐き気をこらえながら見下ろす。横から伸びてきた腕が代わりの一発を打ち込むと、今度こそ喉の奥から胃液が競り上がってきた。

何度となく大人たちに失望されてきた。せっかくの六式使いがもったいない。

孤児を拾ってきて育てるのは、血族に縛られない駒を作るため。
子供の内から育てるのは、殺人や暴力に対する忌避感を根絶やしにするため。

ナマエだって子供の頃から完璧な教育を施されてきた。──なのに、殺せない。

才能や努力では補えない、生来の欠陥。

いくら六式が使えたとしても殺しができない諜報員はCPにはいらない。だからといってCP9の内部情報を知っている子供を海軍や他の組織に配属させるわけにもいかず、廃棄処分されるのも秒読みの段階であった。

出世欲モロ出し・権力ゴリ押し・バカ丸出しの三重苦スパンダムによってエニエスロビーに引き取られるまでは。

20歳のナマエはまだ何も仕事をしていない。子供から抜けきったばかりの大人もどきでしかなく、上官に評価されるような実績も一切なかった。

なのに着任早々で突き出された悪魔の実。


『動物系クマクマの実モデル“グリズリー”だ! ありがたく食え! 食っておれに貢献しろ!』


人を殺せない暗殺者に人を殺させる方法。

スパンダムの秘策とは、動物系悪魔の実の中でもとりわけ気性が荒くなる肉食獣モデルを食わせ、殺人への躊躇いを失くさせるというものだった。

果たして、クソマズうずまきフルーツを無理やり喉に押し込んだナマエは人を殺せる暗殺者になった。

ただし、スパンダムの思惑とはだいぶズレた形で。



「人がゴミのようだ……」



前世の記憶を完全に思い出したのである。

生まれてからなんとなくあった違和感。ろくでもない環境で育ったわりに身に染みついていた柔らかい口調。人殺しは最大の禁忌であると義務教育から刷り込まれてきた倫理観。そのすべてを思い出し、視界が一気にクリアになった。

目に見えるものすべてが絵に見える。

抽象的というより誇張的。人や動物であることは分かるが、凡そ通常の生態系ではそうはならんやろと言わんばかりの人体や顔かたち、生物、自然現象その他諸々。なっとるやろがいと自分自身にツッコミを入れ、ようやく現実を受け入れた。

ここが現実の世界ではないという現実だ。


(ジャンプは高校で卒業したっけ)


指銃一発で“目がァ目がァ”するまでもなく即死したターゲット。飛び散った血は赤い絵具に見えたし、倒れる体は等身大の人形に見える。別段美形でもないのだから商品価値はかなり低いだろう。グッズ展開しても売れ残るだろうな。そんな感想しか抱けない。

自分は人を殺せない欠陥なのだと思い悩んでいたのが、蓋を開けてみれば前世の倫理観に引きずられていただけだと分かった。

今まで実写だと思っていたものは、視点を変えれば絵が動いているようなもので、人の生き死にだって物語の一部でしかなくて、法は自分たちの味方で、法の下に許された殺しになにを思うことがあるのか。

人を殺せないだけで馬鹿にしてきた弱い人たちの気持ちが少し分かった。六式を体得する何倍も呆気ないことだったから。

鉄臭い空気と死亡確認の脈取だけはまだ苦手だけれども。


「……あ、頭を入念に潰せばいいのね?」


臭いはともかく触る必要はなくなるわ。

死体の損壊も前世の基準からすればアウト。でもこの世界の法は世界政府で、罪人の死体に尊厳なんぞない。国も歴史も時代背景も生態も違うフィクションに現代日本の法律を当てはめるほうがナンセンス。

ほんわり笑みを浮かべながら追加の指銃を六発打ち込むサイコお姉さん。掃除に来たCPの構成員がドン引きしてても気にしない。孤児らしくそこらへんはちゃんと図太い。

「終わりましたので後はよろしくお願いします。汚してしまってごめんなさいね」「は、お任せください」エリート集団CP9にはない愛想の良い対応に面食らうおじさんたちを置いて、ナマエはのんびり不夜島に戻った。

長官に任務の報告をし、その後一晩の休息の後、長期任務地であるセント・ポプラを目指す。間にいくつかの島を船で経由しなければならない。乗る商船は既に当たりを付けていた。

