ツボる女、曇る二宮
その男を葬式で見るのは二度目だった。
突如襲来した謎の化物により混乱に陥った三門市。多数の犠牲者が出た未曾有の脅威が過ぎ去ってなお死者を弔う時間は貴重なものだ。
表情を凍てつかせた男は共同供養場に焼香をしに来たらしい。涙の一滴も流さない代わりに所作だけは随分と丁寧だった。
「私のことを覚えているか」
覚えているか、と尋ねられても名前は自信を持って頷くことは出来なかった。何故なら“あの人”の葬式で焼香をした男は今よりずっと人間らしい顔をしていた。半年も経たずにここまで人は変われるものだろうか。
沈黙する名前の返事など初めから考慮していなかったのだろう。傷の走った左目が悠然と出口の方を示す。
「最上から君のことを頼まれている。行くところがないのならついて来なさい」
もがみ、最上、と。傷のある顔が、厳しい表情が、オールバックで、スーツを着て、硬質な瞳をした男が口にすると、頭の奥底から膨れ上がる熱が抑えられない。止まらない。
パリンッ。内側から押し上げられた何かが割れ、粉々に砕け散る音が聞こえた。やってしまった。知りたくなかった。それこそ跨いではいけないボーダーを自ら踏みにじったような忌避感と、(本当に?)──爽快感。
離れていく背を追いかける。当たり前に開けられた車の後部座席に乗り込んだ。そうあることが天命かのように、名前は。両親を亡くして天涯孤独になったばかりの、大人になりかけの少女は。生まれ変わって19年間ずっと感じていた既視感の正体に辿り着いた。
空っぽの棺を燃やした葬式。
遺体がないままお別れした“あの人”。
──“あの人”は、
黒トリガーになってしまったのか。
***
城戸名前は城戸司令の姪であり、現在のボーダー本部設立時から関わっている古株の部類に入る。22歳までは大学生との二足の草鞋、卒業後は城戸司令直属の秘書として組織の歯車を全うしている。
そんな彼女には上級隊員たちの間で実しやかに囁かれる噂があった。
──恋人に先立たれた未亡人。
現在迅悠一が所有する黒トリガー“風刃”を生み出したとされる男こそ、名前の相思相愛の相手であったのだと。
実際に迅が本部に来るたびに彼女自ら話しかけに行くところを何人もの隊員が目撃している。霜が降りたような無表情が春の雪解けのように緩む様は、普段の彼女を知る隊員には目新しい光景だった。
もう顔を見ることすら叶わない恋人の変わり果てた姿でさえ愛おしいのだろう。
『そういや最上さんと名前さんって結構歳離れてるよね。あの人城戸司令と歳近かったし』
『……そうだけれど。歳が離れてたところで“あの人”との関係は変わらないから』
たまたま会話の内容が聞こえてしまった面々は気不味いやら恥ずかしいやら。
件の人物と城戸司令が同い年だとして、24歳の名前とは18歳差ということになる。僅かな間と切り返した言葉から歳の差なんて関係ないほど深く愛し合っていたことが伺えた。
別に、黒トリガーになってしまったことを除けばあの侵攻で大切な人を亡くした人間は珍しくはない。ボーダー内では特に顕著だ。他人の傷に喜び勇んで爪を立てるような人間は少なくとも上級隊員の中にはいない。
ならば何故、こうも名前の噂に皆が一喜一憂しているのか。
それは、
「ごめん二宮くん、もう少し遅くなりそう」
「分かりました。作戦室で課題をやってます」
「帰ってていいよ。どうせ同じ敷地内に住んでるんだもの」
「待ってます」
「そっか……二宮くんが待っててくれるんだ……ふふっ、じゃあ早くお仕事終わらせないとね」
頬を健康的に染め上げて心底嬉しそうに笑う名前。微妙に合っていない視線が宙を漂う二宮。ポケットの中の手を外に出そうとしてまた戻る反復動作は注視すればすぐに分かった。
あの二宮が手を出そうか迷っている。
「ふふ、また後で」
結局名前は気付かず、一人残った二宮が自分の右手を見下ろして静かに溜め息。落ち込んでいるのでは、と思い至った隊員は得体の知れない寒気に身を震わせた。
