反省する女、手が出せない二宮



名前の運命の輪は19歳の時に軌道から外れた。

もともと前世という不確かな記憶が脳にこびりついたどうしようもない子供だった。それでも遅くにできた娘に両親は大らかで優しかった。どの記憶を切り取っても善き人たちだったから。

門からやって来た化物の足に踏み潰されたと聞いた時は涙も出なかった。

生まれ育った街が辺り一帯踏み付けにされ、悲しみなんてそこらの瓦礫と同じくらいありふれている。あらゆるものが少しずつ体からすり抜けていく中、その男は葬式に現れた。

城戸正宗という男を認識した途端、均衡を保っていた中身が無法地帯と化す。

“前世は前世で、今の私はあの人たちの娘だから。”

──でもここ、前世で読んでた漫画の世界だよ?

ちゃんとボーダーを引いていた。ちゃんと普通の女の子として生きようとしていた。ちゃんとしようと努力した。頑張ったところで前世から離れることはできず。


「【王子様】」


親指をくわえるありふれた幼児を指し、大仰な呼び名を口にしたのが運の尽き。

ほんの少しだけ、現実がつらくて前世に寄りかかっただけ。漫画の世界だと思えば理不尽も恐怖も薄れるだろうと縋った。結果、名前が知るはずのない陽太郎の出生を一言で言い当ててしまった。

そこからは、ずるずると。


「【釣れない人】【やんちゃ小僧】【騙されやすい】【実力派無職】【年上趣味】」


テレビに映る芸能人を指して“あ、あのドラマに出てた俳優!”とか“あのギャグやってたよね”とか、“最近離婚した人”とか。そういう感覚で漫画を読んだ時のイメージを本人に向かって突きつける。前世と今のボーダーが消えた影響がこんな形で出るなんて誰が予想できただろう。

漫画のキャラクターだと認識した瞬間オートで動く口。面食らう相手。平謝りする名前。こういうことを何度か繰り返すうちに、そういうサイドエフェクトなのだという大層な勘違いが真実として広がってしまった。たかだかトリオン5で発現するだろうか。周りが大真面目に記録しているのが居た堪れなくて、だからと言って説明しようもなく、穴があったら入りたい日々に悩まされた。

直近の悩みができると古い悩みは薄れていく。目先の忙殺は悲しみを遠くの過去に縫い留めてくれる。

引き取ってもらえた恩、新しくできた本部での慌ただしい日々、故人を挟んだ関係しか持たない微妙な仲間たち。ボロボロになりながら環境に奔走して一年。


「迅くん、私、ここにいていいんでしょうか」


ふと、一人きりの迅悠一を見つけたその勢いでとんでもないことを聞いていた。


「私がいると、未来は変わりますか?」


ずっと気になっていたこと。本部を発足したての頃はあの和気あいあいとした雰囲気は微塵もなく、皆張り詰めた状態で門の出現を待ち構えていた。人員が足りない。予算も足りない。余裕がない。こんな時代が彼らにはあったのだろうか。それとも、漫画には存在しないはずの自分が関係あるのだろうか。

名前は、彼らの未来を変える気は微塵もなかった。だってあの漫画は迅が考えて考えて考え抜いて選び取った未来だ。そこに横から手を伸ばして悪化させてしまったらと思うと気が気ではない。本部の裏方として尽力しながらひっそりと事の成り行きを見守る気だった。

けれど、たまにどうしようもなく不安になる。

彼らの中に入り込んだ部外者の自分は邪魔でしかないんじゃないか。三門市から引っ越して静かに暮らした方が彼らのためじゃないのか。

“あの人”のそばから離れるべきじゃないのか、と。


「変わらないよ」


どれほどひどい顔をしていたのだろう。15歳の少年に縋る20歳女性はさぞ惨めに見えたに違いない。


「名前さんがいてもいなくても未来は変わらない」


成長期に入りたての迅と成人した名前の目線はほとんど変わらない。優しく伏せられた瞳は無風の湖のようであり、オアシスが見つからない砂漠のようでもあった。未来を常に取捨選択し続ける少年は、未来を知りたがる他者の扱いなんて慣れたものなのだろう。


「つらかったら逃げてもいい。頑張れるならこのままでもいい。自分で自由に決めていいんだよ」


言葉の意味を理解した瞬間、すぅぅ──っと体が軽くなった。

どちらでもいい。投げやりにすら聞こえる答えが、どれだけ名前の頑なな心を解せるか知っていたのだ。名前を傷つけず慰めるために貴重な能力を使い、尽力してくれた。……迅の得になることなんて一つだってなかったろうに。


「良かっ、た」


名前の目から涙が滲む。ギョッとした迅の前で我先にとこぼれる雫をハンカチで一生懸命取り除く。両親が亡くなってから初めて流した涙だった。心から安堵してやっと泣けた涙だった。それでも、それよりも優先すべきことがあったので。すっかり涙を流し終えると目の前の少年の体を抱きしめた。


「ちょ、名前さん?」
「ありがと、ありがとう、聞けて良かった。ありがとう、迅くん」
「大袈裟だなぁ。別にちょーっと覗いただけなのに」
「自分を安売りしないで。迅くんは実力派エリートなんだから」
「【実力派無職】なんでしょ。カッコ悪い肩書きついちゃってさ」
「迅くんは無職でもカッコいいよ」
「そう?」


ごめんね。は、言ったのか言わなかったのか記憶が曖昧で、言ってなければいいと思う。最大限の気遣いを見せてくれた彼に謝るのは失礼だ。


「迅くんは頑張ってる。頑張りすぎだよぉ……」


背中に弱々しく添えられた手が切なかった。


「今度から沢村さんの代わりにお尻触ってもいいよ」
「それは俺が最上さんに殺されるかな」
「ないない」
「あるから。ちょー大事にされてたから」


なんて会話を抱き締め合ったまま続けた。

これを境に名前の精神は健康に向かい始める。大学生とボーダー秘書の二足の草鞋でてんてこまいなのは変わらずとも、自分の立場が未来を変えることはないと迅からお墨付きをもらえた。恐れるものは何もない無敵の境地に達しかけた、────が。