問題は、ロブ・ルッチとどう繋がりを持つかである。


『向いてねぇよお前。甘っちょろさがツラに出てる』


8歳の頃。徒手空拳でカクに勝ち越した高揚の最中、既にCP9に内定していた13歳の天才児に罵倒された。ひどいことを言われた実感が湧かずニコニコしていた気がする。馬鹿だと思われたのか、派手に舌打ちされてそれっきり。あまりにも淡すぎる思い出だ。

ルッチが他人の容姿に言及する少年だとは思わなかった。もしかしてCP9に顔が関係あるのかと、配属されて初めての給料で強い化粧を覚えた。

ジャブラには臭いと不評、フクロウは給仕を中心に何事かを触れ回り、クマドリはまるで妹ができたみたいだと見栄を張った。

スパンダムは『もう男を作ったのか?』と下品に笑っていた。別にどうとも思わなかったけれど、前世の自分がセクハラだなぁと思ったので『セクハラです』と返しておいた。長官は顔に矯正ギプスをしているのに表情筋の伸縮自在性を教えてくれる。

まあ、イメージをころころ変えられるのは諜報員にとってはいいことだろう。

これで甘っちょろいツラなんて言われることはない、はず。


「……そもそもルッチ先輩、私のこと覚えてるかなぁ?」


覚えていたとしても十中八九嫌われている。
表面だけでも円滑に事が運べば文句はないが。

せめてカリファだったらお友達ごっこできるのに……。まったく困っていない顔で最後の贅沢バスタイムを堪能した。









それから一週間かけてセント・ポプラに辿りつき、下調べしておいたパン屋に住み込みのバイトとして雇ってもらう。店舗がある通りからやや離れた場所にある広場でランチ時だけパンの移動販売をしながら、カモフラージュの絵描きを始めた。

目の前に広がる光景を、実在する誰かの顔を可能な限り写実的に描き出す。たったそれだけで独創的でコミカルな絵画に見えるらしい。いくつも感想をもらうたびに、ナマエが見ている世界と他人が見えている世界はずいぶん違うことが分かった。

周りがおかしいのか、ナマエがおかしいのか。

もう何度も頭に浮かんだ疑問は、生きていく上でどうでもよいゴミクズだ。

セント・ポプラの淡くて優しい匂いが身に染みついてきた頃。ようやく目的の人物がやって来た。

現在のナマエはガッツリメイクを落とし、元の顔を引き立てるようなナチュラルなメイクに落ち着いている。昔の面影があれば向こうも見つけやすいだろう。

現に、ルッチ本人が近寄って来る前に相棒のハットリが膝の上にちょこんと留まってくれた。あとは絵描きらしく、ルッチかハットリの似顔絵を描かせてもらえば掴みとしては上々ではないか。

突然やってきた見知らぬハトに形だけはビックリしつつ、いくつかの会話をシミュレートしていたナマエ。徐々に濃くなっていく芳しいニオイに本心から顔を強張らせた。


《クルッポー。こんにちはお嬢さん》


────ゾワァッ!

背筋に走った悪寒。時間が経つとゆっくり熱に反転する違和。

こんなにもかすかなニオイなのに、繰り返し呼吸するごとに肺を満たして、脳の幸福中枢を無遠慮なまでに殴打してくる。

悪魔の実を食べてから以前と比べて五感は鋭くなった。けれどそれはあくまで変身している間に限定される。人型の今、こんなにもダイレクトにニオイをキャッチできたことはない。

戸惑う視線で相手を伺う。わずかな動揺をひた隠す小さな黒目。次の瞬間、抵抗など無駄と言わんばかりに瞳孔が開ききった。

まるで肉食獣の、獲物を狙うような……。


(まさか……)


どうしようもない確信が、ナマエの中で真実として浮かび上がった。

一年前、ナマエは悪魔の実を食べた。

動物系クマクマの実モデル“グリズリー”。食物連鎖の上位に食い込む文句なしの猛獣だ。

けれどいざ獣型に変身したところで聞いていたほど精神的な変化は感じない。比較的穏やかな方である自負はあるが、そこまで屈強な精神である自覚もなかった。

鏡に映る獣は茶色と金色の中間のような毛皮をしていた。お腹の方は白い。耳は丸く可愛らしいが、ゆらりと揺れる尻尾は長い。これはクマというよりはメスライオンに似ているような、けれど、まさか……。

スパンダムに報告するべきかとグルグル唸ったナマエの元に一つの知らせが入る。悪魔の実を護送していた船で厳重に保管していたはずのクマクマの実モデル“グリズリー”が発見された。誤って似た実と取り違えられてスパンダムの元に届いたのだと。

そんな手違いがあるものか?

