あやかり者



例えば、髪も目も肌の色も手足指目鼻口の数もおんなじ人間から「きみ脳みそが一個足りないよ」と驚かれたらどういう反応をする?


「きみの体にはトリオン器官が存在しない」
「………………はあ」


そりゃそうよ……って、今の私みたいに引き攣った顔をすると思う。


「し、しかしトリオンは測定できたんですよね?」
「それが数値が安定しなくてだね」
「機器のメンテは先日したばかりだ。故障の可能性は低い」
「前回は4、今日は32。誤差の範囲を逸脱しまくりっすよ」
「現状、考えられる可能性としては、」


たくさんの疲れた目が爛々と輝いている様は夜の森の猛禽類のようだった。どうしてこんなくたびれたオジサンたちに脅かされなきゃいけないんだ。

それから私を置いてけぼりにあーだこーだ研究者らしい小難しい話が飛び交う。

言えない。この世界の住人じゃないからとか、異世界トリップしてきたからですとか、そういうメタ的なことは。だって私の戸籍はしっかりこっちにあったし、叔父という薄っすら面識のある親戚が現にこの場にいるんだから。こことは違う異世界から来ました〜なんて言おうものなら、


「手術の影響、か」


心臓とは別の理由で病院に入れられちゃう。


「トリオン器官は心臓の横にありますし」
「臓器との関連性はそれなりに論じられてきましたからねぇ」


ぼんやりしていた意識がキュッと縮み上がる。過去に呑み込んだいろんなものが顔にぜんぶ出てしまいそうで。思わず俯いた私に、目ざとく気付いた鬼怒田さんが大袈裟な咳払いをした。


「同時に名前くんが交流のある那須隊のトリオン量を計測した数値がこの表だ。過去一年分のデータとこの三週間で比較し増減に有意差が出たものは赤くしている」
「……真っ赤じゃないですか」
「真っ赤ですね」


えっと、つまり?

俯いたまま、話に追いつこうと必死になっていた私を見透かしたように、鬼怒田さんが続ける。


「熊谷隊員は最高でトリオン5だったものが先週の健診では2に、逆に那須隊長はトリオン7が12に増加していた。ちなみに健診日はできるだけトリオンの消費を抑え休息を取るように指導しておる」
「任務で使いすぎたとか、トリオン器官の急成長の可能性は否定、と」
「加えて一昨日の日浦隊員の件だ」


ザッと顔が青くなる。


「防衛任務中の突然のトリオン漏出による緊急脱出ですね。日浦隊員は狙撃手で滅多にトリオン兵と接敵しませんし、任務開始後17分で門は発生未確認。まだ一発も弾を撃っていなかった」
「無傷の状態でどこからトリオンが漏れるのかという話だ。その時のトリオン量は1だったと」
「わ、たし、」


もう耐えられなかった。

いっそ早く殺してほしくて、自ら罪の自白をするように声を上げてしまった。


「その日、那須隊の作戦室にお邪魔して、任務の時間まで、みんなで映画見てて、……茜ちゃんの隣にいました」


若返りトリップから一ヶ月。

虚弱体質改善のためのトリオン研究に協力する一般人ポジが、充電式トリオンバッテリー人間という研究対象にチェンジしてしまった記念すべき日だった。




***




高校一年生の時、心臓の病気が見つかった。

受験を頑張って、地元でも偏差値が高い方の高校に入学して、実際に通えたのは一年の冬までで。手術すれば治るから、難しい病気じゃないからと、不安を押し殺して治療に専念した。なのに、結局二年に上がる頃には高校を退学することになった。家族の勧めで通信教育は受けていたし、一応大学受験資格も取った。それを活用する機会は生憎となかったけれど。

家の外に出ることもなく、定期健診以外では引きこもって過ごすこと四年。成人式にも出られなかった。すっかり気力が死にかけていた私に、飛び込んできたのが両親の事故のこと。

病気の娘より早くあの世に行ってしまった母さんと父さん。悲しかった。怖かった。意味が分からなかった。たくさんたくさん、不安だった。お葬式が終わって、なにもかもやることがなくなって。親戚とどんな話をしたのかも覚えていない。

