本当に知らない?



「さて、あなたとは初めましてというところかしら」


風が止んで足が地についたところで目を開ければ、そこはいつも私たちがお茶を飲む部屋だった。つまりリディール邸の一室。馬車を走らせてしばらくかかるナイトレイ邸から一瞬でここまで来た。この瞬間移動のような力はアンのものだと聞いていたけれど、今、それは違うんだと気付いた。私は鈍かった。だってこれは私の力だ。私が、声のところからここに来た時に感じた力だ。そして、目の前のリディール公爵が使った力でもある。


「混乱しているのでしょう。分かるわ、私もそうだったもの」
「どういう意味、ですか?」
「あら、敬語なんていらないわ。私を敬う意味なんてないのだから」
「えっと……」


話が進まない。ううん、たぶん進ませる気がないんだ。

ずっと車椅子でぐったりしているけれど、私に目を合わせてはいないけれど。彼女は後ろにアンを控えさせながら私に語りかける。


「そうね、まずは言っておきましょうか」


聞きたくない。だってきっと、それは悪いことだから。そんな気がするから。

けれど今、聞かないという選択肢はない。だって向こうにはアンがいる。この場で唯一助けてくれるかもしれない彼は公爵の執事だ。私が頼れる人はこの場にはいない。それどころかあの場所に帰らなければ私の味方なんてどこにもいないんだ。徐々に息苦しくなる呼吸は、苦しいほどに締め上げられたコルセットも相まってさらに辛いものになっていく。

リディール公爵は告げる。


「アンはアヴィスの核との契約であなたを預かることになったと言ったらしいけど、あれは嘘よ」
「ぁ……」
「私たちが独断であなたを拾って、あなたを我が家の子にしたのよ」
「な、なんの、なんのために」
「そんなの、決まっているじゃない」


ああ、やっぱり、聞きたくないことだった。


「さっきバーナードと話した通りよ。この躯は二十年近く使ったせいでもう長くはないわ。あちこちが傷んで、早急に新しい躯に入れ替えないと駄目なの……ここまで言えば分かるかしら?」


車椅子の車輪が大きな音をたてる。まだ公爵の首は私がいない明後日の方向に向いていて、でもそれがわざとじゃないことが分かってしまった。こっちを向きたくても向けないのね。もう動かないほどに体が悪いんだわ。


「あなたの躯を、私にちょうだいな」


新しい生贄が、必要になるくらい。

アンが一歩、足を踏み出す。瞬間、私は背後の入り口に向かって走り出した。履いていたヒールの高さも忘れて、すぐさまこの部屋唯一の扉に縋る。無駄に凝ったドアノブを回す。回らない。開かない。そんな、この部屋に鍵があるなんて知らなかった。

背後からは車椅子の音が鳴ったり鳴らなかったりを繰り返す。それはアンが一歩一歩、歩いて止まってを繰り返しているということで。私の命のカウントダウンを知らせているようだった。

いやだ。こんなことで、訳も分からないまま捕まりたくない。


『化け物公爵の次の生贄デスカ』


頭の中で思い出されるのは彼のこと。こちらにいきなり放り出されて、突然武器を向けてきた彼。会ったのは一回だけだったけれど、この言葉だけは何故だかとてもよく覚えていた。意味が分からないからとあまり気にしていなかったけれど、それが間違いだったんだ。あの言葉が、まさにそのまんま私の現状に襲いかかってきている。

もっと、その意味をちゃんと考えていれば、私は。


「たす、助けて、」


誰が助けてくれるって言うの?

肩口に振り返った先でアンの黒い目と目が合う。いつも以上に無感動なガラス玉が心底怖かった。アンは助けてくれない。誰も私を助けてくれない。ああ、今とてもあの子達に会いたい。あんなにも突然のお別れをしてしまったことを謝りたい。そしてあの声にも。まだしーちゃんの中で眠り続けるあの子に。約束を守れなかったことを、会って謝りたい。

会いたい。そんな思いだけが頭の中を満たしていく。縋りつくドアノブが悲鳴を上げるほどに回して、ただ会いたいと願い続けた。

会いたい。会いたい。会いたい、会いたい、会いたい会いたい会いたい会いたいっ、会いたいッ!!!

その願いが恐怖を上回った、瞬間だった。

足元から暗い光が湧き上がる。風と熱を持って湧き上がるその感覚が、私のスカートと髪の毛を揺らす。潤んでいた目がその一吹きだけで涙が引っ込んだ。これは、この力は……!

飲み込まれるように足元から体が落ちていく、この感覚。今までのものよりもゆっくり、確実に、私の体がここではないどこかへと落ちていく浮遊感。ああ、帰れる。あの子たちにまた会える。私は助かるんだわ。

突然降って湧いた一筋の希望にまた新たな涙が浮かぶ。けれどまだ、油断してはいけない。また誰かに足元をすくわれるなんて御免だ。そんな思いで周りを見渡せば、車椅子は目と鼻の先にあって、アンはこちらのことなどお構いなしに公爵の顔の包帯へと手を伸ばしたところだった。何を、しようというの。目を出すための僅かな隙間以外、びっちりと巻かれた包帯がスルスルと解かれていく。そして現れたのは、


「『やっとできたわね』」
「っ!?」


まったく同じ声がかぶる。目の前の包帯を解かれたソレと、背後から同時に。振り返った先にあるのはさっきまで開く気配のなかった扉。いつの間にやら扉は大きく開いていて、そこに立っていた人物は、あるものを口元に充てながらニコリと笑みを浮かべた。


「トラン、シーバー!?」


そう、トランシーバーだ。私が知る限りこの世界には不似合いな機械がそこにある。しかもそれはさっきまで"リディール公爵だと思っていた人形"の顔にくっついていたものと全く同じものだった。でも、それ以上に、そんなことより驚くべきなのは。


「怖がらせてごめんなさい、びっくりしたでしょう」


もっともっと衝撃的なものは。私が、今すぐにでも目を交換したいくらいありえないものが"彼女"の姿。


「戻ったらあの子たちによろしくね、"私"」


光の中に完全に身を落とした私が見たそれは、紛れもなく、毎日鏡で見ている自分の顔だった。
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