電伝虫ごしに下品に怒鳴るスパンダムを眺めながら、心底怪訝に首を傾げたものだ。

ナマエが食べた実はネコネコの実。モデルは“ピューマ”。肉食獣であることには変わりないが、調べてみるとライオンやヒョウとは違いヤマネコやイエネコに近い大人しい種なのだとか。

その時は既に殺しの忌避感はなくなっており、動物系特有の迫撃を活かすためにジャブラと殴り合っていた。グリズリーだろうがピューマだろうが特段不都合がない。スパンダムも使えればなんだっていいというスタンスで、護送のミスをとんでもない貸しとして印象付けることに夢中だった。

今は自信を持って言える。これは仕組まれていた。

動物系悪魔の実には意思が宿る。無機物であるはずのスパンダムの剣が悪魔の実を食べたことでペットとして動き回っているのを間近で見てきた。眉唾物の噂や伝説ではなく、本当に意思が存在している。

ルッチが食べた実にも、ナマエが食べたあの実メスネコにも。



《一目惚れだ。おれと付き合ってほしい》



「そうはならんやろ……」


なっとるやろがい。




***




野生動物のオスはメスに気に入られるために必死だ。求愛行動として餌を献上したり他のオスと競って強さをアピールしたり見目の美しさを誇示したり。その中から気に入ったオスを選ぶのがメスの特権だ。より良い種を残すための当然の営みである。

……が、オスが近場にいなかった場合、メスが根性でオスを探すのも自然の摂理だろうか。

食べた悪魔の実が番を求めてさまようメスネコだった。オスネコに会えるチャンスを逃さないために他の実を蹴り落して司法の島までやって来て人間の女に食われた。そして一年ごしの念願のオスネコに出会った。

よりにもよってナマエの初長期任務の初っ端に。
頭が痛いにもほどがある。


「いっ、……!」


週末の朝。目覚めはルッチの家のベッド。真っ裸の男女がシーツの上で重なり合うように眠っている。“昨晩はお楽しみでしたね”案件のように見せかけて、そんな色っぽいことがあったかと言われれば……。

ヒント、動物系能力者の変身は意識がなくなると解ける。
それヒントちゃう。答えや。

週末の夜にすることといえばお互いに獣型に変身して猫のグルーミング。お互いがお互いの毛を舐め舐め毛づくろいしたり尻尾で遊んだり鼻や耳をはむはむしたり……。最後は猫同士ベッドの上で丸まって眠ると、下手なマッサージや性交渉よりかなりストレス発散になった。

狂暴性ではなく多幸感で人間の理性が蕩かされ、一晩眠って朝になると正気に戻る。先輩と全裸でにゃんにゃん(ガチ)プレイ。CP9の特殊な訓練を受けていなければ恐らく職務放棄していた。いっそ己の責任感が恨めしい事案だ。

完全に眠ってしまった後でも遠慮なく甘噛みしていたのだろう。人と獣の歯形が体中についている。一般人の柔肌なら血が滲んでかさぶたになっていてもおかしくない。まあ、番相手に本気になって噛みつくことはないだろうが。愛情表現の一貫の甘噛みはしないほうがストレスなので仕方ない。

人型のまま朝になっても寝ぼけて脹脛に噛みついてくるルッチ。いっそここで蹴ればさっぱり目が覚めるか、と思った途端に視線に敏感な男が不機嫌そうに起き上がった。


「朝食は食べる?」
「…………」


グッと眉間にシワを寄せたままコクリ。不機嫌そうな理由は、番と離れることへの本能的な忌避と過去に役立たずだと切り捨てた女に足枷を付けられた不本意だろう。

血も涙もない殺戮兵器の頬を優しく撫で、軽く抓ってクスクス笑う。まだ腕がくっついたままなので、これは許された行為だ。先輩呼びと敬語を封印されたナマエは、前世の記憶をなぞりながら馴れ馴れしくルッチに接した。

