九井青年のリ・リフレクター2



アラームが鳴る。同時にドアの方から電子音がして、そろりとドアノブを握ればゆっくりと動いた。開いた先の隣室は寝室と同じ大きさのリビングで、真ん中の円卓には一食分の食事が置かれている。少し冷めているのは以前鉢合わせたことがあるからか。知らないスーツの男が作りたてを並べているところにたまたま出会した。あの時の蒼褪めた顔から本当は接触しないように言われているんだろうな、と。

今日の格好も下着だ。その上にゆったりとした上着を羽織って裸足で歩いていく。ボタンもチャックもないから手で押さえるしかない。それも数日で面倒になってしまった。だってここに人が来ることなんて事故で会ったスーツの男一人だけだったから。

今日のお昼ご飯にぬるい卵スープを一口。同じくぬるいピラフを口に運ぶ。味はまあまあ美味いのにね。やっぱり温度って大切だ。電気ケトルか電子レンジの一つでもあればなあ。無駄に豪華な調度品の中に所帯染みた家電は一切ない。あるとすれば薄型テレビと、無駄にオシャレな間接照明と、キャビネットみたいなデザインの冷蔵庫と、その手のマニアがこだわってそうなスピーカーくらい。ロックでもパンクでも流して気分を上げなきゃやってらんない。使い方が分からないのが惜しまれる。

もぐもぐ無言で食べ続ければい十分で全部お腹の中。長居するのも憚られるのでサッサと寝室兼居住空間に戻る。開けっぱなしだったドアを閉めたらガチャっとあからさまにロック音が鳴った。もう一瞥をくれる気力もない。そのままベッドに放っていたアイパッドを手に取って読みかけの小説に戻る。フィクションはやっぱり面白い。現実を忘れて時間が潰せる。……最近はもっぱらファンタジーしか読めなくなったけれど。

監禁生活二週間目。意外と心穏やかにこの生活にも慣れてしまった。働かなくてもご飯は出るしベッドは寝心地がいいし電子書籍は読み放題。本当は紙の本のがいいけれど贅沢は言ってられない。ベッドに腰掛けて足を組みながらスイスイスイーっと。この調子で気になってたもの全部読んじゃお。どうせ今だけなんだし。

別に、最初からこんなふうにニートを満喫していたわけじゃない。始めの三日四日は普通に泣いて暮らした。ご飯だって喉を通らなかったし、筋肉が落ちて不健康の極みだった。一丁前にこの世の不幸全て背負ったみたいな顔をしていたと思う。

転機が起きたのは一週間前。九井さんに簡素なワンピースを投げてよこされて久しぶりに服を着た。それから裸足のまま抱えられてエレベーターに乗せられて、地下駐車場の車に入って目隠し。一時間くらいそのまま暗闇で過ごしたあと、また抱えられてどこかのビルに入った。

地下のクラブみたいな内装の部屋を通り過ぎて、何重もの緞帳の向こうに隠された簡素なドア。そこを開けた先、くたびれた黒革のソファに座る真っ白い人。


「お疲れ様ですボス」
「…………ソイツが、会わせてえオンナ?」
「はい」


真っ黒い目と同じくらい真っ黒いクマをぶら下げた、不健康そうな男の人。何故だか真っ先に察した。──闇堕ちマイキーだ。

この時の私はかなりメンタルがやられていた。九井さんに恨まれている自覚しかなく、どんな復讐をされるか毎日震えていたから。その日はとうとう非合法な水商売のお店に身売りされるか、臓器売買で出荷されるかしか頭になくて、九井さんの腕の中でずっと青くなっていた。それがいきなりのマイキー。それも闇堕ち。やられていたメンタルがスコーッと別の感情に置き換わった。


タケミっち、失敗してるじゃんか。


そりゃあね、最初のゴールはヒナを救うことだ。そこが達成しているなら過去に戻る必要はない。それにしたってすごい闇を残していくじゃん。

ドラケンくん直々にマイキーくんが海外で成功してると伝えられていたから油断していた。そっか。そうだよね。彼、それくらいの嘘は言うよね。じゃあ、この世界ってあの漫画のハッピーエンドじゃないの?

稀咲鉄太が死んでから安心していた。諸悪の根元がいなくなったのだからこれで全部上手くいくって。実際にみんな反社になることなく真っ当な職についたし、何よりヒナが生きていて花垣くんと交際を続けている。ならハッピーエンドだと思うじゃん。


「マイキーくん……」


マイキーがこんなことになってるのは本当にハッピーエンドか?

怠そうにソファに寄りかかっていた体が僅かに前のめりになる。私を抱える九井さんが「オイ」と声を上げた。


「オレを知ってンのか」
「はい、あの、覚えていないかもしれないけれど、中学の時に助けてもらいました。橘日向の従姉妹の夕凪です」
「…………ヒナちゃんの、姉ちゃん?」


奇跡だ。「はい、お久しぶりです」首だけで出来るだけ頭を下げると、マイキーが九井さんに私を下ろすように指示を出す。渋々感が抜けきらない緩慢さで向いのソファに下される。背後にピッタリ立つ気配に鳥肌を立てながら、改めて深く頭を下げた。

「どうして……」と小さく呟かれたけれど、そんなの私が知りたい。


「ココと接点があったのか」
「はい、すごく昔に」
「それで、オレたちが何をしているのか知っててここにいるのか」
「……はい、恐らく」
「ふぅん」


普通に会話ができている。中学の時と変わらない口調で、目を閉じたらあの頃のマイキーくんと喋ってるみたい。だから、こんな無謀な賭けができたんだ。


「私の話を聞いてくれませんか」
「何を勝手に、」
「なんだ」
「ボス!」
「黙ってろ」


後頭部に突き刺さる視線を感じながら、ほとんど膝に額をくっつける勢いでまた頭を下げた。


「お願いしますマイキーくん。どうか、6月のヒナの結婚式だけでも、私を自由にしてください」
「……自由?」
「1日、半日だけでいいんです。ヒナの晴れ姿を見たら、後はどうなってもいいです。私、本当に、諦められますから」
「………………」


無言だった。やっぱりダメだろうか。突然こんなことを言われてワケが分からないとか。それか九井さんが隠し持ってたチャカ取り出してるとか。

嫌な心臓の音ばかりが耳の奥で響く中、唐突に静かな声が降ってきてた。


「それだけでいいの?」
「っはい」
「ホントに?」
「本当に、はい」
「──いいよ」


パッと顔を上げる。無表情のマイキーが無感動に私を見つめ返すだけ。それでも、そうだとしても、分かるから。慈悲をかけられていると、ちゃんと。


「タケミっちとヒナちゃんの結婚式に絶ッ対ェ出席させてやる。いいな九井」
「っ、……分かったよボス」
「あ、あ、ありがとうございます!」
「ん」


タケミっちのこと、まだ大事に思ってるんだって、ちゃんと。

何度も何度もペコペコ頭を下げると、流石に煩わしかったのか手を振る。問答無用で抱き上げられて来た道を戻ることになった。


「オレが言うのもおかしいが、オマエらちゃんと話し合え」
「え?」
「……珍しくお節介だな、ボス」


最後の言葉の意味も、お別れの挨拶も言えないまま。私はまた目隠しされて車に乗せられ、外した時には元の部屋に立っていた。九井さんは、話す暇もなく不機嫌そうにどこかへ行ってしまった。

そんなことがあって一週間の今。なんだか妙に気が抜けて私はニートに徹している。最低でも6月までは生きていられる。そう思ったら緊張が解けたというか、考えても仕方ないなって。ずっと悲観しているのも飽きたし。現実逃避が十割ってのも否定できない。

ベッドに寝転がって画面の向こうの文字を追う。たまに集中力が切れたら体操したりストレッチしたりシャワーを浴びたり。こっちの部屋にもあるテレビをつけたり。普段見ない時間帯の情報番組や再放送ドラマは面白かったりつまらなかったり。そうすると自然、考え事も増えて仕方ない。

私は最初、この監禁は九井さんの復讐だと思っていた。乾家が火事になることを知っていて、赤音さんを見殺しにした私の人生を台無しにしてやろうと。でもさ、冷静に考えたらそんなのどうやってそんなこと分かるの?って話だ。私は前世の記憶があって、漫画を読んでいたから知っているだけで、実際に乾家に行ったこともなければ赤音さんに会ったこともない。知っているのに止められなかった罪悪感は私が勝手に持っているだけで九井さんに知る術なんてない。……恨みようがないってことは、この監禁は赤音さん関連ではないってことで。

じゃあ、私ってなんでこんなに恨まれているの?

小学生の時、図書館で出会った可愛い男の子。好意がダダ漏れで、油断している隙に唇と一緒に心を許していた。許した側からお別れも返事も言わずに離れ離れになって、綺麗な思い出として消化した。“忘れられない初恋のあの子”か“オレを弄んだ小悪魔”くらいならまだ分かるけれど、監禁されるほどガッツのある恨みを持たれる心当たりがない。

『オレが言うのもおかしいが、オマエらちゃんと話し合え』マイキーくんめちゃくちゃ的を得たアドバイスしてくれてたのね。

身分証明と職をぶっ壊されたショックと下着で過ごさせられる屈辱で吹っ飛んでいた疑問。ムクムクと抑え切れなくなって、いつか前みたいに突然やってこないかしら、と不服ながら心待ちにしてしまった。アイパッドにはネットに繋がるくせに外部と連絡をとる手段の一切ができないように細工されている。待つしかできない我が身である。

せめて部屋着にスウェットでもワンピースでも欲しいなあ。この前投げてよこされたのは部屋についた途端回収されたんだよね。思えばこれって外に出るのを躊躇う格好で居させることで逃亡を阻止してるのかな。素材は高いけど普段使いの地味な下着しかないし。……九井さんの趣味だったらどうしよう。好きな色がベージュ? 一周回って生々しい。

誰か出入りした形跡といえば食事以外に置いてある男物のゆったりとした上着。チャックもボタンもない、袖に格子柄の中華っぽいデザインが九井さんが着てたものに似ている。かなり抵抗はあったけど、とりあえず羽織ったら落ち着いたので借り続けている。これもたまに回収されて別のが置いてあったり同じデザインの別物に替えられてるから多分寝ている間に寝室にも入られている。もうどうとでもして。

サブスクで映画を見始めてもなんだか集中できなくて、ベッドの上でぼーっとしていることしばらく。シャワーでも浴びようかと上着を脱いだ。どうせ誰もいないし、起きている時に人は来ない。脱衣所で脱がないといけないルールなんてない。夕飯まで時間もある。いっそ備え付けの高そうなバスボムでも投げて長風呂しようか。そのままブラを外してさあパンツも、というところで。────ピッ。ガチャッ。は?


「ア?」


なんで来るんですかね九井さん。

パンイチでちょうど出迎える形になった私の気持ちを考えてほしい。お胸が大公開よりもうっすら浮いたあばらとかお尻や二の腕にちょっとついたお肉とかの方がしんどい。とっさに上着で前を隠した私。怪訝さを隠しもしない九井さん。「あー、えー、えー」と言葉にならない声でどう話したものか、そもそも監禁しているとはいえノックもなく入ってくるってどうなのっていうか。


「なんで服買わねぇんだよ。そこそこ入れてるだろ」
「はい?」


クレジットカードと同期されてるなんて知りませんでしたけど。

そこそこというか、がぽがぽというか。紐付けしてある額が尋常じゃない。通販ありだったんですね。監禁されているんだから外界との通信はご法度かと。実際にそういう機能はどういう原理か制限されているし。

アイパッドの画面に夢中になっていた私は、自分がノーブラパンイチで前を隠してるのに慣れてしまった。呆れたため息と一緒に投げてよこされた服。モスグリーンのカッチリとしたワンピースドレス。ところどころの刺繍や飾りボタンが中華っぽくて、すっぴんの私には浮きそうな服だ。「用意できたら出てこい」とのことで、部屋から出て行った九井さんを見計らってやっとブラを付け直した。確か洗面台に化粧品があったはず。この二週間一切使っていないけれど、愛用のものから手が出ないハイブランドまで取り揃えてあった。ここに来て化粧品の趣味まで知られていることに「ストーカー?」という可能性が浮上。二週間目にして今更だった。

上半身はフィットして下半身がふんわりした可愛い中華ドレスに合わせていつもよりハッキリした色のアイシャドーとリップを塗り塗り。髪もとりあえずまとめて背中に流せばまあ見れる格好になったと思う。靴がないから裸足だけれども。待たせている感は否めないので手早く確認してから外に出た。

九井さんはいつも私が食事を取っている円卓の席に座っていた。「お、」何かを言いかけながら顔を上げて、急に閉口してジッと私を眺め始める。上から下までジロジロと。品定めするような視線に鳥肌が立ったのも束の間、口の端をニィッと釣り上げて表情を作った。


「よく似合っている。綺麗だ」


まさかまさかの直球の褒め言葉だった。

ビックリ固まる私に立ち上がって近づいてきた九井さん。想像よりもずっと優しい手つきで私の頭を撫で、背中に流している髪をすき、毛先を指に絡めて、ソッと唇を落とす。伏せた時のまつ毛はあまり長くない代わりに濃くはっきりとボリュームがあった。鋭い眦に反して目の奥は甘くて、柔らかくて、ドロドロで。まるで恋人に向けるような熱を感じる。

…………夢見がちにも程があるでしょ。


「ありがとうございます。それで、私は何をさせられるんですか」
「……なんの話だ?」
「こんな格好をさせるってことはどこかに行くんでしょう? とうとう出荷ですか」
「出荷ァ?」


こんな綺麗な格好をさせるんだから、きっと私が行くお水のお店が決まったんだ。ソープかもしれない。接客にとどまらず体を売るところに売り飛ばされるのか。全く身に覚えがない恨みとはいえ、女に復讐するとなればそれくらいのことはしそうだ。何より稼げるし。四捨五入すればアラサーの素人が二十歳前後のプロの女の子たちと同じように稼げるかは甚だ疑問だけど。


「それとも人身売買? わざわざこんな格好させたってことはバラして臓器に、ってわけじゃないですよね」
「そもそもテメェは6月に従姉妹の結婚式に出るんだろうが。売っ払ったら出れねぇ」
「本当に行かせてくれるんですか?」
「ボスの命令は絶ッ対ェだ」


それはそっか。マイキーくんのカリスマは本物だものね。


「ボスが言う通り、話し合う必要があるな」


そう言って、いつかの時と同じように九井さんは私を抱き上げた。膝裏に腕を差し入れて、背中に手を添えて、私を肩にもたれかからせるようにしてズカズカと歩いていく。至近距離に顔があることに一週間前の私はなんとも思っていなかった。それどころじゃないくらいに取り乱していたから。でも今、こうして落ち着いてみるとなんとも言えない恥ずかしさが襲ってくる。格好も相まってこれってお姫様抱っこ……。

俯いた私の挙動はバレバレか、すぐそこの喉仏がおかしそうに上下した。余計に居た堪れなかった。

九井さんはそのままエレベーターに乗って、わずか三階下ですぐに降りた。誰もいないのが不気味なほど煌びやかな廊下を通って、ホールを横切って、奥まった個室に入った。中華料理が並んだ回転テーブル。一面ガラス張りの壁。夕日が落ちかけている時間帯で、少し早い食事だった。中華格子の意匠が綺麗な椅子に恭しく下ろされて、九井さんは向かいの席に着く。すると見計らったようにボーイが入ってきてグラスにシャンパンを注いできた。……バーでの出来事を思い出して、飲むのは憚られた。それを見越してか、同じボトルから入れたシャンパンを九井さんが飲み干しておかわりを頼んでいたから、私も恐る恐る舌を湿らせた。久しぶりのアルコールは飲み慣れないわりに高級だからか美味しく感じた。

アルコールは舌の滑りをよくするもの、とは言えこの場面で話す話題なんて持ち合わせていない。無言で高級そうな生春巻きやら小籠包やら北京ダックやら麻婆豆腐やら、ちょっとずつ食べて、日中動いてないからすぐにお腹いっぱいになる。ほとんど手付かずの料理もたくさんあって、二人の食事にどうしてこんな量を、と訝しんでしまった。食後のマンゴープリンは有り難く完食したけど。


「それで、出荷だったか。しねぇよ」


ちょうどいい温度のプーアル茶を飲んでいる途中、前後の脈絡もなく九井さんが話題を変える。ようやく話し合いをする気になったらしい。


「せっかく捕まえた女をよそのヤローに売り飛ばすかよ」
「……じゃあ、私は、何をさせられるんですか」
「何も?」
「何もって、一生飼い殺しってこと?」
「性格悪く言やぁそうだな」


余計に分からなくなった。


「九井さんの気はそれで済むんですか」
「さっきから何を勘違いしてンだオマエ」
「だって、恨んでるんでしょ」
「──ああ」


ほら、やっぱり。

ハンマーで鳩尾を殴られたような冷や汗と、やっと本心が分かるかもしれない安堵。心臓と一緒に食べた中華が口から飛び出しそうな緊張感の中、九井さんは────。


「いたいけな小学生を弄んで消えた橘さんのこと、恨んでる」


そんな予想外のことを言ってテーブルに肘をついた。そのまま手の甲で口元を隠して、それでも鋭い目だけは私から離さない。やっぱりドロドロ熱くてねっとりとした視線。とっさに目を背けたくなるほど、重くて、怖くて、恐ろしかった。


「忘れたくても忘れられないくらいな」


この人はまだ小学生の恋を引きずっているのでは、と。勘違いしてしまいそうな自分が、何より。


「十年以上前に、たった数日、一緒に本を読んだだけの女の子が? とても記憶力がいいんですね」
「どうでもいいヤツはすぐ忘れる。無価値の他人を覚えているほど安い脳みそはしてないもんでね」
「……本気で言ってるんですか?」
「そんなに信用できないか?」
「生憎と監禁されている身ですから」
「気丈だなァ」


喉の奥でクツクツ笑ったかと思えば、今度は椅子の背もたれに背を預けてペロリと。舌なめずりする顔はまるで鎌首をもたげた蛇に違いなく。『あ、逃げられない』と。心のどこかで降参してしまっていたのだ。



「大事に仕舞っておきたいくらい愛されてるとは思わないのか?」



“愛”なんて大仰な言葉を明確に出されたら、もうダメだった。


「……急にあんなことして、二週間も放っておいたくせに」
「拗ねんなよ。仕事が忙しかったんだ」
「絶対ウソ。マイキーくんに会いに行く時なにも話さなかったでしょ」
「そりゃァ、アンタが思ったより元気がなかったから」
「説明もなしに閉じ込められたら怖いよ。…………こわかった」
「──悪かったって」


最後の言葉は茶化した声音じゃなくて、ビックリするくらい静かな声で。立ち上がった九井さんが私の椅子の横まで移動して、跪く。見上げる九井さんに既視感があると思えば、私にキスをして尻餅をついたあの九井くん。真っ白い髪で、スラリとした体躯で、その割にゴツゴツした大きな手で。ああこの手で人を殴ったり拷問したり銃を握ったりしているんだろうな。茶器を抜き取られた手に手が重なって、恭しく左手の薬指に唇が押し付けられる。震えは、多分バレている。それでも掴む手も見上げる目も自信満々で揺るがなかった。


「ずっと忘れられなかったんだ。図書館で分厚い本に齧り付く大人ぶったガキのこと、後生大事に覚えていたんだぜ? 健気すぎて泣けてくるだろ。なあ、夕凪さん」


自信満々のくせに、どうして必死さを感じてしまうんだろう。あの日の耳まで真っ赤になって私を引き止める九井くんがどうしてダブるんだろう。ああ、もう、そんなことだから私は。そんなんだから私は。



「愛してる。これまでも、これからも。ずっと」



今度こそは、ちゃんと言葉にして返事をしなきゃいけないと思ってしまったんだ。











「んっ、!」


行きと同じように帰りも抱き上げられて戻ってきた寝室。ソッと下ろされてさようならの段階で、振り向いた私の唇を九井さんの唇が強引に塞いだ。


「んぅ、ふ、ぁ、待っ」
「待たねぇ」


さっきまでの卒のないエスコートが嘘みたいに早急に求められるキス。なんとか一度距離を取ろうにも大きな手のひらが後頭部に回って、もう一方の手は宥めるように私の腰をさする。久しぶりに触れられる意図を持った手つきにあらぬところが熱を持った。いや、違う。九井さんだから。あんな風に熱烈な言葉を私にぶつけてきた九井さんの手だから。私は酸欠とは別に脳内が燃えて、芯から体が震えて、堪らなくて。背中に回った手が上着を握りしめてしまう。相手の鼻から笑った時の吐息が顔にかかった。敏感になっていた私はそれだけで大袈裟な反応をしてしまう。

本当に私は九井さんに愛されているんだ。そしてこれから、もっともっと愛されていることを思い知るんだ。少し前にあった不安を完全に塗り潰すほどの期待で頭がいっぱいになった。


「はっ、はぁ、あ、ここのい、さ」
「オレ、ちゃんと“待て”ができてたよな?」
「でも、急すぎるというか、」
「アンタが煽ったんだ。好きな女の裸見て興奮しねェ男がいるかよ。何時間ガマンしてやったと思ってンだ」
「ぁっ」


ドレスのチャックが下される。ストンと足元に綺麗に落ちてしまった。私はいつもの下着姿になり、普段はこれで生活していたくせに、熱のこもった目がジッと見つめていると思うと火が出るくらい恥ずかしかった。明らかに真っ赤になった私を九井さんが面白がっている。


「ダメか?」


少しだけ、ほんの少しだけ寂しそうに眉を下げられると、どうしても拒みきれなかった。まるで年下の男の子に縋られているみたいな心地になってしまった。だから、優しく肩を押されるままにベッドに大人しく倒されてしまったし、そのまま覆い被さる九井さんを潤んだ目で見つめていた。

白い髪がパサリと視界を覆って、ペロリと舐めた唇が色っぽい。私の唇に乗っていた赤がベットリと移っていて、それは、それはなんて、赤くて、赤、赤、赤赤赤赤赤赤あかあかあか………………。


────『赤音さん。オレ、一生好きだから!』



この世界で、九井一は赤音さんに恋をしたのだろうか。


私と別れた後、赤音さんのことを好きになってたんじゃないの。赤音さんを助けるために不良になってお金を稼いだんじゃないの。だから最終的に反社になっちゃったんでしょ。赤音さんのことはどう思っているの。本当に忘れがたいのは赤音さんで、私は赤音さんを忘れるためのテイのいい“初恋”。そうかもしれない。恨んでないのにこんなことをするのは、私の人権なんてどうとも思ってないから。


「夕凪さん……夕凪……」


赤音さんにキスしようとした唇で、私に、わたし……!



「…………っ、やめてッ!」



また近付いてきた唇を両手で拒んでしまった。

すぐに後悔した。だって九井さんは私を監禁した時と同じ、とても冷たい顔で私を見下ろしていたから。手のひらに舌打ちの振動が伝わってきたら、次の瞬間に私の両手は纏めて頭上に押し付けられていて、九井さんの空いている方の手は無遠慮にブラの下に差し込まれる。痛いくらいに揉まれて悲鳴じみた嬌声が飛び出す。

イヤイヤ首を振る私に構わず手を止めない九井さん。ついには拒んでいた唇が襲ってきた。隙間を割って入ってきた舌が拒絶も何も奪い尽くして、それからの記憶は曖昧だ。

期待した私を浅ましいと罰するように、形も境目もなく溶けて混ざって燃え上がって。何もかも残らなければ、それはそれで良かったのに。

朝になって誰もいない寝室で目覚めた時、私の頬には乾いた涙が残っていた。





***





「機嫌悪ぃなココ」
「あ? 忙しいんだよ話しかけんな」
「まあまあ聞いといて損はないから」
「ンだよ。寂しいなら弟にでも構ってもらえ」
「この件に関しちゃ竜胆に言ったって意味ねぇからなあ」
「あ?」



「オマエの周囲を場地圭介が嗅ぎ回っている。あまりにウゼェからウチのNo.2が動いちまった」







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