赤眼と聖女



ケビンは知らない。

ブリジットデイの人混みの中、青い羽根の首飾りを嬉しそうに着ける彼女の。若い娘の間で人気のクマのぬいぐるみを可愛くないと言って首を捻る彼女の。夜中に抜け出した先でケビンに借りた上着を羽織りながら熱心に星を見上げる彼女の。剣ダコだらけで固く無骨なケビンの手を嫌な顔もせずに握り締める彼女の。たまにどこか遠くを見つめて顔を歪ませる彼女の。

彼女のこれからを、ケビンは知らない。


主の命を受け、ケビンは改めてリディール公爵家の実態を把握していないことに気付いた。あれだけシエラという少女と交流を深めたというのに、驚くほどに彼女のことしか目に入っていなかった。それはいったい何故なのか。そんな確信に触れる前に、ケビンは己の無知さを思い知るのだ。

リディール公爵家とは四大公爵家と並ぶ大貴族である。四大公と同じく国の守護を任された御家であるが、何故五大公爵家とはならず四大公とは分けて語られるのか。それは彼の家が聖女の家系だからに他ならない。

聖女の家系とは何か。それはサブリエの悲劇の記憶を保持する当主ただひとりのことを指す。

サブリエの悲劇をその目で見て、英雄ジャック=ベザリウスと共に生還したシエラ=リディールの力を、人々は欲した。彼女の存在はパンドラという機関にとって伝説であり、警戒すべき驚異だ。何せそれは世界の根底を覆し得る強大なものだったのだから。身内に入れるには危うく、手放すには惜しい。なにより彼女を生かすことは英雄自らが遺した遺言である。よってパンドラは四大公と同じだけの権力をリディール公爵家に与えながら、彼女による不測の事態には四大公が手と手を取り合って対処する取り決めを行った。サブリエの悲劇から続く、暗黙の了解だ。

聖女として、最終兵器として、得がたい人物として、彼女は生き長らえなければならなかった。彼女に求められたのは子孫ではなくその本人のみ。よって彼女は死ぬことを許されていなかった。

死を拒絶し、死を殺すための道具を。
永遠の命を得るための生贄を。
自分と瓜二つの少女を。

聖女は作り上げたのだ。


「ねえ、ケビンさん」


アメジストの瞳がゆるりとケビンの赤眼を写す。

つい先日会ったばかりだと思っていた彼女が、まったく違った印象に見えた。無理もない。無邪気さと優しさの塊のような人間だという認識が誤りだと知ったのだ。それだけの人間ではなかったことを、ケビンは知ってしまったのだ。

ただのシエラ。そう何度も口にした少女は、結局のところただの少女ではなかった。次代のシエラ=リディール公爵として、サブリエの悲劇から生き永らえてきた聖女の次の器として、仮初めの自由を与えられた哀れな少女。

"ただの"なんて嘘っぱちの、哀れなシエラでしかなかったのだから。


「精一杯生きてね」


だというのに、彼女の瞳は優しさと希望に満ちている。ケビンの気持ちなんてこれっぽっちも知らないくせに、ケビンのこれからを滔々と語り始めるのだ。


「自分の騎士道に誇りを持って、主人のために最善を尽くして、でも自分のことを蔑ろにしちゃだめよ? ちゃんと好きなことや好きな人を作って、大事に握り締めて離さないで。大切な人たちに囲まれて、ああいい人生だったなって言えるような日々を送って」


一呼吸置いて、シエラは満面の笑みを浮かべた。

太陽や月のような輝きはない。けれどそこに集う幾億の星々のような、淡い輝き。ケビンは、普段ならそんな顔に人知れず安らぎを得ていたはずだった。けれど今だけは、そんな風に笑うシエラを見て、彼の心中は穏やかではなかったのだ。


「そうやって、ちゃんと幸せになってね」


彼女はケビンの幸せを願いながら、そこに決して自分を組み込もうとはしないのだ。自分がいない未来を最初から想定して話している。他人のことを考える余裕など、彼女にあるはずがないのに。

"本当なら、私がそばにいて、友として支えてやりたいのに"


「(友、として?)」


ざわりと、一瞬過った違和感。それが胸の内で言い知れぬ気持ち悪さを纏わせる。

本当に?

身の内の誰かが言った言葉は認識する前に散り散りに消えてしまう。何を、惑っているのだ。主人の命に背けなかったくせに。何も言えない自分が不甲斐なかったくせに。何を、この哀れな少女にしてやろうと言うのだ。


「…………分かった」


肯定を口にするだけが彼にできる精一杯だった。決して、伸ばした手が彼女に触れることはない。ケビンは後にそのことを後悔する。何せそれが彼女の言うところの"ただのシエラ"と話した最後だったのだから。


「お父様もお母様も、みんな死んじゃった」


すべてはすでに遅かった。何もかも終わってしまった。壊れた。失くなった。元に戻らない。やり直すことも、過去を変えることもできるはずがない。


『ホントウニ?』


本当に? 本当にそうなのか?

ケビンの耳元で悪魔が囁いた。

甘い誘惑。苛烈な憎悪。鮮明な悲劇。主を守れなかった自身への呵責。友に触れることを躊躇った後悔。懺悔。苦しみ。悲しみ。すべてが一つの強い意志となってケビンを奈落の底へ突き落とす。


『幸せになってね』
『行かないでケビン。私、一人になっちゃう』


赤眼の亡霊が生まれた瞬間だった。
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