恋人という立場に納まったのは、ルッチのストレスがかなり危険水域まで溜まっていたからだ。

漫画の知識によると、ルッチは快楽殺人者だった。世界政府という法の名の元で許可された殺人。冷徹な法の番人と血に酔う肉食獣を両立させた、闇の正義を掲げるとんでもない敵キャラだった。そして、この世界のルッチの本質も恐らく同じ。

血を求める獣が三年も禁欲させられて平静でいられるかという話である。

ルッチは殺しをできない代替行為として仕事と性欲で発散する方向にシフトしたらしい。エージェントとして鍛え抜かれた肉体が疲労困憊になることはない。ひたすら働き、それでも有り余った体力で女を抱く。その繰り返しだったそうだ。

けれどウォーターセブンは広大とはいえ一つの島だ。一所で三年も女を食い散らかせば人間関係が面倒なことにならないわけがない。

本人としては後腐れのない女を選んだつもりで(実際にそういう相手だったのだろうが)、一時の相手にしてはルッチのスペックが極上すぎた。腹話術ハト野郎の変人っぷりを差し引いてもマイナスにならないルックスと凄腕船大工の肩書。……いや、むしろ変人だからこそ『こんな人を愛せるのは私だけ!』という優越感が増長したのかもしれない。

初めてウォーターセブンに降り立った時の鋭い視線の数々には呆れて物も言えなかった。そもそも先輩に口答えできるような立場ではなかったが。

ストレス発散相手と女除けを一発で果たせる使い勝手の良い後輩。そのためだけの恋人役である。

期せずして、ナマエはスパンダムの『慰めてやれよ』というセクハラ発言込みで命令を遂行してしまったわけだ。


「……………………」
「ベーコン焼いてるの。脂はねるよ」


ズボンだけ履いたルッチがベーコンと格闘するナマエに懐く。逞しい腕が細腰に回り、名残惜しげに首筋に鼻を擦られる。

「もう!」困ったような顔で太い腕を撫でる……フリをしながら、もともと決めてあった指の動きを皮膚に這わせる。定期連絡だ。どこからどう見ても“恋人たちの朝”という光景の中で、血生臭い情報通達がたったの10秒で済まされる。これがナマエの仕事だった。

一つ報告するごとにルッチが軽く頷く。甘えて額を擦り付けているようにしか見えない。


「んっ」


仕事中に甘噛みしないでほしい。

人差し指の動きがブレる。首の痺れが無視できなくて困った。動物系悪魔の実の弊害が、人型に戻っても感じるところが獣っぽくなるなんて。世の能力者は大変だ。


「こーら」


いよいよ変な気分になってきたところでルッチの額に向けてデコピンをお見舞いした。


「ベーコン焦げちゃうでしょう?」


不服そうな吐息が肌の上を滑った。大人しく腰に抱きついたルッチは、ナマエの肩口からベーコンの行く末を見守ることにしたらしい。卵を片手で続けて3個割りながら、背中の体温の温さにひっそり力を抜いた。

あのロブ・ルッチに攻撃して生きている。人生分からない。









「ハレンチどもがァ!!!!」
《お前がな、クルッポー!》


人の視線には気付けても突然の風にはあまり気を配れなかった。

足を絡めとるようなフレアスカート。巻き上がった瞬間に、今朝できたばかりの歯形が見えたな、と。


《何を見たのか知らんが今忘れるか目玉突かれるか選べ》
「不可抗力だわふざけるな!! 早くそのハットリしまえッ!!」
《クルッポー》


独占欲マシマシの恋人。迫真の演技だ。




***




『どうしてお前はいつも無駄なことをする』
『そんな暇があるなら走り込みでもしていなさい』


変なところで叱られる子供。同期のことで一番印象に残っているのは、ハンカチを握りしめて幼げに頷く少女の姿だ。

カクとナマエは、男女の違いはあれど同じ境遇の仲間であり、ライバルであり、所詮他人であった。

CP9の諜報員として求められる技術。とりわけ六式の体得は最低限であり最難関の必須技能である。多くの子供は一つも身に着けられないか、二つ三つ覚えて終わる。挫折し島を去る子供たちと違って、ナマエはお手本のように順序良く体得していった。

女児の成長は男児よりも早い。同じ8歳の子供でもカクより発育が良かったナマエは手足のリーチが長く、通らないパンチに悪戦苦闘しているうちによく転がされた。同世代の最優秀はナマエで決まりだろう。教官たちの評価は子供たちの中に明確な格差を作った。

強くて可愛い優秀なナマエ。CP9入りも確実な天才。天才ルッチさえいなければ皆が担ぐ神輿はきっと彼女のものだった。


『怪我をした子の手当をするのは、いけないことなんだって。カクは知ってた?』


濡らしたハンカチは綺麗なまま、少女の手の中にある。

所詮この世は蹴落とし合い。勝者が残り敗者が消える。心配そうに眉を下げる勝者が、敗者に手を差し伸べるなどとんだお笑い種だ。侮辱だ。滑稽だ。誰が教えずとも皆が知っていることを少女は知らなかった。


『こうした方がいいって思ったのに、不思議だね』


誰が教えた常識なのだろう。

隔絶された島で、同じ教育を受け、同じ宿舎で寝食を共にした少女は浮いていた。優秀さで浮いて、甘っちょろさで浮いた。

結局、ナマエは六式すべてを習得しても、カクより上に行くことはなかった。

人を殺せない失敗作。諜報員としての最終試験で判明した少女の欠点。落胆する教官たちやせせら笑う同輩たちの中で、カクだけが納得していた。あんなお優しい人間が正義のための人殺しに向いているわけがない。

CP9に内定し、島を出ることになったカクは、もう二度と少女に会うことはないのだろうと確信していた。


「どうかな? このカクはけっこう力作なんですよ」


思っていたんだがなぁ……。

他人として再会したナマエは、カクにとっては本当に見知らぬ他人になってしまった。

諜報員が他人を演じる時、本来の性格をほんの少し残しておいたほうがパーソナリティの齟齬が格段に減るものだ。カクの鷹揚な口調しかり、カリファの生真面目な態度しかり、ブルーノの料理趣味しかり、ルッチのハットリ連れしかり。全くの他人になり切るよりはあえて元の要素を残しておくことで長期間のスパイ活動に耐えられるものだ。

それにしたって限度があるだろう。


「なんと言っても鼻の質感よね、正面から飛び出して見える鼻って大変で」
「おお、確かに。立体的なモンは描きづらいじゃろうなあ」


どこをどう見てもめちゃくちゃ素。

どこからどう見ても危機感ゼロの平和ボケした一般人。血生臭い正義を掲げた番人が纏っていい空気じゃない。これでCP9が務まっているのだから一周回ってサイコパスだ。

妙に目がつぶらで鼻が角材みたいに突き出した人間に見えない絵を押し付けられ、ガレーラの同僚たちに肩をバシバシ叩かれながら、カクは一瞬演じるのを忘れた。ルッチのひと睨みがなければ幼馴染の距離感で詰め寄っていたかもしれない。

ハンカチを握りしめて俯く子供が脳裏に焼き付いている。組み付いて気絶させた子供を目覚めさせようと、剃を多用しながら水場で濡らしてきたハンカチ。教官に咎められ、手当てしようとした子供にも睨まれ、ハンカチは綺麗なまま。湿った重さが少女の本心のようであった。

あの島で育っていなければ、きっと“こう”なっていたのだろうとありあり分かってしまった。


「ま、いいか」


どうせ、任務の間だけの短いモラトリアムだ。仕事さえキッチリしてくれるのなら口出しする気はない。

何より、ナマエはルッチの恋人役というどこをどうトチ狂ったらそうなるのか意味不明な立場に落ち着いている。あの島にいた時には気を付けていた柔らかすぎる微笑を浴び、ついでに食べた悪魔の実の厄介事まで聞きかじって、カクはもはや笑いすら起きなかった。

コイツは茨の道が約束された星の元に生まれたのか。

悪魔の実の番意識に引っ張られているのか、もともとナマエのことをよく思っていなかったはずのルッチに睨まれながら、カクはもらったばかりの自分の絵を丁寧に懐に仕舞った。




← back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -