九井少年のリフレクター



※もしも稀咲後輩より先に九井少年に出会っていたら。稀咲後輩出ません。
※赤音さんに恋しなかった世界線の九井少年です。



「これおもしれぇの?」


夏休み。私は急な両親の都合でおばあちゃんちに二週間預けられることになった。本当はヒナのうちに預けられる予定だったけど、向こうは向こうで旅行の予定が詰まっていて頼むのは憚られたらしい。別にそれは良いのだけれど、おばあちゃんの家に来てみれば、午前中はおうちのお手伝いをしたりおばあちゃん孝行したりして、午後は『子供は外で遊ぶものよ』と言わんばかりに外に追い出された。祖父母なりの気遣いなんだろう。まあ、幸い近所にでっかい図書館があって冷房も売店も充実していたから、普段は読めない類の本をのんびり読める。外で知らない子に『あーそぼっ』するよりは全然マシだった。

お小遣いの500円玉を握りしめて奥まった席に座る。文庫本になっていない、硬い厚紙みたいな装丁の大きな全集を広げて、集中が途切れるまで読み耽って、飽きてきたら売店でアイスかどら焼きかサイダーを買った。図書館内の展示室や中庭を散歩して、また席に戻って続きを読む。大人になったらできない時間の使い方を目一杯堪能して夕方の五時までに帰る。そうして三日目のことだ。

散歩から戻ってみれば、本が積んだままの私の特等席に知らない男の子がいた。


「面白いよ。面白いし、紙の匂いが良い感じ」
「においぃ? カビっぽくね?」
「カビてたら図書館に置いてないよ」
「あ、そ」


本を見ていた鋭い目が睨むようにこっちを向く。サラサラの黒髪が揺れて、何のシャンプー使ってんのかな、なんてふと思った。


「読みたかったらいいよ。はい」


一番上の一巻を差し出しても、受け取る手が出てこない。眉を吊り上げて口をへの字に歪めた。


「は? そーいうんじゃねーし!」
「ああ、見てただけ。そういうのあるよね」


じゃあ話しかけて悪かったかな。

でも引っ込めたら引っ込めたで眉間にシワを寄せるのはなんなんだろう。本当は読みたかったのかな? それとも話しかけられて不機嫌になっちゃったか。持ち上げた本が重かったのでとりあえず机に戻す。すると彼の背後から近づいて来るキラキラが目に入った。


「ココ、こんなとこにいた」
「イヌピー」


いぬぴー?

黒髪の彼が振り返って金髪の子に近寄っていく。そのまま私を見ることもなく出口に向かって行った。残された私は元の席に座って、妙に耳に残る名前について本を開いたり閉じたり弄んだ。

ここ。いぬぴー。……ココ、イヌピー?

はたと顔を上げる。もう見えなくなった姿を追って、体ごと出口に意識を向けた。

鋭い目にサラサラの黒髪。小学生にしてはませたクールな男の子。

東京リベンジャーズの九井一が現実にいた。




いやいや他人の空似か聞き間違いでしょ。そうじゃなくてもココとイヌピーなんて意外と探せばいるあだ名かもしれないし。おばあちゃんのそうめんを啜ってお風呂に入ってお布団でスヤァ。朝はおばあちゃんおじいちゃんと朝ドラ見ながらご飯食べてお洗濯とかお掃除とかのお手伝い。お昼ご飯を食べてから図書館へいってきます。ちなみに夏休みの宿題はとっくに終わらした。

昨日の続きをのんびり読んで、そろそろサイダーでも買おうかな、と席を立ったところで外の男の子と目が合った。

奥まった席でも全面ガラス張りの壁がすぐ近くにあって、私はギリギリ直射日光が入らない席に座っている。ガラスの向こうには低い塀があって、そこから頭の半分が出てこちらを見ていた。

パッと弾かれたように首を前に向けた男の子。その隣に金髪を見つけて、昨日の二人組だと思った。だからどうってことはないけれど。そっか。外から本に齧り付いている私が見えたのか。妙に納得して、サイダーを買いに売店に行った。




次の日。私は席を変えた。逆側のガラス張りじゃない隅っこの方。受験勉強か何かで長時間座っているお兄さんが多い。紙やペンの音が喧しくて避けていたけれど、三分もすればいいBGMになった。それだけ本の内容にのめり込んでいたってことだ。二時間くらい読み込んで、そろそろおやつの時間だからと売店に行った。その途中、後ろから腕を取られてビックリした。「えっ」


「ンで、席、変えたんだよ」
「なんで、って」
「いないから、なんでだ」
「外から結構見えてたから?」


あんなに外から見えるとは思わなかったし。一度気付いたらなんだか気が散るし。


「オレが見ていたからか」
「え……見てたの?」
「は、はあっ!? 見てねーし!」
「わ、ちょっと抑えて、ここ図書館」


売店の近くはまだ大丈夫だろうけれど、静かだからかなり響く。受付の司書さんから視線が来て二人してペコッと頭を下げた。

とりあえず売店でどら焼きを二つ買って一つを押し付ける。そのまま入り口近くのベンチに座って二人でもぐもぐした。なんか話がしたかったのかと思ったのに、いつまでももぐもぐしてるし、もぐもぐ終わってもどら焼きがなくなった手を眺めてる。なんなんだろ。


「やっぱり読みたくなった?」
「え」
「この前は急に話しかけてビックリさせちゃったよね。ごめんね」
「ち、ちが」
「違うの?」
「、わない」


歯切れが悪いのは照れてるのかなあ。小学生男子、割と女子と二人きりって苦手な子いるし。

特に気にせず元の席から本を回収して、比較的声を出しても大丈夫そうな幼児コーナー近くの大きなテーブルに移動する。短編のとっつきやすそうな方を手渡すと難しい顔で本を開いた。私も自分の読み物に戻ったけど、勧めた手前、相手の反応が気になってしまった。集中、できないかも。ソワソワと本の内容が入らなくて、ソッと隣の様子を伺ったらバチッと目が合ってしまった。


「ごめん。気が散るよね」
「う、ううん」
「私別のとこ移るね」
「だめ!」


中腰のところで机に付いていた手を掴まれる。「あっ」と見ると、相手も慌てて手を離した。何がしたいのか本当に分からなくて、そっと伺うと、黒髪の隙間から飛び出した耳がなんだか赤くて。……えーと、まさか、ね。


「私、集中すると何もしゃべらないけど、いいの?」
「うん」
「つまらなかったら別の本とってきていいから」
「うん」


コクコク頷いたのを確認して、静かに腰を下ろす。気持ち距離感に気を遣ってしまったのはバレたかな。それから十分くらいそわそわしてしまったけれど、しばらくすれば目の前の文字に夢中になって、気が付けば帰る時間になっていた。


「んーー。私帰るね。じゃあね」
「あ、のさ」
「うん?」
「毎日ここにいんの?」


隣の本のページはあんまり進んでいない。ぼんやり見ながら、ちょっと悩んで、まいっか。


「お昼ご飯食べたら来てるの。一時過ぎから今くらいの時間まで。図書館が空いてたらいるかな」
「そっか」
「じゃあね。次は好きな本見つかるといいね」


机の上の本を返却口に返して、もう一度振り返ったら、さっきの机に座ったままの彼と思いっきり目があった。手を振ったら控えめに手が振り替えされて、思わず小さく笑ってしまった。

おばあちゃんちに帰って、晩御飯を作るお手伝いをして、ご飯を食べて、お風呂に入る。鼻の下まで浸かってブクブクしながら考えるのはあの男の子のこと。

手を振っただけで一瞬嬉しそうな顔をして、すぐに唇をへの字に引き結んだ。分かりやすいくらいに恋をする小学生男子。


「ふぉふぉにょぃふぁじめじゃなぃな」


九井一の好きな人は赤音さんだし。ブクブク泡を量産してからのぼせる前にお風呂から上がった。




「文字ばっかでつま、目シパシパしねえの」


今つまんないって言おうとしたよね。

次の日。昨日別れたところと同じ机に先に人が座っていた。昨日と違って漫画を重ねていてちょっとホッとした。


「慣れかなあ。昔はしんどかったし」
「昔っていつだよ」
「……赤ちゃん?」
「バーカ」


小学生は昔って言わないか。そっか。

適当に誤魔化しながら今日の本を開いた。開いたものの、集中力が二十分で切れてしまった。


「なんでそんなに本ばっか読んでんの。読書感想文?」
「好きだから」
「へ、へえ」


ここでちょっと反応されるの困るな。早めの思春期か。


「そっちだって面白いから漫画読んでるでしょ。同じだよ」
「同じじゃねーよ。あんなずらずら並んでさ、国語のテストでお腹いっぱい」
「まあ、それなりに数読まないと大変だよねえ」


重くて分厚い本の表紙を軽く撫でる。


「漫画も好きだよ。自分が体験できないことを体験した気分になれるもん。座ったままで旅行に行けるし、なんでもできるし。恋だってできるもん」
「……浮気してーの?」


そういえば不倫の話だったね、最初に渡した本。そこが主題じゃないから忘れてた。私ってば小学生になんて本を勧めたんだ。


「フィクションとノンフィクションの区別くらいついてるよ」
「ふぃ?」
「嘘と本当。嘘だから面白いなあってなるの」


ちょっと居た堪れない気持ちになって、相手が持っている漫画を覗き込んだ。私も好きな闇医者の漫画だった。


「いいよね、間先生。カッコよくて好き」


相手が持っている漫画を覗き込むってことは顔の距離が近くなるってことを、読後感でぼんやりしていた私は忘れていたのである。漫画から彼に視線を向けたら、予想よりもかなり近くに唇が目に入って、「あっ」と。それすら相手の顔にかかってそうで、思わずバッと距離を取った。


「ご、ごめん」
「ううん、別に」


髪の毛をくるくる弄りながら汗ばみだした顔をなんとか誤魔化そうと、500円玉をポケットから取り出した。「私、飲み物買ってくる」そのまま早歩きで外に出て、ジュースを飲んで、落ち着いてから戻ってきたら、男の子はいなくなってきた。




次の日は休館日だった。だから渋々と図書館じゃなくて公園に来てみた。夏休みだから子供が多くて賑やかだ。学校なら友達に付き合って遊ぶし、ある程度ノリよく行けるけど、友達でもない子供相手だと話しかける気力が湧かない。

ぼーっと日陰のベンチに座っていると、目の前にサッカーボールが転がってきた。


「あ、ココの」
「え?」


ココの、なに?

金髪のキラキラした男の子がサッカーボールを取りに来た。渡してやると小さい声で「さんきゅ」が返ってくる。金髪碧眼の王子様みたいな色をして、あんまり表情が変わらない男の子。友達に「イヌピー!」て呼ばれているけど、顔に火傷の痕がないからあのイヌピーじゃないと思う。やっぱりここが漫画の世界なんて私の勘違いだったんだ。


「ココ、今日も図書館行ったけど、なんでいんの」
「なんでって、今日図書館おやすみだよ」
「そうなの?」


そうなの。うんと頷けば相手も首を傾げてから納得していた。なんだかマイペースな男の子だ。


「ところでココってあの子の名前?」
「知らねえの?」
「自己紹介できてない」
「でもオマエ、この前ココに告白したんだろ?」
「へ?」


コクハク、……告白?


「してないけど」
「え」


二人して困った顔をして首を捻る。背後からは「イヌピー! ボール!」の催促がきて、二人して釈然としないまま別れた。今日は喉が渇いたってことでおやつの時間に帰った。

にしても、本当にあの二人はイヌピーとココってあだ名なんだ。すごい偶然だなあ。




次の日。また同じ時間に図書館に行く。今日はあの子がいないくて、なんだかがっかりした自分にビックリした。だってあの子に会ったのなんて4回とかそんなもんで、話したのだって数分くらい。黙って隣に座って読書する仲で、ココくんという可愛いあだ名しか知らない。うーん。ちょっと思春期に当てられたのかな。あんなに分かりやすい好意が来たのは低学年以来だから。しばらく読んでも集中できなくて、なんなら目がシパシパしてきた。ちょっと休憩しようかな。全然眠くないけど目を休ませるために机に寄りかかって目を閉じた。

どれだけそうしていたんだろう。体感だと二十分だけど、こういう時は意外と五分しか立っていないものだ。そろそろ起きようかな、と思ったころ。近づいてくる足音がすぐそこで止まった。そのまま、しばらく動く気配がない。なんだろう。寝ているのを起こしに来た職員さんかな。それにしては距離が近いような。

近づいてきているような。

机に手をついたような振動が腕に伝わる。頬にチクチクとしたものがかすって、唇に生ぬるい風がかかった。……これって、これって、もしかして。

至近距離から顔を覗かれてる。

ゾッとした。鳥肌が立った。早く、早く目を開けないと。逃げないと。拒絶しないと。そう思うのに、全然体が動かなくて、目を開けるのに勇気がいった。誰だろう。変質者かな。小児性愛者が図書館に入り込んだってこと? こわ。刺激しないようにしないと。混乱に混乱を重ねながら、体は全く動かなくて。やっとこさ瞼が持ち上がったのは唇に柔らかいものがくっついたのと同時だった。


「んっ」
「!?」


一瞬だった。それでも確かに、しっかりと唇同士がくっついていて。くっつけた相手は、──ココ君が、顔中を真っ赤に染めながらその場で尻餅をついていた。

呆然としたまま、なにが起こったか理解して。混乱とか疑問とかよりも先に涙がポロリと目から滑り落ちた。


「よかった」
「ッ! ぁ、オレ、」
「変な人じゃなくて、知っている子でよかった」
「ごめ、……は?」


流れた涙をハンカチで拭う。そんな私をココくんは下からポカンと見上げていた。


「不審者がチューしてこようとしてるんだと思って。怖くて動けなかったの。ファーストキス、知らない人に無理矢理なんて」
「ご、ごめん。ごめんなさい、オレ、勝手に」
「うん、分かった。チューするときは起きてる時にしてね」
「うん。次は起きてる時に──え?」
「ん?」
「してもいいの? チュー」
「あ」


起きてる時にしてねってなんだ。なにを言っているの私。

ハンカチを握りしめたまま、じわじわと熱い何かが全身に昇ってきた。そういえば私、ココくんとキスしたんだよねって。遅れて実感したら、冷静でいられなくて、心臓がバクバクして、変な汗が首筋を流れた。


「名前も知らない子と、チューしちゃった……」
「っオレ!」


尻餅をついたまま、座っている私の手をココくんが取る。


「オレ、九井一」
「こ、九井、くん。私は」
「橘さんだろ。図書カードで見た」
「あ……知ってたんだ」
「うん。知りたかったから」


汗ばんだ手が手の甲にピッタリくっついていて、握り返せないまま。真剣な黒目から目が離せなかった。きっと二人して同じくらい真っ赤になって見つめ合っている。図書館では場違いすぎるドキドキした空気が漂った。


「オレ、橘さんのこと、」


続く言葉を私は勝手に予想していて、予知能力者かってくらいにそれは大当たりだった。





***





それが五年前の話。中三になった私にとって今でも忘れられない思い出。──後悔。

九井くんの告白に言葉も返せず、うんうん頷いて、それっきり別れた。明日はきっと返事をしなければ、九井くんに不誠実だと思った。相手は小学生の男の子で、気持ち的にはなんだかものすごい年の差を感じる相手だ。でも私だって体は小学生なわけで、釣り合いを考えるような時期でもない。なら、彼になんて言えばいいんだろう。

ふわふわとした足取りで帰ったおばあちゃんちに待っていたのは予定より早く帰ってきた両親だった。

私はそのまま両親と家に帰って、九井くんとはそれから会っていない。


『まあ、小学生の恋だもん。綺麗な思い出よね』


ドキドキした気持ちは、本人と離れると落ち着いた。忘れようと思った。おばあちゃんちに行くたびに図書館や公園に行ったけれど、あれから二度と九井くんにもイヌピーくんにも会えなかった。だから綺麗な思い出にした。私の今生でのファーストキスの思い出。

なんて、能天気なことを考えていたんだろう。

それから中一に上がって、ヒナの塾で稀咲鉄太を見つけた時。私は用事も忘れて逃げ出してしまった。

稀咲鉄太だ。紛れもない稀咲。私の従姉妹は橘日向。稀咲鉄太に未来で殺される漫画のヒロイン。理解した途端、昔の恋の相手があの九井一で、その友達が乾青宗だと確信した。

家に帰ってパソコンで調べる。地方紙に載っている事件・事故で、二年も前に乾家が火災に見舞われて娘さんが後に死亡したことが書いてあった。

もっと早く気付いていたら、気のせいだと片付けなければ、助かる命が助かった。小学生の女の子に何ができるって慰められるほど、自分を甘やかすことができなくて。何か一言でも九井くんか乾くんに忠告できていたらこの火事は起きなくて赤音さんが助かったかもしれない。忘れかけるたびに夢に出て、私はずっと後悔している。

“赤音さんのことがずっと好きなくせに、私にキスなんかするから。”

そんな的外れな言い訳を記憶の中の九井くんにぶつけたくなって、でも、そんなの無意味だと分かりきっていた。

この世界が東京リベンジャーズの世界だと気付いてから、私はずっと後悔している。


「────橘、さん」


後悔していて、会いたくなんてなかったのに。

ヒナが帰ってきていない。きっと彼氏のところにいるんだろう。そういう電話が世間話でおばさんから来て、ちょうど近くに東卍の屯する神社があったから。場地がいたら聞いてみようとコッソリ裏から入った。案の定黒い特攻服の幹部の子たちと女の子二人。エマちゃんとおしゃべりしているヒナを見つけて、無防備に近寄った。

特攻服の集団の中で白い軍服の二人組が混じっていたのに気付かなくて。

幽霊でも見たように一歩一歩近寄ってきた男の子。黒髪をサイドで編み込んで、左耳にピアスを揺らしている怖そうな人。あ、九井一。そう理解するより先に、走りだした相手に抱きすくめられて視界が真っ白に染まった。


「え、え」
「おい九井! 橘を離せ!」
「橘さん、橘さん」
「ココ、落ち着けって」
「何してンすかココくん!?」
「会いたかった……!」


背骨が軋むくらいぎゅうぎゅうに抱きすくめられる。ワックスだか香水だか分からない匂いと耳元でぽそぽそと降ってくる声に満たされて、混乱とドキドキと罪悪感で死にたくなった。


「はな、離して」
「やだね。一生離さねえ」
「ダメなの、私、もう」
「好きじゃないってか」
「は。な、なに?」


背中に回っている手が私の輪郭を確かめるように背骨を下から撫で上げて、肩の曲線に這わせて、相手の唇が耳にかすった。熱い息が直接かかって、ビクビクビクッと震えたら余計に楽しそうな笑い声が熱い息を加速させてくる。

九井くんには罪悪感しかない。その軍服を着ているってことは、赤音さんのために手を汚して不良の世界に入ったってことだ。火事が起こるかもしれないことをちゃんと伝えていたら、今でも普通の学生をしていたはずなのに。何より私がこの腕を受け入れられなかったのは、不良になった原因が赤音さんへの恋心だからだ。不良の九井くんは、赤音さんを想っている九井くん。この人がまだ赤音さんのことを想っているなら、私を抱きしめるのはそれこそ浮気だ。

私は浮気相手になんて絶対なりたくない。なのに。

──『チューするときは起きてる時にしてね』



「起きてる時ならしていいんだろ?」



あの日勝手にチューして真っ赤になって謝ってきた男の子は、ニヤッと嫌味な少年になってまた私の唇を奪った。





***





『いいよね、間先生。カッコ良くて好き』


オレのことじゃないと分かっていても、オレに言っているみたいでドキドキした。

どうして好きになったかなんて分からない。ただガラス越しに見えた髪の毛が綺麗で触ってみたいと思った。近くで見たら想像よりも可愛くて、でも落ち着いた雰囲気が年上の人って感じですごくドキドキした。難しそうな本を熱心に読んでいて、滑りおちた髪の毛を耳にかけたり、考え事をするときに指の付け根に唇を当てているところとか、俯いた時に髪の毛が滑って白い首筋が見えるのとか、どら焼きを食べる時の一口の小ささとか、本の話をする時のサバサバした感じとか。

全部ぜんぶ、好きだと思った。

指の付け根じゃなくてオレにくっつけてくれないかな、なんて。図書館のいつもの机でうたた寝する女の子を見て、魔が差した。


『チューするときは起きてる時にしてね』


オマエが言ったことだろ。



「時効なんてねーよ」


五年だろうが百年だろうが関係ない。

完全に中学生だと思っていた橘さんが実は一個下の女の子だったなんて予想外だ。そりゃあ上の世代だけ探しても見つからないわけだ。

楽しそうに喋るキレイなお姉さんが、キスのあとで真っ赤になってあうあう言っているのが可愛かった。オレと同じガキみてえに余裕がなくなって、オレが精一杯好きだ好きだ言っても頷いてばっか。返事はいつかでいいかと思えばどっかに行きやがって。まるで狐に化かされたみたいだった。忘れていった図書カードの名前だけが残っていて、まだ財布の中にボロボロで入っている。

今さら忘れただの好きじゃなくなっただの言われたって諦め切れるか。


「なァ、夕凪さんよぉ」


綺麗に髪を伸ばして白い肌を真っ赤に染め上げる美人。小学生の頃より大人びた顔して、背だって女にしては高い。キスしやすくていいなと言ったら年相応に慌てるギャップがたまんねえ。


「オレのこと、まだ好きなんだろ?」


東卍の奴らを吹っ切って、イヌピーに人払いを任せて、空きテナントの勝手に置いたソファに連れ込んだ。

適当にかっぱらった手錠が残っていてよかった。こっちが鍵を持っているだけで帰るのを躊躇う甘ちゃんでよかった。涙目で見上げてくる癖に憎しみや怯えがあんまりなくて、ただ悲しい、どうして、という湿っぽい気持ちばかりがオレに向けられている。

コイツはオレを忘れていない。まだ取り戻せる。そう確信した。


「何がそんなに嫌なんだよ。話だけは聞いてやる」
「……浮気者」
「ア?」
「心に決めた人がいるのに私で我慢するなんてありえない。フィクションとノンフィクションは切り離すべきですよ」


何言ってんだコイツ。

真っ赤な顔にうるうるした目で見上げられると、強く出れねぇ自分がいた。前は、オレが尻餅ついて、向こうは椅子に座って見下ろしていた。今はオレが立って見下ろしている。手錠を煩わしそうにかちゃかちゃ鳴らしながら、困った顔が急に眉を釣り上げた。


「九井、さんは、好きでもない女と遊べるかもしれないけど、私はむり。耐えられない。──知らない人にキスされる方がマシ」
「…………ンだそりゃ」


何を勘違いしているか知らねぇが。コイツは自分が言っている言葉の意味が分かっているのか。

鼻で笑いたくなった。同時に、意外と可愛い性格している女だと。なのに心臓はガキみてぇにドクドクうるせえ。


「熱烈なコクハクだな」


“私だけ好きになって”ってことだろ。

指摘しただけでポカンとしたアホ面をしやがる。くつくつと喉の奥から笑いが止まらなくて困った。あまりにオレが笑うもんだから、馬鹿にされてると思ったのか余計に可愛いことを言い出した。


「そんなに言うなら、は、ハジメくん(赤音さんと同じ呼び方)って呼ぶよ! いいの!?」
「ブハッ」


そんなのオレを喜ばせるだけだってどうして分からねぇんだ。



「呼べよ。その代わりオレも、!?」



ソファから急に立ち上がって、ちゅぅぅ。意図的か、事故か。向こうの方から顔を寄せて、オレの下唇を食むように吸ってきやがる。そのクセ離れた顔はあまりの羞恥に耐えられないっつー赤面で、「嫌がるなら今のうちだよ」と。


「はぁぁぁぁ……」


ほんっとーにバカな女。

「えっ、うわ、わぁ、んっ!」ソファに再度座らせて、手錠で纏まった腕の間に頭を滑り込ませる。形だけなら相手がオレの首に抱きついているような格好だが、実質顔と顔が数センチも離れないようなハメ技だ。ソファの背もたれに押し付けられた夕凪。オレの顔が近いからと目のやり場に困ってうろうろさせているのが、時たま気になってこっちを見たかと思えば声にならない声を吐いて震える。

こういうの、まな板の鯉ってヤツだよな。


「今、起きてるよな」
「う」
「夢じゃねぇよな?」
「う、うん」
「どっちだよ。ちゃんと言葉にしてくれなきゃオレは分かんないぜ」


──夕凪さん。

歳上だと思っていたから、さん付けにするのが癖になっちまった。癖になるくらい、夢の中でこの女の名前を呼んでいた。手に入ると思っていた女が急に目の前から消えて、探しても見つからなくて。オレがどれだけ絶望したか、オマエは知らないんだろ。

これからの人生ぜんぶ使って、オレが思い知らせてやる。



「はじめ、くん。私も、────私もす、」



言い終わるか否かのタイミングで再びキスをする。夢の中と同じように唇を奪って、夢の中以上に甘さを噛み締める。夢になんざしてたまるかと自分自身に唾を吐いた。






***





唇も本能もデロデロに甘やかしながら夢中に現実を貪っていたオレが、入り口の鍵ブチ破って殴り込んできた壱番隊隊長の場地と夕凪が週一で家に入り浸ってると知って「どっちが浮気者だ? あ"!?」とブチギレるまであと────。





***





「九井さん、あの、これ恥ずかしいです」
「ア? 聞こえねえな」
「ぁ、はじ、ハジメくん。この手どけてぇ」
「ヤダ」


ガッシリ肩を抱く手。時折耳とか髪とかをちょんちょんクルクルいじってくるのがいただけない。距離だって密着していてほぼゼロ。ボックス席ならお向かいに座るものじゃ?という疑問は黙殺された。あのウブな九井くんはどこに行ったんだろう。


「アンタと片時も離れたくないんだ。分かれよ」
「ひぅ」


外なのよここ。喫茶店。人目があるのよ落ち着いてほしい。

目の前にケーキセットがあるのに全然手をつけられない。手をつけてる途中で隣からイタズラされてフォークを落としそうになる。ケーキがもったいなくて九井さんが満足するまで鑑賞するしかない。

でもさ、流石にちょっとやりすぎというか。



「そんなにイタズラするなら、考えがあります」
「へぇ? どんな高尚なお考えが?」



サッとフォークを手に取って適当な一口をサックリすくい取り。渾身の笑みを浮かべて見せた。



「はい、あーーん」



どうだ。バカップルの定番。コッテコテの食べさせ合いっこなら流石の九井さんも年頃の男子として恥ずかしいだろう。心なしかドヤ顔でフォークを差し出し続ける私に、九井さんは無言だった。無言で鋭い目を見開いて、黒目を小さく引き絞って、フリーズから解けた瞬間に勢いよくフォークに齧り付いた。ガチンッ。


「え、」


齧り付いたというか、スプーン曲げよろしくフォーク曲げする勢いでガジガジ噛んでくる。


「は、ハジメくん?」
「テメェは自分の破壊力に無自覚か。美人のあざとい仕草は劇物だって教わら、ねーわ教えたやつがいたらオレ直々に拷問してやる」


九井さんが怖い。

怖いのに耳だけ器用に赤くして、フォークをガジガジしながら恨みがましく私を睨んでくる。ビックリするほどぜんぜん怖くない。


「も、もう一口食べる?」
「ぜんぶ寄越せ」
「ええー」
「追加注文してやる」
「それは申し訳ないっていうか」
「あーー」
「聞いてない」


仕方なく「あーん」し続けた結果、本当に全部食べられてしまった上、追加注文したケーキを今度は九井さんに「あーーん」される事態になり、涙目で完食することになった。

最近思う。九井さんって案外ちゃんと私のこと好きなんじゃんって。


「……いま起きてるよな?」
「は、今は、」
「起きてるよなァ?」
「はい、んっ」


ちなみにキスの合図が『起きてるか?』なのはそろそろ恥ずか死ぬからやめてほしい。




「ん、ちゅ、んっ、っ」
「(クソッ! 外でしていい顔じゃねぇ。)チッ」



定期的に舌打ちされる理由もよく分からない。分からないなりに、小学生の私の言葉を覚えている九井一が可愛いなあと思ってしまう。私も大概流されやすい人間だった。







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