本当は知らない



投げ出されている足。寝違えたように急な傾き方をしている頭。柔らかいクッションが付いていながらも寝るには最適といい難い椅子で、私は目を開けた。


「ん、んんん?」


椅子で、寝てた?

身を預けて背もたれから体を離す。辺りを見渡せば見たことのない部屋。調度品はリディール家のお屋敷と変わらない豪華さだけど、少なくともこんな配置の部屋には入ったことがない。ましてや、知らない部屋で寝るようなことも今までなかったはず。

じゃあなんで?


「気付いたかね」


この部屋唯一の扉が開く。入ってきたのは黒い礼服を身に纏った男性。白髪交じりの長い黒髪と綺麗に整えられた顎鬚が目を引く。生きてきた年数に比例するような威厳ある顔は間違いなく、


「ナイトレイ公爵?」


今晩、私を招いた張本人であるその人は、向かいの椅子に腰を下ろす。と、同時に同じ扉から黒いコートを来た何人かの男性がそれぞれ手に水差しとグラス、紙束とインクと羽ペンとを持って入ってくる。どうぞという言葉と共に差し出されたグラスを咄嗟に受け取って取り敢えず飲んだ。冷たい温度が張り付いていた喉を落ちて行って寝起きの頭が少しスッキリした。ひとしきり飲み終えて満足した頃に、恐らく今の状態を一番理解しているはずのナイトレイ公に疑問を投げかけた。


「ナイトレイ公。あの、何故、私はこの部屋にいるのでしょうか?」
「覚えがないのかね?」
「覚え、ですか?」
「君はヴィンセントの目の前で倒れたのだよ」


そんなわけない。

それだけは断言できた。確かに私の意識がはっきりしていた。多少の疲れはあったかもしれないけれど、倒れるほどの深刻なものじゃなかったはず。それに直前までソファに三十分近く座ってヴィンセント様と喋っていたのだから、身体的に疲れるわけないのだ。

唐突に目覚めた一室。今目覚めたばかりの私一人に対してナイトレイ公のそばには恐らく部下らしき男性が三人。三人とも、見覚えがあるコートだと思っていたらパンドラの正装だった。妙にゆったりと指を組むナイトレイ公の態度は明らかにこうなることを知っている風にしか見えない。

つまり、はめられたってこと?


「私に何か、お話したいことがあるのでしょうか?」


ごちゃごちゃ考えることに疲れて、私は言葉を選ぶことなく直球で本題に入った。だって、いくら考えたって情報不足な時点で答えに辿り着くわけがないもの。これがアンだったなら瞬時に全てを理解するのでしょうけど。


「それはそちらの方のことではないか」


私の直球ストレートに、帰ってきたのは同じく直球ストレート。探るような目。消えた微笑み。いきなり増した刺々しいオーラを帯びたその人は、確かに何十年と貴族社会で生きてきた猛者なのだろう。竦み上がるような感覚の中、ふと思ったのはなんでこんな目にあってるんだろうってこと。

これってもしかして誘拐ってやつじゃないかしら。

一瞬よぎった可能性があながち的外れじゃなさそうでドレスの下で冷や汗が滑っていった。私、今危ない? 身の振り方を考えないといけないの? ほぼ寝起きで物騒な思考が駆け巡る中、ナイトレイ公はそんな考えを無用の産物にする言葉を口にした。


「こうしてこの屋敷に招待したのは他でもない、君に我が息子との婚約を承諾してもらうためだ」
「はあ………………婚約ぅ?!」


こんにゃく? 翻訳? いえいえそんなボケをかましている暇はなくて、というか難聴ではないよね? そんな年ではまだまだないわよね?


「そう、我が息子エリオットとの婚約を申し入れた。確かに手紙にはそう記したはずだが、その様子では知らされていなかったようだな」


混乱する私と、何故だか途端に不機嫌になったナイトレイ公。て、エリオット? エリオットと結婚するの、私。手紙? あれは単なる招待状じゃなかったの? アンは私に嘘……はついてなかったけど隠し事をしてたってことになる、の?


「まあいい。今ここで貴女から返答を貰えれば事足りるのだから」
「へ、へ? ええ?」


良くない、それ良くないと思うわ。

サッと後ろで控えていた方たちが一枚の書類と艶艶の羽ペン、透明なビンに入ったインクを目の前にセットしていく。確かにその書類には契約書のように私とエリオット、引いてはリディール家とナイトレイ家の結びつきについての項目がずらずらと並んで、最後にナイトレイ公のサインが入っていた。本物の契約書だった。


「ま、待ってください。私の一存で決められるようなことでは、」
「何を言う。そろそろなのだろう、新しい代変わりの時期は。もうすぐに君の一存で決められるようになる。ならば今からでも構うまい」


話が見えない。いえ、恐らく私に分かりやすく率直に言ってくれているはずなのだけれど。それでも私には全く意味が分からないし、このまま流されてエリオットと結婚、なんてなったら相手にもナイトレイ家にも、というかリディール家にも関わってくる大事件だ。

ここは本当のことを話すしかない。たとえリディール公爵の条件を守れなくなってしまっても、これは仕方ないはず。私は意を決してあのことを打ち明けた。


「え、ええと、大変申し上げにくいのですが、私実はリディール家の本当の娘ではないのです。だからナイトレイ家と婚約したところであまり意味は、」
「……君は自身の持つ家名の意味を知らないのかね」
「え?」


打ち明けた、はずなのに。ナイトレイ公はまったく動じない。むしろ常識だと言わんばかりの呆れた表情で、私が知らない真実を言おうとして、いたんだと思う。


「君がシエラ=リディールの名を持つ限り、血などあってないようなものなのだよ。何故なら君は、」

「少々、遅れてしまったかしら」


その真実を聞き届けることはできず、瞬く間に妙に暗い色味の光が部屋中を満たした。

髪を巻き上げる一瞬の豪風。一回目を閉じて開いた時には、すぐそこに二つ、忽然と人影が姿を表したのだ。

一人は車椅子に乗った、恐らく女性。恐らくというのは彼女がドレスを着ているということ以外、どんな顔や髪をしているのかまったく見えなかったからだ。包帯人間。一言で言うとそんな出で立ち。ぐったりと背もたれに寄りかかり、力なく包帯の隙間からこちらを見ている。けれど声だけは、布に阻まれてくぐもっているにも関わらず、生気を感じられるほど張りがあってハッキリと耳に届いた。

そして、彼女の背後に立っているのは若い男性。真っ白い燕尾服に、真っ白い肌。長めの猫のように柔らかそうな髪を耳にかけ、軽く流した前髪から覗く黒曜の瞳。車椅子をゆっくりと慣れた手付きで押す彼は、ろうそくの心もとない明かりに照らされて、その無表情をこの世のものではないほど美しく際立たせた。

そう、それは私が毎日見て、触れて、慣れた美しさで、


「少々どころの騒ぎではないぞ、リディール公爵」


ねえ、なんでアンがそこにいるの?

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