糖蜜の井戸



何かがおかしい。

こちらに帰ってきた直後から予兆はあった、と思う。気付かないようにしていたのは、私が信じたかったから。くーちゃんもしーちゃんも私の知っている二人だって、生まれてからずっと見守っていた彼女たちが変わらずそのままなんだって思い込みたかった。未知の場所で植え付けられた恐怖と混乱を早く忘れてしまいたくて、くーちゃんとしーちゃんに癒しを求めた私の甘え。

だから、私は勝手に裏切られた気持ちになった。


「しーちゃん?」


持っていたお盆が手から滑り落ちた。聞くに堪えないティーカップの割れる音と綺麗に焼きあがったクッキーが床に散らばって、でも私の耳には、しーちゃんのさっきの言葉ばっかり張り付いて仕方ない。


「シエラ?」


しーちゃんは、私がお盆を落としたことに不思議そうだったけれど、すぐに楽しいことを思い出したって顔をした。たった今入ってきた入口のすぐそばに立ち尽くす二人の男の子。ジャックが拾ってきたという兄弟。彼らとアリスに仲良くなってもらいたいんだと、ジャックが連れてきた二人の内の金髪の子を指差して、しーちゃんはありえないことを口にしたんだ。


「シエラ! あなたもよく見て、この子、禍罪の子よ!」


嬉しそうな顔。しーちゃんの歓声が今は苦しい。

なんで、レイシーそっくりの顔で、そんなことを言えるの。

ティーカップの破片を靴越しに踏んだ感覚がある。紅茶が石畳を伝っていくのも見えた。けれど体は勝手に動いてしーちゃんの前で膝をついていた。

至近距離で覗き込んだ瞳は紫色。私と、グレンと、レヴィさんと同じ色。レイシーそっくりの顔にその瞳が埋まっているのを見ると、もしかしたらレイシーは本当は紫色の目だったのかもしれないと思った。禍罪の子じゃなかったなら、ただの子供としてグレンと今も笑い合えていたんじゃないかって。でも、もしもはもしもの話だ。彼女が紅い瞳を持って生まれて来なかったら私たちは出会わなかった。シエラという名前だって名付けてもらえなかった。

だから私は、レイシーの紅い瞳を愛しく思えたのに。


「お願い、しーちゃん。そんなひどいことを言わないで」
「シエラ?」
「あなたがあの目のことを悪く言うなんて、私、耐えられない」
「だって、赤い目は、」
「お願いよ、しーちゃん……アリス。私、おかしくなりそうなの」
「だって、」


ジャックが、教えてくれたのよ。

ほとんど吐息みたいな声が信じられない名前を出してきて、もう一度自分の耳を疑った。

ジャックが紅い瞳を馬鹿にした? まさか、あれだけレイシーを好いていた彼がそんな差別の言葉を使うなんてありえない。アリスと兄弟二人を引き合わせたいと言っていたのに、何故かこの場にいないジャックの顔を思い浮かべる。初めて会った時のあの泣きそうな彼が出てきて、もっと信憑性が薄れた。きっと何かの間違いよ。信じられない気持ちのまま、自分を落ち着かせるために小さな体をそっと抱きしめる。

暖かい、生きている温度。しーちゃんは私とは別の人間で、別の考え方を押し付けるなんて傲慢なことを私は強いれない。でも、どうかこのことだけは分かってほしくて。祈るようにしーちゃんの頭を撫でた。


「紅い瞳が不吉なんて嘘よ。彼も、何か勘違いをしていたのかもしれないわ」
「そう、なの?」
「そうよ、それに、人の見た目を挙げつらねて笑うのはとても酷いことなの。アリスだって目や髪や肌の色を馬鹿にされたら嫌でしょう?」
「馬鹿にしてないわ。ただ、どんな感じが聞きたかっただけよ」
「あら、私はちょっとびっくりしちゃったわよ? きっと彼も同じようにびっくりしたんじゃないかしら」


ゆっくり耳元で言い聞かせると、しーちゃんの眉がシュンと垂れ下がった。


「それに、紅い瞳のこと、綺麗だと思ったでしょう?」
「……ええ、とても綺麗だわ」
「じゃあ、ちゃんと伝えないと」
「うん……」


しーちゃんから体を離して、男の子二人に向き直る。


「ごめんなさい、アリスも悪気があったわけではないの。ただちょっと、好奇心が強くて、言葉の選び方を間違えただけなの」
「言葉の選び方って? ヴィンスを馬鹿にしたことには代わりないだろ」


黒髪の男の子がキッとこっちを睨んでくる。金髪の子は俯いて彼の上着を掴みながら震えていた。散々似たようなことを言われて、もうトラウマになっているのでしょう。しーちゃんと一緒に傍まで寄って行って目線を合わせるようにしゃがむ。黒髪の子が金髪の子を庇うように前に出てきたけど、私は金髪の子の顔を下から伺った。


「あなたの紅い瞳、私は好きよ。アリスもあなたのことを綺麗って言いたかったの」
「嘘だッ! あんな酷いこと言ったくせにッ!」
「嘘じゃないわ。ね、しーちゃん」
「……ええ、綺麗だと思うわ。ずっと見ていたいくらいよ。びっくりさせてごめんなさい」


すると黒髪の子は口をへの字にして押し黙った。これ以上反論する言葉が見つからないみたい。かく言う私はしーちゃんが謝ってくれたことに心から安堵していた。しーちゃんは私の知っているしーちゃんだと実感できて、やっと肩の力が抜けたところで、仕切り直すために一つの提案をする。


「ねえ、まずは自己紹介からはじめましょう。私はシエラ、この子はアリスっていうの。二人のお名前は?」


少し間。黒髪の子が金髪の子の手を握ると、二人は意を決したようにまっすぐ顔を上げた。

その時の私の気持ちを、何と表現すればいいのか。

勝手に両目とも赤だと思っていた金髪の子が、金と赤のオッドアイだったから。つい最近、一度だけ会った彼。私に身を寄せて、意味深なことを囁いたヴィンセント様と同じ瞳の色を持った彼。それどころか、よくよく見れば隣でこちらを威嚇していた黒髪の子もあの挙動不審だったギルバート様とそっくり。そして極めつけは、彼らの名前だった。


「……僕はギルバート」
「ヴィンセント、です」


何かがおかしい。

ここ数日で何度も感じた違和感が、また私に襲いかかった。
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