現在ボーダー内を駆け巡るセンセーショナルな話題。
B級一位二宮隊隊長・二宮匡貴が20歳の誕生日を迎えた同日、二宮からの告白であの未亡人・城戸名前とお付き合いを始めたことだった。
***
二宮が名前を認識したのは東に連れられて当時隊を組んでいた加古と三輪ともども挨拶に行った時だ。
「難儀なSE持ちなんだ。あまり気を悪くしないでくれ」
あらかじめ説明を受けてはいても、実際に直面すると訳の分からなさに思い切り顔を顰めた。
「【雪だるま】」
「は?」
良く言えば大人しそうな、悪く言えば陰鬱そうな女だった。当時16歳の二宮少年からすれば大人にしか見えない年頃の女性が、初めて動物園で象を見た幼児のようにポカンと口を開けていた。
「【焼肉よく行く人】」
「は?」
ちなみに当時の二宮はまだ焼肉通いに目覚めていない。なのである意味予言に近い言葉ではあるが、この時点では本気で謎の塊でしかなく。
「あ、【ぬるい解説しやがって】」
「二宮だけ多くないか?」
そう。加古は「【炒飯】」、三輪は「【シスコン】」だけだったのに対して二宮だけ3つもある。もはや不機嫌を隠しもしない少年に東が宥めるように肩を叩いた。
「名前ちゃん、そろそろ大丈夫か?」
「──…………、……、はい、落ち着きました」
「という感じで、本人の意思と関係なく初対面の相手に何かを言ってしまうSEだ」
「何かってなんですか」
「第一印象とか、趣味とか、あだ名とかか? たまに予言みたいなことも言うから一応記録して上に提出しないといけないんだ」
【ぬるい解説しやがって】が記録に残るのか。
【炒飯】加古がクスクス肩を震わせ【シスコン】三輪が全力で困惑している横で二宮は歯軋りした。初対面でとんだ辱めだ。
「城戸名前です。城戸司令にご用がある際は私を捕まえたら早いと思います。あと、……いつも防衛任務お疲れ様です」
貼り付けたような笑み。とってつけたねぎらいの言葉。呆けていた相手が急に理性を取り戻したことで、なんと反応していいか分からず。「城戸さんもお仕事お疲れ様です」「ど、どうも」と無難な返しをする同輩の横で、二宮は沈黙を貫いた。
お世辞にも良いとは言えない初対面だったが、以降も彼女に対するイメージはマイナスすれすれを這っていた。
というのもこの女、社交辞令的で人間味のないポーカーフェイスが通常装備のはずなのに、二宮が話しかけると、
「に、のみや、くん、敬語使えるんだ」
「使いますが?」
「あ、ごめんなさい、変な意味じゃなくて、えー……フッ」
鼻で笑いやがったのである。
暗に敬語も使えないような無作法ものだと思われていたということか。そもそも初対面の自己紹介でも敬語だったろうに。あからさまにイラっとした二宮に対して、名前は深呼吸を繰り返し、それでも抑えきれない笑いが青白い頬に自然なチークを乗せる。初対面の陰鬱さは為りを潜め、実年齢よりいくぶん幼い少女の面影が引きずり出された。
それから、
「二宮くんって、ふぐっ、スプーン、持つんだ……っ」
「持たなければ食べれませんが」
「二宮くんが制服着てる……制服着て自転車乗って……」
「高校生なので、当たり前でしょう」
「二宮く、二宮“くん”だって……くく、ふはっ」
「呼ぶだけでどうしてそうなる?」
会うたびに謎のタイミングで笑い出す。こらえきれずに噴出した時の屈託のない笑みは本当に普段と別人で、これが二宮だけに発動するのだから堪ったものじゃない。
「毎回なにがおかしいんですか」
「二宮くん、に、日常生活がっ似合わなくて……ふふ、ふふふ!」
馬鹿にされている。
少なくとも二宮の中ではそれが真実だった。
すぐにでも距離を置ければどんなに楽だったか。
ボーダー最高責任者の城戸司令の秘書であり、未だ隊員が少なかった頃は嫌でも顔を合わせなければいけなかったこと。仕事の話は普段通りの柔和なポーカーフェイスで卒なく打ち合わせが進んだこと。年若い二宮の意見をキチンと聞いて理想と現実のすり合わせに力を貸してくれたこと。大学生と秘書業を並行してこなす中、十代の隊員たちの頼れる大人でいてくれたこと。
いろんなことが積み重なって、二宮と名前が距離を置くことはどうしてもできなかった。
「二宮くんは今晩は食堂でご飯?」
「いえ、東さんが焼肉をご馳走してくれるそうなので、そちらで済ませます」
「へぇ、二宮くんが焼肉……セルフで、トングを持って、二宮くんが……くくくっ」
これさえなければ……。
全力で苦虫を噛み潰す二宮。無責任な外野は「名前さんは二宮の仏頂面が心配なんだな」「二宮がぼっちにならないよう気を使っているんだろ」などと不名誉なことを言い出す。味方が誰もいない。
「いいじゃねぇか美人に笑いを提供できるなんて。どこにツボってるのか教えてもらえよ俺も知りたい」
「お前は衛生について一から学びなおせ【妖怪きな粉こぼし】」
「律儀に覚えてんのかよ」
実際にきな粉のこぼしすぎできな粉餅禁止令が出た時は、名前のSEの信憑性としょうもなさに変な笑いが出たものだ。
そう、この時の二宮はまだ名前のことを仕事ができるだけのしょうもない笑い上戸としか思っていなかった。
あの時。二宮が高校卒業を間近に控えた初春。フットライトが等間隔に足元を照らす夜の廊下。城戸司令ら上層部が使用する会議室が密集するそこで、ベンチに並んで座る迅と名前を見つけるまで。
・
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「遅くなってごめんね」
迅が出したとは思えないほど静かに、優しく、謝罪の言葉が薄暗い廊下に伝播していく。重要なIDを会議室に忘れたことに気付いて取りに来た帰り。いつもとは違う廊下をショートカットしたところ、暗躍好きな迅が誰かと話している場面に遭遇し、二宮は思わず足を止めた。
「なんで迅くんが謝るの?」
相手を察し、思わず壁に身を寄せる。背を預け腕を組み自然と聞く態勢になってしまったのは、ここで動けば話を中断させてしまうリスクを避けたからか。この時から彼女に対して淡い何かを抱いていたのか。
今となっては分からないことだ。
「だって、会わせるのに二年もかかった」
衣擦れの音の後、何が取り出されたのか。分からない二宮ではなかった。
「これが……」
「うん、最上さんだよ」
黒トリガー。優れたトリガー使いが全トリオンを注ぎ命すら捧げることで結実するイレギュラー。ノーマルトリガーから何もかも逸脱した埒外なトリガー。その元となった人間の名は知識として知っていた。……適性試験のために集められた隊員たちから漏れ聞こえた下世話な噂も。
“城戸名前の恋人”。
“彼”が使用者に二宮を選ばなかったのはこの時のためだったのかと邪推してしまうほど、それは、
「“あの人”、こんなに小さくなっちゃったのね」
それは、感動的な再会だった。
淡々とした仕事のアナウンスとも笑いを必死にこらえてくぐもった声とも違う。体の内側から取り出したぬくもりをじんわり分け与えるような。寂しさと懐かしさと、喩えようのない感情を幾重にもまとわせた哀切。
二宮の知らない城戸名前。
「本当は名前さんに形見分けするべきなんだろうけど、きっと無理だ。さっきの“ごめんね”はそれ」
「分かってるよ。こうしているだけでもおじさんはダメっていうでしょう?」
「分かっちゃったかぁ。そうそう、うちの支部長が直談判してさ。実力派エリートの俺がこうして暗躍したわけ」
「じゃあ林道さんにもお礼言わなくちゃ」
それからしばらく、生ぬるい沈黙がその場を支配した。
二宮は一瞬、名前が声も上げずに泣いているのかと思った。そうとしか考えられない間が盗み聞いている身分に突き付けられる。音でしか様子を探れない現状がとても不自由で、じれったくて、腹立たしい。
蚊帳の外に立つしかない己が、酷く。
「私はみんなで使ってくれてよかったと思うよ」
「……そっか」
「私じゃきっと宝の持ち腐れだもの」
再び衣擦れの音。次いでヒールの音が誰もいないはずの廊下に響いた。
「死んだ人間の価値は生きている人間がつけるんだよ。
────に、最高の価値をつけて」
小さすぎて聞き取れなかったそれは、今は亡き愛しい人の名前に違いなかった。
そうじゃなきゃ、どうして名前がアッサリその場を立ち去れたのか分からない。
どうして泣かずに“さよなら”を言えたのか、いつまでも分からないままだ。
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・
「二宮くんが、二宮くんが花束持って、おはな持って……っ!」
「卒業祝いでもらっただけです」
名前は相変わらず変なところで二宮を笑う。嘲笑の類いではなく本心から面白いと思って体を震わせていることを理解するまで一年かかった。
二宮が高校を卒業したように名前も大学を卒業した。この春から正式にボーダーの城戸司令専属秘書としてボーダー本部に勤めることになる。とはいえ業務内容は今までとさして変わりない。変わるのは本格的に隊を率いることになる二宮と、隊員が増えるボーダー自身だ。
きっと今ほど気軽に会えることは少なくなる。
どうしてか、喉の奥が渇いた。
「焼肉、食いに行きませんか」
「お祝いに? いいね。私ももう社会人だからご馳走するよ」
「いや……」
二宮と会うたびに基本的に笑いをこらえているからか、毎度頬に赤みが差している状態がデフォルトだった。そのため折れそうなほどほっそりした体躯や少食による不健康さにあまり目がいかなかった。
「……あなたはもっと栄養を取るべきです。そんな有様では司令の秘書は務まらない。食事も体調管理の一つですよ」
「取ってるつもりだけれど。二宮くんに心配されるレベル?」
「どういう意味ですか」
「ええと、二宮くんは黙して語らない子だから……ふふ」
またか、と思ったのは一瞬。
今度の名前は少し違かった。
「あははは。年下に気を使わせるのは、流石にまずい、ね」
笑いは笑いでも、苦笑。
初めて見る、知らない城戸名前。あの日、迅と密会していた時もこんな表情をしていたのだろうか。こんな表情を、二宮よりも年下の男に見せたのだろうか。
“ 死んだ人間の価値は生きている人間がつけるんだよ。”──では、生きているあなたの価値は誰がつけるんだ。──俺がつけてはいけないのか。──俺が。──俺は、
「俺は、最上宗一と違って生きています」
弓なりに細まっていた目が、下がっていた眉が、表情筋のこわばりが見る見るうちに解けていく。動物園で初めて象を見た幼子のような呆けた顔。今の二宮は彼女にとってそういう珍しい生き物なのだろう。
「今のあなたを大切にできます」
手に持っていた花束が貰い物であることも忘れて名前に差し出す。おずおずと受け取った表情はまだ幼児のそれを抜け出していなくて、これ以上なにを連ねれば理性を取り戻すのかと思慮した。
「それは、そう、かもしれないけれど」
ひまわりと、黄色いバラと、レースフラワーでまとめられた小さなブーケ。一つ一つを手慰みに撫で、視線はすっかり花びらに固まっていた。会話に応じる人間の態度ではない。
自分が何を口走っているのかも分かっていなかった分際で、歯切れの悪い言葉しか返さない相手に苛立った。
きっと焦っていたのだ。
「俺を見ろ」
頼りない肩に手をかけ、無理やりこちらに引き寄せる。グッと近づいた顔。俯きがちなまつ毛がこの時ばかりは上を向く様を至近距離で見た。
瞳と瞳が合わさったら、もう、堪らなかった。
この瞳はまだ死人を眼差している。
「飯も満足に食えないくせに死んだ男がなんだ。もういないヤツを振り返ってなんになる。あんたは俺を笑い者にして、ずっと、しょーもねぇことで笑ってればいい」
大声を出していないのが嘘なほど、喉が焼けるような激情が本音となって我先に飛び出す。本当はもっと酷いことを言いたかった。言って名前が現実を見てくれるなら好きなだけ。
好きなだけ、思うさま。すべてをぶちまけない程度の理性が今、二宮の中から燃え尽きようとしている。
「そんな野郎なんか忘れ、っ」
ぽふっ。
忘れて、俺を…………俺を?
「二宮くんって意外とひまわりも似合うかも。素敵な花束だね。見せてくれてありがとう」
視界に差し込まれた鮮やかな黄色。場違いなほど陽気な彩色が二宮の激情こそが場違いだと非難してくる。茹っていた思考が一瞬で氷点下にまで落ち着いた。
とっさに緩んだ手を見逃さず名前が離れていく。薄い肩の代わりに手のひらに握らされた花束。ただそのために触れられた指が初めて知った彼女の肌だった。
「焼肉はまた今度でいい?」
「……はい」
「そうね、お酒が飲めるようになったらがいいかな」
「それは、」
暗に、俺を子供だと言っているのか。
勝手に思い至って、それが正解だと自分でも確信できて。閉口する二宮を見上げる名前は司令の秘書をしている“城戸さん”だった。
「では、帰り道に気を付けて。いつも防衛任務お疲れ様です、“二宮隊員”」
・
・
・
避けられている。
半年だ。半年もの間名前から距離を置かれている。それも仕事はキッチリこなした上でプライべートの話題を振ろうとすると察して立ち去ってしまうのだ。ただでさえ以前よりも仕事上で会う機会が減ったというのに、恨みがましく小さな背中を見送るしかない。
目を合わせて微笑みかけてはくれるが堪えきれずに笑い出すことはゼロ。一切合切仕事の関係だと割り切られているのをヒシヒシと感じる。二宮が隊長になってからは特に。週一で城戸司令の後ろに控える微笑を眺めているというのに、もうずっと会っていないような寂しさが拭えない。
二宮が避けられている間にも名前の人間関係は変化していく。最近は関西からのスカウト組が集まった生駒隊を気にかけているらしい。以前と変わらず年若い隊員たちのメンタルケアに努めているのだと分かってはいても、気軽にチョップされる彼女を見ると眉間に力が入った。
さらに腹立たしいことに、迅と名前の関係はあれからずっと続いているらしい。人目のない夜のベンチで形見を挟んで故人について語らっているのだろう。人が多い昼間すら廊下で立ち話をする二人を見かける。いっそ間に割り込んでやろうか……。それこそ子供の癇癪でしかないと、諫める理性はもはや風前の灯火だった。
大学生活と隊長としての責務、防衛任務にランク戦。ある程度そつなくこなせるようになったところで、二宮は禁止カードに手を出した。
「相談って名前ちゃんのことか?」
「どうしてそれを」
「迅から助言を少々」
「あ"?」
最終手段・東戦術顧問。……のはずが、今一番聞きたくなかった名前が出てきたため、平身低頭頼んでいる身分ですごんでしまった二宮である。
「至急手を打たなければまずい案件だとか。お前に伝言を預かっているんだ」
両手で宥めるポーズを取る東。しぶしぶ話を聞く姿勢を整えると、芝居がかった咳払いが一つ。
「あー、“来年の五月まで我慢しろ。告白する気があるなら二十歳の誕生日に”」
「何をほざいてやがるあのガキ」
「まあまあ」
結構な頻度で仲良く話している男が、避けられている男に対して意中の相手ともう半年距離を置けと宣うのだ。それは腹が立つだろう。などと東は二宮の心中を察していたわけだが。
「俺がどうして城戸さんに告白することになる」
「は」
現実は予想の斜め上を行くものである。
「だって、お前、名前ちゃんにフラれたんだろ?」
「なんですかそれ。そもそも告白してませんし、俺は城戸さんのことを異性として見ていません。変な言いがかりはやめてください」
「嘘だろ二宮……」
優秀な元教え子のとんでもない鈍さに東は頭を抱えた。冷静沈着泰然自若な東に戦闘以外でこんな顔をさせたのが二宮というとんだ落とし穴だ。
心底心外です不愉快ですと鼻の上にシワを寄せた二宮。名前の背景を考慮すればこのままそっとしておいた方が良い気もするが、未来を見る迅から助言をもらったとなれば放置もしていられない。このまま二宮の無意識の悋気で迅に被害が行き最悪“風刃”が破壊される事態に発展すれば目も当てられない。痴情のもつれでボーダーの戦力を削るな。
恋愛相談などという専門外の相談が来るとある程度身構えていた東。事態の深刻さを鑑み、元教え子に現実を見せる作戦に出た。
「実は先週、ボーダーの同期と集まって飲み会する予定だったんだが皆仕事が忙しくてなかなか人が集まらなくてな、結局俺と名前ちゃんの二人だけになってしまったんだ。それなりに酒もつまみも買ってたからな、気心知れた仲で無礼講だろうとそのまま俺の部屋で飲み始めたんだが、どうも名前ちゃんの酒の回りが早くてなぁ。酔ってへらへらするのはいつものことだがあの日は特に甘えたになって、何を勘違いしたのか俺のことを“おにいちゃん”なんて呼びながら擦り寄って、」
「東さん」
「、なんだ?」
「その話を今しなければならない理由は何ですか」
「お前のその顔を引きずり出すためかな」
スマホのインカメラで映し出された顔は、今にも東の喉笛を噛みちぎってしまおうかと唸る猛獣だった。
「それで“異性として見ていません”は嘘だろ」
「ちなみにさっきのも全部嘘だ」朗らかに笑う東、羞恥に前髪をぐしゃりと握りしめる二宮。人生経験の差が如実に現れている。
こうしてわずか1分で鈍感な元教え子に自覚を促したスーパー戦術顧問であった。流石禁止カード。
というわけで二宮は待った。
心頭滅却すれば火もまた涼し、しかし本当に焼け死ぬことがないよう、あくまでも二宮隊隊長として城戸秘書に接した。社交辞令的な会話ですら自覚してしまえばなんとも言い難い後味が尾を引いた。どうして自分が、昔の男を引きずる女に惚れなければいけないのか自問自答する。
その時間すら惚れた弱みを補強する最悪な自傷行為でしかなく、感情の行き場所を持て余しながら二宮は待った。
──五月。鳩原が密航した件で二宮隊はB級に降格させられた。
「二宮くん、大丈夫? 最近ご飯食べれてる?」
なるほど、こうして再び交流が始まるのか。
皮肉に思わずにはいられなかった。
・
・
・
頭が痛い。
喉が張り付く。
どうして寝間着に着替えずに寝ているのだろう。
ベッドに手をついて起き上がった二宮は、現在地が自分の部屋ではないことに気が付く。嗅ぎ慣れない柔軟剤の香り、昨日の服のまま首元だけ緩められた状態で、いったい……。
『あんたはとっくの昔に俺に飽きたかもしれないが』
昨夜の記憶がフラッシュバックする。
二宮の二十歳の誕生日で、名前が高校の卒業式の日に焼肉に誘ったことを覚えていて、促されるままに食事を取った。はじめてのアルコールは弱いものを選んだはずが、空きっ腹に流し込んだそれは簡単に理性を蕩かした。
『俺はずっと、あんたのことが好きだった』
「二宮くん、起きた?」
「っ!」
「朝ごはんできてるけど、食べれそう? 二日酔いキツくないかな?」
『好きなんだ。俺と付き合ってくれ』
昨夜口走った内容と、扉の外から聞こえた女の声が重なる。重なって、万華鏡のように予想外の像を結ぶ。もしもここが彼女の部屋だとしたら、そうだとしたら、それは。
「ふふっ。うちに二宮くんがいるなんて不思議。こういうの、なんか照れるね」
『は、はい……よろしくお願い、します』
──《“あの人”、こんなに小さくなっちゃったのね》
──《────に、最高の価値をつけて》
本当に、良かったのだろうか。
続きます。
ラブコメのつもりだったのでもっと明るくなると思います。
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