涙の池



暗い光の中へ落ちていく。どれくらい落ちたのか。前よりも長く落ち続けている気がする。まわりはいつまでも暗く、あたりの様子はよく見えない。息が荒い。心臓が痛い。何か見てはいけないものを見てしまった感覚。

そうね、たぶんあれは見てはいけないものだった。でも、見てしまった。私と同じ顔のあの人。リディール公爵の声を出していた彼女。包帯でくぐもっていたから分からなかったけれど、あれは私の声だ。私があそこに立っていた。なんで、どうして。ドッペルゲンガー、とか? まさかそんな嘘みたいなことがあるなんて。いや、この世界自体嘘みたいな夢みたいな世界だ。なんでもあり得る。じゃあ、もう一人の私が私の知らないどこかで公爵なんて地位に就いているというの? この異世界で私そっくりの人間が生きている? 意味がわからない。頭が破裂しそうなくらい。これは現実? 夢? 誰か教えて。あなた。あなたなら分かるでしょう? ねえ!!

頭を抱えたまま丸まっていた私は、いつの間にかどこかに寝そべっていた。底にたどり着いたらしい。ぼうっと床に手をついて上体を起こす。辺りは変わらず真っ暗なのに、私の周りだけスポットライトのようなものが降り注いでいる。白と黒のタイルが規則的に並んだ床を見て、何故かしーちゃんとくーちゃんのことを思い出した。

ちょうどその瞬間、待ち構えたようにスポットライトがもう一つ。すぐ目の前に降り注いだ。


「しーちゃん?」


背中合わせに置かれた白と黒のソファ。その白い方に真っ白いしーちゃんが目を閉じて座っている。


「しーちゃん。起きて、しーちゃん」


フラフラと立ち上がってソファに向かう。その途中、スポットライトの外に出ようとした足は何かに阻まれて跳ね返った。何か、見えない壁がそこにある。なんで。一拍おいて、それがとても悲しいことのように思えた。なんで、なんで。握った拳で見えないそれを叩く。音も感覚もない。空気を叩くような手応えの無さ。いくら叩いても痛みさえ感じない。壁に手を付いたまま、呆然としーちゃんの顔を見る。眠っているようなのに、どこか苦しそうな表情をしている。どうしたの? かけた声はあの子に届かない。


「しーちゃん! アリス!」


私の叫びに応えるようにしーちゃんが顔を上げる。やっと声が届いたんだと、私は一瞬勘違いをした。でも、次の瞬間にしーちゃんの背後に人影が増えて、それが違うことにすぐ気が付いた。くーちゃんがそこに座っていた。


「また……ここ・・に戻ってきたのね」
「……? どこ……だ……?」
「ここは私と貴女の――――」


そこから先はもう聞こえない。そのタイミングでまた足元を暗い光が包み始めたから。轟々と吹きすさぶ風の音でしーちゃんの声が聞こえない。焦る私と裏腹にここに来た時よりも速く足は引きずられていく。風の音しか聞こえなくなった視界の先で、くーちゃんが大泣きをしていた。


「待って、くーちゃん、くーちゃん!」


手を伸ばす。届かない。大きく叫ぶ。届かない。


「アリス! アリスお願い、アリス!!」


私を見て。

気が付いた時には、世界は光に包まれていた。青々とした緑が生い茂り、空はどこまでも広く、平穏がどこにでも転がっているような。そんないい日の真ん中に忽然と泣き腫らした私が投げ出された。

伸ばした手には何も残っていない。くーちゃんも、しーちゃんも、あの声も。会いたいと願った彼女たちの何物も掴むことはできなかった。皺だらけのスカートが土に汚れる。寂しい。悲しい。裏切られて、蚊帳の外に立たされて、また見知らぬどこかに放り込まれた。あの光は私の力のはずなのに、私の言うことを何一つ聞いてくれない。アリスに会いたいと願った私を、あんな疎外感しか与えない場所に連れて行った。そして、また一人。

指で拭った涙が手の傷に沁みる。痛い。痛いわ、アリス。すごく痛いの。ここが、胸が痛い。だから早く姿を見せて。お願い、私を見て。会いたいの、すごく。

ねえ、アリス。


「シエラ……」


黒い靴がぼやけた視界に踏み入ってくる。低く、無機質な声。久しぶりに聞いた、彼の声。アリスのことばかり考えていた頭に突然、もう会えないと思っていた彼の顔が割り込んでくる。驚いて顔を上げた先で、切れ長の瞳を丸めた彼が立っていた。


「グレン?」


彼の名前を呟くのと、彼が膝をつくのは同時だった。ありえない幻でも見たように、覇気のない顔のまま。ゆっくりと、手袋で包まれた手が私の頬を包んで、目尻の涙を拭う。直接感じられるその現実に、私はやっとここがどこなのか分かった。

ここは、バスカヴィルさん家のお庭だ。

体から力が抜ける。恐る恐るその手に自分の手を重ねると、忘れていた安心感が目まぐるしく私の器を満たしていった。戻ってこれた。帰って来れた。バスカヴィルさんのお屋敷に。アリスたちの元に。私はもう、一人じゃない。緩んだ涙腺が悲しみと絶望以外の涙を溢し始める。良かった。良かった。顔中に安堵の笑みが広がって、思わずグレンの体に縋り付いた。黒いコートが視界いっぱいに映る、幸せを大きく吸い込んで。


「ただいま……っ」


背中に回った手が少しだけ痛かった。
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