これからどう生きていけばいいのか。震えて泣くしかなかった私は、消えてしまいそうなほどかすかな光が胸の中で灯ったことを無視できなかった。


『大丈夫よ、あんた、あんな大きな手術してこうして元気になったんだもん。すごい幸運よ。母さんもあやかりたいくらい』

『無理をしなくていい。病人は家で安静にしてなさい』

『どうして外に出ようとするの? 母さんと父さんがこんなに心配してるのに』

『お前は自分がどんな体なのかまだ分かってないのか?』

『大人しくしてって言ってるでしょッ!?』



これで自由になれる。──って。

親不孝なことを考えた矢先、私はワートリの世界にトリップしていた。

窓の外の風景が、玄関の外の風景が違かった。三人暮らしの賃貸マンションは、内装や家具は変わっていないのに新築の匂いがする。引っ越したばかりみたいにツヤツヤのフローリングや真っ白い壁紙、抗菌済みのトイレやお風呂。極めつけは知らない制服がクローゼットに入っていた。

何より、引きこもっていたせいで青白い不健康顔がそこそこ見れる肌ツヤになっている。ずっと居座っていたクマも、ザンバラな髪も、首の引っかき傷もない。じゃあアレは、と胸を持ち上げれば期待を裏切るように残っていた手術痕。心なしかいつもよりピンク色が強い気がする。

──どうせ若返るなら、この痕も無くなってくれてたら良かったのに。

手術してそれほど時間が経っていない年ごろ、16か17まで若返っていた。

高校生をやり直したいって気持ちはないと言ったらウソになるけど……。既視感のある制服と既視感のある学校名。既視感どころかバッチリ知ってる民間組織で研究職をしている叔父と一緒に、トリオン研究への参加について説明を受ける。もう乾いた笑いしか出なかった。

三門市。ボーダー。トリオン。ネイバー。……そんなのワートリしかない。

長い引きこもり生活で慣れ親しんだ夢小説。そのお約束的な立ち位置を与えられた私は、開き直ってこの生活を楽しむことにした。夢小説によくいる神様は本当にいて、気まぐれの慈善活動で私に白羽の矢をぶっすりしたんだと。都合の良いように思いこんで。

それが、だんだんとお約束じゃない展開になっていっている。


「あっ!」


砂がついた苺ミルクの紙パックが足元に横たわっている。


「潔癖症か?」
「っ、そ、そういうわけじゃ」
「だよな。前までは普通だった」


指が触れそうになった瞬間に過剰に引っ込めてしまった手。置き所を失ったそれに、何でもないようで何か含みのある相手の視線がじっとり滑る。やらかした自覚がある分、余計に気になって仕方ない。


「俺に触られるのは嫌か?」


なんて聞き方をするんだこの高校生は。

カッと血が昇った自分が恥ずかしく、取り繕う暇もなく口が本音を溢した。


「いっ、やではない、です」
「ん」


相手は一つ頷いてから、わざわざしゃがんで紙パックに付いた砂を落としてくれる。何なら制服の袖で軽く拭ってから再び差し出されたピンク色。今度こそ、避けることは許されないという空気で。避けたら決定的になんらかの溝ができてしまうような気がして。……ていうか異性を意識しすぎてテンパってるみたいで居た堪れない。さらに赤くなる顔を隠すこともできず、ヤケクソ気味に手を伸ばした。

冷たいものに触れる直前、固い手のひらがすっと私の手を取った。触れないように注意していたものがガッツリ手の甲を覆って、「ほら」と手のひらに苺ミルクを握らせてくる。ほんの少し、それでも何らかの意図を感じてしまう短い間。固い手のひらで軽く挟まれて、そっと離された。


「そんな顔するなよ。都合の良いように取るぞ」
「ひっ、えっ、すいませ、」
「謝られると困っちまうな」


本当に困っているのか怪しい顔だ。からかわれているとしか思えない。


「あ、あんまり意地悪しないでください」
「意地悪ときたか。俺としては精一杯やさしくしてるつもりなんだが、難しいな」


サラッとそんなことを言うから意地悪なんだ。叫び出したい気持ちをグッと堪える。それでも恥ずかしさで目尻にほんのり涙が浮かんだ。



「荒船先輩がこんなに人誑しだったなんて……」


荒船くん、もとい荒船先輩との出会いは転校初日に遡る。

心臓の病気のことを知られたくなくて、体が弱いこと以外は伏せて紹介された日。トリップらしくクラスメイトにはボーダー隊員の三上歌歩ちゃんと奈良坂透くんがいて、初日から歌歩ちゃんとは仲良くなった。今では一番仲の良い友達だと思っている。

事件は移動教室の時に起こった。私が教室に忘れ物をして一人で戻った時、階段の踊り場で息切れを起こしてしまったんだ。

トリップする前は四年も引きこもっていた。この体はどれくらい引きこもっていたか分からないけれど、叔父さん曰く長期療養していたことは本当らしい。手術は成功してて、とっくに退院していて、激しい運動を長時間しなければ普通の人と同じ生活が送れる。

私はもう病人じゃない。


『おい、おい! 大丈夫か!? 今保健室の先生を、』
『やめっ、やだ、』


だから、その息切れは完全に運動不足でしかなくて。

──“ 病人は病人らしくしてろ”なんて、酷いことを言う人はもういないのに、私は、


『びょうに、扱い、しないでッ!』


呼吸困難で動揺していたとはいえ、介抱しに来てくれた高校生にこの態度。呼吸が落ち着いて深呼吸を終えたあたりで冷や汗がだくだく流れた。

だくだくで震える私に追い打ちをかけるように様子を見に来た歌歩ちゃんが『荒船先輩?』、と……アラフネセンパイ?

帽子を取った荒船哲次わからない問題。

ポカンとしているうちに、私は荒船迷子センターによって保護者の方に引き渡された。ぜぇぜぇ言ってたことは内緒にした上で。その件については声をかけられた以上にものすごく恩を感じている。おかげで今でもちょっと体力のない普通の子としてクラスに溶け込めているから。

……あれ? 転校初日から夢小説らしからぬ展開じゃない? 最初からアレだったわ。

まあ、そんなことがあってから、たまたま自販機の前で再会することがあり、平謝りの後お詫びにスポドリを奢ったらコーヒー牛乳を奢り返される謎の等価交換が始まってしまった。ちなみに今も続いていて、今日はサイダーと苺ミルクを奢りあったわけで。

触っちゃいけないと意識すると、なんだか余計に緊張してしまった。


「誑されている自覚はあったんだな」
「う、うううぅぅ……っ!」


もうやだこの高校生。

涙目で見上げた先の顔は面白がってる風にしか見えない。せっかくこっちは心配してるのに、触らないようにしてるのはそっちのためなのに。ダメ押しとばかりにフッと笑いかけられて、体全体がビクビクッと震えた。完全に遊ばれてしまっている。


「っ先輩なんて、」


荒船先輩なんて、トリオン切れになって困ればいいんだ!

とは絶対に言えない。代わりに「苺ミルクご馳走さまでした!」と言い捨てて敵前逃亡するしかなかった。

トリオンを吸収してしまう体質。
吸収したトリオンを他者に分け与える体質。

このことを知っているのは叔父さん含めた開発室の人たちとご迷惑をおかけした那須隊のみんな、同じクラスの歌歩ちゃんと奈良坂くんだけだ。それ以外では決して口外しないように約束させられている。あとはボーダー隊員、特にB級以上の戦闘員に関しては物理的に距離を取るか触らないように言われた。六頴館に通っている隊員の名簿まで見せられた徹底した念押し。

そりゃあ任務中に急にトリオン切れになって速攻緊急脱出されたら防衛にならないものね……。

問題は自販機前での荒船先輩の異様なエンカウント率と荒船先輩の異様なサービス精神。そして引きこもってたせいでコミュ力が底値の私。というかこれは夢小説お約束の謎にキャラから好かれる夢主設定なのだろうか。ネタで受け止めてたけどマジの夢小説展開? うっそー。

最初はなんだかんだ親切で好感度高かった荒船先輩にだんだん苦手意識が出てきた。だって、カッコいいんだもん。カッコいいけど、カッコいいんだけど!


「恋愛はハードル高いよぉ……」


解決しなくちゃいけない問題があるとか、好かれている理由が分からないとか、そういうのを抜きにしても恋愛に一喜一憂する気力が私にはぜんぜんなかった。









「最近ジュース買わなくなったね?」


どっきー−んッ!!


「ふ、太ってきたから、お家で水出し麦茶を作ってみたの」
「そうなんだ! てっきり荒船先輩関係なんだと思った」
「かんけいないよぉ」
「そうなの?」


歌歩ちゃんってこんなに鋭く切り込んでくる子だっけ。

さながら風間隊三人の息の合った猛攻の如く、今一番聞かれたくないことをズバッと話題に出された。ニコニコ首を傾げる美少女は誰もがメロメロになる魔性を持っている。か、勝てない、罪悪感で誤魔化せないよ!


「スキンシップが、どうしても避けられなくて。……物理的に避けてみようかなぁ、なんて」


これで察してくれる歌歩ちゃんは流石A級隊員のオペ。


「嫌なことはされてないんだよね?」
「うっ、う、うん」
「良かったぁ。まんざらでもなさそう」
「ううううん……!」


まんざらでもないのが困ってるんだよぅ。


「でも、あの、学校は生身じゃない? どうしてもそういうのはちょっとね?」
「うんうん、そこが悩みどころだよね」


なんだか絶妙にかみ合っていない気がするのはなんなんだろう。

机を向かい合わせにしてお弁当を開くお昼休み。前は一つの机に椅子だけ持ってきていたけど、最近はわざわざ机を持ってきての適切な距離間。いつメンの何人かは部活や委員会でいなくて、二人ごはんだからかどんどん突っ込んだ話題に入っていく。

トリオン吸収だの放出だのよく分からない体質が発覚してからそろそろ一ヶ月になる。度重なる実験で分かったことは、私がトリオンを吸収するのは生身の人間に限るということ。トリオン体は生身と体を入れ替えてる? 内側に収納している? から、トリオン器官と隔たりがあるとトリオンを吸収できないのだと。

厳密には触っていなくてもなんやかんやで近くの人から吸収しているらしいんだけど、数値にすると0.1とか0.0いくつくらいとかであんまり問題はない。ただこうして学校に来て日常生活を送っていると不特定多数から集まって少なくとも3とかになっている。無意識に充電しちゃっている申し訳なさを毎日感じている。

開発室の人曰く健康被害は全くないらしいし、むしろ余っているトリオンを寄付してもらっていると思えばいい、なんて元気玉みたいなこと言う。私としては許可もらってない強制徴収なので隣家のWi-Fi勝手に使ってるみたいで震える。吸収も放出もまだコントロールできないのも相まって、早くバッテリーとしてもうボーダーに有効活用してもらうしか道がない。

若返りトリップして念願の高校生活やり直すぞー! という気持ちが肩身が狭い思いとおしくらまんじゅう。押されて泣く。生きてるだけで罪悪感。


「とにかく、はやくコントロールできるようにならないと」
「無理はしないでね」
「もちろん。倒れたら困るのは周りの人だもん」
「そうじゃなくて。名前ちゃんはちゃんと頑張ってるのに、もっと頑張ってしまいそう。無理したらダメだよ」


て、天使……?

思ったことが口から出ていた。「もー、茶化さないの! 真剣なんだからね」と困ったふうに笑われてしまった。

最近、日常生活に息切れがなくなってきた。やっと普通のラインに立てたばかりなのに、頑張ってるなんて、大袈裟だなあ。

みんなの方がたくさん頑張っているのに。


「名字、今いいか」
「あ、奈良坂くん」
「今日の放課後なんだが、一人後輩も合流するんだ。いいか」
「後輩?」
「例の件だ。うちの隊の古寺にも話を通しておきたい」
「ああ、そっか。大丈夫。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」


涼やかなイケメンが軽く目礼して去っていく。


「今日はいつもと違うの?」
「うん。私もちゃんと頑張りたくて」
「頑張りすぎないでって言ったそばからだよ?」
「ご、ごめん」
「ほんっとーに気を付けてね?」
「はいです……」


そんなに念押ししなくても。

信用ないのかなあ、と。我ながら茶色いお弁当をつついた。今日の生姜焼きは冷めてても美味しく作れたなあ。叔父さんちゃんとお昼食べれてるかなあ。


「そ、それからね、私から謝っておきたいことがあって」
「ふぁ、なあに?」
「……荒船先輩に、会話の参考に少女漫画貸したんだ」
「ん?」


お肉もお米も言葉もごっくり飲み込んで、もう一度「ん?」


「なかなか言い出せなかったんだけど、荒船先輩から相談を受けて、話題作りのために名前ちゃんが好きな漫画を貸したんだ。先月。それで仲良くできたらって思ったの。でも、……漫画の話で仲良くなったわけじゃないんだよね?」


気まずそうというか、やや頬を赤らめながら歌歩ちゃんが小さく謝る。ちなみに歌歩ちゃんとすごく仲良くなったのは引きこもりの間読んでいた漫画の趣味がドンピシャだったからで、もちろんお互いにおすすめの漫画を紹介しあっている。

つまり、荒船先輩は私の好きな漫画のシーンを参考に話しかけていた?


「仲良くなり方を間違えてる……!」
「だ、だよね! そうだよね、普通そっちじゃないよね!?」


二人で見合って、思わず指を差す代わりに箸で差しあってしまった。だって、ええ、女の子の扱いが分からなくて少女漫画を参考にするのはちょっと。そんなことあるぅ!?


「荒船先輩、初日に名前ちゃんに申し訳ないことをしたって落ち込んでたから、力になれたらって思ったんだ」
「いやいやあれは私のせいで、先輩が悪いことは一つもなくて」
「だから、もしも先輩の対応がつらかったら私のせいってことになるの」
「歌歩ちゃんのせいじゃないよ!」


なんかもうしっちゃかめっちゃかにあわあわしているうちに昼休みが半分過ぎていた。後半はほぼ無言でお弁当を詰め込むマシーンだ。

でも、そっか、あの夢小説みたいな謎のサービス精神は少女漫画からの輸入か。別に私のことを口説いているわけじゃなかったのね。ほんっとうに好きにならなくて良かった。


「荒船先輩って意外と女子が苦手なのかな」
「どうして?」
「だって、少女漫画を参考にしちゃうくらい口下手ってことでしょ? あれじゃその気がなくても誤解されて大変だよね。私だって少しだけドキドキしちゃったもん」
「……ん!? そういうことじゃ、えっと、名前ちゃん、荒船先輩はきっと、」
「危うくもてあそばれるところだった。危ないねぇ」
「あー、えー、説明してもいいのかな……?」
「なにが?」


うーんうーん悩み出した歌歩ちゃん。空になったお弁当の蓋を閉じてごちそうさまをする私。結局何が言いたいのかも分からないまま予鈴が鳴ってしまった。

その時の私は、なんだか妙に晴れやかな気分で午後の授業の教科書を机の上に並べていたんだ。


やっぱり私に恋愛なんか必要ないんだって。




***




女子のお手紙文化は私も慣れ親しんだものだ。ルーズリーフでも可愛いメモ帳でもそれなりに可愛く折れる。スタンダードなお手紙型とか、星とか、ハートとか。今回はなんとなくハート型にしていつメンに配って歩いた。

ついでに折ったせいで荒船先輩宛のお手紙もハートにしてしまったのは、まあ、親愛ということで。昼休みにちょうど通った下駄箱の荒船先輩のところに入れておいた。


「名字、迎えが来たみたいだ」
「はーい」


奈良坂くんに続いて昇降口に出ると、見たことがあるけど初対面のメガネくんがソワソワ待っていた。


「古寺、待たせて悪い」
「奈良坂先輩お疲れ様です。ぜんぜん大丈夫です。そちらが今日の?」
「ああ」
「初めまして、奈良坂くんと同じクラスの名字です」
「初めまして、三輪隊の古寺です」


お互い礼儀正しい挨拶を返していざ外へ。校門を出てすぐ横の来賓用の駐車場に白いバンが。運転席からヒラリと手を振る叔父さんにちょっと小走りで近寄った。

転校してから最初の一ヶ月は叔父さんが送り迎えをしてくれた。体力がマイナスで登下校さえフルマラソン並みの無茶だとお医者さんからも言われていたし、トリオンの研究でボーダーに頻繁に通うことになるから学校から直接行った方がいいとそうなった。今では一応登下校も大丈夫なくらいに回復しているけれど、放課後のボーダー通いは継続しているので下校だけお世話になっている。

「お願いします」と礼儀正しく乗っていく二人を見送って、私もいつもの助手席に乗った。それからは当たり障りのない会話でものの十分でボーダー本部に到着した。

職員玄関から入るボーダーは漫画のイメージと違ってすんごい悪の組織感が強まるのはなんでだろう。上層部の会議室もなんだか悪だくみしている風だし、やってることは正義のヒーローなのにね。

叔父さんに連れられていつもの開発室の一角にお邪魔して、奈良坂くん古寺くん私と叔父さんで研究員さんから話を聞く。今日の実験はトリオン放出試験である。


「吸収は生身の肉体相手には効率よく行えるが、放出も同じとは限らない。那須隊長はトリオン体で過ごすことが多く、熊谷隊員は逆に生身が多いからね。トリオン体相手の方が放出効率が良い仮説が立った」


ということで、今回は奈良坂くんと古寺くんにご協力してもらってトリオン体相手にトリオン放出ができるかどうかの実験日だ。

奈良坂くんは同じクラスということを抜きにして、玲ちゃんと同じく虚弱体質によるトリオンの研究に参加している私に思うことがあるらしい。那須隊が忙しい時によく面倒をみてもらっていた。心配されている気配はする。けれど、過剰な同情とか哀れみとかは感じなくて、私もなんとなく奈良坂くんとはよく話す。うそ、口数少ない者同士ほぼ無言かもしれない。でも嫌いじゃないんだよね、奈良坂くんの空気。落ち着いていて必要最低限なところがいい。


「今回は任務がなくランク戦でブースに移動する必要がない狙撃手二人に付いてもらい、トリオン量の増減を見る。名前ちゃんは何か気付いたことがあれば率先してメモを取ってほしい。もちろん、具合が悪くなったら気軽に声を上げてくれ」
「奈良坂了解」
「古寺了解」
「名字りょうか、……あ、いえ、分かりました」


つられるでしょこんなの。初っ端で笑われちゃった。うわー。

始めに三人で現時点でのトリオン量を測定、記録。首から職員キーと実験中のカードをさげて二人の案内の元、初めて狙撃手のブースに足を踏み入れた。


「俺たちはここで撃っている。名字はできるだけそばにいてくれ」
「椅子を持ってきたので、ここに座ってください」
「何から何まですいません」


にしてもシュールだ。

できるだけ1m以内にいること、たまに体に触れて意識してみること。的当て訓練ということで二人ともその場から離れないので、私も近くに座ってボケーっとしているしかない。これ、宿題持ってきちゃダメなのかな。最初は目新しかったものの、大きな音があちらこちらで鳴っている状態にもう慣れてしまった。


「えっ、名字先輩!?」


ボケーっとしてたのがビクッとなった。


「茜ちゃん?」
「お久しぶりです! どうして狙撃訓練室に!?」


キャスケットが可愛い茜ちゃんは本当に久しぶりだ。というのも学校の定期テストがある週はテストに専念するように任務を入れないのが基本で、私が先々週、茜ちゃんは先週テスト期間だった。つまり会うのは二週間ぶりになる。


「ちょっとこれでね。師匠をお借りしてます」
「A級の人まで参加してるんですか!? 本格的な感じですね」
「何言ってるの。B級の人に手伝ってもらった時点ですごいことだよ。私みたいな一般人に」
「えー、名字先輩が隊員になったら最強だと思いますよ?」
「そもそも体を動かすセンスがあるかどうか」


トリオン体だから吸収する心配はないと普通に抱き着いてきた茜ちゃん。私も普通に抱き止めておしゃべりしてしまい、奈良坂くんから呼び止められるまで大事なことが抜け落ちていた。


「実験はどうした」
「あ……ああ!?」


思いっきり触っちゃったよ。

「?」と不思議そうな茜ちゃんからそぉっと距離を取る。説明しようにも一応守秘義務があるので、首からさげた実験中カードを見せて「ごめん」と。それで通じてくれる茜ちゃん本当にいい子。ペコペコ頭を下げあいながら、茜ちゃんは自分の定位置に戻っていった。


「ごめんなさい奈良坂くん。測定し直しかな」
「まだそうと決まったわけではないだろう。とりあえず実験は続行だ」
「ですね。今から開発室に戻って何も変化が見られなければ非効率的ですし、」
「そ、それもそうだね!」


──ズドンッ!!!!

……ずどんっ????

急に響いた衝撃、地響き。訓練室にいたみんなの視線が、粉々に砕け散った黒い的と、その後ろの凹んだ壁、さらに射線をたどってイーグレットを構えたまま茫然自失になっている茜ちゃんを捉えた。

そういえば、今日は日直でみんなのノートを回収したりプリント配りでいろんな人と接触したし、職員室で先生がたくさんいる中を突っ切ったし、移動教室でぶつかりかけて友達に抱きとめてもらった。おかげでトリオンの吸収が多くて27だった。

茜ちゃんの今日のトリオン量はいくらだろう……。



「さ、さんじゅう……」



すっ飛んできた鬼怒田さんに四人まとめて連行されて測定したところ、立派なトリオンモンスターが誕生していたことを知った。




***




「一度ならず二度までも那須隊の大切なお子さんにご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
「やめてやめて!」
「落ち着いて名前ちゃん」
「茜も泣いてないで止めて!」
「ふぁい」


那須隊の作戦室で土下座は阻止された。


「謝らせて……気が済むまで謝るの……」
「名前ちゃんはなあんにも悪くないわ。もちろん茜ちゃんもね」
「悪気があってやったことじゃないんでしょ? 訓練室の壁も修復できたんだからさ」
「よ、余分なトリオンの有効活用ができるなんて素晴らしいじゃないですか」
「ふぇぇすいましぇん」
「もう、泣かないの!」


総出で慰められてるのも迷惑っちゃ迷惑だよね……。

相手が生身もトリオン体も関係なく、どこにも触らないし誰にも近寄れない状態で立ち尽くす。あ、でも今日は茜ちゃんに全部放出したからトリオン体なら大丈夫かも。出すものがなければ関係ない、はず。

今日は、ね。


「もう作戦室には来ない方がいいかも……」
「名前ちゃんが気にすることじゃないわ。吸収されるならともかくトリオンを分けてくれるのなら問題ないもの。開発室の人からも怒られなかったでしょう?」
「簡易トリオン測定器を作ってくれるって言ってたよ。こまめにチェックすれば問題ないって」


玲ちゃんもくまちゃんも小夜子ちゃんも普通に私に触れてくるのが信じられなくて、でも、少しだけ体から力が抜けた。

いい人たちだ。最初に虚弱体質改善のために研究に参加した時も親身になってくれた。玲ちゃんは自分のことがあるから余計になんだろうけれど。

私と玲ちゃんは同じようで決定的に違う。玲ちゃんは生まれつき体が弱くて運動をしたことがなかった。私は手術をするまで健康に生きてきた。“したことがない”と、“したことがあるけどできなくなった”じゃ違う。違うんだ。

それに、


「ところで、トリオン体には換装できるようになった?」
「ううん、やっぱり安定しなくて」
「そう……」


ほんのりとした罪悪感を、玲ちゃんは私に感じている。

この変な体質のせいかトリオン量が安定しなくて、毎回ランダムな時間でトリオン漏出アナウンスが流れる。そのまま換装が解けてしまうので、私の研究はかなり難航していた。運動する暇なんてないくらい。だから、玲ちゃんは私のことを心配しているし、自分だけ自由に駆け回れることを憂いている。

でもね、私としてはむしろ逆。私の虚弱体質はきっといつか改善する。ゆっくり運動量を増やしていけばきっと元に戻れる。トリオン体に換装しなくても生身で健康に駆け回れるようになるんだ。

真逆な私たちは、真逆な理由でお互いを心配して、罪悪感を感じている。玲ちゃんは気付いているのか、気付かないようにしているのか分からないけれど。

周りの人たちが玲ちゃんと私を一緒くたにする残酷さに、気付かないままでいてほしいと思う。


「良かったら、またみんなで映画鑑賞しませんか。まだ見てないものがたくさんあって」


おずおずと手を挙げた私に、儚げな玲ちゃんの顔が可愛らしく華やぐ。すると周りのみんなも安心したように笑って、これでいいんだと私も笑えた。




***




「お前、この間のトリオン暴走で日浦に細工したヤツだろ」


声をかけられたのはお手洗いに行ってきた帰り道。訓練室に戻る廊下で知らない男の子に進路を塞がれた。

私が忘れているだけで登場人物かと思ったら本当に知らない人だった。自分が隊員ではないことを言おうとしても、「俺と組んだらA級に行ける」とか「お前の力を有効活用してやる」とか「中学生に使われるなんて宝の持ち腐れだ」とか。

反論させる余地もないというか。拗らせてる人だなぁと困っていると、相手の白い隊服がオーダーメイドじゃないやつだとやっと気付いて。


「あ、C級の人だったんですね」


すぐに言葉の選択をミスったことが分かった。

だってさっきまで意気揚々と喋ってた相手の顔が、一拍置いて赤黒くなったんだ。

あっ、まずい。そう思うのと同時に。


「C級だからって何だッ!? 女が見下してンじゃねぇよ!!」


──ドンッ! と。

もしかしたら、相手は八つ当たりで、軽いノリで、押しただけだったのかもしれない。けれどその時の私は生身で、相手はトリオン体に換装していて、──押された場所は心臓の上で。


「ひぎゅ、っ!?」


視界がパチパチッと白く爆ぜて、熱いのが痛いより先に胸にやって来た。それから、胸の場所に、皮膚の、骨の内側に何があるのか、何の臓器があるのか、思い至って、それで、わたし、


『心臓が弱いんだから、普通の生活なんて無理よ』


「ハッ、ハッ、ハアー、ふっ、ヒッ、ひっ、ひゅーッ」


いき、息しないと、痛くて、しんぞ、痛い、痛いのかも、わからない、いき、酸素、吸って、すって、胸いたい、吸って、くらくらする、なに、すって、こわい、すって、すって、すって、


『ひとりで生きていけないくせに、』



やっぱり、外に出なければ良かっ「悪い、触るぞ」



背中に暖かいものが添えられた。

何か余計なことを考えていた気がするし、何にも考えていなくて、ただ怖くて、怖くて、震えていただけかもしれない。

優しく優しくぎこちなく。背中を行ったり来たり宥めるそれが誰かの手だと分かった。知ってる手だと思った。だって、転校初日に階段でうずくまっていた私を介抱する手と同じだった。


「はひ、げほっ、ぁ、らふ、ゴホッ、」
「ゆっくり息を吐け。ゆっくりだ」


吐く、吐いて、吐いて、荒船先輩が「吸って」と言ったら吸って、深く吐いて、吸って、吐いて。いつの間にか呼吸は落ち着いていて、急に胸のあたりがじんじん気になってきた。

私、ここで何をしてたんだっけ。


「今からするのは病人扱いじゃなくて怪我人扱いだからな」


そう念押しして、荒船先輩は私を持ち上げた。

私の頭を肩にもたれかからせて、膝の裏とお尻を支えながら抱えている。妙に安定感のある持ち方に甘えて、何も考えられない頭で先輩の肩口に顔を埋めた。

暖かくはなかった。なんだろう。生身じゃないのかも。なら吸い取っちゃうこともなくて、いいんじゃないかな。

ふわふわした思考が回復することもなく、医務室に連れて行かれるまで、私はぼんやりと先輩に身を任せていた。




***




フラれた。


『スキンシップが苦手なので、触るのはやめてください。あと少女漫画を参考にされると少し怖いです。私は先輩と普通におはなしがしたいです。』


そう思えるくらい、ハート型の手紙からは脈が見当たらなかった。

確かに名字の友人の三上にアドバイスを頼んだ時、少女漫画全巻を渡されたのは苦慮したが、恋愛方面に疎い自分にはいい参考になるかもしれないと手に取った。

漫画として読めば普通に面白い。面白いが、コレを俺がやるのか?

悩んだのは一瞬。あの風間隊のオペが言うのなら試してみるべきだろうととりあえず実行した。


『えっ、えっ、あっ、あらふね先輩?』


どっちだ。

軽いジャブのつもりで挨拶がてら言ってみた『可愛いな』が、ものの見事に相手を赤面させた。心配になるほど色白の肌が分かりやすいピンク色に染まって、手持ち無沙汰に奢ってやったミルクティーを振っている。炭酸だったらヤバいヤツだな。そんなところも抜けていて可愛らしいが。

俺の付け焼き刃の口説き文句ですらそんな反応をするものだから、気付かないうちにかなりエスカレートしていたのかもしれない。

最近いつもの自販機で顔を合わさなくなった後輩から、下駄箱に入れられていた手紙。ハート型の時点でちょっと……いやかなり期待した。これはその、俗に言うラブレターというものでは、と。

いてもたっても居られずその場で開いて、ランク戦開始直後にヘッドショットを決められた心地になった。


確かに、あの口説き方はハラスメントに抵触するかもしれない。


我ながら酷い顔で作戦室に入ると、穂刈からは「殺したのか、人を」と不名誉な評価をもらった。半崎と加賀美にはスルーされた。


「なんでもない。訓練行くぞ」
「本当にいいんだな、狙撃手の訓練で」
「ああ」


俺は今日から狙撃手に転向する。その話は散々隊で話し合って決めていた。穂刈も本気で確認したわけではないはずだ。

今日はとにかく撃って撃って撃ちまくって、失恋を忘れちまおう。

そんな矢先だった。


「女が見下してンじゃねぇよ!!」


狙撃の訓練室に繋がる通路に男の怒声が響いた。

穂刈に案内してもらい、道を覚えていた俺たちは、訓練の開始からだいぶ時間が過ぎていた。だからか通路に人気はなく、事件の場所に誰がいて、誰が倒れているかなんてすぐに分かった。

名字が、廊下の真ん中でうずくまっていた。


「落ち着け荒船。任せたぞ、救護は」


カッと頭に血が昇って、振り上げた拳はギリギリ男の後ろの壁に激突した。冷静な穂刈が逃げようとする男を取り押さえ、どこかに通信を入れている間に俺は名字に近寄った。

スキンシップは嫌だと手紙に書いてあったが、緊急事態だからな。勘弁してほしい。そう口でも心でも言い訳しながら背中をさすってやった。

初対面と似たようなシチュエーションがもう一度あるなんて思わなかった。


『病人扱いしないで』


あの時の名字は、つらいくせに絶対に弱みを見せたくなくて牙を剥く小動物だった。助けようとした俺は一瞬ムッとしたし、体が弱いならそういう自覚を持つことも重要じゃないかと勝手に思っていた。

でも、アイツは、毎日毎日、人気のない階段を降りて、わざわざ遠くの自販機まで歩いて、ジュースを買ってまた階段を登る。そういう運動をゆっくり続けていた。三年の教室の窓際からギリギリ見える階段で、昼休みに毎日そんなの見せられたらハラハラ気になって仕方ない。

自販機のところで倒れてたらどうしよう。気が付けば様子を見に行って、ジュースを買っている本人と鉢合わせてしまった。それが始まりだ。


「すぐに医務室に着くからな。大丈夫、安心して、そのまま寝てろ」


意識が朦朧としている体を抱え直して、聞いているはずもないのに声をかけ続けた。

想像よりも軽すぎる体。見た目以上に頼りない手足。過呼吸の後の青白い顔。ひとりよがりだとしても守ってやりたいと思った。

たとえあの手紙でフラれていたとしても、ちゃんと面と向かってフられるまで諦めきれない。往生際の悪い自分に苦く笑った。





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