盲目の羊
「ご、ご機嫌よう?」
ジャックと別れてしばらく経った夜更け。私の目の前にはここ最近会っていなかった人がいた。
前髪から覗く、切れ長の冷めた紫眼が緩く見開かれる。
塔の入口から突然現れたグレンさんは、私を見た瞬間にブリキのおもちゃのように動きを止めた。彼にしては目に見えて動揺しているようだ。
とはいえ、それは私も似たようなもので、思わず普段は使わないような口調で挨拶が口から飛び出してしまったのがいい証拠だろう。
時間はくーちゃんのご飯時から二時間ほど後のこと。この時間帯ならグレンさんはすでに引き上げているはずなのに。彼は塔の階段からたった今降りてきたのだ。
「シエラ、か……?」
しばらくの沈黙。次いで尋ねられた言葉に首を傾げる。なんでそんなに驚いているんだろうと。けどすぐに、自分の身体が数年分の成長を遂げていたことを思い出して納得する。くーちゃんと変わらなかった背丈が一気に数十cmほど伸びたのだ。そりゃあ驚くはずだ。
半信半疑の問いにたどたどしく頷いてから、そっとグレンさんの眼を見つめ返す。アヴィスの影響か……と小さく呟いた彼は、無表情ながらも目を瞬かせていた。
そして、ふと思い出したかのように僅かに罰の悪そうな顔をして目を逸らす。涼しげな整った顔が、その時だけは何処か子供っぽく思えてしまった。
そして、私は気付く。彼のマントの後ろから覗くモコモコとした白いものに。
「ひつじ……?」
びくり、マントが揺れる。
再び見たグレンさんの顔は先ほどよりも眉間にシワを寄せていて、今度こそ母親に失敗を見つけられてしまった子供のようだった。
それにしても、グレンさんと羊のぬいぐるみ。
普段クールな彼が円な瞳のぬいぐるみを所持して歩いていたことが、なんというか……シュールな組み合わせだ。
ジッと羊を見つめていると、グレンさんは何処か諦めたようにぬいぐるみを差し出してきた。
ほとんど反射で受けとってから、私は彼の真意が読めずに、ただもふもふとぬいぐるみの毛並みを確かめる。
もふもふもふもふもふもふもふもふ。
うん、触り心地がとてもいい。
「このぬいぐるみ、どうしたの?」
「おまえにやろう。いらないなら、捨てて構わない」
「捨てる?どうして?」
「今のおまえに、ぬいぐるみはそぐわないだろう」
今の私?
数瞬の間。そこで、ようやく私はグレンさんの一連の不審な行動の糸口を得た。どうやら急に成長したとはいえ、仮にも年頃の娘にぬいぐるみを贈ることを躊躇っていたらしい。
けれどまだ疑問は残っている。じゃあ、なんでぬいぐるみをくれるのだろう、と。
不思議に思ったその時、グレンさんが口を開いた。
「おまえはずっと私を避けていただろう?」
「え、」
「私は記憶にないが、おそらくおまえに避けられるような行動をとってしまったのだろう。自らの非は自らで改めなければならない」
「だから、これをくれたの?」
「…………詫びる際は、贈り物をするべきだと聞いた。違ったのならすまない」
「……なんで、グレンさんが謝るの」
どことなくシュンと落ち込んでいる風なグレンさんに、私は本当に申し訳なくなってしまった。
「私が、勝手に避けていただけなの。グレンさんの非じゃないわ。本当に謝るべきなのは私よ」
ごめんなさい。私は頭を下げた。
元はといえば私が変なことを言って、彼の心を引っ掻き回してしまったのが原因なわけで。避けていたのもただ私が会わせる顔がないと勝手に思っていた。グレンさんが謝ることなんて本当に何一つない。
他人に嫌われたくないという、私のわがままだったのだ。
なのに、彼は未だに眉間にシワを寄せている。あんな自分勝手な言葉を言われたのに、彼は私を嫌うどころか心配さえしてくれている。不器用で、律儀で、優しい人なのだ。
そう思うと避けていた自分がなんだか馬鹿らしくなってきた。
「しかし、」
「ハイ!この話はこれでおしまい!素敵なぬいぐるみをありがとう、グレンさん」
言い募ろうとしたグレンさんを笑顔で制して、もふもふの羊に顔を埋める。それにしてもこの羊、もふもふである。
グレンさんはまだ何か言いたげな顔をしていたが、しばらくして私が意見を変えないことを理解したのか、小さな溜息をついた。
「おまえの頑固なところは、レイシーにそっくりだ」
「グレンさん、類は友を呼ぶって言葉をご存知?」
「グレンでいい」
グレンさん……グレンがかすかに笑ったような気がした。私はそれが気のせいじゃなければいいと思いながら、小さくグレンと呼んでみた。
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