日常に浮く



この世界は私のいた世界とは違う。

思えば何年か何ヶ月か何週間か。生まれ育った場所から離されての生活は、何故か何の違和感もなく私の日常へと挿げ替えられてしまっていた。

コンクリートのない石畳の街。ビルも塔もなく、あるのはどこかレトロにすら見える外観の家々。その間を馬車が駆け回り、おとぎ話のような服を来た人たちが各々の生活を送っている。

豊かな緑、澄んだ空気、それらが一望できる豪奢なお屋敷。

普通の神経をしている人ならホームシックで精神的に追い込まれる状態だ。

十九世紀だか十八世紀だか分からないこの世界観で、現代を生きる純日本人の私が適応できるわけがない。

なのに私は、


「考え事とはいい度胸でございますわね。では今のステップを最初から踊っていただこうかしら」
「……ごめんなさい」
「"ごめんあそばせ"」
「…………ゴメンアソバセ」


こんなダンスの稽古なんかでそのことを実感するなんて。

鈍い鈍いと思ってはいたけど、これは流石に鈍い以前の問題だわ。若い内にボケの心配をすることになるなんて思わなかった。

単純そうで意外とセンスを問われるダンスのステップを、目の前の相手役の方に手伝ってもらいながら踏む。


「ッ!!」
「ご、ごめんな……ごめんあそばせっ!」


…………ついでに相手の足も踏むつもりはなかった、はず。

呆れた溜め息がどこからか聞こえてきて私を居心地悪くする。だって一般人には社交ダンスなんて縁遠過ぎる。一発でできたらおかしいじゃないか。

ここ一週間近く、私はこのリディール家にお世話になる代わりにお嬢様としての英才教育を受けることになった。

朝起きて朝食をいただいてからダンスに勉強にマナーにと毎日毎日習い事のオンパレード。正直そろそろうんざりしてきたのも仕方ないと思うの。

やっとダンスのお稽古が終わり、アンの淹れてくれた紅茶を飲んで一息つく。


「シエラお嬢様、次はバイオリンのお稽古の時間ですよ」


一息ついているはずなのに、追い打ちをかけるように降ってきた言葉に気分が沈む。


「アン、あの、今日はもうお稽古をしたくないんデスガ」


そう、今日くらいはもう何もしたくない。そりゃあタダでお世話になるのも忍びないし、こんな豪華なお屋敷で良い待遇を受けているのだから文句も言えないが、もう少し時間が欲しいのだ。

アリスたちの元に帰るために、私が持っているらしいよく分からない力を制御するにはどうすればいいか。

そもそもここはどこなのかとか。バスカヴィルさんのお屋敷とどれほど離れているのか。

とにかく分からないことを一度はっきりさせるために調べる時間が欲しいのだ。どうせ断られるんだろうな、と思いながらダメもとで尋ねてみる。断られたらバイオリンと格闘するしかないんだけど。


「分かりました」
「ああ、やっぱりだめで……ええ?」


だから私は驚いた。まさかアンがこんなにあっさり了承してくれるなんて。


「お嬢様がお疲れになったのならば無理強いはできません。貴女様が頑張っていらっしゃることはよく分かっておりますから」


というか、こんな優しい言葉が返ってくるなんて……!

ここ数日で、私は彼の性質をなんとなく把握していた。彼は私をお嬢様と呼ぶし、基本的には私に丁寧に付き従っているが、その実、彼の性格は決して一筋縄ではいかないことを。


「え、それ、本当に思ってる?」


聞いている途中で、顔がだんだん引き攣っていく。だって、その繊細な美しい顔立ちが、白百合が花開いたと錯覚してしまうほどにふんわりと微笑んだのだから。


「貴女様がいつ音を上げられるか楽しみに待っておりました」
「性格悪っ」


彼は、れっきとした愉快犯だった。

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