「【妖怪きな粉こぼし】【落単】」
「らくたんってなんだ?」

「【ナタデココ】」
「購買はあっちっすよ」

「【手術しない限り身長伸びない人】」
「──ほう?」


これがあった。

太刀川はヘラっと首を傾げ、諏訪は怪訝そうに明後日の方向を指差し、風間は感情の読めない顔で腕を組んだ。完全に年下隊員に絡む迷惑職員。近くにいた古株職員や上司がフォローを入れてくれなければリアルに口から「ぴぇ」が出ていただろう。

漫画を読んでいた時は愉快なあだ名でも面と向かって言うとただの悪口にしか聞こえない。初対面で子供じみた悪口を言ってくる女なんて失礼を通り越して異常だ。上層部からサイドエフェクトの影響という免罪符をもらっているとはいえ、本当はただの悪癖に近いため、名前は内心でガクガク震えるしかなかった。

もともとメンタルが強い方ではない名前は、初対面の漫画のキャラに会うたびに勝手に暴言を吐いて勝手に傷付く負のスパイラルに凹んだ。思い出し羞恥と自己嫌悪で食事は喉を通らないし寝る前の反省会で睡眠の質はダダ下がり。いいダイエットになったと言えば結果オーライだが、周りを心配させている時点でオーライもクソもない。


(あぁぁぁぁ……っ!)


無駄に磨きのかかった微笑みの仮面の下で名前は力のない悲鳴をこぼし続けた。

ちなみにこのスパイラルは本部発足からだいたいの主要キャラがボーダー入りし終わる三年後まで続く。今でもたまに自分の口から出たあだ名が彼らの中で定着しているのを聞くと死にたくなるが、それで体調を崩さなくなったあたりメンタルの成長を感じる。初対面で不快な思いをさせたのだから、それ以上に彼らの力にならなければと。秘書業務の合間を縫って彼らの相談に乗る日々。忙しさでダイエットがさらに進んだのは言うまでもない。

これで大学の卒業論文と秘書検定の試験勉強が加わり、見る人が見れば限界社畜の有様だった。どれくらいひどいかと言われればあの根付に「大学生らしく遊びなさい。サークルとか入っていないのかね」と叱られる始末だ。初対面で【有能きつね】と呼んだのになんて優しいのか。名前は率先して嵐山隊のスケジュール管理を手伝った。今度は城戸司令直々に叱られた。

休め、遊べ、飯を食えとさんざん言われていた約三年。その内二年の間、名前にだって息抜きをする時間はあった。


「二宮くん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」


突然だが、前世の名前は二宮匡貴のことが大好きだった。

はじめは“なんか偉そうなのが来た”くらいにしか思っていなかった。主人公たちに対する冷たい態度といい、十代が多いキャラクターの中で20歳という大人組であることといい、スーツ姿でポケットに手を突っ込む威圧感といい、なんだかすごい人が出てきたな、と。

それが話が進むにつれ、ただ偉そうなだけでなく強くなるために努力できる人なんだな、尊敬する人にはちゃんとしてるんだな、もしかして人が撃てない千佳ちゃんに鳩原さんを重ねて心配してたのかな、などなど。冷たいだけに見えた彼の人柄がだんだんと見えてきて考えを改めた。

ユズルくんの採れ採れオーラを読み取って自隊に引き入れるあたり、意外と優しいのではと微笑ましく思ったくらいだ。

遠征選抜試験のさわりまで読み終わり、もう一周じっくり読もうと一巻を手に取った。それがある意味いけなかった。

一周目を読んだときに見落としていたあるものを、名前は見つけてしまったのだ。


『ゆきだるま、ある』


B級ランク戦ラウンド4。隊長三人三つ巴の膠着状態のままポイント差で二宮隊の勝利に終わった雪の決戦。時間切れまで待っていた二宮の足元に並ぶ雪だるま。吹き出しばかり目で追っていたせいで見落としていたそれに。

──二宮さんって雪だるま作るの?
──あの二宮さんが?
──雪だるま作ろう?

………………。

………………、…………、…………。


…………『ぷっ、ひゅぅぅ』


耐えきれなかった。
そこからすべてがダメになった。

端的に言って、前世の名前は二宮匡貴が何をしても面白い体になってしまったのである。

もちろん今生の名前は前世の名前とは違う人間であり、昔に読んだ漫画のことなんてすっかり忘れていたのだけれど。精神的負荷に耐えかねて前世の自分に縋りついた結果、現在の名前は前世と自分との自他の境界はあってないようなものだ。

つまり、現在の彼女もまた、


「ジュースか何か飲む?」
「いえ、自分で買います」
「いつも頑張っているんだもの、これくらい奢らせて。もうコイン多めに入れちゃったし」
「……では、ファン〇オレンジで」
「んぐっ、」
「何か?」
「ご、ごめんなさい、はい、ファン〇ね」


自販機から取り出した炭酸飲料を差し出す。手が震えているのは誰が見ても明らかで。


「ファン〇、二宮くんがファン〇って……!」
「そんなに俺がファン〇を飲むとおかしいですか」
「ごめんなさい、ごめっ、ふふ、くくくく!」


二宮匡貴が面白すぎてつらい。


「はぁ……。ご馳走さまです」


深々と溜息を吐く高校生はもう諦めの境地。些細なことで急にツボに入る女に悲しいほど慣れきっていた。

何がそんなに面白いのかと耳にタコができるほど聞かれたが、逆に聞きたい。あの威圧感のある雰囲気と低音の艶っぽい声で発される『ファン〇オレンジ』が面白くないわけがない。

そもそも現在の二宮は東隊の隊服を着ていた。ネイビーのミリタリージャケットと黒いズボンの高校生だった。初対面の時は例の悪癖のせいでそれどころではなかったが、落ち着いてみてみると珍しすぎた。似合ってないわけじゃない。むしろしっかり着こなしているのが流石二宮さんといった感じで、なのに面白いのがもう訳が分からない。

さらに漫画を読んでいた時は二宮“さん”と呼んでいた名前だったが今は年下の二宮“くん”である。あの二宮をくん付けしなければならないのかと余計に笑えて来た。

二度三度と顔を合わせるたびにむくむくむくむく。漫画では見られなかった二宮の過去やら日常やらを知るうちに頭の中で変なスイッチが入った。入ってしまった。

コンビニ帰りのビニール袋持った二宮さん。
切れたシャー芯を替える二宮さん。
寝ぐせが直っていなかった二宮さん。
太刀川さんをグーパンする二宮さん。
そばをすすって咽る二宮さん。

たまたま目についただけ。たまたまツボに入っただけ。それが何度も何度も繰り返されてパブロフの犬よろしく刷り込まれていく。


『お疲れ様です。まだ残るんですか』
『お、お疲れ様です二宮くん。ちょっとやり残したことがあってね。……あの、それは、』
『ああ、まあ、加古に土産を押し付けられたんです。よければもらってくれませんか』


無を通り越して虚無の表情で差し出されたそれは。


『────こけし』


持ち主と同じような顔をした、こけし。
二宮さんとこけし。
こけし顔の二宮さん。

……………………。

……、…………っ、…………っ!

……!!……、…………!!

…………………………………………。



『ぷっっっ、ひゅぅぅぅぅぅ』



大人の体裁を取り繕う暇さえなく名前は笑いの海に沈んだ。膝から崩れ落ち膝小僧を強打しながら胃がクワドサルコウを決める様を腹を抱えて耐えるしかない時間を、目ん玉かっ開いた二宮少年の前で披露したのだった。

そして現在に至る。


「ごめんね、いつもありがとうございます。元気になった」
「適当なことを」
「本当だよ。本当にありがと」
「はぁ」


ごめんねもありがとうも本心からのものだったので、ポーカーフェイスとは違う笑顔を素直に浮かべられる。普段の彼女を見慣れている人ほど別人にしか見えなくて驚くだろう。けれど二宮はもう慣れ切った顔だった。慣れるくらい見せられた顔だった。だから、特別じゃない。

深々と溜息を吐く二宮を見送り、買ったばかりの無糖ブラックを一口。落ち着いたところで時計を見れば意外と時間がない。慌てて缶の中身を飲み切ってから名前はいつもの部屋へと急いだ。


「あなた、また彼に会ってきましたね」
「分かりますか?」
「顔を見れば。憎らしいほど朗らかよ」
「ええ、まあ。たくさん笑うとリラックスするし寝つきが良くなるんです。今晩はぐっすりかな」
「まったく……」


少女はソファから立ち上がる直前に当たり前のように差し出された手に手を重ねた。名前は慣れた様子で少女の手を引き夕食の席へとエスコートする。


「今日はカレーですってよ、お姫様」
「まあ。庶民的で結構ですこと」


ワクワクしているのが隠せない瑠花の様子に先ほどとは違う柔らかい笑みがこぼれた。

忍田瑠花と名前の関係は複雑な境遇の上に立つシンプルな友情である。両親を亡くした者同士、帰る場所を失くした者同士。年が離れた少女二人。瑠花は育ちゆえに実年齢より早熟であったし、逆に名前は言動は落ち着いているがわりかしおっとり幼い部分がある。

意外と気が合った上に、瑠花としては陽太郎や自分を一発で【王子様】【王女様】と見抜いた慧眼に初対面から好感度が爆上がりしていた。悪癖が初めて良い結果を齎した稀有な例である。


「もうすぐダイガクとやらは卒業よね」
「はい。あと一月ほどです」
「そう……」


瑠花はカレーに添えられていたらっきょうを名前の皿へ。名前は福神漬けを瑠花の皿へ。お互いの好物をトレードしつつ始まった食事。

美味しいカレーを頬張るより先に、瑠花は別の感慨を噛み締めていた。


「これであなたのシャチク生活も終わるのね」
「んぐっ」


どこでそんな言葉を。

14歳の高貴なお姫様の口からとんでもないものが飛び出してきた。名前は気管に入りかけたカレーに苦しめられ、瑠花は優雅に福神漬けをポリポリ。


「名前ったらいくら言っても仕事を減らさないんですもの。しかもヒショケンテー? とかいう仕事を新しく増やして。どうせなら私とデートでもしてくれればいいのに。ダイガクセーの内だけだからですって」


この件に関して瑠花は忍田と沢村と連携して名前から仕事を取り上げる作戦を何度となく立ててきた。そして何度となく失敗してきた。

近親者を亡くし、新しい環境に慣れようと精一杯の彼女。忙しさは時に慰めの言葉より悲しみを効率よく押し流してくれる。大学生の内だけは体を壊さない程度に好きにさせようと、城戸司令も含めた大人たちから告げられれば二の句を告げられなくなってしまった。

この名前社畜脱却作戦で得られた成果と言えば忍田と瑠花の微妙な関係がかなり早い段階で解消されたことだろうか。ある意味で名前は原作を変えたことになるのだが本人は一切預かり知らない。


「寂しかったの?」
「そういう話はしていません!」


もりもりカレーを口に運ぶ瑠花。やっと落ち着いた名前ももりもり同じように食べ進める。

相手が二宮なのはともかく、何故こんなにもツボが浅いのか大人たちは薄々気が付いていた。慢性的な疲労による理性の欠如だとか、体が無意識のうちにストレス発散をさせようとしているのではとか。本当に何故二宮だけに発揮するのか意味不明だが。

あと一月、慎重に観察しつつ徐々に仕事量を減らさせよう。そうすれば異常なツボの浅さもどうにかなるだろうと。


「卒業式のハカマとやら、楽しみにしています」
「瑠花ちゃんも一緒に着ます? ツーショットで写真撮ったりしたら思い出になるよ」
「っいいの!? 着ます! 撮るわ!」
「楽しみが増えたね」


年の離れた友達二人はお互いに顔を見合わせてどちらともつかず笑い出す。たまの夕方に開催される気の置けない食事会だった。

こうして一月後、仲良く並んで袴姿で記念撮影をした二人だったが──。



「瑠花ちゃん、私笑わない女になる」
「はいぃ?」



社畜卒業と同時に変なノルマが増えた。





***





『俺は、最上宗一と違って生きています』



最上宗一は、名前にとって触れられたくない柔いところだった。

愛しさと、懐かしさと、疎外感と、苦しみ。その他言葉に表せないすべてが無遠慮に引きずりだされる存在。自分が取るに足らない人間だと思い知らされる。だから、二宮の言葉を断片的にしか覚えていない。その場から逃げることに必死で、何を言ったのかすら覚えていない。

早歩きで自室に滑り込んだ名前は、どうして、どうして、と頭の中で繰り返しながら、断片的に残っていた強い言葉を反芻していた。


『あんたは俺を笑い者にして、』


“笑い者”にしている自覚は驚くほどなく、それゆえに顔から火が出るほど恥ずかしい。

大学卒業祝いでもらった休み。瑠花と存分にショッピングして、大学の友人と二泊三日の卒業旅行に行って、よく寝てよく食べて。適切な休憩を得た脳は徐々に正常に戻りつつあった。


「あの二宮くんをキレさせるなんて……もしかして私、ヤバい?」


苦節二年。瑠花や忍田たちが促して促して促しまくっても達成できなかった自覚がこの時ようやく芽生えたのである。

思い返せばひどいの一言に尽きる。

二宮が歳のわりに大人な対応を取ってくれただけで、相手が相手ならハラスメントとして訴えられかねない状況だった。なんとか耐えていた二宮でさえ一年もの継続した嫌がらせに堪忍袋の緒が切れたのだろう。そこまで追い詰めたのは、ひとえに名前の際限のない甘えだ。

疲れているから、元気をもらいたいから、思いっきり笑いたいから。そんな自己中心的な軽い欲望に二宮を付き合わせていた。……本当に、ひどいことをした。

大人として、司令の秘書として、より一層自覚を持って働かなければならない立場で、隊員を笑い者にするなど致命的にも程がある。

無意識の睡眠不足が解消され、体が軽くなり、運動効率が上がり、食事も以前より美味しく喉を通るようになった。健全な肉体には健全な精神が引っ張られるもので、これから先は二宮セラピーに頼る必要はないだろうと気を引き締めた。


『ふっ、ふふ…………んんん』


しかし名前は年季の入ったパブロフのワンワンであったので。わりと手遅れかもしれない現実に直面した。

だって二宮くん面白い。

必要最低限の事務的な会話を済ませた瞬間急いでその場を離脱。誰もいないことを確認してから頬の裏側を噛むことで抑えていた笑いが力なく漏れた。いけない。このままだと二宮と話すたびに口の中が出血する。腹筋だってそのうち割れるかもしれない。それくらいワケもなく日常生活を送る二宮はおもしれー男として脳髄に刷り込まれていた。

どうしよう。どうすれば普通に接することができるだろうか。

考えに考えた名前は、関西でスカウトされてすぐチームを組んで大躍進する生駒隊を思い出した。

お笑いと言えば関西人。
関西人と言えばお笑いである。



「失礼します」
「お、秘書さんやん。【うそつきブロッコリー】に何かご用?」
「そうなんです。協力してもらえますか【うそブロ】くん」
「開き直りがエグい」
「【とりまるもどき】もいますよー」
「隠岐くんには大変申し訳なく思っています」
「俺には?」


気に入ってくれているから自分で名乗ったのでは? と首を傾げると生駒含めた他の隊員からポンポン援護が入る。

現在では軽い調子で自称している水上はともかく、隠岐に関してはわりと居た堪れない。流石に面識のない他人の名前を出して“もどき”はいけない。“もどき”って。

初対面の時枝に対して【菊地原】と言った時の微妙な空気は地味に後を引いている。後に本物の菊地原が入隊した時に明確な罪としてリフレインされたので余計に。

スカウト組は親元を離れてやって来ており、寮生活や一人暮らしに不慣れな青少年。ケア専門の職員ももちろんいるが、相談に乗る相手の選択肢は多い方がいいだろうと空いた時間に気にかけるようにしていた。

特に関西組は実家との距離が顕著だ。だからか生駒隊は関係性が密で、いつ来室しても隊員全員が集まっていることが多い。結果、満遍なく仲良くお話できるようになった。


「せんせー【うそブロ】くんが秘書さんを独り占めしてますーズルやズル」
「イコさんもふつーに絡めばええですやん」
「この場合の先生って誰なん?」
「マリオ先輩?」
「ウチ!?」


テンポがいい。日常会話でもコントのよう。流石関西人。関西人への謎の信頼を深めつつ、名前は挙手した。


「はい先生」
「秘書さんもノるんかい」
「マリオ先生、生徒が手ぇ上げとんのに無視は可哀想やろ」
「せやせや」
「マリオ先生!」
「あ、え、ええ? じゃあ、名前さんなに?」
「笑わないコツを教えてほしいです」


しー−−−ん。

一発ギャグが滑ったみたいな空気になった。

名前もまた、ギャグが滑ったお笑い芸人みたいに慌てて軌道修正を図る。簡潔に、笑いのツボが浅くて仕事に支障をきたしそうなことを伝えた。


「言うほどツボ浅いか? この前太刀川さんが餅の歩き食いで喉詰まらせて緊急脱出した時ひとりだけ冷静だったやん」
「そんなおもろいことよう真顔で言いはりますね」
「A級一位ってなんなん……」
「太刀川くんはそういうことすると予想がつくから」
「不名誉な信頼っすねー」


対して二宮は予想していないタイミングで笑いの波が来るし、逆に二宮がしそうなことも不意打ちで食らうとまずい。作戦室で足を組んでジンジャーエールをウィスキーよろしく飲んでいる場面に鉢合わせて死ぬかと思った。やはり二宮は別格なのだろう。

……完全な克服は、絶望的かもしれない。

気が遠くなったために無意識に未亡人顔を披露していた名前。陰のある色白の肌に想像もつかない闇があるのかと生駒隊が顔を見合わせる。


「ま、秘書さんには現在進行形で世話になっとるし、話くらいはいつでも聞きますよ」
「ため込むのも体に悪いからなぁ。お茶でも飲みに来てください」
「俺も俺も! なんか一発ギャグ考えてきます! 笑い我慢大会やりましょ!」
「それは海が火傷するやつちゃう?」
「海のメンタルなら大丈夫やろ」
「ほなまかせた海」
「任されました!」
「不安や……」


なんだかめちゃくちゃ気にされている。申し訳なさが出てきたものの、他に頼れるところもなく、深々とよろしくお願いしますをした名前だった。

ということでそれから二ヶ月ほど生駒隊の愉快な仲間たちと交流しつつ関西の空気を疑似的に学んだ。結果、対二宮の対処法をなんとなく掴めてきた。


“面白い”を“微笑ましい”にシフトさせるのだ。


「そんで、結果のほどは」
「口内炎が減りました」
「噛み締めとったんかい」
「おかげで美味しくお刺身が食べられます」
「良かったっすね。ほい」
「あら、詰みです」


パチリ。呆気なく追い詰められた玉を見下ろす目はそれほど悔しがっていない。実力差は嫌というほど味わってきたので。

生駒隊の作成室に通ってから一番上達したのは笑いのセンスでもコミュニケーション能力でもなく将棋の腕だ。


「さすがにプロですね」
「プロ試験受けてないんでアマですよ」
「素人目には十分プロですよ」
「おおきにー。で、誰なんです?」
「なにが?」
「相手」
「秘密かな」
「好きな人だから?」


じゃらじゃらじゃら。終わった盤面の駒を回収しながら聞こえてきた予想外の単語に素で首を傾げた。


「ヘラヘラするかのペーッとしとるかの二択な秘書さんが笑いすぎてあかんって、絶対特別な相手やん」
「………………ふふ」
「その笑いなに?」
「いえ、ごめんなさい」


微笑ましいなあ、と。


「そんな素敵なものじゃありませんよ」


特別な相手イコール恋愛に結びつけてしまいがちな青少年。十代の思春期。誰にでもあるよね、そんな時期。そういえば瑠花ちゃんにも同じようなことを言われたっけ。若いなぁ。

訝る水上を気にせず、いつもと違うニンマリとした笑みを浮かべる名前。たしかに笑いをこらえるよりはかなりマシだが、見る人が見ればイラっとする類の生温さ。これは成功しとるんか? 水上は真面目に不思議がった。真面目に呆れているとも言える。


「それはそれで腹立つ顔してるで」
「なるほど、要練習ですね」


時間を確認するとずいぶん長居していたらしい。片付けが終わり次第「対局ありがとうございました」と挨拶して仕事に戻る。見送る水上の目はいつも以上に座っていた。


「ニブちんやなぁ」


それを実感するのは一年以上も先の未来である。


さて、生駒隊の尽力(?)でなんとか対二宮ツボ制御の糸口が見え、順調に微笑みを矯正していった結果、そろそろ普通に接することができるのでは、と思い始めた頃。



「確認なんだけど、今一番会っちゃいけない人が誰か分かってる?」



迅からそんなことを尋ねられた。

久しぶりに本部に来たかと思えば腕を取られて空いている会議室に連行された。飄々とした態度はいつも通りでも少し息が上がっている。何かに焦っている様子は珍しかった。

それにしても、会ってはいけない人物。

迅がわざわざ言及するということは十中八九例の悪癖絡みに違ない。現ボーダー本部が設立して三年。大多数の登場人物は入隊し尽しており、ほとんど主人公組しか残っていない。もちろん全隊員と顔見知りということはないが、そろそろあの悪癖もおさらばできる目途が立っていた。

名前がまだ初対面を済ませていなくて、会ったら大変なことを口走りそうな人間と言えば──、


「……絵馬ユズルくん?」


ズルッ。迅が思いっきりズッコケた。


「いや、もっと他にいるでしょ? 重要な子が」
「えー……、あ!」
「ね? その子だよ」
「別役太一くん!」
「違うんだなぁこれが!」


迅をこうも困らせる人間がレアなことを名前だけが知らない。

(まだ出会ってもないのに【思春期ボーイ】とか【千佳ちゃんのこと好きな人】とかバラしちゃったらかわいそう)とか(絶対【本物の悪】って言う。冤罪かけるのは避けたいな)なんて大真面目に考えていた。


「鳩原未来だよ」
「あ」


事態はもっと深刻だった。

遅れて青褪める名前に対し、気を取り直した迅は幼子に言い聞かせるように。


「未来を変えるのは不本意なんでしょ」
「うん」
「名前さんと鳩原ちゃんが接触したら、いい方向に向かっている未来が急に変わる。多分、名前さんのサイドエフェクトが予言しちゃうんだと思う」
「うん……」


【密航する人】

それが名前の鳩原に対する最たる印象だった。

もしも鳩原の密航を未然に防いだ場合、雨取麟児はあちらへ行かない。そうすると三雲修や雨取千佳のボーダー入隊理由がなくなり、必然的に空閑遊真をボーダーに導く人間がいなくなる。原作の崩壊だ。

恐れていた最悪がすぐそこに迫っていた。


「じ、迅くん。解決策って、」
「うん。狙撃手が集まるところに行かないのは当然として、あとは二宮さんかな」
「二宮くん?」
「鳩原ちゃん、最近二宮隊に入ったんだ」


それで大方察してしまった。

名前が仕事上で会う戦闘員は、城戸司令が出席する会議に関係のあるB級以上の隊長が多い。鳩原と会うとすれば二宮が新しい隊員を紹介する会議以外の時間。

つまり、今度こそ仕事以外で徹頭徹尾避けなければならないということだ。

せっかく普通に話せる段階までこぎつけようという直前でこんなことになるとは。既に自主的に距離を置いていた分際で目眩がした。

理由は決して言えない。迅と違って名前のサイドエフェクトは無意識のオート機能だと知れ渡っている。既に固定された未来を知っているなんて言えるわけがない。何より原作通りに進めるということは、二宮がB級に降格するのを黙って見ていることだ。

最善のために二宮が負う責任を回避させてやれない。大のために小を切り捨てることの必要性は理解できても、その小の中に二宮が入っているなんて。

つらいと思った。

このつらさを迅は日常的に背負っている。

だから、思っても絶対に口にできない。


「仕方ない、よね」
「うん、ごめんね」
「謝らないでよ、迅くんは悪くないんだから」



──私が前世の自分に縋ったせいだから。











翌年の五月。目に見えて参っている二宮に声をかけようと思ったのは、二宮本人から糾弾されたかったからで。



「少し、そばにいてください」



拒絶ではなく受け入れられた事実に、喜んだ自分が憎らしかった。





***




10月27日。20歳の誕生日を迎えた二宮と名前は焼肉屋に来ていた。

いつも戦闘員たちが利用する焼肉屋ではなく、警戒区域からそれなりに離れた場所にあるこじんまりとした炭火焼肉の店である。酒の種類が豊富であり肉もちょっとお高い隠れ家的な店内で、半個室の席に向かい合うように二人は座った。

大学終わりにそのままボーダーに来たからか、二宮はシンプルなシャツにジャケットを羽織ったラフな格好だ。対して名前もボーダーの制服からタートルネックと秋チェックのスカートに着替えていた。お互いシンプルな装いなのはこれが予定されていたものではなく急遽決まった席だからだ。


『二宮くん誕生日だよね? 成人おめでとう。今度焼肉でも奢らせて』
『この後空いてます』
『えっ』


一時間前の会話だった。

鳩原が近界へ密航してから名前と二宮の関係は新しい形へと様変わりしていた。大枠としては以前と変わらず仕事の延長で世間話をする程度だが、名前には避けてきた負い目がある。何より生駒隊による笑わない訓練のおかげで急に噴き出すことはなくなった。自然な慈しみの表情を浮かべ普通に二宮の話を聞けるようになり、落ち着いて意思疎通できるようになったのは大きな進歩だろう。

普段は暖かみのない微笑みのポーカーフェイスを貼り付けた秘書さんが二宮には甘くなる。何も知らない一部の隊員は「おや?」と出歯亀し、ふと見え隠れする未亡人オーラを知っている面々は「ふぁ!?」と目を剥いた。

それくらい本人以外には分かりやすい変化だったのだろう。

名前の精神は19歳のあの頃に時間が止まったままだ。いくら仕事を覚え地位を得て日々をまい進しようと、心の在り方は繊細で傷付きやすくてボロボロで、急に浸蝕してきた前世の記憶に押されている。それは恋愛的な情緒も含まれていた。

つまりは恋愛レベルが大人になり切れていないということで。


『いいですか名前。どうでもいい相手と距離を置いたところですぐに存在を忘れるでしょうし、たかだかお気に入りの芸人と喋れないだけでそんなにやつれません。あなたはぜぇーーーーったいに“彼”のことを異性として慕っているのです。変な意地を張らずに当たって砕けて来なさいっ!』


瑠花の叱咤激励が的外れではなかった事件に遭遇する。


「はじめは何がいいかな。ごめんね、あんまりお酒は詳しくなくて」
「東さんたちとよく飲み会をすると聞きましたが」
「お酒の場が好きなんだ。響子さんのワインを一口味見する程度でもっぱらジュース担当なの」


ジンジャエールが入っているのだとモスコミュールか、シャンディーガフあたりがパッと思いつく。さすがに一発目のお酒としてはアルコールが強すぎる。無難にビールを経験しておいた方がいいだろうと、一番度数が少なくて癖の少ないものを店員さんにお願いした。ちなみに名前は車で来ているのでウーロン茶を注文した。

お通しと飲み物、ついでに牛ロースと牛タンが届いてから乾杯。


「成人おめでとうございます」
「ありがとうございます」


グラスがぶつかる甲高い音が落ち着いたBGMに紛れる。軽く一口含んだ二宮は何とも言えない苦さに眉を顰めており、名前は気にせず牛ロースを網に寝そべらせる。


「あんまり一気に飲むと大変だからちびちびね。お肉と合わせると美味しいよ」
「そういうものですか」
「うん。これからいろいろ試していけばいいよ。はい誕生日のひと」
「俺が焼きますよ」
「お世話させてよ。二宮くんにはいつも元気をもらっているから」


実際、二宮で腹がよじれるほど笑うことはなくなったが、二宮が面白い事実は変わっていない。見ていて飽きない人間が職場にいるのは癒しだ。そういう意味で二宮はなくてはならない存在に違いない。

炭火の煙で汗ばむ頬。仕事ではキッチリ結んでいる髪をゆるくまとめ直した名前はなんだかいつもより色っぽい。その調子で微笑むと照明が落ち着いた店内も相まって非現実的だった。

勝手に変な気分になった二宮が真顔のままビールをゴクゴク。喉ごしが良く苦味の強いそれは荒ぶった脳を冷静に平らげてくれる気がしたから。しかし見ている方の名前といえばすきっ腹にビールを流し込む悪酔い必至の飲み方に慌てた。


「た、食べて食べて! それか水! ダメだよ初心者ががぶ飲みしたら!」
「城戸さん」
「ほら牛タン焼けたよ! それかもっと何か頼む? このポテサラとか美味しそう」
「名前さんと呼んでもいいですか」
「はい?」


聞き返しただけで了承の返事ではなかったのに。


「名前さん」


お冷を差し出した手が捕まる。グラスを落としそうになり、「なに?」と努めて柔らかく聞き返しながら空いている方の手でお冷を避難させる。アルコールで妙に濡れた声に名前を呼ばれた動揺は、隠せていたかは分からない。


「どうして、笑わなくなったんですか?」


“避けたんですか”と聞かれると思っていた。そうだったなら冷静に切り返せた。秘密であることを上手に毛布にくるんで突きつけられたのに。思わぬ質問が飛んできたせいで反応が遅れた。


「怖い顔、してました?」
「そうじゃない。あなたはいつも綺麗だ」
「き、!?」


この男は本当に二宮匡貴だろうか。

まじまじと相手の顔を覗き込む。初めて会った時の神経質そうな16歳の高校生は、髪も身長も伸び、顔の丸みも完全に削ぎ落され、目に意志の強さが増して、──ずいぶんと男前になっていた。

名前の手を捕まえている手だってちょっとやそっとじゃ逃げられそうにない。戦闘員と秘書の違いだけじゃなく、性差が顕著に表れている。

ひとりの異性が、名前をひたと眼差した。


「前はしょーもない理由で笑っていたでしょう。どうして今は平気なんですか」
「そ、その件に関しては大変申し訳ありませんでした。二宮くんに失礼千万でした。自分でもどうかと思うのですが、君に癒しを求めていたといいますか、」
「今は」
「いま」
「今は、俺はあんたの癒しじゃないのか。どうでもいい男になっちまったのか?」


話の行先が分からない。そういう困惑で閉口した名前に、何を思ったのか二宮の真顔が苦し気に歪む。アルコールが早く回って来たのか、それとも別の何かか。耳まで赤くして、鋭い目つきに湿っぽいものが混じっていた。


「あんたはとっくの昔に俺に飽きたかもしれないが、……俺はずっと、あんたのことが好きだった」


二宮匡貴の赤面は、緊急脱出不可避のアステロイドとなって名前の直球ど真ん中を集中爆撃したのだ。



「好きなんだ。俺と付き合ってくれ」



たとえ、アルコールの勢いだったとしても。
その後、テーブルに肘を突き額を手にもたれさせた状態で沈黙してしまったとしても。

二宮が、もう意識朦朧でちゃんと聞いていなかったとしても。



「は、はい……よろしくお願い、します」




『ニブちんやなぁ』

鼓膜のすぐ裏に心臓が移動したかのようなドッドッドッドッ! を聞きながら、名前はその言葉を痛いほどに実感していた。


(あぁぁぁぁぁぁぁ……っ!!)


羞恥だ。とんでもない熱量が体の内側から外に向かって発散されようとしている。それを押しとどめるのに必死なあまり、名前は冷静な判断ができなかった。

いつの間にか寝落ちしてしまった二宮を運ぶために一応許可されているトリオン体に換装する職権乱用をしてしまったし、二宮の住んでいるマンションは知っているが部屋が分からないために付き合って一時間で自分の部屋に連れ込んでしまった。ベッドに寝かせて首元を緩めてやるためにボタンを外した瞬間、呼吸で上下する胸板を直視してしまい、再度声にならない悲鳴が上がった。

男の人だ。

当たり前のこと。漫画で読んでいる時から知っている。年下の、今日成人したばかりの男。四つも下の異性に告白されて、恋心を自覚して、その場で頷いて、お付き合いして、酔わせて部屋にお持ち帰り……。


「あぁ……」


一年半避けてきた。理由は言えない。さきほどの告白からしてしっかり傷付けてしまっていたらしい。いつからかおもしれー男の枠組みを大幅に超えていた。名前の、好きな人。


『俺と付き合ってくれ』

「ほんとうに、いいのかな」


部屋に連れ込んだ時点で後戻りはできない。名前のマンションはボーダーの借り上げ社宅であり職員の目はどこにあるか分からない。エントランスや廊下に監視カメラもある。この状態で付き合っていないと言った場合、名前は大事な戦闘員に手を出すだけ出して捨てた鬼畜になってしまう。何より二宮に最低な噂が流れてしまうかもしれない。

大人として、責任はとらなければ。


「……すき」


試しに一度口にしただけのつもりだった。本当に魔が差したとしか言えない愛の告白が、アルコールのように体中を熱く巡る。

脳も、心臓も、手足も、吐息も。


「すき。すき、すき、……すき」


自己洗脳のように脳髄に刷り込み続ける唇は夢に浮かされている。得も言われぬ多幸感に支配され、真実として名前をどろどろに蕩かしてしまった。



「すきだよ、二宮くん」



自分のことばかりが大切で、自分を守るのに必死で、周りを気にかけているのは自分をよく見せたかったからで、慕われるたびにほんの少しの痛みを感じていた。──余裕のない19歳の女の子の顔を、眠っている二宮が見ることはなかった。





***




二宮と名前の関係は変わらない。仕事上の付き合いをし、空いた時間に隊のことや大学のことなど世間話でコミュニケーションを図り、あとは手を振りさようなら。職員と戦闘員の関係性に、申し訳程度に“恋人”が付け足されたような曖昧さ。

二宮はあの日のことはなかったことにしたいのかと思ったが、ふとした時に名前と目が合う。いつもの真顔のはずなのにじっとりとした瞳が餌を前にしたライオンのようで。名前はポーカーフェイスの下でドキリと身を強張らせた。

待たれている。

直感が当たっているのかは分からない。しかしこの調子では何も進展しないまま時間が過ぎていくだけだ。ここは年上の自分がリードするべきだろうか。

恋愛にブランクがありすぎるのを押して、誕生日焼肉以来はじめて食事に誘った名前だったが、城戸司令の急なスケジュールの変更で残業が決定してしまった。



「ごめん二宮くん、もう少し遅くなりそう」
「分かりました。作戦室で課題をやってます」
「帰ってていいよ。どうせ同じ敷地内に住んでるんだもの」
「待ってます」


移動中にたまたま見かけた二宮に予定の変更を告げようとすると、食い気味で返ってきた“待っています”。その必死さがあの“二宮さん”と結びつかなくて、この人は本当に自分のことが好きなのだという喜びに満ちる。

面白がっているのとも微笑ましいのとも違う、純粋な嬉しさで顔が勝手に解れていく。


「ふふ、また後で」


良かった、ちゃんとお付き合いできてて。

残業があるとは思えないほどテンション高く踵を返した名前は、手を出そうとして失敗した二宮の葛藤に一切気が付かなかった。




「(名前さんは本当に最上宗一の死を乗り越えたのか? また拒絶されるくらいなら、今のままでも……しかし、)」




お互いが忙しい立場なため、夕食を一緒に取る以上の進展がないまま時間が過ぎる。イレギュラー門の出現やC級まで巻き込んだラッドの掃討作戦、近界遠征からのA級上位部隊の帰還、近界民だという空閑遊真のブラックトリガー争奪戦、年明けのボーダー隊員の正式入隊日。

イレギュラーが続出した年末年始だったため、プライベートに気を使う余裕もなく。中学生レベルの牛歩なお付き合いに違和感を感じなくなっていた。


「大丈夫? 二宮くんに弱みを握られてません?」
「惚れた弱みなら」
「笑っていいのかしら」

「二宮は名前ちゃんのこと、本気で大切に思ってるから。名前ちゃんも二宮のことちゃんと見てほしい」
「東さん? 私そんなに不誠実に見えますか?」
「いや、もしかしたら無理してるかもと心配で」

「その、無理に忘れようとしなくていいと思います。城戸さんがつらくなるだけです」
「私は幸せですよ三輪くん」
「……そう、ですか」


旧東隊をはじめとした何人かから合間に意味不明なアドバイスを挟まれたが、名前としては本当に幸せだった。

デートもキスもそれ以上も、いつかはできたらと思う。それが今じゃないだけ。きっと二宮もそう思っているだろう。

C級が増員されて賑やかになったラウンジ。久しぶりにここの甘いキャラメルラテが飲みたくなったので、休み時間に散歩がてら足を伸ばした。


「お。あの人かな」
「たぶん?」
「おーい! そこのスーツのお姉さーん!」
「あ、コラ空閑!」


“空閑”の名前でとっさに振り返った名前。案の定、雲みたいなふわふわの白い頭を揺らした子供がこちらまで走ってくる。



「【主人公その2】」
「うん?」
「【グラスホッパー殺法】」
「ぐらすほっぱー?」
「【正直カリフラワー】、……すいません、変なサイドエフェクトで」
「ほほう? サイドエフェクトとな」
「それで、何かご用ですか」


不意打ちの主人公襲来に面食らったのは一瞬。すかさず発動した悪癖を華麗になかったことにして聞く体勢に入ると、間髪入れずに予想外の質問が投げかけられた。



「モガミソウイチについて聞きたいことがあるんだ。お姉さん知り合いなんでしょ」



追いついた三雲が冷や汗を流す。ラウンジのどこかから鋭い視線が突き刺さった気がした。

きっと空閑が近界民だと知っているA級上位の誰かがいるのだろう。勝手に納得した名前だったが、心臓は嫌な音を立てて拍動している。

空閑に嘘をつく危険性を十分に理解していた。だから本当のことを言わなければならない。──本名・・を名乗らなければならない。



「まず自己紹介からいいですか」
「なるほど。空閑遊真ですハジメマシテ」
「はじめまして。私は城戸司令専属秘書を務めています城戸名前です」
「……キド?」
「四年半前の大規模侵攻の時に司令に引き取られたんです。……旧姓は最上。最上名前」


「最上宗一は、私の兄です」









「え"っ」
「どうした菊地原」
「何か忘れ物でもあるのか」
「いや、え、今、ラウンジの方からすごいことが」
「なんだ、またくだらない噂でも聞こえてきたのか」
「……城戸司令の秘書の人、例の黒トリガーになった人の、妹だって」
「…………ん!?」


ラウンジにほど近い通路を歩いていた風間隊三人。菊地原はあんまりな事実に珍しく自分の耳を疑った。

耳がいい菊地原と周りに気を配る歌川は例の下世話な噂を知っていた。なので秘書さんと二宮が交際している件で勝手に気を揉んでいた大勢のうちの一人だったりする。

特に菊地原は二人の異常な心音が聞こえてきていたので、すれ違いの両想いに苛立ちを通り越してもだもだしていた。口ではぐちぐち言いつつしっかり見守っていた側だ。奥手の二宮さんってなんか気持ち悪いな、と。

その際たる原因である名前未亡人説がたった今覆されたのだ。

──えっ、今までの二宮さんの苦悩ってなに? 骨折り損じゃん? は?(圧)

一周回って応援してるとも取れる菊地原の荒ぶりに風間は一切気付かず、「何を言っているんだ菊地原」と。非常識な人間を見る目を向けてきた。



「名前さんは最上さんの実妹だ。兄に聞いた話だと、歳が離れ過ぎていてほとんど娘みたいに可愛がられていたらしい」



──早く言えよ。
──みんな知ってると思ってそうだなあ。

自分の隊長の抜けているレベルを見誤っていた。目に見えて頭を抱える隊員二人に、最後まで風間は怪訝そうだった。あんたのせいだよ。






← back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -